第4話 森の奥で
洞窟の冷たい空気が、ミレイユの肌を刺す。
露出した顔、首筋、手——冷気が絶えず侵入し、体温を奪っていく。
ローブ越しでも、背中に貼りついた壁から、水滴が浸み込んでくる。
一五二センチの小さな体を、粗末な檻が閉じ込めていた。錆びた鉄格子。床に敷かれた腐った藁。壁から滲む湿気。
臭い。
カビの匂い。腐敗した藁の匂い。鉄の錆の匂い。
そして——人の匂い。汗と土と血の混ざった匂い。
ミレイユは膝を抱え、檻の隅で小さく丸まっていた。
床の藁が、湿っている。冷たい。ぞっとする感触が、太ももを通して伝わってくる。
藤色の髪が乱れ、顔に張り付いている。銀縁の丸眼鏡は、片方のレンズに亀裂が入り、もう片方は涙で曇っていた。
首筋の傷は、まだ血が滲んでいる。ローブの白い襟が、赤く染まっていた。
ぼんやりと、檻の外を見つめる。
松明の明かりが、壁に影を落としている。盗賊たちの影。動いている。笑っている。
(リアンさんは…どうなったんだろう…)
瞼を閉じると、あの光景が蘇る。
血まみれで地面に倒れていたリアン。腫れ上がった顔。動かない体。
それでも——伸ばされた手。
震える指先。爪が剥がれて血が滲んでいた。それでも、こちらへ向かって、必死に伸ばされていた手。
でも、届かなかった。
三メートル。五メートル。十メートル。
広がっていく距離。
そして——木々の向こうに消えた、リアンの姿。
琥珀色の瞳から、また涙が溢れる。
眼鏡を外す。視界がぼやける。でも、外さないと、涙で何も見えない。
(私のせいだ…)
手が、震える。
(私が弱いから…私がいたから…リアンさんが…)
盗賊たちの声が、聞こえる。
「あいつ、死んだかな」
ミレイユの心臓が、止まりそうになる。
「あんだけボコったんだ。無理だろ」
呼吸が、できない。
「でも念のため、見張りを立てとくか」
「ああ。もし来たら、今度こそトドメだ」
笑い声。
ミレイユの胸が、ぎゅっと締め付けられる。
(死んだ…? リアンさんが…?)
視界が霞む。息が吸えない。
(嘘…そんな…)
でも——
心の奥底で、小さな声がする。
(いや…リアンさんは…きっと…)
震える手で、眼鏡をかけ直す。
亀裂の入ったレンズ越しに、ぼんやりと世界が見える。
(あの人は…諦めない人だ…)
記憶が蘇る。
二週間前、命を救われた時のこと。
魔術師協会から出た森道で魔獣に遭遇。実戦経験が少なく、詠唱を噛んで失敗した。絶体絶命だった。
そこに、リアンが通りかかった。
魔獣を見て「うわっ!」と叫びながら横に逃げる。魔獣がリアンの声に反応して、そちらを向く。
その隙に、詠唱をやり直せた。魔法が命中し、魔獣が倒れた。
リアンは「囮になったんじゃない。怖くて逃げただけ」と言ったが——
ミレイユには、それが「謙遜」に聞こえた。
その日も、一人で机に向かっていた。魔法陣が解けない。何度やっても、どこかが違う。
うまくいかない。
いつも、そう。
才能があると言われる。でも、努力の仕方がわからない。誰も教えてくれない。
孤独だった。
そんな時、声をかけてくれたのが——リアンだった。
「あの、すみません。この本、ここに置いてありましたっけ?」
間違えて声をかけられただけ。
でも、その後。リアンは、泣きそうな顔をしている自分に気づいて。
「あ、大丈夫っすか? なんか、困ってます?」
あっさりと。気さくに。
ミレイユは答えた。
「魔法陣が…解けなくて…」
「へえ。魔術師さんなんすね。すげえ」
「でも…失敗ばかりで…」
「失敗したってことは、そこまで進んだってことっしょ」
リアンは、当たり前のように言った。
「俺なんて、魔法全然ダメだから、そこまで行けないし」
「……え?」
「失敗できるって、すごいと思うけどな」
その言葉に、救われた。
それから、時々、図書館で会うようになった。
リアンは、いつも適当な本を手に取って、読んでいた。内容を理解しているかは怪しいが、楽しそうだった。
話しかけてくれた。
「ミレイユさん、今日も研究っすか?」
「はい…」
「頑張ってるっすね」
そんな、他愛もない会話。
でも、それが——嬉しかった。
孤児院では、誰も話しかけてくれなかった。
魔術師協会でも、誰も友達になってくれなかった。
でも、リアンは——違った。
分け隔てなく。あっさりと。当たり前のように、接してくれた。
そして、昨日。
森で。盗賊に囲まれて。
リアンは言った。
「友達を見捨てることだけは、しない」
その言葉が、今も胸に響いている。
(友達…)
ミレイユは、小さく息を吸った。
震える拳を、ぎゅっと握りしめる。
(諦めちゃダメだ…)
琥珀色の瞳に、小さな光が戻る。
(リアンさんは…諦めない人だ…だから…私も…)
縛られた手首を見る。
固く結ばれたロープ。でも——
(魔法なら…)
ショルダーバッグは奪われた。魔導書もない。
でも、詠唱は覚えている。
初級の火属性魔法。火点。
(やってみる…)
震える手を、前に伸ばす。
指先で、空中に魔法陣を描く。
小さな円。六つの頂点。中心に炎の紋章。
震える。集中できない。
でも——
(リアンさんが…来てくれるかもしれない…だから…私も…戦わなきゃ…)
魔法陣が、ぼんやりと光る。
小さな炎。
ミレイユの指先から、オレンジ色の光が生まれた。
――――――――
リアン・フォルテは、血まみれの顔で立ち上がった。
体が悲鳴を上げる。右脇の肋骨が折れている。左目はほとんど開かない。左足首を捻挫して、一歩ごとに激痛が走る。
それでも——前に出す。
「……っ」
折れた肋骨が、呼吸のたびに肺を突く。心臓の鼓動に合わせて、顔の腫れがズキン、ズキンと脈打つ。
でも、止まれない。
「待ってろ…ミレイユさん…」
誰に言うでもなく、呟く。
盗賊たちが消えた方向へ、よろよろと歩き出す。
くすんだ緑のチュニックは、もう原形を留めていない。血と泥にまみれ、あちこちが破れている。
灰色のマントは、どこかに落としてしまった。
腰のベルトには、短剣だけ。手帳は——落とした。
森の木々が視界を遮る。
陽光が木漏れ日となって差し込むが、その明るさが逆に目に痛い。
(どこだ…足跡…血痕…何か…)
地面を見る。
落ち葉。土。枝。
その中に——赤い染み。
血だ。
ミレイユの首筋から滲んだ血。
リアンの胸が、ぎゅっと締め付けられる。
(俺が…守れなかったから…)
拳を握る。爪が掌に食い込む。痛いが、構わない。
その痛みすら、罰のように感じる。
(くそ…)
自分を責めながら、それでも前に進む。
血痕を辿る。
三歩。五歩。十歩。
そして——
足を滑らせた。
「うわっ…!」
バランスを崩す。
前のめりに倒れる。
顔から地面に突っ込む。
ドサッ。
落ち葉が舞い上がる。土の匂い。草の匂い。
そして——痛み。
顔を打った。腫れている頬を直撃。激痛が走る。
「っ…痛ぁ…」
涙が出そうになる。というか、出ている。
情けない。
こんなところで転んで。
(ミレイユさんを助けに行かなきゃいけないのに…)
顔を上げようとして——
目の前に、何かが見えた。
足跡。
いや、複数の足跡。
大きな靴跡。三人分。
そして——引きずられた跡。
小さな足。ローブの裾が地面を擦った跡。
(これ…盗賊の足跡…?)
