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第4話 森の奥で

 洞窟の冷たい空気が、ミレイユ(みれいゆ)の肌を刺す。


 露出した顔、首筋、手——冷気が絶えず侵入し、体温を奪っていく。


 ローブ越しでも、背中に貼りついた壁から、水滴が浸み込んでくる。


 一五二センチの小さな体を、粗末な檻が閉じ込めていた。錆びた鉄格子。床に敷かれた腐った藁。壁から滲む湿気。


 臭い。


 カビの匂い。腐敗した藁の匂い。鉄の錆の匂い。


 そして——人の匂い。汗と土と血の混ざった匂い。


 ミレイユは膝を抱え、檻の隅で小さく丸まっていた。


 床の藁が、湿っている。冷たい。ぞっとする感触が、太ももを通して伝わってくる。


 藤色の髪が乱れ、顔に張り付いている。銀縁の丸眼鏡は、片方のレンズに亀裂が入り、もう片方は涙で曇っていた。


 首筋の傷は、まだ血が滲んでいる。ローブの白い襟が、赤く染まっていた。


 ぼんやりと、檻の外を見つめる。


 松明の明かりが、壁に影を落としている。盗賊たちの影。動いている。笑っている。


 (リアンさんは…どうなったんだろう…)


 瞼を閉じると、あの光景が蘇る。


 血まみれで地面に倒れていたリアン。腫れ上がった顔。動かない体。


 それでも——伸ばされた手。


 震える指先。爪が剥がれて血が滲んでいた。それでも、こちらへ向かって、必死に伸ばされていた手。


 でも、届かなかった。


 三メートル。五メートル。十メートル。


 広がっていく距離。


 そして——木々の向こうに消えた、リアンの姿。


 琥珀色の瞳から、また涙が溢れる。


 眼鏡を外す。視界がぼやける。でも、外さないと、涙で何も見えない。


 (私のせいだ…)


 手が、震える。


 (私が弱いから…私がいたから…リアンさんが…)


 盗賊たちの声が、聞こえる。


「あいつ、死んだかな」


 ミレイユの心臓が、止まりそうになる。


「あんだけボコったんだ。無理だろ」


 呼吸が、できない。


「でも念のため、見張りを立てとくか」


「ああ。もし来たら、今度こそトドメだ」


 笑い声。


 ミレイユの胸が、ぎゅっと締め付けられる。


 (死んだ…? リアンさんが…?)


 視界が霞む。息が吸えない。


 (嘘…そんな…)


 でも——


 心の奥底で、小さな声がする。


 (いや…リアンさんは…きっと…)


 震える手で、眼鏡をかけ直す。


 亀裂の入ったレンズ越しに、ぼんやりと世界が見える。


 (あの人は…諦めない人だ…)


 記憶が蘇る。


 二週間前、命を救われた時のこと。


 魔術師協会から出た森道で魔獣に遭遇。実戦経験が少なく、詠唱を噛んで失敗した。絶体絶命だった。


 そこに、リアンが通りかかった。


 魔獣を見て「うわっ!」と叫びながら横に逃げる。魔獣がリアンの声に反応して、そちらを向く。


 その隙に、詠唱をやり直せた。魔法が命中し、魔獣が倒れた。


 リアンは「囮になったんじゃない。怖くて逃げただけ」と言ったが——


 ミレイユには、それが「謙遜」に聞こえた。


 その日も、一人で机に向かっていた。魔法陣が解けない。何度やっても、どこかが違う。


 うまくいかない。


 いつも、そう。


 才能があると言われる。でも、努力の仕方がわからない。誰も教えてくれない。


 孤独だった。


 そんな時、声をかけてくれたのが——リアンだった。


「あの、すみません。この本、ここに置いてありましたっけ?」


 間違えて声をかけられただけ。


 でも、その後。リアンは、泣きそうな顔をしている自分に気づいて。


「あ、大丈夫っすか? なんか、困ってます?」


 あっさりと。気さくに。


 ミレイユは答えた。


「魔法陣が…解けなくて…」


「へえ。魔術師さんなんすね。すげえ」


「でも…失敗ばかりで…」


「失敗したってことは、そこまで進んだってことっしょ」


 リアンは、当たり前のように言った。


「俺なんて、魔法全然ダメだから、そこまで行けないし」


「……え?」


「失敗できるって、すごいと思うけどな」


 その言葉に、救われた。


 それから、時々、図書館で会うようになった。


 リアンは、いつも適当な本を手に取って、読んでいた。内容を理解しているかは怪しいが、楽しそうだった。


 話しかけてくれた。


「ミレイユさん、今日も研究っすか?」


「はい…」


「頑張ってるっすね」


 そんな、他愛もない会話。


 でも、それが——嬉しかった。


 孤児院では、誰も話しかけてくれなかった。


 魔術師協会でも、誰も友達になってくれなかった。


 でも、リアンは——違った。


 分け隔てなく。あっさりと。当たり前のように、接してくれた。


 そして、昨日。


 森で。盗賊に囲まれて。


 リアンは言った。


「友達を見捨てることだけは、しない」


 その言葉が、今も胸に響いている。


 (友達…)


 ミレイユは、小さく息を吸った。


 震える拳を、ぎゅっと握りしめる。


 (諦めちゃダメだ…)


 琥珀色の瞳に、小さな光が戻る。


 (リアンさんは…諦めない人だ…だから…私も…)


 縛られた手首を見る。


 固く結ばれたロープ。でも——


 (魔法なら…)


 ショルダーバッグは奪われた。魔導書もない。


 でも、詠唱は覚えている。


 初級の火属性魔法。火点(イグニス)


 (やってみる…)


 震える手を、前に伸ばす。


 指先で、空中に魔法陣を描く。


 小さな円。六つの頂点。中心に炎の紋章。


 震える。集中できない。


 でも——


 (リアンさんが…来てくれるかもしれない…だから…私も…戦わなきゃ…)


 魔法陣が、ぼんやりと光る。


 小さな炎。


 ミレイユの指先から、オレンジ色の光が生まれた。


――――――――


 リアン・フォルテ(りあん・ふぉるて)は、血まみれの顔で立ち上がった。


 体が悲鳴を上げる。右脇の肋骨が折れている。左目はほとんど開かない。左足首を捻挫して、一歩ごとに激痛が走る。


 それでも——前に出す。


「……っ」


 折れた肋骨が、呼吸のたびに肺を突く。心臓の鼓動に合わせて、顔の腫れがズキン、ズキンと脈打つ。


 でも、止まれない。


「待ってろ…ミレイユさん…」


 誰に言うでもなく、呟く。


 盗賊たちが消えた方向へ、よろよろと歩き出す。


 くすんだ緑のチュニックは、もう原形を留めていない。血と泥にまみれ、あちこちが破れている。


 灰色のマントは、どこかに落としてしまった。


 腰のベルトには、短剣だけ。手帳は——落とした。


 森の木々が視界を遮る。


 陽光が木漏れ日となって差し込むが、その明るさが逆に目に痛い。


 (どこだ…足跡…血痕…何か…)


