第5話 噂は歌に乗って
一週間ぶりに、リアン・フォルテはベッドから起き上がった。
正確に言えば、三日前には起き上がれていた。でも、体のあちこちが痛くて、まともに歩けなかった。
今日は、なんとか歩ける。
たぶん。
「……いってぇ」
肋骨を押さえながら、ゆっくりと立ち上がる。
包帯だらけの体。右腕のヒビは治りかけているが、まだ力が入らない。左足首の捻挫も、まだ少し腫れている。
顔の腫れは、だいぶ引いた。左目も開くようになった。でも、頬と唇の傷はまだ塞がりきっていない。
鏡を見る。
くすんだ黒髪が、ボサボサに伸びている。灰色の目の下に、くっきりとした隈。顔色は悪い。痩せた。
いつも通りの、冴えない顔。
ただ——傷跡だけが、やけに目立つ。
「……英雄、ねえ」
自分でも笑ってしまう。
この一週間、見舞い客が絶えなかった。
トムが来た。「お前、やばいぞ。ギルド中の話題だ」と、嬉しそうなのか心配なのかわからない顔で。
幼馴染のマルコが来た。「やっぱりな! 俺、信じてたぜ!」と、焼きたてパンを山ほど持って。
デインが来た。「お前、何やったんだよ!?」と、真面目な顔で詰め寄ってきた。
エリスが来た。「はぁ? あのリアンが英雄? ……何か裏があるわね」と、疑いの目で。
相部屋のグレンが来た。「坊主、まさか……本当なのか?」と、普段の荒っぽさを消して。
ニコが来た。「リアン様ぁ! サインください!」と、完全にふざけて。
ロウが来た。「リアン……君、隠してたのか……?」と、裏切られたような顔で。
そして——
アリシアが来た。
毎日。
毎日、騎士団の仕事が終わった後に、見舞いに来てくれた。
花を持って。果物を持って。
「調子はどう?」
凛とした声。でも、少しだけ柔らかい。
「あ、はい……だいぶ良くなりました」
「無理しないでね」
プラチナブロンドの髪が、夕陽に輝いていた。紺碧の瞳が、真っ直ぐにリアンを見る。
その視線が——なんだか、くすぐったい。
ミレイユも来た。
二日に一度。
何か言いたそうにして、でも言えなくて、結局、魔導書を持ってきて、リアンの隣で黙々と読んでいた。
「ミレイユさん、ここで読むの?」
「……静かだから」
琥珀色の瞳が、ちらりとリアンを見て、すぐに魔導書に戻る。
耳が、赤い。
リアンは気づかない。
——そんな一週間だった。
嬉しかった。みんなが心配してくれて。
でも——
(頼むから、英雄はやめてくれ……)
切実な願い。
リアンは、くすんだ緑のチュニックに手を通した。
いつもの服。洗って、ツギハギを当てた。ところどころ色褪せている。
灰色のマントは、新しいのを買った。と言っても、中古の安物。
腰に短剣。
ポケットに手帳。血で汚れて、ページが破れている。でも、まだ使える。
深呼吸。
肋骨が痛む。
「まあ……なんとかなるっしょ」
いつもの口癖を呟いて、リアンは宿を出た。
――――――――
同じ朝。
冒険者街区の酒場「金獅子亭」。
昼間から樽の匂いがする。麦酒と汗と、焼いた肉の香り。笑い声は天井に染みついて、床板の軋みと一緒に響いていた。
その片隅で、少女がグラスの水を指先で揺らしている。
セリア・ハーモニア。
18歳。吟遊詩人。赤茶の髪を短めに結び、旅装のマントを羽織っている。目は澄んだ翠。何かを見つけた時にだけ、子どものように光る。
彼女は、隣の席の男たちの会話を聞き流すふりをしながら、言葉の欠片だけを拾っていた。
「……森の奥だ。洞窟のアジトに単独で潜入したってよ」
「しかも満身創痍。普通なら歩くのも無理だろ」
「爆発は計算されてたらしい。火薬の量まで調整して――」
「騎士団副長が、英雄だって言ったんだ。公式だ、公式」
セリアは、口元を押さえた。
(単独潜入。満身創痍。計算された爆発。公式の英雄認定)
言葉が脳内で並び替わっていく。
(これは――物語だ)
胸が、どくんと鳴った。
吟遊詩人は、噂を歌う。
だが、ただ歌うだけじゃない。
噂の中に埋まった「核」を掴んで、誰の心にも刺さる形に磨き上げる。
そして。
必要なら——噂の続きを、作る。
セリアは、そっと立ち上がった。
椅子が鳴る。
誰も気にしない。
この酒場では、何かが鳴るのはいつものことだから。
セリアは店主に小銭を置き、外へ出た。
午後の光が眩しい。
彼女は空を見上げ、呟いた。
「森の英雄、リアン・フォルテ……」
名前を口にしただけで、胸が少し熱くなる。
理由は分からない。
でも、分からないからこそ。
物語は、始まる。
――――――――
冒険者ギルドは、朝から賑わっていた。
いつもの光景——のはずだった。
リアンが扉を開けた瞬間、空気が変わった。
一瞬の沈黙。
そして——
「おおっ!」
「リアンだ!」
「英雄が戻ってきた!」
拍手。歓声。口笛。
リアンの顔が、引きつった。
(え……なに……?)