リアンは、ゆっくりと体を起こす。
転ばなければ、気づかなかった。
この足跡は、茂みの陰に隠れていた。普通に歩いていたら、見逃していた。
でも、転んで、顔を地面に近づけたから——見えた。
(ありがとう…足…?)
自分の足に感謝する。変な感じだが、本心だった。
立ち上がる。
足首が痛む。でも、我慢する。
足跡を辿る。
森の奥へ。
木々が密集してくる。陽光が遮られ、薄暗くなる。
(怖い…)
正直な気持ち。
森の奥は、怖い。魔物が出るかもしれない。盗賊がまだいるかもしれない。
でも——
(それでも…行かなきゃ…)
ミレイユの顔が浮かぶ。
恥ずかしそうに笑う顔。
興奮すると早口になって、気づいて頬を赤らめる姿。
研究の話をする時の、輝く琥珀色の瞳。
眼鏡を指で押し上げる仕草。
(友達、だから)
自分が言った言葉。
あの時、確かにそう言った。
そして——それは、本心だった。
ミレイユは、友達。
図書館で時々話す。他愛もない会話。でも、楽しかった。
彼女は、自分の話をちゃんと聞いてくれた。
家族の話。妹のこと。実家の雑貨屋のこと。
誰も興味を持たないような話を、ミレイユは真剣に聞いてくれた。
そして、自分の研究の話もしてくれた。
難しくて、半分もわからなかったけど。
でも、嬉しそうに話す彼女を見ているのが、好きだった。
(だから…見捨てられない)
一歩、また一歩。
痛みを堪えて、前に進む。
――――――――
王都。騎士団詰所。
白い石造りの建物の三階。副長執務室。
|アリシア・シルヴァレスト《ありしあ・しるう゛ぁれすと》は、窓際の机で報告書を読んでいた。
プラチナブロンドの長い髪が、窓から差し込む午後の光を受けて、銀色に輝いている。ハーフアップにまとめられた髪は、背中まで流れている。
深い紺碧の瞳が、書類の文字を追う。
白銀の甲冑は、今は脱いでいる。白いブラウスに紺のベスト。動きやすい服装。
机の上には、剣——家伝の長剣「曙光」。いつでも出動できるよう、常に手の届く場所に置いている。
コンコン、とノックの音。
「失礼します」
扉が開き、部下の騎士が入ってくる。
若い男性騎士。顔色が悪い。息が切れている。
「副長、緊急報告です」
アリシアが顔を上げる。
紺碧の瞳が、鋭く騎士を見る。
「何事?」
「森の北部で、盗賊残党と冒険者の交戦が確認されました」
アリシアの表情が、一瞬で変わる。
報告書を机に置く。背筋が伸びる。
「盗賊残党…あの、三日前に壊滅させた組織の…?」
「はい。生き残りが数名、森に潜伏していたようです」
「冒険者は?」
「名前は…リアン・フォルテ。Fランク冒険者です」
アリシアの心臓が、一瞬止まった。
「…………リアン?」
小さく、その名前を呟く。
騎士が続ける。
「目撃情報によれば、重傷を負っているとのことです」
アリシアの手が、机の端を握る。
白い手が、震えている。
「それと…同行していた魔術師の女性が、拉致されたと」
「…………」
アリシアは、言葉を失った。
脳裏に浮かぶのは、あの日の光景。
三日前。盗賊団との戦い。
リアンの低姿勢。謝る姿。功績を譲る姿。
あの時、彼は——盗賊団を壊滅させる作戦を、完璧に実行した。
本人は「偶然」と言っていたが。
でも、アリシアは知っている。
あれは、偶然ではない。計算された作戦だった。
そして——
(あの人は…いつも自分を犠牲にする…)
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
アリシアは、深く息を吸った。
そして——
立ち上がる。
椅子が、床を擦る音。
「全隊、出動準備。五分以内に集合」
騎士としての顔。
凛とした声。迷いがない。
「目標、森の北部。盗賊残党の殲滅と、人質の救出」
部下の騎士が、姿勢を正す。
「了解しました!」
踵を返し、走り去る。
扉が閉まる。
アリシアは、一人になった執務室で、窓の外を見た。
森の方角。
北の空に、鳥が飛んでいる。
(待っていて…リアン…)
剣を手に取る。「曙光」。
刀身が、光を反射する。
腰に差す。
白銀の甲冑を身につける。胸当て。肩当て。手甲。脛当て。
一つ一つ、丁寧に。でも、速く。
最後に、深紅のマントを肩に留める。
シルヴァレスト家の紋章——銀翼の獅子——が、マントの胸元で輝く。
アリシアは、鏡を見た。
そこに映るのは、騎士。
凛々しい。強い。頼りになる。
でも——
その瞳の奥に、小さな不安がある。
(リアン…あなたは…また…無茶をしている…)
彼は、強い。
アリシアは、そう信じている。
でも——
その強さは、自分を犠牲にする強さだ。
他人のために、自分を危険に晒す。
それが——怖い。
(今度こそ…私が…あなたを守る…)
アリシアは、執務室を出た。
廊下を走る。
階段を駆け下りる。
中庭に、騎士たちが集まっている。
全員、完全武装。剣、槍、盾。
馬が用意されている。
「副長!」
騎士たちが、一斉に敬礼する。
アリシアは、馬に跨る。
白い馬。気高い目。
「出動する。目標は森の北部、盗賊残党のアジト」
騎士たちが、馬に跨る。
「人質が一名。魔術師の女性だ。無事に救出する」
全員が頷く。
「それと——」
アリシアは、言葉を区切る。
「冒険者リアン・フォルテが、重傷を負っている可能性がある」
騎士たちの間に、ざわめきが走る。
リアン・フォルテ——その名前は、騎士団の中で既に有名だった。
三日前の功労者。盗賊団を壊滅させた英雄。
「彼を発見次第、保護する。これは、最優先事項だ」
騎士たちが、再び敬礼する。
「了解しました!」
アリシアは、手綱を引く。
馬が嘶く。
「出発!」
騎士団が、門を出る。
蹄の音が、石畳に響く。
深紅のマントが、風になびく。
アリシアの瞳は、森の方角を見つめていた。
――――――――
リアンは、崖の前で立ち尽くしていた。
足跡は、ここで途切れていた。
いや、途切れているのではない。
上へ——崖の上へと続いている。
見上げる。
高さは、十メートル以上。ほぼ垂直の岩壁。
所々に、木の根や岩の突起がある。登れないことはない、かもしれない。
でも——
(無理だ)
リアンは、自分の体を見下ろす。
血まみれ。傷だらけ。満身創痍。
この状態で、崖を登る?