 地面を見る。


 落ち葉。土。枝。


 その中に——赤い染み。


 血だ。


 ミレイユの首筋から滲んだ血。


 リアンの胸が、ぎゅっと締め付けられる。


 (俺が…守れなかったから…)


 拳を握る。爪が掌に食い込む。痛いが、構わない。


 その痛みすら、罰のように感じる。


 (くそ…)


 自分を責めながら、それでも前に進む。


 血痕を辿る。


 三歩。五歩。十歩。


 そして——


 足を滑らせた。


「うわっ…!」


 バランスを崩す。


 前のめりに倒れる。


 顔から地面に突っ込む。


 ドサッ。


 落ち葉が舞い上がる。土の匂い。草の匂い。


 そして——痛み。


 顔を打った。腫れている頬を直撃。激痛が走る。


「っ…痛ぁ…」


 涙が出そうになる。というか、出ている。


 情けない。


 こんなところで転んで。


 (ミレイユさんを助けに行かなきゃいけないのに…)


 顔を上げようとして——


 目の前に、何かが見えた。


 足跡。


 いや、複数の足跡。


 大きな靴跡。三人分。


 そして——引きずられた跡。


 小さな足。ローブの裾が地面を擦った跡。


 (これ…盗賊の足跡…?)


 リアンは、ゆっくりと体を起こす。


 転ばなければ、気づかなかった。


 この足跡は、茂みの陰に隠れていた。普通に歩いていたら、見逃していた。


 でも、転んで、顔を地面に近づけたから——見えた。


 (ありがとう…足…?)


 自分の足に感謝する。変な感じだが、本心だった。


 立ち上がる。


 足首が痛む。でも、我慢する。


 足跡を辿る。


 森の奥へ。


 木々が密集してくる。陽光が遮られ、薄暗くなる。


 (怖い…)


 正直な気持ち。


 森の奥は、怖い。魔物が出るかもしれない。盗賊がまだいるかもしれない。


 でも——


 (それでも…行かなきゃ…)


 ミレイユの顔が浮かぶ。


 恥ずかしそうに笑う顔。


 興奮すると早口になって、気づいて頬を赤らめる姿。


 研究の話をする時の、輝く琥珀色の瞳。


 眼鏡を指で押し上げる仕草。


 (友達、だから)


 自分が言った言葉。


 あの時、確かにそう言った。


 そして——それは、本心だった。


 ミレイユは、友達。


 図書館で時々話す。他愛もない会話。でも、楽しかった。


 彼女は、自分の話をちゃんと聞いてくれた。


 家族の話。妹のこと。実家の雑貨屋のこと。


 誰も興味を持たないような話を、ミレイユは真剣に聞いてくれた。


 そして、自分の研究の話もしてくれた。


 難しくて、半分もわからなかったけど。


 でも、嬉しそうに話す彼女を見ているのが、好きだった。


 (だから…見捨てられない)


 一歩、また一歩。


 痛みを堪えて、前に進む。


――――――――


 王都。騎士団詰所。


 白い石造りの建物の三階。副長執務室。


 |アリシア・シルヴァレスト《ありしあ・しるう゛ぁれすと》は、窓際の机で報告書を読んでいた。


 プラチナブロンドの長い髪が、窓から差し込む午後の光を受けて、銀色に輝いている。ハーフアップにまとめられた髪は、背中まで流れている。


 深い紺碧の瞳が、書類の文字を追う。


 白銀の甲冑は、今は脱いでいる。白いブラウスに紺のベスト。動きやすい服装。


 机の上には、剣——家伝の長剣「曙光」。いつでも出動できるよう、常に手の届く場所に置いている。


 コンコン、とノックの音。


「失礼します」


 扉が開き、部下の騎士が入ってくる。


 若い男性騎士。顔色が悪い。息が切れている。


「副長、緊急報告です」


 アリシアが顔を上げる。


 紺碧の瞳が、鋭く騎士を見る。


「何事?」


「森の北部で、盗賊残党と冒険者の交戦が確認されました」


 アリシアの表情が、一瞬で変わる。


 報告書を机に置く。背筋が伸びる。


「盗賊残党…あの、三日前に壊滅させた組織の…?」


「はい。生き残りが数名、森に潜伏していたようです」


「冒険者は?」


「名前は…リアン・フォルテ。Fランク冒険者です」


 アリシアの心臓が、一瞬止まった。


「…………リアン?」


 小さく、その名前を呟く。


 騎士が続ける。


「目撃情報によれば、重傷を負っているとのことです」


 アリシアの手が、机の端を握る。


 白い手が、震えている。


「それと…同行していた魔術師の女性が、拉致されたと」


「…………」


 アリシアは、言葉を失った。


 脳裏に浮かぶのは、あの日の光景。


 三日前。盗賊団との戦い。


 リアンの低姿勢。謝る姿。功績を譲る姿。


 あの時、彼は——盗賊団を壊滅させる作戦を、完璧に実行した。


 本人は「偶然」と言っていたが。


 でも、アリシアは知っている。


 あれは、偶然ではない。計算された作戦だった。


 そして——


 (あの人は…いつも自分を犠牲にする…)


 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。


 アリシアは、深く息を吸った。


 そして——


 立ち上がる。


 椅子が、床を擦る音。


「全隊、出動準備。五分以内に集合」


 騎士としての顔。


 凛とした声。迷いがない。


「目標、森の北部。盗賊残党の殲滅と、人質の救出」


 部下の騎士が、姿勢を正す。


「了解しました!」


 踵を返し、走り去る。


 扉が閉まる。


 アリシアは、一人になった執務室で、窓の外を見た。


 森の方角。


 北の空に、鳥が飛んでいる。


 (待っていて…リアン…)


 剣を手に取る。「曙光」。


 刀身が、光を反射する。


 腰に差す。


 白銀の甲冑を身につける。胸当て。肩当て。手甲。脛当て。


 一つ一つ、丁寧に。でも、速く。


 最後に、深紅のマントを肩に留める。


 シルヴァレスト家の紋章——銀翼の獅子——が、マントの胸元で輝く。


 アリシアは、鏡を見た。


 そこに映るのは、騎士。


 凛々しい。強い。頼りになる。


 でも——


 その瞳の奥に、小さな不安がある。


 (リアン…あなたは…また…無茶をしている…)


 彼は、強い。


 アリシアは、そう信じている。


 でも——


 その強さは、自分を犠牲にする強さだ。


 他人のために、自分を危険に晒す。


 それが——怖い。


 (今度こそ…私が…あなたを守る…)


