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第3話 届かない手

 朝靄が街を包む時刻。リアン・フォルテ(りあん・ふぉるて)は冒険者ギルドの扉を押し開けた。


 くすんだ緑色のチュニックは、袖口がほつれている。腰に下げた革ベルトには、何度も修理された短剣と、使い込んでボロボロになった手帳が入ったポーチ。灰色のフード付きマントは、端が擦り切れて糸が垂れていた。


 冒険者として半年。装備は全て使い古されているが、清潔には保っている。それがリアンなりの矜持だった。


「リアンさん」


 入口の柱の影から、小さな人影が現れた。


 ミレイユ・ノーネーム(みれいゆ・のーねーむ)


 152センチの小柄な体は、リアンの肩ほどまでしか届かない。深い紫色の魔術師ローブは彼女には大きすぎて、裾が石畳を引きずっている。


 淡い藤色の髪は肩甲骨まで伸び、毛先が不揃いにハネていた。細くて柔らかい髪質は寝癖がつきやすく、今朝も左側だけが妙に膨らんでいる。


 銀縁の丸眼鏡の奥で、琥珀色の大きな瞳がリアンを見上げていた。


「今日も一緒に行っていいですか」


 腕には分厚い魔導書を三冊抱えている。革のショルダーバッグからはノートの端がはみ出し、インクで青黒く染まった指先が、無意識にローブの裾を握りしめていた。


「ああ、いいけど」


 リアンは後頭部を掻きながら答えた。癖だった。困った時、照れた時、無意識にそうしてしまう。


 くすんだ黒髪が指の間をすり抜ける。襟足が首にかかる程度のミディアムヘア。光を受けると深い茶色にも見えるその髪は、柔らかくて細い。


「危なくないとこだし」


 深い灰色の目が、ぼんやりとミレイユを見る。やや垂れ気味のアーモンド型。どこか遠くを見ているような、焦点の定まらない目。


 ミレイユはその視線を「達観している」と解釈する。


 実際は、単に寝不足でぼんやりしているだけだった。


「ありがとうございます」


 ミレイユが小さく微笑む。血色の悪い頬がわずかに染まり、眼鏡を指で押し上げた。


――――――――


 街を出て、北の森へ向かう。


 初夏の陽光が木漏れ日となって二人を照らす。風が木々を揺らし、葉擦れの音が森に満ちていた。


 リアンは無意識に周囲を見回しながら歩く。音を立てずに歩くのは、怖がりゆえの習性だ。目立ちたくない。何かに見つかりたくない。


 だが、ミレイユの目には「気配を消して歩く達人」に映る。


「この辺りに、目当ての薬草があるはずです」


 ミレイユがショルダーバッグからノートを取り出す。インク染みだらけのページを繰りながら、早口で続ける。


「『月見草』。夜に花を咲かせる薬草で、解熱作用があります。この時期は葉だけですが、それでも薬効は……」


 途中で自分が早口になっていることに気づき、口を噤んだ。頬が赤くなる。


「興奮すると早口になるんですね、私」


「いいんじゃね。詳しいの、すごいと思うし」


 リアンの言葉に、ミレイユは眼鏡を何度も押し上げた。耳まで赤くなっている。


 二人は並んで歩く。


 172センチのリアンと、152センチのミレイユ。20センチの身長差。ミレイユが見上げ、リアンが見下ろす形になる。


「リアンさんは、いつから冒険者を」


「んー、半年くらいかな」


 リアンは空を見上げた。面長の顔に、整っているが主張しない鼻。薄めの唇は口角がやや下がり気味で、ぼんやりした印象を与える。


「実家の手伝いだけじゃ食えなくなってきたから」


「ご実家は?」


「雑貨屋。親父とお袋がやってる」


 リアンの目が少し柔らかくなった。家族の話をする時だけ、遠くを見るような目が、穏やかな光を宿す。


「妹もいる。生意気だけど、まあ、可愛いやつだよ」


 ミレイユはその表情を見逃さなかった。


 ショルダーバッグからペンを取り出し、ノートに何かを書き込む。


 『家族を大切にしている。表情が柔らかくなった。データポイント追加』


「ミレイユさんこそ、なんで俺なんかと一緒に?」


 リアンの問いに、ミレイユの手が止まった。


 髪をくるくると指に巻きつける。考え込む時の癖。


「……研究の、ためです」


「研究ね」


「はい」


 ミレイユの頬が、また赤くなった。


 藤色の髪が風に揺れる。光を受けると銀紫に輝くその髪が、彼女の透き通るような白い肌に影を落とす。


 目の下にはうっすらとクマがある。夜遅くまで研究しているのだろう。


 (放っておいたら倒れそうだな、この子)