(死ぬ)
即座に結論が出た。
では、どうする?
(迂回路…ないかな…)
周囲を見回す。
崖は、左右に伸びている。
左に行けば…わからない。
右に行けば…わからない。
どちらに行けばいいのか、わからない。
(とりあえず…左?)
なんとなく、左に向かって歩き出す。
崖に沿って。
木々が密集している。足元が悪い。
数歩進んで——
足を滑らせた。
「うわああああああ!」
バランスを崩す。
崖の端。
落ちる。
下へ。
崖の下へ。
視界が回転する。
空。木。崖。空。木。崖。
枝が顔を引っ掻く——頬に走る鋭い痛み。温かい液体が流れる。
体が木の幹に打ち付けられる——背中に衝撃。折れた肋骨が悲鳴を上げる。息が止まる。
腕が何かに引っかかる——布が裂ける音。皮膚が擦れる感覚。生温かい。
そして——
ドサッ。
何かに落ちた。
柔らかい。
草の匂い。土の匂い。湿った匂い。
(……草…?)
リアンは、ゆっくりと目を開けた。
まだ生きている。
信じられないが、生きている。
周囲を見回す。
ここは——崖下の窪地。
厚い草が生えている。苔も生えている。湿っている。
その草が、クッションになった。
(助かった…?)
立ち上がろうとして——
全身が悲鳴を上げる。
打撲が増えた。確実に。
でも、骨は折れていない…と思う。
ゆっくりと立ち上がる。
そして——
目の前に、洞窟の入口を見つけた。
いや、正確には——裏口?
人一人がやっと通れる程度の、小さな穴。
高さは、リアンの肩くらい。幅は、体を横にすれば通れる程度。
暗い。
中から、かすかに声が聞こえる。
人の声。
(ここ…アジトの裏口…?)
リアンは、穴を覗き込む。
暗い。何も見えない。
でも、確かに声が聞こえる。
(偶然…?)
崖を登ろうとして、迂回しようとして、足を滑らせて、落ちて、そして——裏口を発見した。
偶然だ。
でも、この偶然がなければ、崖を登ろうとして、途中で力尽きていただろう。
(運が良かった…のか…?)
よくわからない。
でも、前に進む理由はできた。
リアンは、穴に入った。
体を横にする。狭い。
壁が、体に触れる。冷たい。湿っている。
気持ち悪い。
でも、我慢する。
数メートル進むと、穴が広がった。
立てる高さ。
洞窟の内部。
暗い。
本当に、暗い。
松明の明かりが、遠くに見える。でも、ここまでは届かない。
リアンは、壁に手を当てながら、慎重に進む。
足音を立てないよう。
呼吸を静かに。
心臓の音がうるさい。
怖い。
正直に言えば、ものすごく怖い。
洞窟。暗い。盗賊がいる。
逃げたい。
でも——
(ミレイユさん…)
その名前を心の中で呟くだけで、足が前に出る。
一歩。また一歩。
暗闇の中を、進む。
――――――――
ミレイユの手が、淡いオレンジ色に光り始めた。
魔法陣。火点。
初級の火属性魔法。炎を生み出す、最も基本的な魔法。
でも——
魔導書なしで、この魔法を使うのは、ミレイユにとって大きな挑戦だった。
(お願い…成功して…)
詠唱を心の中で繰り返す。
「炎よ、我が指先に宿れ」
古代語。
魔術師協会で習った。何度も練習した。
でも、いつも魔導書を見ながらだった。
魔導書なしで成功させたことは——一度もない。
震える手。
集中できない。
檻の外で、盗賊たちの声がする。
「腹減ったな」
「飯はまだか」
「あと少し待て」
その声が、集中を妨げる。
でも——
(諦めない)
瞼を閉じる。
リアンの顔が浮かぶ。
「友達、だから」
あの言葉。
あの、真っ直ぐな灰色の目。
震える唇から出た、でも確かな声。
(私は…もう逃げない…)
魔法陣が、完成する。
小さな炎が、ミレイユの指先から生まれた。
オレンジ色の光。温かい。
ミレイユは、目を開けた。
琥珀色の瞳に、炎が映る。
「…できた…」
小さく呟く。
できた。
魔導書なしで、魔法を発動できた。
胸が、熱くなる。
(私…できる…)
炎を、縄に近づける。
ロープが、じりじりと焼ける。
焦げる匂い。煙。
でも、盗賊たちは気づかない。
彼らは、離れた場所で食事の準備をしている。
ミレイユは、息を殺して待つ。
炎が、縄を舐める。
一本の繊維が、プツンと切れる。
また一本。
また一本。
そして——
プツン。
縄が、完全に切れた。
手が自由になる。
ミレイユは、手首をさする。
赤く擦れている。痛い。
でも、自由だ。
眼鏡を、指で押し上げる。
亀裂の入ったレンズ。でも、まだ使える。
琥珀色の瞳に、光が戻る。
(次は…檻…)
檻の扉を見る。
鍵がかかっている。古い南京錠。錆びている。
魔法で壊せるか?