冒険者たちが、次々と声をかけてくる。
「よう、リアン! 怪我はもう大丈夫か?」
「聞いたぞ! 盗賊のアジトに単独潜入したんだってな!」
「すげえよ、お前! Fランクのくせに!」
「いや、もうFランクじゃねえだろ。あれはAランク級の作戦だ」
「A? もっと上だろ。Sランクだってあそこまではできねえ」
リアンは、立ち尽くしていた。
入口で。扉を開けたまま。
逃げたい。
今すぐ、踵を返して、宿に戻りたい。
でも——背後に人がいて、退路が塞がれている。
「あ、あの……」
「謙虚だなあ! さすが英雄!」
「いや、その——」
「おい、飲もうぜ! 朝っぱらだけど、英雄の復帰祝いだ!」
「飲みません! というか朝です!」
冒険者たちが、わっと笑う。
「面白いやつだな!」
「あの実力で、あの謙虚さ! たまんねえ!」
リアンは、人混みをかき分けながら、カウンターへ向かった。
足を引きずりながら。肋骨を庇いながら。
その姿が——冒険者たちには、「満身創痍でも気にしない英雄」に見えた。
カウンターに辿り着く。
トムが、ニヤニヤしながら待っている。
「おかえり、英雄殿」
「やめろ」
「いやいや、やめられないって。お前、ギルドの掲示板見た?」
トムが、親指で後ろを指す。
振り向く。
掲示板の一角に、大きな羊皮紙が貼られていた。
『リアン・フォルテ殿の功績を称え、騎士団より感謝状を贈呈する ——騎士団副長アリシア・シルヴァレスト』
リアンの顔から、血の気が引いた。
「嘘だろ……」
「嘘じゃねえよ。三日前に、アリシア副長自ら来て貼っていった」
「自ら……?」
「すごい美人が来たから、ギルド中が大騒ぎだったぞ」
リアンは、掲示板に歩み寄った。
感謝状を、まじまじと見る。
達筆な文字。格式高い文面。騎士団の紋章入り。
そして——
一番下に、アリシアの署名。
丁寧に、真っ直ぐに書かれた名前。
(アリシアさん……)
嬉しいような。困るような。
でも——本当に困るのは、これからだった。
「ギルドマスターも驚いてたぞ。『Fランクに感謝状……前例がない』って」
「前例がないのは、そういうことじゃ——」
「で、昇格の話も出てる」
「は?」
「Fランクからの飛び級昇格。Cランクかそれ以上って噂だ」
「待って。待って待って」
リアンは、両手を振った。
「俺、何もしてないから。全部偶然だから。マジで」
トムが、にやりと笑った。
「そうやって否定するところが、英雄っぽいんだよ」
「だから——」
その時。
ギルドの入口が、勢いよく開いた。
――――――――
「リアン様!」
甲高い声が、ギルド中に響いた。
全員が、入口を見る。
そこに立っていたのは——少年だった。
15歳くらい。整った顔立ち。黒髪をきっちりと撫でつけている。
上等な仕立ての商人服。紺色のベストに白いシャツ。腰には——そろばん。
大きな荷物を背負った従者が二人、後ろに控えている。
少年は、真っ直ぐにリアンへ向かってきた。
迷いのない足取り。背筋が伸びている。商人ギルドの教育が行き届いた、完璧な所作。
リアンの前で、深々と頭を下げた。
「初めまして。ノエル・メルカートと申します」
リアンは、きょとんとした。
「えっと……どちらさま?」
「メルカート商会の三代目、見習いです」
ノエルが顔を上げる。黒い瞳が、真剣にリアンを見つめている。
「一ヶ月前の街道護衛。あの時の商人は、私の父です」
リアンの記憶が、巻き戻る。
一ヶ月前。街道護衛の依頼。盗賊に襲われた。荷車の商人——
「あの時のおっちゃんの……息子?」
「はい」
ノエルの目が、潤んでいた。
いや、泣いてはいない。感情を必死に抑えている。商人としての矜持が、涙を許さない。
でも——唇が、わずかに震えている。
「父はあの日、命を救っていただきました」
「え、いや、俺は別に——」
「あの日以来、父はリアン様のことを『命の恩人』だと言い続けています」
ノエルは、そろばんを取り出した。
カチカチと、珠を弾く。
「人の命の価値は、金銭では計算できません」
カチ。
「しかし、商人として、恩義を数値化しないのは怠慢です」
カチカチ。
「父の残りの人生を50年と仮定し、年間の経済活動価値を金貨200枚として——」
カチカチカチカチカチ。
「リアン様への恩義は、最低でも金貨一万枚に相当します」
ギルドが、シンと静まり返った。
金貨一万枚。
リアンの年収の——何百倍だ。
「は……?」
「とはいえ、一度にお支払いするのは現実的ではありません」
ノエルは、後ろの従者に合図した。
従者が、大きな荷物を開く。
中から出てきたのは——
革鎧。
上質な赤い皮革。銀の金具。胸当て、肩当て、手甲のセット。
素人目にも分かる。高級品だ。
「まずは、こちらを」
「え」
「赤竜の鱗革で作られた防具セットです。市場価格で金貨150枚相当」
「きんか……ひゃくごじゅう……」
リアンの声が、かすれた。
金貨150枚。リアンの年収の——ざっと十年分。
「いりません」
即答。
「え?」
ノエルが、初めて動揺した。
「いらないです。そんな高いもの、もらえません」
「し、しかし——」
「俺、あの時なんもしてないんで。勝手に盗賊が退いただけっていうか——」
「なんとおっしゃいますか……!」
ノエルの目が、見開かれた。
そして——そろばんを抱きしめるようにして、小さく震えた。
「父の命を救っておきながら、見返りを求めない……」
「いや、だから救ってないって——」
「これほどの謙虚さ……商人ギルドの記録にも、前例がありません……」
ノエルは、そろばんを弾いた。
カチカチカチ。
「謙虚さの市場価値を計算します」
「するな」
「英雄的行為に謙虚さを加算すると——リアン様の人格的価値は、もはや算定不能です」
「算定するな!」
周囲の冒険者たちが、感嘆のため息を漏らす。
「すげえ……金貨150枚の装備を断るとか……」
「英雄は、物欲がないんだな……」
「金に執着しない男は、本物だ」
リアンは、頭を抱えた。
(なんでそうなるんだよ……!)