 アリシアは、執務室を出た。


 廊下を走る。


 階段を駆け下りる。


 中庭に、騎士たちが集まっている。


 全員、完全武装。剣、槍、盾。


 馬が用意されている。


「副長!」


 騎士たちが、一斉に敬礼する。


 アリシアは、馬に跨る。


 白い馬。気高い目。


「出動する。目標は森の北部、盗賊残党のアジト」


 騎士たちが、馬に跨る。


「人質が一名。魔術師の女性だ。無事に救出する」


 全員が頷く。


「それと——」


 アリシアは、言葉を区切る。


「冒険者リアン・フォルテが、重傷を負っている可能性がある」


 騎士たちの間に、ざわめきが走る。


 リアン・フォルテ——その名前は、騎士団の中で既に有名だった。


 三日前の功労者。盗賊団を壊滅させた英雄。


「彼を発見次第、保護する。これは、最優先事項だ」


 騎士たちが、再び敬礼する。


「了解しました!」


 アリシアは、手綱を引く。


 馬が嘶く。


「出発!」


 騎士団が、門を出る。


 蹄の音が、石畳に響く。


 深紅のマントが、風になびく。


 アリシアの瞳は、森の方角を見つめていた。


――――――――


 リアンは、崖の前で立ち尽くしていた。


 足跡は、ここで途切れていた。


 いや、途切れているのではない。


 上へ——崖の上へと続いている。


 見上げる。


 高さは、十メートル以上。ほぼ垂直の岩壁。


 所々に、木の根や岩の突起がある。登れないことはない、かもしれない。


 でも——


 (無理だ)


 リアンは、自分の体を見下ろす。


 血まみれ。傷だらけ。満身創痍。


 この状態で、崖を登る?


 (死ぬ)


 即座に結論が出た。


 では、どうする?


 (迂回路…ないかな…)


 周囲を見回す。


 崖は、左右に伸びている。


 左に行けば…わからない。


 右に行けば…わからない。


 どちらに行けばいいのか、わからない。


 (とりあえず…左?)


 なんとなく、左に向かって歩き出す。


 崖に沿って。


 木々が密集している。足元が悪い。


 数歩進んで——


 足を滑らせた。


「うわああああああ!」


 バランスを崩す。


 崖の端。


 落ちる。


 下へ。


 崖の下へ。


 視界が回転する。


 空。木。崖。空。木。崖。


 枝が顔を引っ掻く——頬に走る鋭い痛み。温かい液体が流れる。


 体が木の幹に打ち付けられる——背中に衝撃。折れた肋骨が悲鳴を上げる。息が止まる。


 腕が何かに引っかかる——布が裂ける音。皮膚が擦れる感覚。生温かい。


 そして——


 ドサッ。


 何かに落ちた。


 柔らかい。


 草の匂い。土の匂い。湿った匂い。


 (……草…?)


 リアンは、ゆっくりと目を開けた。


 まだ生きている。


 信じられないが、生きている。


 周囲を見回す。


 ここは——崖下の窪地。


 厚い草が生えている。苔も生えている。湿っている。


 その草が、クッションになった。


 (助かった…?)


 立ち上がろうとして——


 全身が悲鳴を上げる。


 打撲が増えた。確実に。


 でも、骨は折れていない…と思う。


 ゆっくりと立ち上がる。


 そして——


 目の前に、洞窟の入口を見つけた。


 いや、正確には——裏口?


 人一人がやっと通れる程度の、小さな穴。


 高さは、リアンの肩くらい。幅は、体を横にすれば通れる程度。


 暗い。


 中から、かすかに声が聞こえる。


 人の声。


 (ここ…アジトの裏口…?)


 リアンは、穴を覗き込む。


 暗い。何も見えない。


 でも、確かに声が聞こえる。


 (偶然…?)


 崖を登ろうとして、迂回しようとして、足を滑らせて、落ちて、そして——裏口を発見した。


 偶然だ。


 でも、この偶然がなければ、崖を登ろうとして、途中で力尽きていただろう。


 (運が良かった…のか…?)


 よくわからない。


 でも、前に進む理由はできた。


 リアンは、穴に入った。


 体を横にする。狭い。


 壁が、体に触れる。冷たい。湿っている。


 気持ち悪い。


 でも、我慢する。


 数メートル進むと、穴が広がった。


 立てる高さ。


 洞窟の内部。


 暗い。


 本当に、暗い。


 松明の明かりが、遠くに見える。でも、ここまでは届かない。


 リアンは、壁に手を当てながら、慎重に進む。


 足音を立てないよう。


 呼吸を静かに。


 心臓の音がうるさい。


 怖い。


 正直に言えば、ものすごく怖い。


 洞窟。暗い。盗賊がいる。


 逃げたい。


 でも——


 (ミレイユさん…)


 その名前を心の中で呟くだけで、足が前に出る。


 一歩。また一歩。


 暗闇の中を、進む。


――――――――


 ミレイユの手が、淡いオレンジ色に光り始めた。


 魔法陣。火点(イグニス)


 初級の火属性魔法。炎を生み出す、最も基本的な魔法。


 でも——


 魔導書なしで、この魔法を使うのは、ミレイユにとって大きな挑戦だった。


 (お願い…成功して…)


 詠唱を心の中で繰り返す。


「炎よ、我が指先に宿れ」


 古代語。


 魔術師協会で習った。何度も練習した。


 でも、いつも魔導書を見ながらだった。


 魔導書なしで成功させたことは——一度もない。


 震える手。


 集中できない。


 檻の外で、盗賊たちの声がする。


「腹減ったな」


「飯はまだか」


「あと少し待て」


 その声が、集中を妨げる。


 でも——


 (諦めない)


 瞼を閉じる。


 リアンの顔が浮かぶ。


「友達、だから」


 あの言葉。


 あの、真っ直ぐな灰色の目。


 震える唇から出た、でも確かな声。


 (私は…もう逃げない…)


 魔法陣が、完成する。


 小さな炎が、ミレイユの指先から生まれた。


 オレンジ色の光。温かい。


 ミレイユは、目を開けた。


 琥珀色の瞳に、炎が映る。


「…できた…」


 小さく呟く。


 できた。


 魔導書なしで、魔法を発動できた。


 胸が、熱くなる。


 (私…できる…)


 炎を、縄に近づける。


 ロープが、じりじりと焼ける。


 焦げる匂い。煙。


 でも、盗賊たちは気づかない。


 彼らは、離れた場所で食事の準備をしている。


 ミレイユは、息を殺して待つ。


 炎が、縄を舐める。


 一本の繊維が、プツンと切れる。


 また一本。


 また一本。


 そして——


 プツン。


 縄が、完全に切れた。


 手が自由になる。


 ミレイユは、手首をさする。


 赤く擦れている。痛い。


 でも、自由だ。


 眼鏡を、指で押し上げる。


 亀裂の入ったレンズ。でも、まだ使える。


 琥珀色の瞳に、光が戻る。


 (次は…檻…)


 檻の扉を見る。


 鍵がかかっている。古い南京錠。錆びている。


 魔法で壊せるか?