(やってみる)
ミレイユは、両手を前に伸ばす。
今度は、もっと大きな魔法。
炎槍——
中級の火属性魔法。
炎を槍の形に成形し、目標を貫く。
魔導書なしで、この魔法を使うのは——
(初めて…)
でも——
(リアンさんが…見ていてくれるなら…)
いや。
見ていてくれなくても。
リアンさんは、きっと来てくれる。
だから、自分も——彼を迎えに行かなきゃ。
ミレイユは、空中に魔法陣を描く。
大きな円。十二の頂点。中心に炎の槍。
震える。
汗が、額を伝う。
集中。
集中。
呼吸を整える。
心臓の鼓動を、静める。
そして——
「炎よ、槍となりて、敵を貫け」
古代語の詠唱。
魔法陣が、輝く。
オレンジ色の光が、洞窟を照らす。
そして——
炎の槍が、生まれた。
長さ、一メートル。
熱い。明るい。美しい。
ミレイユは、その槍を——檻の鍵に向けた。
「っ…!」
槍が、放たれる。
空気を切り裂く音。
そして——
ガシャン。
炎の槍が、南京錠を貫いた。
金属が溶ける。赤く光る。
そして——崩れ落ちる。
鍵が、壊れた。
檻の扉が、わずかに開く。
ミレイユは、立ち上がった。
一五二センチの小さな体。
大きすぎるローブは、裾を引きずっている。
藤色の髪は乱れ、眼鏡は割れている。
でも——
琥珀色の瞳は、強い光を宿していた。
その瞬間——
盗賊の声。
「今の音、何だ!?」
足音。
こちらに向かってくる。
ミレイユは、檻から出た。
震える足で、洞窟の奥へ走る。
走りながら、眼鏡がずれかかる。片手で押さえる。
割れたレンズ越しに、暗い通路が見える。
でも、止まれない。
――――――――
リアンは、洞窟を進んでいた。
壁に手を当てながら。
暗い。本当に暗い。
松明の明かりが、遠くに見える。でも、こっちには来ない。
幸い。
(見つかるな…見つかるな…)
心の中で祈りながら、進む。
角を曲がると——
明かりが見えた。
松明。
そして、盗賊の声。
「おい、見張り交代だ」
「もう? 面倒くせえな」
リアンは、慌てて近くの樽の後ろに隠れた。
古い酒樽。並んでいる。
息を殺す。
心臓がうるさい。
(見つかるな…頼む…見つかるな…)
盗賊の足音が近づく。
二人。
重い足音。武器の音。
リアンの体が、震える。
怖い。
本当に怖い。
見つかったら、殺される。
そう確信している。
盗賊たちが、樽の列の前を通り過ぎる。
リアンは、樽の隙間から覗く。
背中が見える。
遠ざかっていく。
ほっと息を吐く。
でも——
その時。
寄りかかっていた肩が、棚に当たった。
カタン。
小さな音。
でも、静かな洞窟では——響く。
リアンの顔が、真っ青になる。
(やばい…)
盗賊の足音が、止まる。
「今の音…」
「何だ?」
そして——戻ってくる。
足音が近づく。
「誰かいるのか!?」
リアンは、樽の中に飛び込んだ。
蓋が外れている樽。
中は空っぽ。
でも、狭い。息苦しい。
体を丸める。
膝を抱える。
息を止める。
隙間から、外を覗く。
盗賊たちが、周囲を調べている。
剣を抜いている。
警戒している。
「ネズミか?」
「わからん…気をつけろ」
「女が逃げたって話だ。もしかしたら…」
「いや、女はあっちの檻だ」
「念のため、確認してくる」
一人が、檻の方へ走っていく。
もう一人は、周囲を調べ続ける。
リアンは、樽の中で震えていた。
(見つかるな…お願い…見つかるな…)
汗が、額を伝う。
呼吸が荒い。でも、音を立てないよう、必死に我慢する。
盗賊が、樽に近づく。
リアンの心臓が、止まりそうになる。
(終わった…)
でも——
その時、遠くから声がした。
「おい! 女が逃げたぞ!」
「何!?」
盗賊が、そちらへ走っていく。
足音が遠ざかる。
リアンは、しばらく樽の中で動けなかった。
全身の力が抜ける。
(助かった…)
でも——
(女が逃げた…? ミレイユさん…?)
――――――――
その頃、ミレイユは別の通路を走っていた。
洞窟の奥へ。
盗賊の声が、後ろから聞こえる。
「待て!」
「逃がすな!」
足音。
追いかけてくる。
ミレイユは、必死に走る。
でも、足が遅い。
運動は苦手。体力もない。
すぐに息が切れる。
(リアンさん…どこ…)
洞窟の中を、必死に探す。
でも、暗い。広い。
わからない。
角を曲がる。
そこに——
樽の列。
そして——
一つの樽から、かすかに気配がする。
(誰か…?)