「リアン様」
ノエルが、居住まいを正した。
「では、せめて日用品レベルの恩返しをさせてください」
「日用品……?」
「はい。チュニック、マント、ブーツ、ベルト。消耗品を新調させていただきたい」
リアンは、自分の服を見下ろした。
色褪せたチュニック。ツギハギだらけ。中古の安物マント。すり減ったブーツ。
確かに、ボロい。
「それくらいなら……」
「ありがとうございます!」
ノエルの顔が、ぱっと輝いた。
15歳の少年の、年相応の笑顔。
でも、次の瞬間——商人の顔に戻る。
「では、こちらをどうぞ」
従者が、二つ目の包みを開いた。
白い生地のチュニック。銀の刺繍が入っている。
深い紺色のマント。内側に防水加工。裏地は絹。
黒い革のブーツ。底が厚く、しっかりした作り。
ベルトには、小さな宝石が埋め込まれている。
「……これが日用品?」
「もちろんです。普段使いの品ですよ」
ノエルの「日用品」の基準は、大商人の息子のそれだった。
「いくらすんのこれ……」
「お値段の話は無粋でございます」
「いや聞くだろ!」
「金貨20枚程度です」
「それ全然日用品じゃない!」
ノエルは、そろばんを弾いた。
「リアン様の命の恩人としての価値を考えれば、金貨20枚は端数以下です」
「端数……」
「むしろ、これで恩義の0.2%しか返済できていません」
「パーセントで言うな」
トムが、カウンターの向こうで腹を抱えて笑っている。
冒険者たちも、ニヤニヤしている。
リアンは、完全に逃げ場を失っていた。
「……わかった。わかりました。じゃあ、チュニックとマントだけ——」
「ブーツとベルトもお願いします」
「——全部かよ」
「はい。セットでご使用いただくのが、商品として最も効果的ですので」
ノエルは、にっこりと笑った。
商人の笑顔。完璧な営業スマイル。
15歳にして、この交渉力。
リアンは、諦めた。
(勝てない……商人には勝てない……)
――――――――
ギルドの奥の更衣室。
リアンは、ノエルに渡された服に着替えた。
白いチュニック。生地が柔らかい。肌触りが全然違う。今まで着ていた服が、麻袋に思える。
紺色のマント。軽い。なのに温かい。風を通さない。
黒い革のブーツ。足にぴったり合う。歩きやすい。今までのすり減ったブーツとは比較にならない。
ベルトを締める。短剣を吊るす。
鏡を見る。
「……誰だこれ」
そこに映っているのは、見知らぬ青年だった。
いや、顔は同じだ。くすんだ黒髪。灰色の目。傷跡の残る頬。
でも——服が違うだけで、印象がまるで違う。
白いチュニックが、くすんだ黒髪を引き立てている。
紺のマントが、灰色の目と調和している。
傷跡が——勲章のように見える。
表情が薄い顔が——達観した戦士の顔に見える。
(やばい)
リアンは、直感的に悟った。
この服は、まずい。
今までの冴えない外見は、ある意味、防御壁だった。「こいつ、見た目は大したことないな」と思ってもらえれば、英雄の噂も半信半疑で済む。
でも、この服を着たら——
噂と外見が、一致してしまう。
「ノエル……やっぱり前の服に——」
「お似合いです!」
更衣室の外から、ノエルの声。
嬉しそう。心からの称賛。
リアンは、更衣室のカーテンを開けた。
ギルドの酒場に、足を踏み出す。
一瞬の沈黙。
全員が、リアンを見た。
そして——
「おおおおっ!」
「すげえ!」
「英雄だ……本物の英雄だ……」
「かっこよ……」
冒険者たちが、どよめく。
女性の冒険者たちが、頬を染めている。
男性の冒険者たちが、羨望の眼差しを送っている。
「見ろよ、あの傷跡……戦い抜いてきた証だ」
「あの目つき……達観してるよな」
「白い服に傷跡……たまんねえ」
リアンは、居心地が悪くてたまらなかった。
「いや……服が変わっただけで——」
「服で人は変わらない。中身が伴ってるから、服が映えるんだ」
誰かが言った。
冒険者たちが、うんうんと頷いている。
ノエルは、満足そうに微笑んでいた。
そろばんを弾く。カチ。
「投資効果、想定以上です」
リアンは、天井を仰いだ。
(俺の日常は……どこに行ったんだ……)
――――――――
昼過ぎ。
ギルドの酒場は、いつにも増して混んでいた。
リアンの「復帰」が噂を呼び、見物客まで押し寄せている。
リアンは、隅のテーブルで小さくなっていた。
新しい服のせいで、目立つ。隠れられない。
前のボロい服なら、壁と同化できたのに。
ノエルは、リアンの向かいに座っている。
そろばんを手に、何やら計算している。
「リアン様、次の恩返しについてですが——」
「もう十分だって」
「いえ、まだ恩義の0.4%です」
「パーセント言うな」
トムが、エールを運んできた。
「はい、英雄殿。サービスね」
「金は払う」
「いいって。今日はお前の復帰祝いだ。ギルドマスターの計らい」
「ギルドマスターまで……」
リアンが、エールを一口飲む。
苦い。でも、染み渡る。
一週間ぶりの酒。体に沁みる。
そうだ。こういう、普通の日常が欲しかっただけだ。
依頼をこなして。エールを飲んで。宿に帰って寝る。
それだけでいい。
そう思った、その時——
ギルドの扉が開いた。
今度は、静かに。
でも、全員の視線が集まった。
入ってきたのは、一人の少女だった。
明るい茶髪。高い位置で結んだポニーテール。風に揺れる。
大きな翡翠色の瞳。好奇心に満ちている。きらきらと輝いている。
白いブラウスに、茶色の旅装。スカートの裾が膝上で揺れている。
背中には——リュート。
旅の吟遊詩人。
リアンは、その少女を見て——
(あ)
心臓が、ドクンと鳴った。
知っている。
この子を、知っている。
一ヶ月前。森の中。
モンスターに襲われている少女を見かけた。助けようとして——というか、怖くて逃げようとして——転んで、罠を作動させて、偶然モンスターが罠にかかった。
