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第7話 魔術師協会の招待

 「魔術師協会 特別招待状」という金の封蝋は、昨夜リアンが三回確認しても消えなかった。


 四回目は今朝。宿の朝飯の前。パンを噛みながら読んでもやっぱり消えなかった。


 「リアン・フォルテ殿。本協会の要請に基づき、魔力適性の特別測定をご依頼申し上げます」


 五回読んでも意味がわからない。


 (何かの間違いでは……)


 六回目を読もうとしたところで、扉をノックされた。


「おはようございます、リアン様。本日は護衛として同行させていただきます」


 ノエル・メルカートが、そろばんを胸元に抱えて立っていた。


「護衛って……魔術師協会の中にまで来るんですか」


「命の恩義の返済率は、現在まだ0.44%にすぎません。行き先が危険であればあるほど、護衛の優先度は上がります」


「魔術師協会は危険じゃない……たぶん」


「"たぶん"という不確定要素が、護衛の必要性を示しています」


 論点が違う気がするが、ノエルの目には有無を言わせない数字の光がある。


 諦めて靴紐を結んだ。


――――――――


 冒険者ギルド前で、アリシアが待っていた。


 平服だが背筋はいつも通り完璧に伸びている。腰に剣。


「おはよう、リアン。護衛として同行させてもらう」


「護衛じゃないです。測定受けるだけです」


「できれば当日になるまで分からない事態への備えは、前日からしておくべきだ」


 それは護衛というより準備万端な騎士の性分というやつだろう。


 ノエルとアリシアが無言で並んだ。微妙な牽制の空気があったが、どちらも退く気配がない。


 そこへ。


「おはようございます! 今日は私も参ります!」


 セリアが紅茶色のコートを翻しながら駆けてきた。翠の瞳が、早朝の光の中でやけに輝いている。


「いや、なんで?」


「英雄が初めて学術の殿堂に踏み込む瞬間は、物語的に最重要の一幕です。記録者として同行は必然です」


「物語関係ないです、俺の話です」


「英雄の話が物語でなくて、何が物語なんですか」


 返す言葉が見つからなかった。


 そこへ、四人目。


 左手に本を三冊抱え、右肩に鞄をかけ、ローブの裾を踏みそうになりながらミレイユが来た。


 眼鏡の奥の目が、いつもより少し硬い。


「……あの、私も。研究者として、協会側の観測に同席します」


「それは普通に許可要りませんか。協会側の測定ですよね?」


「……ブランナー先生には、昨日連絡しました。同席は認められています」


 淡々とした返事だった。でも、本の抱え方がいつもと違う。胸の前で、少し強く、握っている。


 (……なんか、緊張してるのかな)


 考えすぎかもしれない。


「わかりました。じゃあ、全員で行きましょう」


 リアンの胃が、小さく痛んだ。


――――――――


 魔術師協会の建物は、中央区北端の「学術通り」に面した五層の塔だった。


 黒とシルバーの石造り。頂上に観測水晶が設置されていて、昼間でも青みがかった光をわずかに放っている。周囲の商店街から浮いた、異質な静けさがある建物だった。


 (……でかい)


 圧迫感があった。


 正面扉は重い木製で、金属の紋章が嵌まっている。六角形の中に魔法陣の図案。それが「知識は扉を開ける」という協会の標語とともに彫り込まれていた。


「すごいですね……」


 思わず呟くと、


「当然です」


 ミレイユが小さな声で言った。「ここには400年分の魔術研究が蓄積されています。この大陸で保管されている古代魔術書の32%は、この塔にあります」


「32%……」


「残り68%の大半は消失しています。つまり現存するもののほぼ全てが、ここにある」


 声のトーンは変わらない。でも、その目が扉を見上げる角度が、リアンには少し誇らしそうに見えた。


 (ここが、ミレイユさんの場所なんだ……)


 扉に手をかける直前、セリアが背後でこっそり鉱石ペンをコートから取り出した。


――――――――


 協会の1層ロビーは、想像より広かった。


 石畳の床に、天井まで届く本棚。薄い魔力光の照明がいくつも浮いていて、昼間でも外光より明るい。受付カウンターの向こうに、灰色の制服を着た事務員が数人いた。


 廊下の奥に見習いらしき若者たちが何人か歩いていた。


 リアンたちが扉を開けた瞬間、その視線がこちらに向いた。


 (……なんか、見られてる)