ミレイユは、足を止めた。
盗賊の声は、まだ遠い。
少しだけ、時間がある。
恐る恐る、樽に近づく。
樽の隙間を覗く。
暗い。
でも——
そこに、人がいる。
血まみれ。
くすんだ黒髪。
灰色の目。
ミレイユの息が、止まった。
「…………っ!」
声が出ない。
涙が溢れる。
リアンだ。
リアンがいる。
血まみれで、樽の中に丸まっている。
でも——生きている。
ミレイユは、小声で呼んだ。
「リアンさん…!」
リアンが、ゆっくりと顔を上げた。
腫れ上がった顔。片目しか開いていない。
でも——その灰色の目が、ミレイユを見る。
「…ミレイユ、さん…?」
掠れた声。
でも、確かにリアンの声。
二人の目が合う。
琥珀色と灰色。
ミレイユは、樽の蓋を開けた。
リアンが、よろよろと出てくる。
立ち上がる。ふらつく。
ミレイユが支える。
小さな体で、大きな体を支える。
不安定。
でも——温かい。
「無事…だったんですね…」
リアンの声が、震えている。
「よかった…本当に…」
ミレイユは、リアンの腕を掴んだ。
震える手。
でも、しっかりと。
「私も…無事です…あなたが来てくれたから…」
二人の距離が、近い。
二十センチの身長差。
ミレイユが見上げ、リアンが見下ろす。
琥珀色の瞳に、涙が光る。
灰色の目が、穏やかに細められる。
その時——
遠くから、盗賊の声。
「こっちだ!」
「見つけたぞ!」
足音。
近づいてくる。
「隠れないと…!」
ミレイユが、周囲を見回す。
樽。箱。岩の出っ張り。
そして——
横穴。
壁に、小さな横穴がある。
人が一人、なんとか入れる大きさ。
「あそこ…!」
ミレイユが、リアンの腕を引く。
二人は、横穴に駆け込んだ。
狭い。
暗い。
二人が入ると、もう動けない。
肩が触れ合う。
息遣いが聞こえる。
ミレイユは、リアンの腕を握りしめていた。
震えている。
リアンも、震えている。
盗賊の足音が、近づく。
樽の列を調べる音。
剣で樽を叩く音。
「見つからねえな…」
「さっき、こっちへ逃げたはずだが…」
「もっと奥か?」
足音が、さらに奥へ向かう。
遠ざかる。
そして——静寂。
ミレイユは、ほっと息を吐いた。
肩の力が抜ける。
横穴の中で、二人はしばらく動けなかった。
暗闇。
狭い空間。
でも——不思議と、落ち着く。
「…リアンさん」
ミレイユが、小声で呼ぶ。
「ん…?」
「本当に…来てくれたんですね」
リアンは、答えなかった。
ただ、小さく頷いた。
暗闇の中で、その動きがわずかに伝わる。
「友達、だから」
掠れた声。
でも、確かな声。
ミレイユの胸が、温かくなる。
「ありがとう…ございます…」
涙が、また溢れる。
でも、今度は——悲しい涙じゃない。
「でも…もう…無理しないでください…」
ミレイユの声が、震える。
「あなたは…もう…十分…」
リアンは、ゆっくりと首を横に振った。
「まだ…出口まで…行かないと…」
「でも…」
「大丈夫。なんとかなるっしょ」
いつもの口調。
いつもの、楽観的な口調。
でも——声は弱い。
ミレイユは、リアンの腕を強く握った。
「私が…支えます」
「…すまん」
「謝らないでください」
ミレイユの声に、いつもにない強さがあった。
「私が…守ります」
リアンは、驚いたように、ミレイユを見た。
暗闇の中、琥珀色の瞳が光っている。
いつもの臆病な少女じゃない。
強い光を宿した、戦士の目。
「……頼りにしてる」
リアンが、小さく笑った。
痛々しい笑顔。
でも——確かな笑顔。
ミレイユも、微笑んだ。
二人は、少しだけ、呼吸を整えた。
この小さな空間で。
束の間の、安らぎ。
そして——
「…行こう」
リアンが立ち上がろうとする。
ミレイユが支える。
二人は、横穴から出た。
「まだ、盗賊が…」
「ああ…」
リアンが歩き出そうとして、よろめく。
足が、もつれる。
ミレイユが、慌てて支える。
「私が…支えます…」
一五二センチの小さな体で、一七二センチのリアンを支える。
リアンの腕を、自分の肩に回す。
自分の腕を、リアンの腰に回す。
重い。
でも——
(私が…支えなきゃ…)
不安定ながらも、二人は歩き出した。
寄り添いながら。
洞窟の奥へ。
――――――――
二人は、洞窟を進んでいた。
ミレイユが、リアンを支えながら。
リアンが、ミレイユに体重を預けながら。
暗い通路。
松明の明かりが、時々見える。
でも、盗賊のいない方向へ。
「こっち…出口に繋がってるはず…」
リアンが、前を指す。
「どうして…わかるんですか…?」
「風…風が吹いてる…外から…」
ミレイユは、顔を上げる。
確かに、わずかな風を感じる。
リアンは、怖がりだ。
だから、逃げる時——出口を探すのが得意だ。
(さすが…リアンさん…)
ミレイユは、そう思った。
実際は、リアンは単に「風があるところなら外に繋がっているかも」という、ごく単純な考えだった。
二人は、風の吹いてくる方向へ進む。
その時——
前方から、声。
「探せ! 女が逃げたぞ!」
「くそっ…どこに隠れた!」
足音。
複数。
近づいてくる。
リアンとミレイユは、慌てて横道に逃げ込む。
左の通路。
そこは——
武器庫だった。
剣が壁に立てかけられている。
槍が並んでいる。
弓と矢。
そして——
壺。
大きな壺が、いくつも置かれている。
油の匂い。
(油…?)
ミレイユは、気づいた。
でも——
「隠れて…」
リアンが、ミレイユを棚の後ろに押し込む。
自分も隠れようとして——
足を滑らせた。
「っ…!」
バランスを崩す。
棚に手をつく。
体を支える。
でも——
棚が、揺れた。
軋む音。
そして——
油壺が、転がり落ちる。
ゴロゴロゴロ……
一つ。
二つ。
三つ。
ガシャン。
割れる。
油が、床に広がる。
滑る。
粘つく。
匂い。
リアンの顔が、青ざめる。
(やばい)
(やばい)
(やばい)
盗賊の足音。
近づく。
「この音…武器庫か!」
「誰かいるぞ!」
剣を抜く音。
ミレイユは、棚の後ろで震えていた。
リアンも、床に倒れたまま動けない。
盗賊が、入ってくる。
三人。
リーダー格の男。顔に傷がある。
そして、二人の部下。
「出てこい!」
剣を構える。
ミレイユは、小さく息を吸った。
そして——
決断した。
震える手を、前に伸ばす。
小さく、リアンに囁く。
「リアンさん、伏せて」
リアンは、反射的に伏せる。
顔を床につける。
ミレイユの手が、光る。
魔法陣——火点。
小さな炎。
オレンジ色の光。
その炎を——
ミレイユは、床の油に向けた。
炎が、油に触れる。
ボワッ。
炎が走る。
床一面。
燃える。
オレンジ色の光。
武器庫が照らされる。
「うわっ!」
盗賊たちが後ずさる。
でも——
炎は、止まらない。
壁を這う。
棚を舐める。
そして——
武器庫の奥にある、火薬の樽に到達した。
リアンの目が、見開かれる。
(あれ)
(火薬)
まずい。
まずい。
まずい!