その時の少女。
「あなたは私の英雄!」
あの時、目をキラキラさせて、いきなりリュートを奏で始めた少女。
あの後も何度か見かけた。ギルドで。街中で。
彼女はリアンを見かけるたびに追いかけてきて、歌を作ろうとした。
リアンは毎回逃げた。
セリア・ハーモニア。
吟遊詩人。
リアンにとっては——噂を最も加速させる、危険人物。
(まずい)
反射的に、テーブルの下に身を隠そうとした。
でも——
セリアの翡翠色の瞳が、既にリアンを捉えていた。
「——見つけました!」
セリアの顔が、花が咲くように輝いた。
全身から、喜びのオーラが溢れている。
「リアン様! お元気になられたのですね!」
小走りでリアンに駆け寄ってくる。
リュートが背中で揺れる。茶髪のポニーテールが弾む。
冒険者たちが、道を空ける。
リアンは、椅子から立ち上がった。逃げるために。
でも、セリアの方が速かった。
「聞きましたよ! 聞きました! 全部聞きました!」
セリアは、リアンの両手を掴んだ。
小さな手。でも、力強い。
翡翠色の瞳が、至近距離でリアンを見上げている。
「森の奥で盗賊団と戦ったって! 満身創痍で仲間を救出したって! 爆発でアジトを壊滅させたって!」
「ちょっと待って——」
「素晴らしい! 素晴らしすぎます!」
セリアは、リアンの手を離すと、くるりと振り返った。
ギルドの酒場。全員が見ている。
セリアは、背中からリュートを下ろした。
弦に指を這わせる。
チャラン、と軽やかな音が響く。
酒場が、静まった。
セリアは、深く息を吸った。
「——皆様。これより、歌を一曲」
リアンの血の気が、引いた。
「やめて」
小声で言った。
聞こえていない。
いや、聞こえているのに、無視された。
セリアの唇が、微笑みを浮かべる。
そして——
歌い始めた。
――――――――
セリアの歌声が、ギルドの酒場に響き渡った。
透き通った声。芯がある。胸に響く。
リュートの旋律が、声を支え、彩る。
吟遊詩人としての技術が、ずば抜けていた。
セリアは——歌の天才だった。
♪ 聞けよ、旅人、冒険者
♪ これは真実、偽りなし
♪ 森の奥で起きた奇跡
♪ 一人の勇者が成した伝説
リアンは、テーブルに突っ伏した。
(始まった……)
♪ 傷つき、血を流しながら
♪ 彼は友を想い、立ち上がった
♪ 折れた肋骨も、裂けた肌も
♪ その心だけは、折れはしない
(心も折れかけてたんだよ……)
♪ 崖を越え、闇を潜り
♪ 敵の巣へと一人向かう
♪ 怖れを知らぬその足取り
♪ まるで獅子が獲物を追うが如く
(怖くて泣きそうだったし、崖は落ちただけだし、獅子じゃなくてネズミだった……)
♪ 闇の中で彼は囁く
♪「友よ、必ず助けに行く」
♪ その声は、鋼の如く
♪ 敵の心すら、震え上がる
(囁いてない。声が震えてただけ。敵に見つからないよう必死だった……)
♪ そして彼は策を巡らす
♪ 油の海に火を放ち
♪ 天を衝く爆炎の柱
♪ 敵は崩れ、壁は裂ける
(策じゃない。滑って壺を倒しただけ。ミレイユさんが火をつけたんだ。俺は逃げてただけ……)
♪ 炎の中から現れる
♪ 友を抱いた英雄の姿
♪ 白き騎士も駆けつけて
♪ 見たのは——勝利を成した男の背
♪ されど英雄は語らない
♪ 己の功を、己の傷を
♪ ただ静かに微笑んで
♪「まあ、なんとかなった」と——
最後の一節で、セリアの声が柔らかく震えた。
感情がこもっている。
リュートの余韻が、静かに消えていく。
沈黙。
三秒。五秒。
そして——
ドッ、と歓声が上がった。
「すげえ!」
「いい歌だ!」
「泣けるな……!」
「リアン、お前すげえよ……」
拍手の嵐。
テーブルを叩く音。足を踏み鳴らす音。口笛。
ギルドの酒場が、揺れている。
リアンは、テーブルに突っ伏したまま動けなかった。
顔が真っ赤。恥ずかしさで死にそう。
(全部違う……全部盛ってる……なんでこうなるんだ……)
セリアが、リアンの横に立った。
リュートを胸に抱いて。
翡翠色の瞳が、潤んでいる。
「リアン様」
「……はい」
「あなたの物語は、本当に美しい」
声が、震えている。感動で。
「物語じゃないんですけど——」
「いいえ、これは物語です。運命に導かれた英雄の、壮大な叙事詩です」
セリアは、リアンの顔を覗き込んだ。
至近距離。
茶髪のポニーテールが、リアンの肩に触れる。
翡翠色の瞳が、キラキラと輝いている。
「聞いてください、リアン様。私、この街に来た時から、あなたの噂を集めていました」
「集めてたの……」
「はい! 盗賊団を壊滅させた英雄。騎士団副長が認めた戦術家。満身創痍で仲間を救った勇者。そして——」
セリアは、指を折って数えた。
「噂を集めれば集めるほど、一つの物語が浮かび上がるんです」
「物語……」
「英雄譚の典型パターン。『弱き者が、運命に導かれ、真の英雄になる』」
セリアの目が、真剣だった。
「あなたは、まさにその主人公です」
「違います」
「あなたは否定する。それも、物語の定番です」
セリアは、にっこりと笑った。
「謙虚な英雄は、己を語らない。だから、私が語ります」
「語らないでくれ!」
「歌います」
「歌わないでくれ!」
リアンの悲痛な叫びが、ギルドに響いた。
冒険者たちが、爆笑する。
「英雄と吟遊詩人! いい組み合わせだ!」
「歌い手がつくとか、本物の英雄じゃねえか!」
「伝説の始まりだな!」
リアンは、天井を見上げた。
天井の木目が、ゆらゆらと揺れて見える。
涙目だった。
――――――――
午後。
ギルドの喧騒は、収まる気配がなかった。
セリアの歌が、あまりにも好評だったのだ。
「もう一曲!」「アンコール!」の声に押され、セリアは計三回、「森の英雄」を歌った。
二回目には、冒険者たちが一緒に口ずさんでいた。