 気のせいかと思ったが、明らかに皆の目が「一行」を追っている。それも、リアンというより——


「あれ、ミレイユ・ノーネームじゃないか」


 廊下から、声が来た。


 背の高い男だった。金髪を整えた、端正な顔。高級そうな藍色のローブ。歳はリアンと同じか少し上。足取りに迷いがない。


「ラザール」


 ミレイユの声が、一音で平坦になった。


「また外部招待か」男——ラザールが、視線をミレイユからリアンへ移した。「こちらが、例の"Fランク冒険者"? 噂は聞いているよ。協会でも話題になっている……学術的な噂として、ね」


 まるで興味が無いことを表明しながら話す声だった。


「学術的というのは?」リアンが聞くと、


「ノーネームの論文の、宣伝か何かかと思っていた」ラザールはリアンではなくミレイユに言った。「古代魔法陣の確率操作理論……実用性のない研究に、外部から箔をつけようとしている。そう解釈している者は多い」


「……」


 ミレイユが答えない。


「ブランナー先生が認めたんだから、私は構わないが」ラザールが続けた。「Fランクを協会に招く前例が、後々どんな影響を与えるかは、考えておいたほうがいいよ。君の立場のためにも」


 それだけ言って、彼は廊下の奥へ去った。


 (……何だったんだ、あれ)


 リアンが振り返ると、ミレイユは正面を向いていた。


 本の背表紙を一度、二度と指でなぞった。それだけ。


「気にしないでください」ミレイユが言った。「先を急ぎましょう」


 アリシアが音もなくリアンの隣に並んだ。ごく小さな声で言った。


「あの男……協会内で力を持っているか?」


「エリートの枠にいるらしいです。詳しくは」


「なるほど」


 それきり、アリシアは前を向いた。背筋がいつもよりわずかに尖っていた。


 一方、セリアは鉱石ペンを走らせながら「立ちはだかる壁……! 物語の必定!」と一人で興奮していた。


――――――――


 ブランナー先生の並実験室は、3層の奥まった部屋だった。


 窓が小さく、日当たりが悪い。机の上には魔道具の部品が山積みで、棚には金属の試作品と実験ノートが詰まっている。インクと金属と、なにか焦げたものの匂い。


 ブランナー先生は中肉中背、黒縁眼鏡、油で多少汚れた作業着という出で立ちで、扉を開けたリアン一行を見て微妙な顔をした。


「……人数が多い」


「すみません、なんか、全員ついてきてしまいまして」


「ミレイユから聞いていた同席者は二名のはずだが」


「ノエル・メルカート、護衛として同行しています」ノエルがそろばんごと会釈した。


「そちらのお嬢さんは」


「セリア・ハーモニアと申します。記録者として」


「……まあいい。廊下で待てない事情があるなら、端に座っていなさい」


 先生は部屋の中央に測定用の台座を引き出した。白い石の上に、半球型の水晶球。その周囲に六本の金属の柱が等間隔に並んでいる。


「魔力適性測定装置だ。手を水晶に添えると、六つの属性——火・水・土・風・光・闇——それぞれの共鳴反応を計測する。時間は一分と少し。痛みはない」


「は、はあ」


「座りなさい」


 リアンは台座の前の椅子に座り、水晶に両手を添えた。


 冷たかった。ガラスの冷たさではなく、石の、吸い込まれるような冷たさ。


 六本の柱が同時に静かに光り始めた。


 先生が計測盤を手に取り、数値を読み始めた。


 一分後。


 沈黙があった。


「……」ブランナー先生が計測盤を一度下げた。もう一度見た。「もう一回」


「えっ」


「もう一回やります。手を離さないで」


 追加で一分。


 また、沈黙。


「先生?」ミレイユが一歩前に出た。「数値は……」


「全属性、完全ゼロ」ブランナー先生が静かに言った。「魔力反応が微塵も出ていない。装置の故障でない限り——」


「本当にゼロなんです」リアンが言った。「昔から。剣の才能もゼロなんで、だいたい何でもゼロで」


「……」先生が眼鏡を押し上げた。「それは……普通ではない」


「才能がないのは普通じゃないですよね、すみません」


「逆だ」


 先生の声が、いつになく真剣だった。


「全属性ゼロという計測値は理論上、存在し得ない。生物は微量でも魔力を帯びている。ゼロが出るのは、完璧な遮断が行われている場合に限られる」


「遮断?」


「魔力を完璧に内部で封じているということだ。通常それは上位魔術師でも習得困難な技術だが……君は、意識せずやっているのか?」


「いや、何もしてないです」


「……」先生がノートを手に取った。「だから余計に興味深い。無意識的な完璧遮断。これは記録に残すべき事例だ」


 (何が起きてるんだ)