 (やってみる)


 ミレイユは、両手を前に伸ばす。


 今度は、もっと大きな魔法。


 炎槍(フレイムランス)——


 中級の火属性魔法。


 炎を槍の形に成形し、目標を貫く。


 魔導書なしで、この魔法を使うのは——


 (初めて…)


 でも——


 (リアンさんが…見ていてくれるなら…)


 いや。


 見ていてくれなくても。


 リアンさんは、きっと来てくれる。


 だから、自分も——彼を迎えに行かなきゃ。


 ミレイユは、空中に魔法陣を描く。


 大きな円。十二の頂点。中心に炎の槍。


 震える。


 汗が、額を伝う。


 集中。


 集中。


 呼吸を整える。


 心臓の鼓動を、静める。


 そして——


「炎よ、槍となりて、敵を貫け」


 古代語の詠唱。


 魔法陣が、輝く。


 オレンジ色の光が、洞窟を照らす。


 そして——


 炎の槍が、生まれた。


 長さ、一メートル。


 熱い。明るい。美しい。


 ミレイユは、その槍を——檻の鍵に向けた。


「っ…!」


 槍が、放たれる。


 空気を切り裂く音。


 そして——


 ガシャン。


 炎の槍が、南京錠を貫いた。


 金属が溶ける。赤く光る。


 そして——崩れ落ちる。


 鍵が、壊れた。


 檻の扉が、わずかに開く。


 ミレイユは、立ち上がった。


 一五二センチの小さな体。


 大きすぎるローブは、裾を引きずっている。


 藤色の髪は乱れ、眼鏡は割れている。


 でも——


 琥珀色の瞳は、強い光を宿していた。


 その瞬間——


 盗賊の声。


「今の音、何だ!?」


 足音。


 こちらに向かってくる。


 ミレイユは、檻から出た。


 震える足で、洞窟の奥へ走る。


 走りながら、眼鏡がずれかかる。片手で押さえる。


 割れたレンズ越しに、暗い通路が見える。


 でも、止まれない。


――――――――


 リアンは、洞窟を進んでいた。


 壁に手を当てながら。


 暗い。本当に暗い。


 松明の明かりが、遠くに見える。でも、こっちには来ない。


 幸い。


 (見つかるな…見つかるな…)


 心の中で祈りながら、進む。


 角を曲がると——


 明かりが見えた。


 松明。


 そして、盗賊の声。


「おい、見張り交代だ」


「もう? 面倒くせえな」


 リアンは、慌てて近くの樽の後ろに隠れた。


 古い酒樽。並んでいる。


 息を殺す。


 心臓がうるさい。


 (見つかるな…頼む…見つかるな…)


 盗賊の足音が近づく。


 二人。


 重い足音。武器の音。


 リアンの体が、震える。


 怖い。


 本当に怖い。


 見つかったら、殺される。


 そう確信している。


 盗賊たちが、樽の列の前を通り過ぎる。


 リアンは、樽の隙間から覗く。


 背中が見える。


 遠ざかっていく。


 ほっと息を吐く。


 でも——


 その時。


 寄りかかっていた肩が、棚に当たった。


 カタン。


 小さな音。


 でも、静かな洞窟では——響く。


 リアンの顔が、真っ青になる。


 (やばい…)


 盗賊の足音が、止まる。


「今の音…」


「何だ?」


 そして——戻ってくる。


 足音が近づく。


「誰かいるのか!?」


 リアンは、樽の中に飛び込んだ。


 蓋が外れている樽。


 中は空っぽ。


 でも、狭い。息苦しい。


 体を丸める。


 膝を抱える。


 息を止める。


 隙間から、外を覗く。


 盗賊たちが、周囲を調べている。


 剣を抜いている。


 警戒している。


「ネズミか?」


「わからん…気をつけろ」


「女が逃げたって話だ。もしかしたら…」


「いや、女はあっちの檻だ」


「念のため、確認してくる」


 一人が、檻の方へ走っていく。


 もう一人は、周囲を調べ続ける。


 リアンは、樽の中で震えていた。


 (見つかるな…お願い…見つかるな…)


 汗が、額を伝う。


 呼吸が荒い。でも、音を立てないよう、必死に我慢する。


 盗賊が、樽に近づく。


 リアンの心臓が、止まりそうになる。


 (終わった…)


 でも——


 その時、遠くから声がした。


「おい! 女が逃げたぞ!」


「何!?」


 盗賊が、そちらへ走っていく。


 足音が遠ざかる。


 リアンは、しばらく樽の中で動けなかった。


 全身の力が抜ける。


 (助かった…)


 でも——


 (女が逃げた…? ミレイユさん…?)


――――――――


 その頃、ミレイユは別の通路を走っていた。


 洞窟の奥へ。


 盗賊の声が、後ろから聞こえる。


「待て!」


「逃がすな!」


 足音。


 追いかけてくる。


 ミレイユは、必死に走る。


 でも、足が遅い。


 運動は苦手。体力もない。


 すぐに息が切れる。


 (リアンさん…どこ…)


 洞窟の中を、必死に探す。


 でも、暗い。広い。


 わからない。


 角を曲がる。


 そこに——


 樽の列。


 そして——


 一つの樽から、かすかに気配がする。


 (誰か…?)