三回目には、酒場の隅にいた商人たちも手拍子を打っていた。
歌は、もう止められない。
リアンは、カウンターの隅で小さくなっていた。
ノエルが、隣で計算している。
「セリアさんの歌の拡散効果を計算すると——リアン様の知名度は、三日以内に市民レベルまで浸透します」
「やめてくれ」
「これは素晴らしい投資です。歌による広告効果は、掲示板の十倍以上——」
「投資じゃない!」
その時——
ギルドの入口から、プラチナブロンドの髪が見えた。
アリシア・シルヴァレスト。
今日は甲冑ではなく、白いブラウスと紺のベスト。腰には「曙光」。
非番なのだろう。でも、剣だけは手放さない。
彼女は、ギルドの中を見渡し——リアンを見つけた。
紺碧の瞳が、わずかに和らぐ。
でも、次の瞬間——セリアがリアンの隣にいることに気づいた。
笑顔が、一瞬だけ凍る。
「……誰?」
小さく呟いた。独り言。誰にも聞こえない。
でも、その声には——明確な警戒があった。
アリシアは、真っ直ぐにリアンへ向かった。
「リアン」
「あ、アリシアさん」
リアンが振り向く。
新しい服を着たリアンを見て、アリシアの瞳が——わずかに揺れた。
白いチュニック。紺のマント。傷跡の残る顔。
以前より——凛々しく見える。
(……綺麗)
いや。
(何を考えてるの、私は……)
アリシアは、表情を引き締めた。
「服が変わったわね」
「あ、これは、ノエルっていう商人の子に——」
「ノエル・メルカート様です」
ノエルが、椅子から立ち上がり、完璧な一礼をした。
「騎士団副長アリシア・シルヴァレスト様ですね。お噂はかねがね」
「……ええ。あなたが?」
「リアン様の恩返しに参りました。一ヶ月前の街道護衛で、父がお世話になりまして」
アリシアの目が、鋭くなる。
「あの時の商人の息子……」
「はい。リアン様には、命を救っていただきました」
アリシアは、リアンを見た。
リアンは、顔を逸らしている。
「……あの時のことは、聞いたわ。あなたが盗賊の伏兵を発見し、囮となって御者を守った——」
「違います」
「また否定するのね」
アリシアが、かすかに微笑んだ。
いつもの、リアンの否定を「謙虚」と受け取る笑顔。
リアンは、諦めの表情で天井を見上げた。
その時——
「リアン様!」
セリアが、リュートを抱えて割り込んできた。
「次の歌のために、もう少し詳しくお話を聞かせてください! 盗賊団との戦いで、最も心に残った瞬間は——」
「次の歌!? やめて!」
「あの、すみません」
アリシアが、セリアに向き直った。
紺碧の瞳が、翡翠色の瞳と向かい合う。
「あなたは?」
「セリア・ハーモニアです。吟遊詩人をしています」
セリアは、屈託のない笑顔で答えた。
「リアン様の物語を、歌で世界中に届けるのが私の使命です!」
「……使命」
アリシアの眉が、わずかに上がった。
「リアン様は、私の英雄ですから」
その言葉に、アリシアの目が——ほんの一瞬——鋭くなった。
「あなたの英雄……」
「はい! 運命に導かれた、真の英雄です!」
セリアの目が、キラキラ輝いている。
アリシアの目は、穏やかだが——どこか冷ややか。
空気が、微妙に張り詰める。
リアンは、二人の間で挟まれていた。
(なんか……やばくない……?)
その時——
ギルドの入口に、もう一人。
藤色の髪。銀縁の丸眼鏡。大きなローブ。肩からかけたショルダーバッグ。
ミレイユ。
彼女は、ギルドの中を見渡して——リアンの姿を見つけた。
琥珀色の瞳が、一瞬だけ輝く。
でも、すぐに気づいた。
リアンの周りに、二人の女性がいることに。
アリシア。凛々しい騎士。
セリア。明るい吟遊詩人。
ミレイユの足が、止まった。
入口付近で。
一歩、後退る。
(……行かない方がいいかな)
でも——
リアンが、ミレイユに気づいた。
「あ、ミレイユさん」
灰色の目が、ミレイユを見つけて——ほっとした表情になった。
他の二人に囲まれて困っている時に、見知った顔を見つけた安堵。
「こっち来てよ」
手を振る。
ミレイユは、眼鏡を指で押し上げた。
心臓が、跳ねる。
「……はい」
小声で答えて、リアンの方へ歩いていく。
足元が、少しおぼつかない。
リアンの隣に立つ。
新しい服を着たリアンを見て——
琥珀色の瞳が、大きく見開かれた。
「リアンさん……服が……」
「ああ、うん。ノエルってやつに押し付けられて……」
「……似合ってます」
小さな声。聞こえるか聞こえないか。
耳が、赤い。
セリアが、ミレイユをまじまじと見た。
「あなたは?」
「……ミレイユ。魔術師です」
「ミレイユさん! もしかして、森の奥でリアン様と一緒にいた——」
「……はい」
「素晴らしい! 当事者から直接お話を聞けるなんて!」
セリアが、ミレイユに詰め寄る。
「あの日、リアン様はどのように戦ったのですか!? 油壺を倒したのは計算ですか!? 爆発の威力を制御したのは——」
「セリアさん」
ミレイユが、静かに言った。
琥珀色の瞳が、真っ直ぐにセリアを見る。
「リアンさんは……私を助けるために、ボロボロの体で来てくれました」
セリアが、息を呑む。
「それだけで……十分です」
ミレイユの声は、小さいが——揺るぎがなかった。
セリアの翡翠色の瞳が、潤んだ。
「……美しい」
「え?」
「なんて美しい証言……! これは第二の歌にしなければ……!」
「歌にしないでください!」
ミレイユが、珍しく声を荒げた。
でも、遅かった。セリアの目は、既に「新作の構想」で輝いていた。
リアンの周りに、三人の少女が集まっている。
アリシア——凛とした表情で、腕を組んでいる。紺碧の瞳が、リアンを見守っている。
ミレイユ——眼鏡を押し上げながら、リアンの隣で小さくなっている。時々、ちらりとリアンの横顔を見る。