 リアンは水晶から手を離した。


 後ろでセリアが「無意識の隠蔽……! これは物語の典型的な『真の強者は力を隠す』展開です!」と小声で叫んでいた。アリシアが「静かに」と押さえていた。


「追加で調査をお願いしたい」先生が顔を上げた。「今日だけでは分からないことが多い。また来てもらえるか」


「……あの、俺、本当に何もないんですが」


「謙遜は結構。だがその謙遜自体が、一つのデータになる」


 返せなかった。


――――――――


 測定室を出ると、廊下のひんやりした空気に肩が下がった。


「……疲れた」


「見ている方も疲れました」ノエルが誠実な顔で言った。「リアン様が何もしていないのに先生が一人で興奮するという構造に慣れるまで、しばらくかかりそうです」


「慣れないでください」


「英雄の佇まいというものは」セリアが言いかけ、


「佇まいじゃないです」


 アリシアが小さく息を吐いた。珍しく、口元が緩んでいた。


「無事で何よりだ。測定装置に巻き込まれる事態を少し警戒していた」


「それはないでしょう」


「あなたの場合、否定できないだろう」


 それは否定できなかった。


 リアンは廊下の壁に軽くもたれた。


 ミレイユだけが少し離れたところに立っていた。本を胸の前で持ち、廊下の先に目を向けている。


「ミレイユさん」


 声をかけると、ぱっと振り返った。


「何ですか」


「なんか、今日……大丈夫ですか」


「普通です」


 普通です、という返事は少し早かった。


「あの人に何か言われてたの、ラザールさんでしたっけ」


「気にしないでいいです、と言いました」ミレイユが目を眼鏡ごと下げた。「……ありがとう。でも、気にしないでいいです。先を急ぎましょう、私の研究室を見せると言っていたので」


 それ以上、リアンには言葉がなかった。


 (何か、言えれば良かったんだろうけど)


 自分は言葉が上手くない。気の利いたことも出てこない。


 それでも、足音がいつもより少し速くなったミレイユの背中を、リアンは黙ってついていった。


――――――――


 ミレイユの研究室は、協会の2層に、他の部屋と少し離れた位置にあった。


 一般実験室の並びから外れて、廊下が折れた先。扉が他よりも少し小さく、表札代わりに細い字で「M. Mireille」とだけ書いてある。


「見習いが個人室を持てるのは、特例なんです」ミレイユが鍵を差し込みながら言った。「通常は共有の研究スペースを使います。私の場合は……ブランナー先生の計らいで」


「いい先生ですね」


「……まあ、ちゃんと実験ノートを書けと言われますが」


 扉が開いた瞬間、リアンは少し息を止めた。


 部屋中に、魔法陣があった。


 壁一面に図が貼ってある。大小さまざまな紙に描かれた円の連環構造。分析メモが余白を埋め、色分けされた線で別の図と繋がれている。天井近くまで届くものもある。


 机の上には、記号と数式が積み重なったノートが山のように積まれていた。本棚には古い魔術書が並んでいる。その背表紙の色の古さが、年代を示していた。


「すごい……」


 思わず声が出た。


「片付いていないだけです」


「片付いてないとか関係なく、すごいと思いました」


 ミレイユが振り返った。一瞬、何かを確認するような目をした。それからすぐ、眼鏡を押し上げて壁の側に向き直った。


「これが現在の研究の全体図です」と言いながら、一番大きな図の前に立った。「古代魔法陣の基礎構造を現代の魔力効率理論に照らして再解釈する試みです。単純に言えば、400年前の術式が現代でも動く理由と、動かない理由を明らかにする」


「400年前のものが今でも動くんですか」


「一部は。でも多くは動かない。理由が不明なものが多い……ここです」


 ミレイユが向かって左の図を指した。同心円が三重に重なり、内側から外側に向かって細い線が伸びている構造。レイアウト全体が右回りで設計されているとリアンの目には見えた。


「この区画が最大の未解明部分です。現代の魔力流動理論だと、この経路で外側の円に魔力を送るのが自然です。でも、古代の術式ではここに"逆流"が記録されている。なぜそんなことをしたのかが、長年わかっていない」


 リアンは図に近づいた。


 魔術の専門知識はない。でも、絵として見ていると、何か引っかかるものがあった。


「……あの」


「何ですか」


「これって……逆向きにしたら、どうなるんですか?」


 ミレイユが振り返った。


「この全体の流れを、右回りじゃなくて左回りにしたら、っていう話です。素人の疑問なんですけど、なんか右に揃ってるのに一部だけ逆方向に見えて、それそもそも全部左向きじゃダメなのかなって」