 リアンはそう思ったが、口には出さなかった。


――――――――


 森の奥に入ると、木々が密集し、陽光が遮られた。


 薄暗い森の中、二人は薬草を探す。


「あ、ありました」


 ミレイユが茂みの奥を指さす。確かに、特徴的な葉の形をした薬草が群生している。


「お、いい目してんな」


「眼鏡のおかげです。裸眼だと0.1以下なので」


 ミレイユが自虐的に笑う。銀縁の丸眼鏡を指で押し上げながら。


「じゃあ俺はこっち探すから、そっち頼む」


「はい」


 ミレイユが離れかけて、振り返った。


「あの……リアンさん、間違えて毒草を取らないでくださいね。月見草と似た葉の——」


「あー、大丈夫。手帳に全部書いてあるし」


 リアンがポケットから擦り切れた手帳を振って見せる。ミレイユの頬が、少し緩んだ。


「……それ、いつも持ち歩いてるんですね」


「まあ、脳みそ信用できないんで」


 二人は少しだけ離れた。


 リアンは手帳を取り出し、薬草の特徴を確認する。擦り切れた革表紙。何度も読み返されたページは、端が折れ曲がっている。


 ミレイユは茂みの奥へ進んでいく。大きすぎるローブの裾が、落ち葉を引きずる音がした。


 それが、最後の平穏だった。


――――――――


 ミレイユは茂みを掻き分けながら、月見草の葉を慎重に摘んでいた。


 藤色の髪に木の枝が引っかかる。小さく息を吐き、指で髪を解く。インクで汚れた指先が、柔らかな髪に触れる。


 (もう少し……この辺りに群生しているはず)


 ショルダーバッグからノートを取り出そうとした、その時。


 背後で、枝が折れる音がした。


 振り返る。


 誰もいない。


 でも、確かに聞こえた。


 琥珀色の瞳が、周囲を見回す。眼鏡越しの視界に映るのは、木々と茂みだけ。


 (……気のせい?)


 胸の奥で、小さな不安が芽生える。


 心臓の鼓動が、わずかに速くなる。


 (リアンさんを呼ぼうか……でも、気のせいで呼んだら迷惑かもしれない)


 迷う。


 そして、その迷いが——致命的だった。


 左から。


 突然、手が伸びてきた。


 粗末な服の袖。土と汗と、血の匂い。


 その手が、ミレイユの細い腕を掴んだ。


「きゃっ……!」


 短い悲鳴。


 魔導書が手から滑り落ちる。重い音を立てて、地面に散らばる。


 ミレイユは引きずられる。茂みから、木々の間へ。


 視界が回る。足が地面を蹴れない。


 そして——囲まれた。


 三人。


 粗末な服。手入れされていない髭。濁った目。手には錆びたナイフや棍棒。


 盗賊。


 ミレイユの思考が、一瞬で真っ白になる。


 息ができない。


 首筋に、冷たいものが当たった。


 金属。刃。


 ナイフだ。


 (動けない……声も……)


 リアンは反射的に振り返り、走った。


 手帳を放り出し、茂みを掻き分ける。枝が頬を引っ掻いたが、構わなかった。


 ミレイユがいた場所に辿り着く。


 そこで見たのは——三人の男に囲まれたミレイユの姿だった。


 一人がミレイユの細い腕を掴み、もう一人が首筋にナイフを当てていた。


 ミレイユの琥珀色の瞳が、恐怖で見開かれている。銀縁の眼鏡が少しずれ、藤色の髪が乱れていた。白い肌に、ナイフの刃が冷たく光る。


 (怖い……怖い……)


 心臓が、激しく打っている。全身の血液が、頭に集まっていくような感覚。耳鳴りがする。


 腕を掴む手が、痛い。爪が皮膚に食い込んでいる。


 首筋のナイフが、体温を奪っていく。刃の冷たさが、骨まで染み込むよう。


 (魔法を……唱えなきゃ……)