 ミレイユは、足を止めた。


 盗賊の声は、まだ遠い。


 少しだけ、時間がある。


 恐る恐る、樽に近づく。


 樽の隙間を覗く。


 暗い。


 でも——


 そこに、人がいる。


 血まみれ。


 くすんだ黒髪。


 灰色の目。


 ミレイユの息が、止まった。


「…………っ!」


 声が出ない。


 涙が溢れる。


 リアンだ。


 リアンがいる。


 血まみれで、樽の中に丸まっている。


 でも——生きている。


 ミレイユは、小声で呼んだ。


「リアンさん…!」


 リアンが、ゆっくりと顔を上げた。


 腫れ上がった顔。片目しか開いていない。


 でも——その灰色の目が、ミレイユを見る。


「…ミレイユ、さん…?」


 掠れた声。


 でも、確かにリアンの声。


 二人の目が合う。


 琥珀色と灰色。


 ミレイユは、樽の蓋を開けた。


 リアンが、よろよろと出てくる。


 立ち上がる。ふらつく。


 ミレイユが支える。


 小さな体で、大きな体を支える。


 不安定。


 でも——温かい。


「無事…だったんですね…」


 リアンの声が、震えている。


「よかった…本当に…」


 ミレイユは、リアンの腕を掴んだ。


 震える手。


 でも、しっかりと。


「私も…無事です…あなたが来てくれたから…」


 二人の距離が、近い。


 二十センチの身長差。


 ミレイユが見上げ、リアンが見下ろす。


 琥珀色の瞳に、涙が光る。


 灰色の目が、穏やかに細められる。


 その時——


 遠くから、盗賊の声。


「こっちだ!」


「見つけたぞ!」


 足音。


 近づいてくる。


「隠れないと…!」


 ミレイユが、周囲を見回す。


 樽。箱。岩の出っ張り。


 そして——


 横穴。


 壁に、小さな横穴がある。


 人が一人、なんとか入れる大きさ。


「あそこ…!」


 ミレイユが、リアンの腕を引く。


 二人は、横穴に駆け込んだ。


 狭い。


 暗い。


 二人が入ると、もう動けない。


 肩が触れ合う。


 息遣いが聞こえる。


 ミレイユは、リアンの腕を握りしめていた。


 震えている。


 リアンも、震えている。


 盗賊の足音が、近づく。


 樽の列を調べる音。


 剣で樽を叩く音。


「見つからねえな…」


「さっき、こっちへ逃げたはずだが…」


「もっと奥か?」


 足音が、さらに奥へ向かう。


 遠ざかる。


 そして——静寂。


 ミレイユは、ほっと息を吐いた。


 肩の力が抜ける。


 横穴の中で、二人はしばらく動けなかった。


 暗闇。


 狭い空間。


 でも——不思議と、落ち着く。


「…リアンさん」


 ミレイユが、小声で呼ぶ。


「ん…?」


「本当に…来てくれたんですね」


 リアンは、答えなかった。


 ただ、小さく頷いた。


 暗闇の中で、その動きがわずかに伝わる。


「友達、だから」


 掠れた声。


 でも、確かな声。


 ミレイユの胸が、温かくなる。


「ありがとう…ございます…」


 涙が、また溢れる。


 でも、今度は——悲しい涙じゃない。


「でも…もう…無理しないでください…」


 ミレイユの声が、震える。


「あなたは…もう…十分…」


 リアンは、ゆっくりと首を横に振った。


「まだ…出口まで…行かないと…」


「でも…」


「大丈夫。なんとかなるっしょ」


 いつもの口調。


 いつもの、楽観的な口調。


 でも——声は弱い。


 ミレイユは、リアンの腕を強く握った。


「私が…支えます」


「…すまん」


「謝らないでください」


 ミレイユの声に、いつもにない強さがあった。


「私が…守ります」


 リアンは、驚いたように、ミレイユを見た。


 暗闇の中、琥珀色の瞳が光っている。


 いつもの臆病な少女じゃない。


 強い光を宿した、戦士の目。


「……頼りにしてる」


 リアンが、小さく笑った。


 痛々しい笑顔。


 でも——確かな笑顔。


 ミレイユも、微笑んだ。


 二人は、少しだけ、呼吸を整えた。


 この小さな空間で。


 束の間の、安らぎ。


 そして——


「…行こう」


 リアンが立ち上がろうとする。


 ミレイユが支える。


 二人は、横穴から出た。


「まだ、盗賊が…」


「ああ…」


 リアンが歩き出そうとして、よろめく。


 足が、もつれる。


 ミレイユが、慌てて支える。


「私が…支えます…」


 一五二センチの小さな体で、一七二センチのリアンを支える。


 リアンの腕を、自分の肩に回す。


 自分の腕を、リアンの腰に回す。


 重い。


 でも——


 (私が…支えなきゃ…)


 不安定ながらも、二人は歩き出した。


 寄り添いながら。


 洞窟の奥へ。


――――――――


 二人は、洞窟を進んでいた。


 ミレイユが、リアンを支えながら。


 リアンが、ミレイユに体重を預けながら。


 暗い通路。


 松明の明かりが、時々見える。


 でも、盗賊のいない方向へ。


「こっち…出口に繋がってるはず…」


 リアンが、前を指す。


「どうして…わかるんですか…?」


「風…風が吹いてる…外から…」


 ミレイユは、顔を上げる。


 確かに、わずかな風を感じる。


 リアンは、怖がりだ。


 だから、逃げる時——出口を探すのが得意だ。


 (さすが…リアンさん…)


 ミレイユは、そう思った。


 実際は、リアンは単に「風があるところなら外に繋がっているかも」という、ごく単純な考えだった。


 二人は、風の吹いてくる方向へ進む。


 その時——


 前方から、声。


「探せ! 女が逃げたぞ!」


「くそっ…どこに隠れた!」


 足音。


 複数。


 近づいてくる。


 リアンとミレイユは、慌てて横道に逃げ込む。


 左の通路。


 そこは——


 武器庫だった。


 剣が壁に立てかけられている。


 槍が並んでいる。


 弓と矢。


 そして——


 壺。


 大きな壺が、いくつも置かれている。


 油の匂い。


 (油…?)


 ミレイユは、気づいた。


 でも——


「隠れて…」


 リアンが、ミレイユを棚の後ろに押し込む。


 自分も隠れようとして——


 足を滑らせた。


「っ…!」


 バランスを崩す。


 棚に手をつく。


 体を支える。


 でも——


 棚が、揺れた。


 軋む音。


 そして——


 油壺が、転がり落ちる。


 ゴロゴロゴロ……


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 ガシャン。


 割れる。


 油が、床に広がる。


 滑る。


 粘つく。


 匂い。


 リアンの顔が、青ざめる。


 (やばい)


 (やばい)


 (やばい)


 盗賊の足音。


 近づく。


「この音…武器庫か!」


「誰かいるぞ!」


 剣を抜く音。


 ミレイユは、棚の後ろで震えていた。


 リアンも、床に倒れたまま動けない。


 盗賊が、入ってくる。


 三人。


 リーダー格の男。顔に傷がある。


 そして、二人の部下。


「出てこい!」


 剣を構える。


 ミレイユは、小さく息を吸った。


 そして——


 決断した。


 震える手を、前に伸ばす。


 小さく、リアンに囁く。


「リアンさん、伏せて」


 リアンは、反射的に伏せる。


 顔を床につける。


 ミレイユの手が、光る。


 魔法陣——火点(イグニス)


 小さな炎。


 オレンジ色の光。


 その炎を——


 ミレイユは、床の油に向けた。


 炎が、油に触れる。


 ボワッ。


 炎が走る。


 床一面。


 燃える。


 オレンジ色の光。


 武器庫が照らされる。


「うわっ!」


 盗賊たちが後ずさる。


 でも——


 炎は、止まらない。


 壁を這う。


 棚を舐める。


 そして——


 武器庫の奥にある、火薬の樽に到達した。


 リアンの目が、見開かれる。


 (あれ)


 (火薬)


 まずい。


 まずい。


 まずい!