 ミレイユが動かなかった。


 本を持ったままの手が、少し固まっている。


「……それは」


「違いますか。変な疑問でしたか」


「違わない」


 声が、かすれた。


「そこは……誰も、聞いてこなかったところです」


 ミレイユがゆっくりと壁に向き直った。眼鏡の奥の目が、図の中の一点を見ている。


「全体を反転させると……この順方向の経路が逆になる。それだと、起点と終点が入れ替わる。現代理論では意味がないように見えるけれど、古代の回路設計は……起点を"終点"として扱う双方向設計だったとしたら」


 独り言のような声になっていた。


「……その方が、むしろ効率が上がる可能性がある。なぜなら……待って」


 ミレイユがノートを引っ張り出した。立ったままページをめくる。止まった。


「……あった」


 指が、ページの上の数式の一行を示した。


「これを仮定すると……計算が合う。全部、合う」


 呟いた声は、ほとんど音がなかった。


――――――――


 ミレイユ視点——


 リアン・フォルテが言った疑問は、六文字にも満たなかった。


 「逆にしたら」。


 それだけだった。


 私は三年間、この図を見てきた。600時間以上。先生にも見せた。協会の上席会員に査読してもらったことも一度だけある。誰も、そこを聞かなかった。


 ラザールにも見せたことがある。「実用性がない」と一言で終わった。


 誰も、「逆にしたら?」と聞かなかった。


 なぜかを考えた時——すぐ答えが出た。


 全員が「現代の理論」で見ていたから。


 現代の魔力流動は一方向を前提とする。だから「逆」という発想は最初から除外されている。それは知識があるから生まれる盲点だった。


 リアンは、知識がない。だから、ただ「見えたもの」を言った。


 (……なんで、あなたにそれが言えるの)


 窓の外を見た。学術通りの石畳が、午後の光を受けている。


 私は600時間かけてわからなかったことを、あなたは三十秒で言った。


 それが悔しいかというと、悔しくない。


 悔しくないのが、なぜかわからなかった。


 胸の中に何かがある。熱い、というわけでもない。冷たいわけでもない。ただ、なぜか、目の奥が少し熱くなっている。


 (……おかしい)


 感情と身体反応が、今、完璧に連動していない。


 リアンの声が頭の中でまだ鳴っていた。


 「逆にしたら、どうなるんですか?」


 あなたは確率操作スキルを持っているのかもしれない。戦場で最適解を無意識に選ぶように、最適な疑問を無意識に選んでいるのかもしれない。


 そう解釈していた。


 でも今は、それが正しいかどうか、少しだけ——本当に、少しだけ——わからなくなっていた。


 あなたは、ただ「見えた」ものを言っただけじゃないか。


 私のことを、研究者として見て。図を、ちゃんと見て。「面白そう」と思って。


 それだけで、あんな疑問が出るんじゃないか。


 (……だとしたら)


 指が、ノートのページを握った。


 (それって、どういうことなんだろう)


 頬が、少し、熱い。


 涙が落ちそうになって、ミレイユは慌てて眼鏡を外した。ローブの裾で拭う。


 (……なんで泣いてるの、私)


 「ありがとう」と言おうとして、振り返ったら、リアンは廊下に出ていた。


 ちょうど扉が閉まるところだった。


 静かな部屋の中に、自分の呼吸だけが残った。


――――――――


 リアン視点——


 (なんで泣いてたんだ?)


 廊下に出た後も、その疑問が頭から消えなかった。


 「少し整理させてください」とミレイユに言われて部屋を出た。振り返った一瞬、眼鏡を外してローブで目元を拭っているのが見えた。


 アリシア、セリア、ノエルが廊下で待っていた。


「どうだった?」アリシアが聞く。


「研究室見せてもらって……なんか、俺が変な疑問を言ったら、ミレイユさんが泣き始めて」


「泣いた?」


「眼鏡外してたんで、はっきりとはわからないんですけど……たぶん」


 三人が、微妙に異なる表情を作った。


 アリシアは少し目を細めた。どこか柔らかい顔で。


「……感動させたんだよ、あなたは」


「?」


「研究者にとって、核心を突かれる瞬間というのは——説明が難しいが、特別なんだ。ミレイユは、きっとそういう瞬間に立ち会ったんだと思う」


「俺は変な疑問を言っただけで」


「その変な疑問が、三年越しの疑問の答えだったとしたら?」


 リアンは黙った。


 セリアが目を輝かせながらノートに何か書いていた。


「……英雄が道を示す——学術篇! この展開は新しい。ありがとうございます、リアン様、歌の題材が三つ増えました」


「増やさないでください」


「協会中に広まるのは明日でしょうか、明後日でしょうか」


「広まらないでください」


「私の計算では、ミレイユ殿の論文への引用数が増加する可能性があります」ノエルがそろばんを鳴らした。「それはリアン様の評価向上にも寄与します。投資効果の観点から見ると——」