セリア——リュートを抱えて、キラキラ輝いている。リアンの顔を覗き込もうとしている。
そして——ノエルが、その光景を見て、そろばんを弾いた。
「リアン様のモテ度を数値化すると——」
「するな」
冒険者たちが、遠くからその光景を見ている。
「英雄、モテるな……」
「騎士に魔術師に吟遊詩人に商人の息子……」
「もう完全に伝説の勇者だろ」
「伝説の勇者には、ハーレムがつきものだからな」
リアンは、テーブルに額をつけた。
(助けて……誰か助けて……)
でも、助けは来ない。
英雄を助ける者は、いない。
なぜなら——英雄は、助けられる側ではないから。
――――――――
夕方。
ギルドの喧騒が、少しだけ落ち着いた頃。
アリシアは騎士団の用事で去り、ミレイユは魔術師協会の研究に戻った。
ノエルも、商人ギルドへの報告があると言って帰っていった。
残ったのは、リアンとセリア。
そして——セリアは、帰る気配がない。
「セリア、もう遅いから——」
「セリアでいいですよ。呼び捨てで」
「……セリアさん、もう遅いから——」
「『さん』も要りません」
「……セリア」
「はい!」
嬉しそうな笑顔。
リアンは、ため息をついた。
カウンターの端で、二人並んで座っている。
セリアは、リュートを膝に抱えている。
翡翠色の瞳が、リアンの横顔をじっと見つめている。
「リアン様」
「……なに」
「質問してもいいですか?」
「歌にしないなら」
「善処します」
「それ、するってことだろ……」
セリアは、にっこり笑って——真剣な顔になった。
「あの日。森の奥で。怖くなかったですか?」
リアンは、少し驚いた。
今まで聞かれた質問は、「どうやって戦った?」「作戦は?」「なぜ一人で?」——そんなものばかりだった。
「怖くなかったか」と聞いたのは、セリアが初めてだった。
「……怖かったよ」
「え?」
「めちゃくちゃ怖かった。死ぬかと思った。何回も」
セリアの目が、大きくなった。
「洞窟の中、真っ暗で。盗賊の声が聞こえて。見つかったら殺されるって思って」
「……」
「樽の中に隠れた時、ガタガタ震えてた。情けないくらい」
リアンは、エールを一口飲んだ。
「でも——ミレイユさんが捕まってるのに、逃げるわけにはいかなくて」
「……」
「友達だから。それだけ」
セリアは、黙っていた。
翡翠色の瞳が、揺れている。
リアンの横顔を、じっと見つめている。
(この人は……)
セリアの中で、何かが変わった。
英雄譚の主人公。
そう思っていた。
でも——
怖かったと、素直に言える人。
震えていたと、認められる人。
格好つけない。嘘をつかない。
ただ——友達を助けたかっただけ。
それが——
セリアの胸を、強く打った。
(物語の主人公は、怖がらない。勇敢で、強くて、完璧で)
(でも、この人は違う。怖がりで、弱くて、不完全で)
(なのに——こんなにも美しい)
リュートの弦に、指が触れた。
無意識に。
小さな音が、漏れる。
新しいメロディ。
今までの英雄譚とは違う。もっと——静かで、温かい旋律。
「リアン様」
「ん?」
セリアは、リアンの目を見た。
正面から。
翡翠色の瞳が、まっすぐに。
「あなたは——」
言葉を、選んでいる。
「——私の物語の、主人公です」
リアンが、眉をひそめた。
「だから、違うって——」
「違います。今までのは、撤回します」
「え?」
「今までの歌は、英雄譚でした。勇敢な英雄が、敵を倒す物語」
セリアは、首を横に振った。
「でも、あなたの物語はそうじゃない」
「……」
「怖くても立ち向かう。弱くても諦めない。完璧じゃなくても、大切な人のために歩き続ける」
セリアの声が、震えた。
「それは——英雄譚よりも、ずっと美しい物語です」
リアンは、言葉を失った。
何を言えばいいのか、わからない。
セリアは、リュートを抱きしめた。
頬が、赤い。
でも、目は逸らさない。
「私は、あなたの物語を歌いたい。あなたの隣で、最後まで見届けたい」
「……それは、ちょっと——」
「だから、お願いです」
セリアが、少しだけ身を乗り出した。
「私を——あなたの吟遊詩人にしてください」
リアンは、固まった。
返事ができない。
断りたい。心から断りたい。
歌を作られるのは、勘弁してほしい。
でも——
セリアの翡翠色の瞳が、あまりにも真剣で。
あまりにも、真っ直ぐで。
「…………考えとく」
それが、リアンにできる精一杯の返事だった。
セリアの顔が——ぱあっと輝いた。
「はい! 待ってます!」
(考えとくって言っただけなんだけど……)
リアンは、深いため息をついた。
エールの残りを、一気に飲み干した。
苦い。
でも——
(悪い子じゃないんだよな……)
ほんの少しだけ、そう思ってしまった自分がいた。
――――――――
翌日。
リアンは、異変に気づいた。
宿を出た瞬間、パン屋のおばちゃんが声をかけてきた。
「あら、リアンくん! 聞いたわよ、森の英雄の歌!」
「……え?」
「昨日、ギルドで吟遊詩人が歌ったんでしょ? うちの常連さんが言ってたわ」
パン屋のおばちゃんが知っている。
ギルドに出入りしない、一般市民が。
「……はは」
乾いた笑い。
職人街区を歩く。
肉屋のおじさんが、「おう英雄!」と手を振る。
花屋の娘が、頬を赤らめて目を逸らす。
道端で遊んでいた子供たちが、「あ! 森の英雄だ!」と指さす。
——昨日の今日で、もう広まっている。
リアンは、フードを深く被った。
(セリアの歌……そんなに影響力あるのか……)
あった。
吟遊詩人の歌は、この世界における「メディア」だ。
活版印刷がない時代、情報を広めるのは口伝えと歌。
そして、セリアの歌唱力は群を抜いていた。
一度聞いたら忘れられない旋律。心に残る歌詞。
しかも、セリアはギルドで三回も歌った。聴いた冒険者や商人が、それぞれの家族や知人に話す。酒場で口ずさむ。