 でも、できない。


 喉が震えて、声が出ない。頭が真っ白で、魔法陣の形が思い出せない。


 手が、震えている。


 (私は……何もできない……)


 その時、茂みが揺れた。


 リアンが飛び出してくる。


 血の気の引いた顔。息を切らせて。でも、真っ直ぐにこちらを見て。


 (来ちゃダメ……逃げて……)


 心の中で叫ぶ。でも、声にならない。


「動くな」


 低い声。


 リアンは足を止めた。


 顔色が青ざめている。息が荒い。


 深い灰色の目が、ミレイユと盗賊たちの間を不安そうに泳ぐ。


「お前……リアン・フォルテだな」


 リーダー格の男が、リアンを睨む。顔に古い傷がある。左頬から顎にかけて、斜めに走る刃傷。


「忘れたか? お前が騎士団に売った、俺たちの仲間のことを」


 盗賊残党。


 第1話で壊滅した、あの盗賊団の生き残り。


「お前のせいで、仲間が何人捕まったと思ってる」


 リアンの唇が震える。声が出ない。


「俺は何も……」


「黙れ」


 男がナイフをミレイユの首筋に押し当てる。


 刃が、皮膚に触れる。


 冷たい。金属の冷たさ。骨まで凍るような、冷たさ。


 そして——


 刃が、動く。


 皮膚を裂く感覚。


 ちくり——と、小さな痛み。


 そして、熱い。


 焼けるような熱さが、首筋を走る。


 温かいものが、首筋を伝う。


 濡れる感覚。粘つく感覚。


 生温かい液体が、鎖骨に向かって流れていく。


 血だ。


 自分の血。


 一筋の赤い線が、白い首筋に浮かぶ。


 ローブの白い襟が、赤く染まっていく。


「っ……!」


 ミレイユは声を上げたかったが、喉が動かない。息を呑むことしかできない。


 首を動かせない。動かせば——刃が、もっと深く入る。


 痛みに顔が歪む。大きな瞳から、涙が溢れる。


 眼鏡が涙で曇る。視界が滲む。


 空気が、傷口に触れる。痛い。


 (痛い……怖い……死ぬ……?)


 心臓が、激しく打つ。血が流れ出る感覚が、拍動ごとに強まる。


「余計なことを言えば、この女の首が飛ぶ」


 リアンは黙った。


 拳を握りしめる。手が震えている。


――――――――


「お前を殺すつもりだった」


 男が言う。傷のある顔が、歪んだ笑みを浮かべる。


「だが、気が変わった」


「……何が望みだ」


 自分の声が掠れている。


「この女を連れていく」


 血の気が引く音が、自分でも聞こえた気がした。


「待て……俺を連れていけ。彼女は関係ない」


「関係ない?」


 男が嗤う。黄ばんだ歯が見えた。


「お前と一緒にいた時点で関係あるんだよ」


 男がリアンを見下す。頭のてっぺんから爪先まで、値踏みするように。


 くすんだ緑のチュニック。擦り切れたマント。何度も修理された短剣。


「お前みたいな弱そうな奴、人質の価値もねえ」


 その言葉が、リアンの胸に突き刺さる。


 弱い。


 価値がない。


 分かっている。分かっているけど。


「リアンさん……逃げて……」


 ミレイユが、震える声で言う。


 琥珀色の瞳が、涙で濡れている。血色の悪い頬に、涙の筋が光る。


「私のことは、いいから……」


「馬鹿言うな」


 リアンは、一歩前に出た。


 膝が笑っている。足が震えている。


 でも、引けない。


「彼女を離せ」


「あ?」


「離せって言ってんだ」


 声が震えている。情けないほどに。


 でも、視線は逸らさなかった。


 深い灰色の目が、真っ直ぐに男を見据える。


 普段のぼんやりした光はない。そこにあるのは、必死さだけだった。


「……面白い」


 男がニヤリと笑う。


「英雄気取りか? Fランクの分際で」


「英雄なんかじゃない」


 リアンは言った。


 薄い唇が、震えながらも言葉を紡ぐ。


「俺は弱い。何もできない。分かってる」


「なら——」


「でも」


 リアンは、男を睨んだ。


 垂れ気味の目尻が、わずかに吊り上がる。声は震えている。膝は笑っている。格好なんかつかない。


 それでも——


「友達を見捨てることだけは、しない」


 沈黙。


 風が木々を揺らす。葉擦れの音だけが、森に響く。


 ミレイユが息を呑んだ。


 (友達……?)