「投資じゃないです」


 廊下が、なんとなく騒がしくなった。


 リアンは壁に背をつけて天井を仰いだ。


 (俺、ほんとに何もしてないんだけどな……)


 でも、ミレイユが泣いていたのは本当だった。


 それが何なのかは、わからなかった。ただ、悪いことじゃない気はした。


 (まあ……なんとかなったっしょ)


 後頭部を壁にもたせかけた。


 明日、協会に広まるかどうかは、もう手に負えない。


――――――――


 ミレイユ視点——


 夜の十時を過ぎても、研究室の明かりは消えなかった。


 窓の外の学術通りは静かで、魔力光の街灯だけが等間隔に光っている。


 机の上に、三枚目の紙が広がっていた。


 計算式が、今度こそ最後まで組み立てられた。


 古代魔法陣の双方向設計理論——起点と終点を入れ替えることで、単方向回路の1.6倍の効率が実現される可能性。


 それを証明する数式が、紙の上に並んでいた。


 ミレイユは一度、ペンを置いた。


 三年間ずっと掴めなかったものが、今日の午後に動いた。


 (……なんで今日だったんだろう)


 答えは知っている。


 「逆にしたら、どうなるんですか?」


 あの声が、今もはっきり聞こえる。


 私は600時間かけてたどり着けなかった。あなたは三十秒で疑問として出した。


 悔しいかと思っていたが、違った。


 私が感じたのは、もっと——単純なものだった。


 (嬉しかった)


 あなたが私の研究室を「すごい」と言ってくれた。それだけではない。ちゃんと見てくれた。壁の図を、ただの背景じゃなく、ちゃんと「見た」。


 そして疑問を持った。


 6年間、誰も持たなかった疑問を。


 (……これは、感情だ)


 ミレイユは眼鏡を外した。


 目の奥が少し熱い。なぜかはわかっている。わかっているから、余計にどうしていいかわからない。


 「これはデータではない」という確信がある。


 今日、自分の中で何かが、小さく位置を変えた。「面白い研究対象」と「関わりたい人」の間の境界が、今日だけ少し曖昧になった。


 (整理しなければ)


 眼鏡をかけ直した。


 ノートのページを繰ると、端っこにリアンの似顔絵が描いてある。いつ描いたかは覚えていない。でも描いていた。


 少し泣きそうになるのを、唇を噛んで止めた。


 (……ありがとう)


 声には出なかった。


 夜の研究室で、ミレイユはまたペンを持った。


 書くべきことが、まだたくさんある。


 でも今夜だけは、数式よりも先に、頭の中をあの声が一周してから、仕事が始まる気がした。


――――――――


(第7話・終)


第7話、お読みいただきありがとうございます。


今回は魔術師協会編の導入回です。


招待状ひとつで「護衛」「記録者」「観測者」が全員ついてきてしまう——リアンの逃げ道が、本人の意思とは別のところでどんどん塞がっていく構図を、学術の殿堂でやってみました。


協会で出てきたラザールは、いわゆる「正しさ」を武器にするタイプです。彼の言っていることは筋が通っていて、だからこそミレイユに刺さる。ミレイユは理屈で自分を支える人なので、理屈で殴られると深く効いてしまう——そのあたりの空気を、ロビーの一瞬で出したかった回でした。


そして魔力適性測定。

全属性ゼロ=才能ゼロ……のはずが、先生の解釈は「遮断」へ飛ぶ。

リアンは何もしていないのに、周囲が勝手に意味を積み上げていくのが、この作品のいつもの味付けです。


個人的な見どころは、研究室の「逆にしたら?」です。

知識があるほど思いつかない盲点を、知識がない(でもちゃんと見ている)リアンが言ってしまう。

ミレイユにとっては三年分の停滞が動く瞬間で、だからこそ感情が先に出てしまう——ここでミレイユの“研究者としての憧れ”が、少しずつ“人としての感情”に侵食され始めます。


次回、第8話「消えた子供たち」。

学術の噂が走り出す裏で、ギルドには現実の依頼が届きます。

——今度の相手は、偶然では止まれない。


引き続きお付き合いいただければ幸いです。


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