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第9話 アリシアの夜

――――――――



 騎士団詰所の個室に、手紙が届いていたのは夕方だった。


 蝋封に公爵家の紋章。筆跡は父のものだ。字が力強く、紙に深く刻まれている。


 アリシアは封を開けた。


「子供の失踪案件を解決したと報告を受けた。良い判断だ。ただし、今後は単独行動に外部協力者を用いるな。騎士団の威信に関わる。次の依頼は必ず完璧にこなすこと」


 二十三文字で終わった。


 「良い判断だ」は事実の確認だ。「ただし」が来た瞬間、それ以前の言葉の重さが消える。


 (わかっている)


 アリシアは手紙を折って引き出しに入れた。


 子供たちは帰った。三人全員が家族のもとへ。それはよかった。それでいい。


 でも、昨夜から頭の隅に引っかかっているものがある。


 ヴィクター・ブラックウェルの目だ。


 逮捕された後も、あの男は笑っていた。「運が悪かった」と言った。反省も後悔も一切なかった。あの顔が、今も頭から消えない。


 十五歳で初めて人を斬った時、一晩泣いた。


 あの夜から今まで、刃を向けた相手の顔を一つひとつ覚えている。覚えていることが騎士としての責任だと思っていた。


 でも、ヴィクターのような人間の顔も、同じように覚えるべきなのかどうか、今夜はわからなかった。


 (疲れたのかもしれない)


 認めたくなかった言葉が、できるだけ小さく頭の端に来た。


 甲冑を脱いだ。剣を壁に立てかけた。鎧兜の棚に収めた手が少し重かった。


 (一人でいたくない気がする)


 それも、認めたくなかった。


――――――――



 下町の「金獅子亭」は、職人街区と冒険者街区の境目にある酒場だった。


 派手な看板がなく、扉が木の古い色のままで、常連が多い。うるさい。でも、うるさいからこそ自分の静けさを持ち込める。


 アリシアは変装して来る店だった。金髪を帽子の中に入れ、平服で。「公爵令嬢」を知っている者がいないわけではないが、ここの客は大抵気にしない。


 カウンターに座ってジュースを頼んだ。酒は飲めるが、今夜はそういう気分じゃない。


 (ジュースで、一人でいよう)


 そう思っていた。


――――――――


 「あ、アリシアさん」


 振り返ると、リアン・フォルテが立っていた。


 普段着の、茶髪の、パッとしない冒険者が、ジョッキを持ったまま少し間抜けな顔をしていた。


「こんなところで……珍しいですね」


「それはこちらの台詞だ」


 リアンが首を傾けた。「俺、ここ割と来るんですよ。近いし、料理が安いし」


「近く……どこに住んでいるんだ」


「職人街区の方です。実家がそっちで」


 なるほど、と思った。この酒場は職人街区寄りだ。


「隣、いいですか」


 問われて、アリシアは少し間を置いた。


 (一人でいたかった)


 でも、「一人でいたくない気がする」という気持ちも、さっき確かにあった。


「……どうぞ」


 リアンが隣の椅子を引いた。


――――――――



 二人、カウンターに並んで座った。


 しばらく何も言わなかった。


 金獅子亭の中の喧噪が、周囲から沸いている。誰かが笑った。厨房から皿の音がした。二人の間には、特に緊張もなく、かと言って埋まっているわけでもない静かな隙間があった。


 リアンが料理を頼んで、黙って食べ始めた。


 (……この人は、無言が苦にならいんだな)


 気づいたのは少し意外だった。普通、沈黙があると誰かが話題を出そうとする。リアンはそうしなかった。ただジョッキを傾けて、品のない音を立てないように気をつけながら、肉を切っている。


 アリシアも黙ってジュースを飲んだ。


 五分くらい、そのままでいた。


 (……悪くない)