「走って!」
手を掴む。
走る。
痛みは、どうでもいい。
死ぬ。
死ぬ。
死にたくない!
武器庫から飛び出す。
通路。
走る。
盗賊も逃げている。
そして——
ドォン!
爆発。
衝撃波。
揺れる。
吹き飛ばされる。
床に転がる。
リアンが、ミレイユを庇う。
煙。
熱風。
耳鳴り。
盗賊たちの悲鳴。
「うわああああ!」
「何が起きた!?」
「火事だ! 火事だ!」
混乱。
煙の中、リアンとミレイユは立ち上がる。
お互いを支え合いながら。
爆発の衝撃で、洞窟の壁に亀裂が入っている。
そこから——
光が差し込んだ。
外の光。
陽光。
「出口…!」
ミレイユが叫ぶ。
二人は、亀裂に向かって走った。
煙を避けながら。
崩れる岩を避けながら。
そして——
外へ。
森の中へ。
二人は、洞窟から飛び出した。
――――――――
アリシアは、騎士団を率いて森を駆けていた。
馬の蹄が、地面を叩く。
深紅のマントが、風になびく。
白銀の甲冑が、陽光を反射する。
その時——
ドォン。
爆発音が、森に響いた。
「爆発!?」
アリシアが叫ぶ。
前方。
崖の上から、煙が立ち上っている。
黒い煙。
そして——炎。
「あそこです!」
部下の騎士が、指さす。
「急げ!」
アリシアの声に、騎士団が加速する。
馬が、全速力で走る。
木々の間を駆け抜ける。
崖に近づく。
煙が濃くなる。
そして——
洞窟の亀裂から、二人の人影が出てくるのが見えた。
一人は、血まみれの青年。
黒髪。灰色の目。
もう一人は、小柄な魔術師。
藤色の髪。眼鏡。
青年が、魔術師を支えている。
魔術師が、青年を支えている。
寄り添うように。
お互いを支え合いながら。
アリシアの胸が、ぎゅっと締め付けられる。
(リアン…!)
「リアン…! ミレイユさん…!」
アリシアが、叫ぶ。
馬を止める。
飛び降りる。
走る。
二人が、こちらを見た。
リアンの顔が——ほっとした表情になる。
灰色の目が、わずかに細くなる。
それは、笑顔だった。
痛みと疲労で歪んだ顔での、精一杯の笑顔。
「アリシア、さん…」
掠れた声。
でも、確かにアリシアの名前を呼ぶ声。
「助かった…みんな、無事で…」
そして——
リアンの体が、ゆっくりと崩れ落ちた。
糸が切れた人形のように。
「リアンさん!」
ミレイユが、支えようとする。
でも、支えきれない。
小さな体では、無理だ。
アリシアが、駆け寄る。
リアンを抱きかかえる。
軽い。
痩せている。
そして——冷たい。
体温が、低い。震えている。
血が、白銀の甲冑を汚す。生温かい液体が、金属の隙間から手に伝わる。
鉄の匂い。濃い。
でも、構わない。
アリシアの手が、リアンの背中を支える。肋骨の感触。骨ばった背中。
呼吸が——浅い。
胸が小さく上下する。途切れそうな呼吸。
心臓の鼓動が、掌に伝わる。弱い。不規則。
でも——確かに、生きている。
「リアン…大丈夫…?」
リアンの灰色の目が、ぼんやりとアリシアを見る。
焦点が合っていない。
でも——わずかに、唇が動く。
「助かった…よかった…」
そして、意識を失った。
アリシアの腕の中で。
静かに。
穏やかに。
まるで——全てを終えて、安心したように。
アリシアは、リアンを抱きしめた。
腕に力を込める。
リアンの体が、微かに震えている。止まらない震え。
プラチナブロンドの髪が、リアンの顔にかかる。
風が運ぶ——血の匂い。土の匂い。汗の匂い。
生きている匂い。
紺碧の瞳から、一筋の涙が零れる。
リアンの頬に触れる。冷たい。
でも——温かくなっていく。
アリシアの体温が、伝わっていく。
「よく…頑張ったわね…」
小さく呟く。
声が震える。喉が詰まる。
生きている。
それだけで、良かった。
騎士団が、到着する。
馬から降りる音。
足音。
「副長!」
「盗賊を確保してください」
アリシアの声は、冷静だ。
涙を拭い、騎士の顔に戻る。
「洞窟の中です。爆発で負傷している可能性があります」
「了解!」
騎士たちが、洞窟へ向かう。
アリシアは、リアンをそっと地面に寝かせる。
そして、ミレイユを見る。
ミレイユは、リアンの手を握りしめていた。
両手で。
震える手で。
琥珀色の瞳から、涙が止まらない。
「ミレイユさん…怪我は?」
アリシアが聞く。
「私は…大丈夫です…リアンさんが…守ってくれたから…」
ミレイユの声が、震えている。
「リアンさんは…私を助けるために…こんなに…」
顔を覆う。
涙が、止まらない。
アリシアは、そっとミレイユの肩に手を置いた。
「大丈夫。彼は、強いわ」
でも——
アリシアの心の中には、複雑な感情があった。
リアンとミレイユ。
二人で、脱出した。
二人で、支え合っていた。
その姿が——
胸の奥で、小さなトゲのように刺さる。
(私は…何を考えているの…?)
自分の感情が、わからない。
ただ——
少しだけ、寂しい。
――――――――
騎士団は、盗賊たちを拘束していた。
三人の盗賊。
全員、爆発に巻き込まれて負傷している。
軽傷だが、動けない。
リーダー格の男が、地面に座り込んでいる。
顔の傷が、痛々しい。
騎士が、尋問している。
「何があった?」
男は、答える。
「あいつ…あの冒険者が…」
「リアン・フォルテか?」
「ああ…あいつが…罠を仕掛けた…」
騎士の眉が、上がる。
「罠?」
「油壺を倒して…火をつけた…爆発させた…」
男は、恐怖と怒りの混じった顔をしている。
「あいつは…最初から計算していた…裏口から侵入して…武器庫に罠を仕掛けて…」
「でも、爆発の威力は…」
別の騎士が、武器庫を調べて戻ってくる。
「副長、火薬樽がありました。ただし、量は少なかったようです」
「量が…少ない?」
「はい。意図的に減らされていたようです」
アリシアの目が、鋭くなる。
「つまり…爆発の威力を、計算していた…?」
騎士が頷く。
「おそらく。盗賊を殺さず、無力化する程度の威力に調整されていました」
アリシアは、リアンを見る。
地面に横たわる、血まみれの青年。
意識を失っている。
でも——その顔は、穏やかだ。
(リアン…あなたは…)
尊敬。畏怖。そして——初めて感じる、小さな恐怖。
(どこまで…考えているの…?)