「走って!」


 手を掴む。


 走る。


 痛みは、どうでもいい。


 死ぬ。


 死ぬ。


 死にたくない!


 武器庫から飛び出す。


 通路。


 走る。


 盗賊も逃げている。


 そして——


 ドォン!


 爆発。


 衝撃波。


 揺れる。


 吹き飛ばされる。


 床に転がる。


 リアンが、ミレイユを庇う。


 煙。


 熱風。


 耳鳴り。


 盗賊たちの悲鳴。


「うわああああ!」


「何が起きた!?」


「火事だ! 火事だ!」


 混乱。


 煙の中、リアンとミレイユは立ち上がる。


 お互いを支え合いながら。


 爆発の衝撃で、洞窟の壁に亀裂が入っている。


 そこから——


 光が差し込んだ。


 外の光。


 陽光。


「出口…!」


 ミレイユが叫ぶ。


 二人は、亀裂に向かって走った。


 煙を避けながら。


 崩れる岩を避けながら。


 そして——


 外へ。


 森の中へ。


 二人は、洞窟から飛び出した。


――――――――


 アリシアは、騎士団を率いて森を駆けていた。


 馬の蹄が、地面を叩く。


 深紅のマントが、風になびく。


 白銀の甲冑が、陽光を反射する。


 その時——


 ドォン。


 爆発音が、森に響いた。


「爆発!?」


 アリシアが叫ぶ。


 前方。


 崖の上から、煙が立ち上っている。


 黒い煙。


 そして——炎。


「あそこです!」


 部下の騎士が、指さす。


「急げ!」


 アリシアの声に、騎士団が加速する。


 馬が、全速力で走る。


 木々の間を駆け抜ける。


 崖に近づく。


 煙が濃くなる。


 そして——


 洞窟の亀裂から、二人の人影が出てくるのが見えた。


 一人は、血まみれの青年。


 黒髪。灰色の目。


 もう一人は、小柄な魔術師。


 藤色の髪。眼鏡。


 青年が、魔術師を支えている。


 魔術師が、青年を支えている。


 寄り添うように。


 お互いを支え合いながら。


 アリシアの胸が、ぎゅっと締め付けられる。


 (リアン…!)


「リアン…! ミレイユさん…!」


 アリシアが、叫ぶ。


 馬を止める。


 飛び降りる。


 走る。


 二人が、こちらを見た。


 リアンの顔が——ほっとした表情になる。


 灰色の目が、わずかに細くなる。


 それは、笑顔だった。


 痛みと疲労で歪んだ顔での、精一杯の笑顔。


「アリシア、さん…」


 掠れた声。


 でも、確かにアリシアの名前を呼ぶ声。


「助かった…みんな、無事で…」


 そして——


 リアンの体が、ゆっくりと崩れ落ちた。


 糸が切れた人形のように。


「リアンさん!」


 ミレイユが、支えようとする。


 でも、支えきれない。


 小さな体では、無理だ。


 アリシアが、駆け寄る。


 リアンを抱きかかえる。


 軽い。


 痩せている。


 そして——冷たい。


 体温が、低い。震えている。


 血が、白銀の甲冑を汚す。生温かい液体が、金属の隙間から手に伝わる。


 鉄の匂い。濃い。


 でも、構わない。


 アリシアの手が、リアンの背中を支える。肋骨の感触。骨ばった背中。


 呼吸が——浅い。


 胸が小さく上下する。途切れそうな呼吸。


 心臓の鼓動が、掌に伝わる。弱い。不規則。


 でも——確かに、生きている。


「リアン…大丈夫…?」


 リアンの灰色の目が、ぼんやりとアリシアを見る。


 焦点が合っていない。


 でも——わずかに、唇が動く。


「助かった…よかった…」


 そして、意識を失った。


 アリシアの腕の中で。


 静かに。


 穏やかに。


 まるで——全てを終えて、安心したように。


 アリシアは、リアンを抱きしめた。


 腕に力を込める。


 リアンの体が、微かに震えている。止まらない震え。


 プラチナブロンドの髪が、リアンの顔にかかる。


 風が運ぶ——血の匂い。土の匂い。汗の匂い。


 生きている匂い。


 紺碧の瞳から、一筋の涙が零れる。


 リアンの頬に触れる。冷たい。


 でも——温かくなっていく。


 アリシアの体温が、伝わっていく。


「よく…頑張ったわね…」


 小さく呟く。


 声が震える。喉が詰まる。


 生きている。


 それだけで、良かった。


 騎士団が、到着する。


 馬から降りる音。


 足音。


「副長!」


「盗賊を確保してください」


 アリシアの声は、冷静だ。


 涙を拭い、騎士の顔に戻る。


「洞窟の中です。爆発で負傷している可能性があります」


「了解!」


 騎士たちが、洞窟へ向かう。


 アリシアは、リアンをそっと地面に寝かせる。


 そして、ミレイユを見る。


 ミレイユは、リアンの手を握りしめていた。


 両手で。


 震える手で。


 琥珀色の瞳から、涙が止まらない。


「ミレイユさん…怪我は?」


 アリシアが聞く。


「私は…大丈夫です…リアンさんが…守ってくれたから…」


 ミレイユの声が、震えている。


「リアンさんは…私を助けるために…こんなに…」


 顔を覆う。


 涙が、止まらない。


 アリシアは、そっとミレイユの肩に手を置いた。


「大丈夫。彼は、強いわ」


 でも——


 アリシアの心の中には、複雑な感情があった。


 リアンとミレイユ。


 二人で、脱出した。


 二人で、支え合っていた。


 その姿が——


 胸の奥で、小さなトゲのように刺さる。


 (私は…何を考えているの…?)


 自分の感情が、わからない。


 ただ——


 少しだけ、寂しい。


――――――――


 騎士団は、盗賊たちを拘束していた。


 三人の盗賊。


 全員、爆発に巻き込まれて負傷している。


 軽傷だが、動けない。


 リーダー格の男が、地面に座り込んでいる。


 顔の傷が、痛々しい。


 騎士が、尋問している。


「何があった?」


 男は、答える。


「あいつ…あの冒険者が…」


「リアン・フォルテか?」


「ああ…あいつが…罠を仕掛けた…」


 騎士の眉が、上がる。


「罠?」


「油壺を倒して…火をつけた…爆発させた…」


 男は、恐怖と怒りの混じった顔をしている。


「あいつは…最初から計算していた…裏口から侵入して…武器庫に罠を仕掛けて…」


「でも、爆発の威力は…」


 別の騎士が、武器庫を調べて戻ってくる。


「副長、火薬樽がありました。ただし、量は少なかったようです」


「量が…少ない?」


「はい。意図的に減らされていたようです」


 アリシアの目が、鋭くなる。


「つまり…爆発の威力を、計算していた…?」


 騎士が頷く。


「おそらく。盗賊を殺さず、無力化する程度の威力に調整されていました」


 アリシアは、リアンを見る。


 地面に横たわる、血まみれの青年。


 意識を失っている。


 でも——その顔は、穏やかだ。


 (リアン…あなたは…)


 尊敬。畏怖。そして——初めて感じる、小さな恐怖。


 (どこまで…考えているの…?)