 それが正直なところだった。騎士団の誰かと並んでいる時は、常に「見られている」感覚がある。公爵令嬢として、副長候補として。でも今は——ただ、隣に人がいる。


「アリシアさん」


 リアンが言った。


「何だ」


「今日、なんか疲れてるみたいで」


 アリシアは一度、ジュースのグラスを見た。


「……騎士が疲れた顔をするのは、珍しくないだろう」


「いや、そうじゃなくて」リアンが少し言葉を選んだ。「なんか、いつもと雰囲気が……あ、でも言いすぎだったら聞き流してください」


 言いすぎではなかった。


 でも、「そうかもしれない」とすぐに言えるほど、アリシアは自分に正直に生きてこなかった。


「昨日のことを考えていた」


 代わりに、それだけ言った。


「ヴィクターの話ですか」


「……そうだ」


 しばらく間があった。


「あいつの目が嫌いと言っていたな。あなたは」


「本当に嫌いでした」リアンが言った。「笑ってたじゃないですか。最後まで」


「ああ」


「人の苦しみを見ても、何も感じない顔だった。ああいう人間がいることを、俺は……なんか、うまく処理できないでいます」


 アリシアは少し目を上げた。


「俺が言ってもしょうがないんですけど」リアンが続けた。「アリシアさんが昨日、帳簿を持って来た騎士に『持ってこい』って言ったじゃないですか。声が、震えてた」


「……」


「見てたわけじゃないけど、声で。あの人のことを怒ってたんだと思って。俺と違って、ちゃんと怒れる人なんだなって思ってました」


 アリシアはグラスを置いた。


 (怒っていた)


 そうだ。怒っていた。子供たちが道具として扱われたことに、その笑顔に、疲れた顔ひとつ見せなかった院長の手が震えていたという話に。


 怒っていいんだと分かるまでに、少し時間がかかった。


「私は……」


 声が出た。こんな声が出るとは思わなかった。


「私は、完璧にやれたとは思っていない。子供たちが帰れたのは、リアンが偶然助けたからだ。私が設計した作戦では、もっと時間がかかっていた」


「そんなこと——」


「事実だ」アリシアは続けた。「私は完璧にやれなかった。でも、父の手紙には『良い判断だ』とあった。私が怒ったことも、ミレイユやあなたが動いてくれたことも、何も書いていなかった」


 リアンが何も言わなかった。


 ただ、ジョッキを持ったまま、ちゃんと聞いていた。


――――――――



 一度話し始めると、不思議なことに止まらなかった。


「私は……ずっと、完璧でなければいけないと思っていた」


 アリシアは正面のカウンターの棚を見ながら言った。「弱さを見せたら、見捨てられると思っていた。父にも、騎士団の仲間にも」


「見捨てられると」


「そう育てられた。結果が全てで、感情は邪魔だと。それが騎士だと」


 声が出るのが少し不思議だった。こんなことを言った相手は、これまでいない。


「あなたは違うと思う。こういうことを言えるって」リアンが言った。「俺にはそれ、あまりできないです。感情が邪魔だとは思わないけど、誰かに言うのが苦手で」


「あなたにも、そういうことがあるのか」


「俺 弱いんで。強くないから、逃げてばかりで——そのことを人に話すと、たいてい『謙遜するな』って言われますし」


 アリシアは少し目を細めた。


「……あなたが弱いと言える、それが、どれほど難しいことか」


「難しくないですよ、本当のことだから」


「難しい」アリシアは繰り返した。「私には、できなかった。ずっと、弱さを隠してきた。それが正しいことだと思っていたから」


 リアンが少し首を傾けた。「当たり前のことを言っただけなんですけどね」


 (そうだ)


 アリシアの中で、何かが静かに動いた。


 この人は、「弱い」と言うことを特別なことだと思っていない。ただ本当のことを言っているだけだ。だから飾りがない。だから、隣にいても「見られている」感覚がない。


「私は……ずっと、一人だと思っていた」


 声が出た。「仲間は多い。でも、本音の友達はいない。家族もいる。でも、話を聞いてくれる人はいない。それが当然だと思っていた。強い人間は一人で抱えるものだと」


「……」


「でも今夜は……一人でいたくない気がした。こうして隣にいるのが、悪くない」


 口に出して初めて、本当にそう思っているとわかった。


 リアンが少し間を置いた。


「俺は……なんか、すごいことを言ってもらってる気がして、正直ちゃんと受け取れているかどうか不安なんですけど」


 アリシアは思わず笑った。


 声を立てて、数年ぶりくらいに、ちゃんと笑った。


「……正直だな、あなたは」


「すみません」


「謝らなくていい。それが良かった」


――――――――


 しばらく、また黙った。今度は違う種類の静けさだった。


 アリシアはジュースを飲み干した。


「もう一杯、頼んでいいか」


「どうぞ」リアンが手を上げて、店の人を呼んだ。「もう一杯ください」


 騎士団副長候補の令嬢として、こんな下町の酒場のカウンターで誰かに酌をしてもらったことはなかった。


 (……こういうのも、悪くないのかもしれない)