一日で——リュミエルの半分の住民が、「森の英雄」の歌を知ることになった。
冒険者ギルドに向かう道すがら、すれ違う人々の視線が痛い。
以前は、誰も気にしなかった。
Fランクの冴えない冒険者なんて、道端の石ころと同じだった。
それが——
今は、全員がリアンを見ている。
しかも、新しい服のせいで、以前とは見た目が違う。
白いチュニック。紺のマント。
傷跡の残る顔。
歌で聞いた「英雄」の姿と——一致する。
「やっぱあの服、まずかったな……」
独り言を呟いて、ギルドに入る。
今日も、歓声で迎えられた。
「おう、英雄! 今日は何の依頼だ!?」
「普通の依頼を、普通にやりたいんですけど……」
「またまた謙虚だな!」
カウンターに辿り着く。
トムが、苦笑いしている。
「大変だな、お前」
「他人事みたいに言うな……」
「他人事だもん」
「……お前、友達だよな?」
「友達だよ。だから楽しんでる」
トムが、依頼書の束を差し出す。
「はい。今日の依頼。Fランク向けの……あ、いや」
トムが、依頼書を引っ込めた。
「ギルドマスターから伝言。『リアン・フォルテの昇格審査を行う。それまで、Cランク以上の依頼への同行を許可する』だと」
「Cランク……!?」
「飛び級だな。前例がないらしい」
リアンの顔が、青ざめた。
「無理だって。俺、Fランクの依頼でも死にかけてるのに——」
「ギルドマスターの判断だ。騎士団からの推薦もある」
「推薦って……アリシアさんか……」
リアンは、頭を抱えた。
もう、何もかもが手に負えない。
その時——
「おはようございます、リアン様!」
背後から、元気な声。
振り向くと、セリアがリュートを背負って立っていた。
朝日を浴びた茶髪が、輝いている。
翡翠色の瞳が、キラキラしている。
朝から、テンションが高い。
「……なんで朝からいるの」
「朝5時に起きて、発声練習をして、朝食を済ませて、ギルドに来ました」
「早い」
「早起きは基本です! 英雄の吟遊詩人として、遅刻は許されません」
「まだ吟遊詩人になるって決まってないんだけど——」
「『考えとく』は、60%の確率で『はい』です。商人ギルドの統計です」
「なんで知ってるの」
「リュミエルの吟遊詩人は、すべての情報を知っています!」
セリアは、胸を張った。
得意げな顔。
リアンは、ため息をついた。
でも——
少しだけ、口元が緩んでいた。
――――――――
夕方。
ギルドの酒場。
リアンは、セリアに「新曲を聴いてください!」と言われて逃げ出し、裏口から出て、路地裏を走っていた。
肋骨が痛い。
足首が痛い。
でも、歌から逃げるためなら、走れる。
「リアン様ーーー! 待ってくださーーい!」
後ろから、セリアの声。
近い。
「新曲は『英雄と三人の乙女』です! 第一章は完成しています!」
「全力で拒否する!」
角を曲がる。
そこに——
「あ」
アリシアが、立っていた。
「リアン? どうしたの、そんなに慌てて——」
「アリシアさん、かくまって!」
「え?」
「リアン様ーーーー!!」
セリアの声が、迫ってくる。
リアンは、アリシアの後ろに隠れた。
アリシアの背中に、リアンの手が触れる。
白いブラウス越しに伝わる体温。
アリシアの耳が、赤くなった。
「ちょ、リアン……!」
「し、静かに……頼むから……」
セリアが、角を曲がってきた。
アリシアを見つけて、足を止める。
「あ、アリシアさん。リアン様を見ませんでしたか?」
アリシアは、一瞬迷って——
「見てないわ」
嘘をついた。
騎士が、嘘をついた。
背中に、リアンの手の温もりを感じながら。
「そうですか……残念」
セリアが、きょろきょろと辺りを見回す。
「新曲を披露したかったのですが……」
「……新曲?」
「はい! 『英雄と三人の乙女』。リアン様とアリシアさんとミレイユさんと私の物語です!」
アリシアの頬が、かすかに赤くなった。
「私も……入ってるの……?」
「もちろんです! アリシアさんは第一章の重要人物です!『白銀の騎士、駆けつける英雄の元へ』という場面が——」
「聞かない! 聞きたくない!」
リアンが、アリシアの背中から叫んだ。
セリアの目が、輝いた。
「あ、リアン様、そこにいたんですね」
「……」
バレた。
アリシアが、顔を赤くしながら——小さく笑った。
「隠れるのは、下手ね」
「……すみません」
三人が、路地裏に立っている。
夕陽が、建物の隙間から差し込んでいる。
オレンジ色の光が、三人を照らす。
「リアン様、ここで新曲を——」
「却下」
「アリシアさんもご一緒に——」
「遠慮するわ」
セリアが、しょんぼりする。
翡翠色の瞳が、うるうるしている。
子犬のような目。
「……今度、ね」
アリシアが、折れた。
「やった!」
「アリシアさん……」
リアンが、恨めしそうにアリシアを見た。
アリシアは、目を逸らした。
頬が赤い。
(あの顔で見ないでほしい……)
その時——
「あの……」
小さな声。
路地裏の角から、藤色の髪が覗いている。
ミレイユ。
魔術師協会の帰りだろう。ショルダーバッグを提げ、魔導書を胸に抱いている。
琥珀色の瞳が、三人を見ている。
「……通りかかっただけです」
「ミレイユさん!」
リアンが、手を振った。
「一緒に帰ろうよ」
ミレイユの目が、わずかに揺れた。
アリシアとセリアが、リアンの隣にいる。
自分は——離れた場所にいる。
入っていいのか、わからない。
でも——
リアンが、手を振っている。
いつもの、気さくな笑顔。
「……はい」
小さく頷いて、三人の元へ歩いていく。
――――――――
夜。
リアンは、ベッドに倒れ込んだ。
全身が疲れている。
体の傷はまだ治りきっていないのに、精神的な疲労が上乗せされている。
今日一日で、何が起きた?