 この人の考えの全体が、見えない。


 彼は、満身創痍で洞窟に侵入した。


 裏口を見つけ。


 罠を仕掛け。


 爆発を計算し。


 そして、ミレイユを救出した。


 全て——計画通りに。


 (彼は…私たちが来ることを…予測していた…?)


 騎士団の到着も、計算のうちだったのか?


 爆発の音で、騎士団を誘導した?


 (そんな…)


 でも——


 事実として、全てがうまくいっている。


 アリシアは、部下に告げる。


「この件、詳細を報告書にまとめてください」


「了解しました」


「リアン・フォルテの功績として、記録します」


 騎士たちが、敬礼する。


「了解!」


――――――――


 リアンの隣で、ミレイユはリアンの手を握りながら思っていた。


 (リアンさんは…私を助けるために…)


 血まみれの顔を見る。


 腫れ上がった頬。切れた唇。


 (こんなに傷ついて…それでも…来てくれた…)


 涙が、止まらない。


 (そして…爆発も…リアンさんが…)


 自分が火をつけた。


 でも——


 リアンが、油を流した。


 偶然?


 いや、違う。


 (リアンさんは…きっと…あの時、わざと油壺を倒したんだ…)


 ミレイユの中で、確信が生まれる。


 (火薬の量も…計算していた…)


 だから、爆発は制御されていた。


 誰も死ななかった。


 盗賊たちは、無力化されただけ。


 (リアンさんは…優しい人だ…)


 敵でさえ、殺さない。


 そんな人が——


 ミレイユの胸が、熱くなる。


 (私は…この人が…)


 好き。


 はっきりと、自覚した。


 この人を、守りたい。


 支えたい。


 いつも、一緒にいたい。


 ミレイユは、リアンの手を、両手で包んだ。


 震える手。


 でも、温かい手。


 (私…もっと強くなる…)


 決意。


 (次は…私が…リアンさんを守る…)


――――――――


 リアンは意識の端で、ぼんやりと思っていた。


 (助かった…よかった…)


 アリシアの腕の温かさ。


 ミレイユの手の温もり。


 (みんな、無事で…)


 それだけで、充分だった。


 (俺は…何もできなかったけど…)


 転んで。


 落ちて。


 隠れて。


 逃げた。


 それだけ。


 偶然が重なっただけ。


 油壺を倒したのも、偶然。


 ミレイユが火をつけたのも、偶然。


 爆発が制御されたのも——


 火薬の量がたまたま少なかっただけ。


 全部、偶然。


 (でも…結果オーライ、かな…)


 意識が、暗闇に沈んでいく。


 でも——


 最後に、小さく笑った。


 (まあ…なんとか…なった…っしょ…)


 そして——


 完全に、意識を失った。


――――――――


 三日後。


 冒険者ギルド。


 酒場は、朝から賑わっていた。


 いつもより、人が多い。


 冒険者たち。商人たち。そして——騎士たちも。


 みんな、同じ話題で持ちきりだった。


「聞いたか? リアンが盗賊のアジトに単独潜入したって」


「マジかよ。しかも、満身創痍で」


「魔術師の女の子を救出したらしいぞ」


「すげえ…Fランクなのに…」


「いや、もうFランクじゃねえだろ。あれは、最低でもBランクの実力だ」


 トムは、カウンターの後ろで苦笑いしている。


 ギルドの雑用係。リアンの数少ない友人の一人。


「あいつ、また無茶しやがって…」


 トムは知っている。


 リアンは、弱い。


 剣も魔法も、才能ゼロ。


 でも——運だけは、異常にいい。


 そして、諦めない。


 それが、リアンだ。


 (でも…今回は…流石にやりすぎだろ…)


 トムは、昨日、療養中のリアンを見舞った。


 包帯だらけ。痛々しい。


 でも、リアンは笑っていた。


「まあ、なんとかなったっしょ」


 後頭部を掻きながら。照れたように。


 いつもの癖。


 その仕草が、リアンらしくて——トムは、思わず笑ってしまった。


 (こいつ、本当に…変わらねえな)


 そのとき——


 ギルドの扉が開いた。


 ざわめきが、止まる。


 全員が、入口を見る。


 アリシア・シルヴァレストが、入ってきた。


 白銀の甲冑。深紅のマント。


 騎士団副長の正装。


 背筋が、完璧に伸びている。一点の隙もない立ち姿。


 プラチナブロンドの髪が、陽光を受けて輝いている。


 紺碧の瞳が、ギルド内を見回す。


 冒険者たちが、緊張する。


 アリシアが、カウンターに向かう。


 トムが、姿勢を正す。


「騎士団副長…何か御用でしょうか」


「リアン・フォルテは?」


 アリシアの声は、凛としている。


「まだ療養中です。三日前の怪我がひどくて…」


「そう…」


 アリシアの表情が、わずかに和らぐ。


 安心したような、残念なような。


 そして、冒険者たちに向き直る。


「皆さんに、騎士団からの公式な報告です」


 全員が、静かになる。


 アリシアの声が、ギルド内に響く。


「三日前、盗賊残党による拉致事件が発生しました」


 冒険者たちが、頷く。


「その際、冒険者リアン・フォルテが単独で追跡し、人質を救出。盗賊を無力化しました」


 拍手が起こる。


 でも、アリシアは手を上げて、制する。


「騎士団が到着した時には、すでに救出は完了していました」


 ざわめき。


「単独で…?」


「マジかよ…」


「Fランクが?」


 アリシアは、続ける。


「リアン・フォルテの功績を讃え、騎士団は彼に感謝状を贈ることを決定しました」


 大きな拍手。


 歓声。


 トムは、頭を抱えた。


 (あいつ…また面倒なことになるぞ…)


 アリシアは、さらに続ける。


「なお、彼の戦術について、騎士団で分析を行いました」


 全員が、耳を傾ける。


「裏口からの潜入」


 冒険者たちが、頷く。


「罠の設置」


「敵の混乱誘発」


「そして、爆発による制圧」


 アリシアの声が、重みを増す。


「すべてが、計算されたものでした」


 静寂。


 そして——


 ざわめき。


「計算…?」


「あのリアンが?」


「でも、あいつ、いつも適当じゃん」


「それが、演技だったってこと?」


 アリシアは、最後に言う。


「彼は…謙虚な方です」


 全員が、アリシアを見る。


「おそらく、自分の功績を過小評価するでしょう」


 (その通りだ)