 リアンの言葉が、胸に響く。


 今まで、そんな言葉をかけてくれた人はいなかった。


 孤児院では、才能を妬まれた。魔術師協会では、出自を蔑まれた。


 誰も、友達だなんて言ってくれなかった。


 でも——


 リアンは、あっさりとそう言った。


 当たり前のように。


 まるで、疑いようもない事実のように。


 琥珀色の瞳に、新たな涙が浮かぶ。


 でもそれは、恐怖の涙ではなかった。


 (どうして……どうしてそんなこと言うの……)


 心が、熱くなる。


 涙が止まらない。


 男が、口を開いた。


「……殺せ」


――――――――


 最初の一撃は、腹だった。


 盗賊の拳が、リアンの腹に深く沈む。


 内臓が、握り潰されるような感覚。


 息が——出ない。


 肺の空気が、一瞬で押し出される。


 息を吸おうとするが、喉が動かない。


 視界が歪む。白く光る。


 胃の中のものが逆流しそうになる。口の中に、酸っぱいものが込み上げる。


 膝をついた瞬間、顔面を蹴られた。


 鼻が潰れる音——ぐしゃり、という濡れた音。


 骨が軋む音が、頭蓋骨の内側で響く。耳の奥で、何かが鳴っている。高い音。キーンという金属音。


 世界が回転する。


 地面が迫る。


 顔から落ちる。


 落ち葉の匂い。カビた土の匂い。太陽で温まった地面が、頬に熱を伝える。


 口の中——鉄の味。濃い。粘つく。舌が切れている。奥歯がぐらつき、血が喉に流れ込む。


 呼吸ができない。鼻が——折れている。


「リアンさん……!」


 ミレイユの悲鳴が聞こえる。


 声が裏返っている。喉が潰れそうなほどの、絶叫。


 腕を掴まれているが、構わず体を前に投げ出そうとする。


 でも、引き戻される。


 (行かせて……! リアンさんが……!)


 立ち上がろうとするリアン。


 震える腕で、地面を押す。


 ミレイユの胸が、締め付けられる。


 (立たないで……もう……)


 でも、リアンは立ち上がろうとする。


 そして——


 また蹴られる。


 横腹に。深く。


 ごぎゃり——という音が、体の内側から聞こえる。


 骨だ。


 肋骨が——折れた。


 鋭い痛みが、一瞬遅れて襲ってくる。


 息ができない。肺が、萎む。空気が、入らない。


 喉が、ひゅうひゅうと鳴る。


 折れた骨が、内側から肉を突く。針のように。千本の針が、内臓を刺している。


「やめて……! やめてください……!」


 ミレイユが叫ぶ。


 喉が痛い。声が枯れる。でも、叫ぶ。


 藤色の髪が乱れ、眼鏡がずれ落ちそうになっている。琥珀色の瞳から、涙が止まらない。


 視界が涙で滲んで、何も見えない。


 でも、音は聞こえる。


 ごすっ——肉を殴る音。


 どす——骨に当たる音。


 ひゅう——リアンの喉が鳴る音。


 空気を吸おうとして、吸えない音。


 (私のせいだ……私がいたから……)


 でも、暴力は止まらない。


 顔を。腹を。背中を。何度も。何度も。


 くすんだ緑のチュニックが、血で黒く染まっていく。


 鉄と土と汗の匂いが混ざり合って、ミレイユの鼻を刺す。


「……っ」


 それでも、リアンは手を伸ばす。


 ミレイユの方へ。


 152センチの小さな体。震えている肩。涙に濡れた頬。


「逃げ……ろ……」


 声にならない声。


 口から血が溢れる。


 だが、ミレイユは逃げない。逃げられない。


 捕まっているから。


 そして——捕まっていなくても、きっと逃げなかっただろう。


「しぶといな」


 男がリアンの黒髪を掴み、顔を上げさせる。


 血まみれの顔。腫れ上がった頬。切れた唇。


 それでも、深い灰色の目は、ミレイユを見ていた。


「まだ意識があるのか」


「……はな、せ……」


「何だって?」


「ミレイユさんを……離せ……」


 男が笑う。


「大したもんだ。こんだけやられて、まだ女の心配か」


 男がリアンを投げ捨てる。


 地面に転がる。落ち葉が舞い上がる。


 視界が霞む。


 もう、立ち上がれない。


「行くぞ。この女は預かっておく」


 ミレイユの体が、引きずられる。


 (嫌だ……置いていかないで……)