この人の考えの全体が、見えない。
彼は、満身創痍で洞窟に侵入した。
裏口を見つけ。
罠を仕掛け。
爆発を計算し。
そして、ミレイユを救出した。
全て——計画通りに。
(彼は…私たちが来ることを…予測していた…?)
騎士団の到着も、計算のうちだったのか?
爆発の音で、騎士団を誘導した?
(そんな…)
でも——
事実として、全てがうまくいっている。
アリシアは、部下に告げる。
「この件、詳細を報告書にまとめてください」
「了解しました」
「リアン・フォルテの功績として、記録します」
騎士たちが、敬礼する。
「了解!」
――――――――
リアンの隣で、ミレイユはリアンの手を握りながら思っていた。
(リアンさんは…私を助けるために…)
血まみれの顔を見る。
腫れ上がった頬。切れた唇。
(こんなに傷ついて…それでも…来てくれた…)
涙が、止まらない。
(そして…爆発も…リアンさんが…)
自分が火をつけた。
でも——
リアンが、油を流した。
偶然?
いや、違う。
(リアンさんは…きっと…あの時、わざと油壺を倒したんだ…)
ミレイユの中で、確信が生まれる。
(火薬の量も…計算していた…)
だから、爆発は制御されていた。
誰も死ななかった。
盗賊たちは、無力化されただけ。
(リアンさんは…優しい人だ…)
敵でさえ、殺さない。
そんな人が——
ミレイユの胸が、熱くなる。
(私は…この人が…)
好き。
はっきりと、自覚した。
この人を、守りたい。
支えたい。
いつも、一緒にいたい。
ミレイユは、リアンの手を、両手で包んだ。
震える手。
でも、温かい手。
(私…もっと強くなる…)
決意。
(次は…私が…リアンさんを守る…)
――――――――
リアンは意識の端で、ぼんやりと思っていた。
(助かった…よかった…)
アリシアの腕の温かさ。
ミレイユの手の温もり。
(みんな、無事で…)
それだけで、充分だった。
(俺は…何もできなかったけど…)
転んで。
落ちて。
隠れて。
逃げた。
それだけ。
偶然が重なっただけ。
油壺を倒したのも、偶然。
ミレイユが火をつけたのも、偶然。
爆発が制御されたのも——
火薬の量がたまたま少なかっただけ。
全部、偶然。
(でも…結果オーライ、かな…)
意識が、暗闇に沈んでいく。
でも——
最後に、小さく笑った。
(まあ…なんとか…なった…っしょ…)
そして——
完全に、意識を失った。
――――――――
三日後。
冒険者ギルド。
酒場は、朝から賑わっていた。
いつもより、人が多い。
冒険者たち。商人たち。そして——騎士たちも。
みんな、同じ話題で持ちきりだった。
「聞いたか? リアンが盗賊のアジトに単独潜入したって」
「マジかよ。しかも、満身創痍で」
「魔術師の女の子を救出したらしいぞ」
「すげえ…Fランクなのに…」
「いや、もうFランクじゃねえだろ。あれは、最低でもBランクの実力だ」
トムは、カウンターの後ろで苦笑いしている。
ギルドの雑用係。リアンの数少ない友人の一人。
「あいつ、また無茶しやがって…」
トムは知っている。
リアンは、弱い。
剣も魔法も、才能ゼロ。
でも——運だけは、異常にいい。
そして、諦めない。
それが、リアンだ。
(でも…今回は…流石にやりすぎだろ…)
トムは、昨日、療養中のリアンを見舞った。
包帯だらけ。痛々しい。
でも、リアンは笑っていた。
「まあ、なんとかなったっしょ」
後頭部を掻きながら。照れたように。
いつもの癖。
その仕草が、リアンらしくて——トムは、思わず笑ってしまった。
(こいつ、本当に…変わらねえな)
そのとき——
ギルドの扉が開いた。
ざわめきが、止まる。
全員が、入口を見る。
アリシア・シルヴァレストが、入ってきた。
白銀の甲冑。深紅のマント。
騎士団副長の正装。
背筋が、完璧に伸びている。一点の隙もない立ち姿。
プラチナブロンドの髪が、陽光を受けて輝いている。
紺碧の瞳が、ギルド内を見回す。
冒険者たちが、緊張する。
アリシアが、カウンターに向かう。
トムが、姿勢を正す。
「騎士団副長…何か御用でしょうか」
「リアン・フォルテは?」
アリシアの声は、凛としている。
「まだ療養中です。三日前の怪我がひどくて…」
「そう…」
アリシアの表情が、わずかに和らぐ。
安心したような、残念なような。
そして、冒険者たちに向き直る。
「皆さんに、騎士団からの公式な報告です」
全員が、静かになる。
アリシアの声が、ギルド内に響く。
「三日前、盗賊残党による拉致事件が発生しました」
冒険者たちが、頷く。
「その際、冒険者リアン・フォルテが単独で追跡し、人質を救出。盗賊を無力化しました」
拍手が起こる。
でも、アリシアは手を上げて、制する。
「騎士団が到着した時には、すでに救出は完了していました」
ざわめき。
「単独で…?」
「マジかよ…」
「Fランクが?」
アリシアは、続ける。
「リアン・フォルテの功績を讃え、騎士団は彼に感謝状を贈ることを決定しました」
大きな拍手。
歓声。
トムは、頭を抱えた。
(あいつ…また面倒なことになるぞ…)
アリシアは、さらに続ける。
「なお、彼の戦術について、騎士団で分析を行いました」
全員が、耳を傾ける。
「裏口からの潜入」
冒険者たちが、頷く。
「罠の設置」
「敵の混乱誘発」
「そして、爆発による制圧」
アリシアの声が、重みを増す。
「すべてが、計算されたものでした」
静寂。
そして——
ざわめき。
「計算…?」
「あのリアンが?」
「でも、あいつ、いつも適当じゃん」
「それが、演技だったってこと?」
アリシアは、最後に言う。
「彼は…謙虚な方です」
全員が、アリシアを見る。
「おそらく、自分の功績を過小評価するでしょう」
(その通りだ)
トムは心の中で頷く。
「ですが、事実は事実です」
アリシアの紺碧の瞳が、真剣な光を宿す。
「リアン・フォルテは、英雄です」