 トムは心の中で頷く。


「ですが、事実は事実です」


 アリシアの紺碧の瞳が、真剣な光を宿す。


「リアン・フォルテは、英雄です」


 静寂。


 数秒の沈黙。


 そして——


 爆発的な拍手。


 歓声。


 冒険者たちが、立ち上がる。


「リアン!」


「英雄!」


「すげえ!」


 トムは、カウンターに突っ伏した。


「あいつ…本当に、大変なことになる…」


――――――――


 その頃、魔術師協会の図書館。


 ミレイユは、一人で机に向かっていた。


 魔導書を開いている。


 でも——読んでいない。


 ページを見つめているだけ。


 頭の中は、リアンのことでいっぱい。


 首筋の傷は、もう治った。


 浅い傷だった。


 でも——心の傷は、まだ残っている。


 いや、傷ではない。


 もっと違う何か。


 ミレイユは、ノートを開いた。


 インク染みだらけの手で、ペンを持つ。


 でも——


 何も書けない。


 ただ、一つの名前だけ。


「リアン・フォルテ」


 小さく、丁寧に。何度も、何度も。ページが、その名前で埋まっていく。


 ミレイユは顔が熱いのに気づいて、眼鏡を外した。


 ノートを閉じる。両手で、顔を覆う。


「私…どうしちゃったんだろう…」


 耳まで、赤い。


 でも——


 嫌じゃない。


 むしろ——


「好き…なのかな…」


 小さく、小さく、呟く。


 周りに誰もいないのを確認して。


「好き…」


 もう一度。


「リアンさんが…好き…」


 はっきりと。


 ミレイユは、机に突っ伏した。


 耳まで真っ赤にして。


 でも——


 その顔は、幸せそうだった。


――――――――


 リアンは、ベッドの上で目を覚ました。


 包帯だらけ。


 肋骨を固定する布。


 顔の腫れは、少し引いた。


 でも、まだ痛い。


 全身が、痛い。


「…生きてる…」


 天井を見上げる。


 木の梁。古い染み。


 いつもの天井。


 (ミレイユさん、無事だったな…)


 あの時の光景を思い出す。


 洞窟から出た時。


 アリシアが駆けつけてくれた時。


 ミレイユが、泣いていた時。


 (よかった…本当に…)


 それだけで、満足だった。


 自分が怪我をしたことなんて、どうでもいい。


 ミレイユが無事なら、それでいい。


 ベッドの脇にある、小さなテーブル。


 そこに、手帳が置いてある。


 トムが、拾ってきてくれたらしい。


 血で汚れている。


 ページも破れている。


 でも——まだ使える。


 リアンは、手を伸ばす。


 痛い。腕が痛い。


 でも、我慢して、手帳を取る。


 開く。


 『今日の反省』


 震える手で、ペンを持つ。


 書く。


「もっと強くならないと。次は、ちゃんと守れるように」


 それだけ。


 そして、手帳を閉じる。


 (まあ…今回は…)


 小さく笑う。


 痛い。笑うと、顔が痛い。


 でも——


 (なんとか…なった…っしょ)


 そして——


 また、眠りに落ちた。


――――――――


 アリシアは、窓辺に立っていた。


 月明かりが、プラチナブロンドの髪を照らす。


 ハーフアップをほどき、髪を下ろしている。


 腰まで届く長い髪。


 普段の凛々しさとは違う、柔らかい雰囲気。


 手には、報告書。


「リアン・フォルテ…」


 その名前を、小さく呟く。


 報告書には、詳細が書かれている。


 裏口からの侵入。


 罠の設置。


 爆発による制圧。


 全て——完璧な作戦。


 (あなたは…いつも私の予想を超える…)


 胸の奥が、温かい。


 尊敬。


 畏怖。


 そして——


 (もっと…知りたい…)


 でも——


 脳裏に浮かぶのは、あの光景。


 リアンとミレイユ。


 寄り添いながら、洞窟から出てきた姿。


 お互いを支え合っていた姿。


 ミレイユが、リアンの手を握りしめていた姿。


 胸の奥が、チクリとした。


 (私は…何を考えているの…?)


 自分の感情が、わからない。


 嫉妬?


 まさか。


 そんなはずない。


 でも——


 (次は…私が…彼の隣に…)


 そう思っている自分がいた。


 アリシアは、報告書を机に置く。


 そして、窓の外を見る。


 月が、美しい。


 でも——


 その美しさが、今は少しだけ寂しく感じる。


――――――――


 ミレイユは、下宿のベッドに座っていた。


 膝の上に、ノートを開いている。


 でも——読んでいない。


 ただ、ぼんやりと見つめているだけ。


 ページには、さっき何十回も書いた名前が並んでいる。インクが少し滲んでいた。


 ミレイユは、そのページをそっと撫でる。


 (リアンさん…)


 頬が、熱い。


 眼鏡を外して、枕の上に置く。


 ぼやけた視界。


 でも、ノートの名前は見える。


 (あの人は…私を助けてくれた…)


 血まみれで。


 満身創痍で。


 それでも、来てくれた。


「友達、だから」


 その言葉が、胸に響く。


 (でも…私は…)


 友達以上の感情を、持ってしまった。


 好き。


 ミレイユは、ノートを抱きしめた。


 顔を、ノートに埋める。


「好き…」


 小さく呟く。


「リアンさんが…好き…」


 ベッドに横になる。


 ノートを、胸に抱いたまま。


 (私…もっと強くなる…)


 決意。


 (次は…私が…リアンさんを守る…)


 そして——


 (いつか…この気持ちを…伝えられたら…)


 ミレイユは、眼を閉じた。


 その顔は——


 幸せそうだった。


第4話、お読みいただきありがとうございます。


今回はリアン視点とミレイユ視点を中心に、洞窟脱出のてんやわんやをお届けしました。


「転んで足跡を発見」「間違えて棚を叩いて樽に飛び込む」「崖から落ちた先に偶然裏口」——全部リアン本人は「やべえ死ぬ」と思っているのですが、結果だけ切り取ると英雄の行動に見えてしまう悲劇です。


ミレイユが魔導書なしで《炎槍》を成功させたシーン、書いていて一番気持ちよかった場面です。彼女にとっては人生で初めての快挙なのに、傍から見ると「当然のように援護してくれた」扱いになっているのが……つらい。


そしてアリシアの「彼は英雄です」発言、騎士団の公式記録にまで残ってしまいました。リアンが目を覚ました時の絶望が今から楽しみです。


次の第5話では、噂がついに「歌」になります。吟遊詩人セリア・ハーモニアが本格登場。「これは英雄譚の始まりの章!」と大興奮で歌い始めます。リアンが知らないところで伝説が加速していくお話です。


引き続きお付き合いいただければ幸いです。


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