 ジュースが来た。


 リアンはまた黙って、自分の料理の続きに向かった。


――――――――



 一時間ほどして、アリシアが腰を上げた。


「帰る。今日は、ありがとう」


「俺、何もしてないですよ」


「聞いていてくれた」


「それは……ただここにいただけで」


「それで、十分だ」


 アリシアがコートを着た。帽子を被り直した。


「リアン」


「はい」


「また、話を聞いてくれるか」


 リアンが少し間を置いた。


「俺でよければ、ですけど」


「あなたでいい」


 言ってから、少し顔が熱くなった。でも引っ込めなかった。


「おやすみ」


「おやすみなさい。気をつけて」


 扉を抜けた。夜の路地に、少し涼しい風が来た。


 空に月が出ていた。


 (……弱さを見せた)


 見捨てられなかった。


 それだけを、一歩一歩確かめるように、アリシアは家路を歩いた。


――――――――



 リアン視点——


 扉が閉まって、金獅子亭の喧噪だけが残った。


 リアンは少しの間、カウンターのジョッキを持ったまま座っていた。


 (……アリシアさん、大変だったんだな)


 感想はそれだった。


 シルヴァレスト公爵家の令嬢で騎士団副長候補で、いつも背筋が伸びていて、なんでもできる人だと思っていた。


 でも今夜話したアリシアは、「一人でいたくない」と言っていた。そういうことを感じる人なんだと知った。


 (俺に言ってよかったのかな)


 自分なんかに話しかけてきて、よかったのかどうか、少し心配だった。


 でも、帰り際に笑っていた。声を立てて笑った。それはよかった気がした。


「もう一杯」とリアンは店の人に言った。


 (まあ……なんとかなるっしょ)


 自分が何かをしたわけじゃない。隣にいただけだ。それで十分と言われても実感がないが、アリシアがそう言うなら、そういうことなんだろう。


 後頭部を軽く掻きながら、リアンはジョッキを傾けた。


――――――――



 アリシア視点——


 宿舎に戻って、灯りをつけた。


 引き出しを開けた。父の手紙が入っている。


 もう一度取り出して、読んだ。


「子供の失踪案件を解決したと報告を受けた。良い判断だ。ただし——」


 同じ文章が、あった。


 でも今夜は、「ただし」が来た時の胸の締まりが、少し小さかった。


 (なぜだろう)


 わかっている。


 「聞いていてくれる人がいる」ということを、今夜初めて実感したから。


 子供の頃から、感情を抑えることが正しいと教わってきた。弱さを見せることは敗北だと。でも今夜、弱さを見せて——見捨てられなかった。笑うことができた。


 手紙を折って戻した。


 机の隅に日記がある。


 アリシアはペンを取った。


 今夜のことを書いた。「金獅子亭で、リアンと話した」と書いた。「笑った」と書いた。「一人でいたくないと言えた」と書いた。


 ペンが止まった。


 (……これは、何なんだろう)


 三ヶ月間、共闘してきた相手のことを、今さら「何なんだろう」と思う自分が少し可笑しかった。


 でも、今夜会ったのは「囮戦術の天才」でも「高度な社交術の使い手」でもなかった。


 ただ、「弱い、でも正直な」人間だった。


 (そういう人が、そばにいるのか)


 ペンを置いた。


 今日は眠れそうだ、と思った。


 それだけで、今夜は十分だった。


――――――――


(第9話・終)


――――――――



 ギルドの広場に、一台の馬車が止まった。


 紋章入りの高級馬車。馬車から降りた男が、吟遊詩人たちの顔を一人ずつ確認して、セリアを見つけた。


「お嬢様を、お連れするよう命じられております」


 セリアの翠の瞳が、一瞬——止まった。


 第10話「帰らない名前」


 ——物語から逃げてきた少女が、物語に追いつかれる夜。


第9話、お読みいただきありがとうございます。


今回はアリシア視点の夜回です。

表では完璧に見える人ほど、いちばん静かな場所で自分を追い詰めてしまう——そんな“騎士の真面目さ”が、少し息苦しくなるように描けていれば嬉しいです。


リアンの周囲では噂も事件も動いていきますが、アリシアにとっては「正しいことをしたのに、何かが残る」という感覚が一番の敵です。

彼女の中で、信頼と責任がどう折り合っていくのか。今後の小さな伏線でもあります。


次回、第10話「帰らない名前」。

セリアの側で、“物語”では片付かない過去が顔を出します。


引き続きお付き合いいただければ幸いです。


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