静寂。
数秒の沈黙。
そして——
爆発的な拍手。
歓声。
冒険者たちが、立ち上がる。
「リアン!」
「英雄!」
「すげえ!」
トムは、カウンターに突っ伏した。
「あいつ…本当に、大変なことになる…」
――――――――
その頃、魔術師協会の図書館。
ミレイユは、一人で机に向かっていた。
魔導書を開いている。
でも——読んでいない。
ページを見つめているだけ。
頭の中は、リアンのことでいっぱい。
首筋の傷は、もう治った。
浅い傷だった。
でも——心の傷は、まだ残っている。
いや、傷ではない。
もっと違う何か。
ミレイユは、ノートを開いた。
インク染みだらけの手で、ペンを持つ。
でも——
何も書けない。
ただ、一つの名前だけ。
「リアン・フォルテ」
小さく、丁寧に。何度も、何度も。ページが、その名前で埋まっていく。
ミレイユは顔が熱いのに気づいて、眼鏡を外した。
ノートを閉じる。両手で、顔を覆う。
「私…どうしちゃったんだろう…」
耳まで、赤い。
でも——
嫌じゃない。
むしろ——
「好き…なのかな…」
小さく、小さく、呟く。
周りに誰もいないのを確認して。
「好き…」
もう一度。
「リアンさんが…好き…」
はっきりと。
ミレイユは、机に突っ伏した。
耳まで真っ赤にして。
でも——
その顔は、幸せそうだった。
――――――――
リアンは、ベッドの上で目を覚ました。
包帯だらけ。
肋骨を固定する布。
顔の腫れは、少し引いた。
でも、まだ痛い。
全身が、痛い。
「…生きてる…」
天井を見上げる。
木の梁。古い染み。
いつもの天井。
(ミレイユさん、無事だったな…)
あの時の光景を思い出す。
洞窟から出た時。
アリシアが駆けつけてくれた時。
ミレイユが、泣いていた時。
(よかった…本当に…)
それだけで、満足だった。
自分が怪我をしたことなんて、どうでもいい。
ミレイユが無事なら、それでいい。
ベッドの脇にある、小さなテーブル。
そこに、手帳が置いてある。
トムが、拾ってきてくれたらしい。
血で汚れている。
ページも破れている。
でも——まだ使える。
リアンは、手を伸ばす。
痛い。腕が痛い。
でも、我慢して、手帳を取る。
開く。
『今日の反省』
震える手で、ペンを持つ。
書く。
「もっと強くならないと。次は、ちゃんと守れるように」
それだけ。
そして、手帳を閉じる。
(まあ…今回は…)
小さく笑う。
痛い。笑うと、顔が痛い。
でも——
(なんとか…なった…っしょ)
そして——
また、眠りに落ちた。
――――――――
アリシアは、窓辺に立っていた。
月明かりが、プラチナブロンドの髪を照らす。
ハーフアップをほどき、髪を下ろしている。
腰まで届く長い髪。
普段の凛々しさとは違う、柔らかい雰囲気。
手には、報告書。
「リアン・フォルテ…」
その名前を、小さく呟く。
報告書には、詳細が書かれている。
裏口からの侵入。
罠の設置。
爆発による制圧。
全て——完璧な作戦。
(あなたは…いつも私の予想を超える…)
胸の奥が、温かい。
尊敬。
畏怖。
そして——
(もっと…知りたい…)
でも——
脳裏に浮かぶのは、あの光景。
リアンとミレイユ。
寄り添いながら、洞窟から出てきた姿。
お互いを支え合っていた姿。
ミレイユが、リアンの手を握りしめていた姿。
胸の奥が、チクリとした。
(私は…何を考えているの…?)
自分の感情が、わからない。
嫉妬?
まさか。
そんなはずない。
でも——
(次は…私が…彼の隣に…)
そう思っている自分がいた。
アリシアは、報告書を机に置く。
そして、窓の外を見る。
月が、美しい。
でも——
その美しさが、今は少しだけ寂しく感じる。
――――――――
ミレイユは、下宿のベッドに座っていた。
膝の上に、ノートを開いている。
でも——読んでいない。
ただ、ぼんやりと見つめているだけ。
ページには、さっき何十回も書いた名前が並んでいる。インクが少し滲んでいた。
ミレイユは、そのページをそっと撫でる。
(リアンさん…)
頬が、熱い。
眼鏡を外して、枕の上に置く。
ぼやけた視界。
でも、ノートの名前は見える。
(あの人は…私を助けてくれた…)
血まみれで。
満身創痍で。
それでも、来てくれた。
「友達、だから」
その言葉が、胸に響く。
(でも…私は…)
友達以上の感情を、持ってしまった。
好き。
ミレイユは、ノートを抱きしめた。
顔を、ノートに埋める。
「好き…」
小さく呟く。
「リアンさんが…好き…」
ベッドに横になる。
ノートを、胸に抱いたまま。
(私…もっと強くなる…)
決意。
(次は…私が…リアンさんを守る…)
そして——
(いつか…この気持ちを…伝えられたら…)
ミレイユは、眼を閉じた。
その顔は——
幸せそうだった。
第4話、お読みいただきありがとうございます。
今回はリアン視点とミレイユ視点を中心に、洞窟脱出のてんやわんやをお届けしました。
「転んで足跡を発見」「間違えて棚を叩いて樽に飛び込む」「崖から落ちた先に偶然裏口」——全部リアン本人は「やべえ死ぬ」と思っているのですが、結果だけ切り取ると英雄の行動に見えてしまう悲劇です。
ミレイユが魔導書なしで《炎槍》を成功させたシーン、書いていて一番気持ちよかった場面です。彼女にとっては人生で初めての快挙なのに、傍から見ると「当然のように援護してくれた」扱いになっているのが……つらい。
そしてアリシアの「彼は英雄です」発言、騎士団の公式記録にまで残ってしまいました。リアンが目を覚ました時の絶望が今から楽しみです。
次の第5話では、噂がついに「歌」になります。吟遊詩人セリア・ハーモニアが本格登場。「これは英雄譚の始まりの章!」と大興奮で歌い始めます。リアンが知らないところで伝説が加速していくお話です。
引き続きお付き合いいただければ幸いです。