英雄として迎えられた。
ノエルに高級な服を押し付けられた。
セリアに歌を作られた。
アリシアとミレイユとセリアに囲まれた。
Cランクへの昇格審査が決まった。
そして——街中の人が、リアンの名前を知っている。
「……やばい」
天井を見上げる。
手帳を開く。
血で汚れたページをめくって、新しいページに書く。
震える手で。
『今日の反省:全部やばい。歌が広まった。服も変わった。もう一般市民にも知られてる。Cランク昇格とか無理。死ぬ』
ペンを止める。
少し考えて、書き足す。
『でも、みんな優しかった。ノエルもセリアも、悪い子じゃない。アリシアさんとミレイユさんも来てくれた』
また考えて。
『なんとかなる……のか……?』
手帳を閉じる。
「まあ……なんとかなるっしょ」
いつもの口癖。
でも、今日は——あんまり信じられなかった。
目を閉じる。
明日も、大変な一日になる。
確実に。
でも——
(まあ、みんながいるし……)
ほんの少しだけ。
そう思える自分が、いた。
――――――――
その頃——アリシアは、窓辺に立っていた。
プラチナブロンドの髪を下ろしている。月明かりに照らされて、銀色に輝く。
思い出すのは——路地裏。
リアンが、自分の背中に隠れた瞬間。
(あの人は……私に頼ってくれた)
それだけで、胸が熱い。
でも——
同時に、思い出す。
「リアン様は私の英雄です」
その言葉が——胸に刺さる。
自分も、同じことを思っている。
でも、口に出せない。
騎士だから。副長だから。立場があるから。
(私は……あの子のようには、なれない)
窓の外を見る。
月が、静かに輝いている。
でも——リアンが自分の背中に隠れた時。
「かくまって」と言った時。
彼は——セリアではなく、アリシアを頼った。
それが——
ほんの少しだけ。
嬉しかった。
――――――――
ミレイユは、机に向かっていた。
魔導書を開いている。
でも——読んでいない。
ペンが、ノートの上で止まっている。
今日の出来事を整理しようとして、ペンが止まった。
——リアンが「一緒に帰ろうよ」と言った。それだけ。
ペンの先が、ノートの上で揺れる。
(……何してるんだろう、私)
顔が熱い。
眼鏡を外す。
ぼやけた視界の中、その言葉だけが鮮明なままだった。
ペンを置いて、小さく書き足す。
『嬉しかった』
両手で顔を覆う。
(リアンさんは……誰にでも優しい。私にだけ特別なわけじゃない)
わかっている。
理論的に、わかっている。
でも——
(それでも……嬉しかった)
感情は、理論では割り切れない。
ミレイユは、それを——ようやく受け入れ始めていた。
――――――――
セリアは、ベッドの上に座っていた。
リュートを膝に抱いて、弦を爪弾いている。
小さな旋律。
今日、ギルドで歌った「森の英雄」ではない。
もっと——静かな曲。
リアンが語った言葉が、耳に残っている。
「怖かったよ。めちゃくちゃ怖かった」
「でも——友達だから」
セリアは、リュートを抱きしめた。
胸が、きゅっと締め付けられる。
(私は今まで、たくさんの英雄譚を歌ってきた。でも——こんなに胸を打たれたのは、初めて)
怖いと言える強さ。
弱さを認められる勇気。
完璧じゃないのに、美しい物語。
(これが……本物なんだ)
セリアの翡翠色の瞳が、潤んでいる。
リュートの弦を、そっと鳴らす。
チャラン。
新しい旋律が、生まれる。
セリアは、小さく笑った。
「リアン様」
誰もいない部屋で、その名前を呼ぶ。
「あなたの物語は、まだ始まったばかり」
(お父様が聞いたら、呆れるでしょうね)
ハーモニア伯爵家の令嬢が、安宿のベッドで、一人の冒険者のことを想っている。
滑稽だと思う。
でも——
(これが、私の選んだ物語)
セリアは、目を閉じた。
頬に、微かな笑みを浮かべて。
(私も——あなたの友達に、なりたいです)
(いつか——それ以上に)
第5話、お読みいただきありがとうございます。
今回からいよいよセリア・ハーモニアが本格登場です。
吟遊詩人という職業は、この世界では「噂の加速装置」として最も厄介な存在。リアンの偶然の結果を「英雄譚の定番パターン」として解釈し、それを歌にして街中に広めてしまいます。騎士団の公式記録、魔術師協会の論文に続いて、吟遊詩人の歌という三本目の柱が立ちました。もう止められません。
「怖くなかったですか?」と聞くシーン、セリアというキャラを書いていて一番気持ちよかった場面です。英雄譚の主人公像を信じていた彼女が、リアンの「怖かった」という一言で揺らぐ。完璧じゃないからこそ本物だ、と気づく瞬間です。
ノエルが「0.2%しか恩返しできていない」をそろばんで計算するあたりは、書いていて笑ってしまいました。リアンの悲劇は続きます。
そして三人のエピローグ——アリシアの「彼は頼ってくれた」、ミレイユの「嬉しかった」、セリアの「いつか、それ以上に」。それぞれが同じ夜に、それぞれの想いを抱えています。リアンは何も知らないまま「まあなんとかなるっしょ」と寝ています。
次の第6話「三人の視線」では、三人のヒロインが同時にリアンを巡って……動き始めます。
引き続きお付き合いいただければ幸いです。