 リアンを見る。


 血まみれの顔。開かない目。動かない体。


 地面に、倒れたまま。


 でも——


 その手が、動いた。


 わずかに。


 震えながら。


 こちらへ向かって、伸びてくる。


 血に汚れた手。震える指先。


 爪が剥がれている。皮膚が裂けている。


 それでも——伸ばしてくる。


 ミレイユの方へ。


 (届かない……)


 二人の間の距離が、広がっていく。


 三メートル。五メートル。十メートル。


 ミレイユは、喉が裂けるほどの声で叫んだ。


「リアンさん……!」


 足音が遠ざかっていく。


 木々が、視界を遮る。


 それでも、リアンの手が見える。


 まだ、伸ばしている。


 諦めていない。


 (ごめんなさい……ごめんなさい……)


 涙で、もう何も見えない。


 藤色の髪が、乱れて顔を覆う。


 銀縁の眼鏡が、涙で曇りきっている。


 首筋の傷から、まだ血が滲んでいる。


「リアンさん……!!」


 最後の叫び。


 それきり——


 リアンの姿が、木々の向こうに消えた。


 届かない。


 手が、届かない。


 ミレイユの心に、大きな穴が開いた。


――――――――


 静寂。


 森に、沈黙が戻る。


 鳥の声すら聞こえない。


 リアンは地面に倒れたまま、動けなかった。


 全身が痛い。


 肋骨が折れているかもしれない。息をするたびに、鋭い痛みが走る。


 顔は腫れ上がり、片目がほとんど開かない。


 でも、それ以上に——心が痛い。


 ミレイユを守れなかった。


 何もできなかった。


 弱いから。


 価値がないから。


「くそ……」


 涙が溢れる。


 血と混じって、地面に落ちる。


 悔しい。


 自分が情けない。


「くそっ……くそっ……」


 拳を地面に叩きつける。


 皮が剥け、血が滲む。


 でも、そんな痛みは、どうでもいい。


 ミレイユが、連れ去られた。


 152センチの小さな体。ローブの裾を引きずる姿。眼鏡を押し上げる仕草。早口で話す癖。


 恥ずかしそうに笑う顔。


 興奮すると早口になって、気づいて頬を赤らめる姿。


 研究の話をする時の、輝く目。


 どこに連れて行かれるのか分からない。


 何をされるのか分からない。


 暗い場所。冷たい場所。


 独りぼっちで。


 怖がって。


 泣いて。


 助けを呼んで——


 でも、誰も来ない。


 想像するだけで、吐き気がする。


 胃の中のものが、込み上げる。


 でも、何も出ない。空っぽだ。


「……動け」


 自分に言い聞かせる。


「動け……動けよ……」


 腕に力を入れる。


 体が悲鳴を上げる。


 でも、止まれない。


(まあ……なんとか……なる……っしょ)


 いつもの口癖。


 弱々しい。


 説得力、ゼロ。


 でも——それでも、自分に言い聞かせる。


 止まったら、ミレイユを助けられない。


 リアンは、震える腕で体を起こした。


 立ち上がろうとして、膝が折れる。


 また倒れる。


 また起き上がる。


 何度も。


 何度でも。


 くすんだ緑のチュニックは、もう原形を留めていない。血と泥にまみれ、破れ、ボロボロだ。


 灰色のマントは、どこかに落としてしまった。


 でも、そんなことは、どうでもいい。


「……待ってろ」


 ようやく、立ち上がる。


 足元がふらつく。


 視界がぼやける。


 深い灰色の目に、いつものぼんやりした光はない。


 そこにあるのは、一つの決意だけだった。


「絶対に……助けに行く……」


 リアンは、一歩を踏み出した。


 盗賊たちが消えた、森の奥へ。


――――――――


 だが、彼は知らなかった。


 盗賊残党のアジトは、森の奥深く——通常の人間には辿り着けない場所にあることを。


 そして、彼が向かう先には——もっと大きな危険が待ち受けていることを。


 リアンの戦いは、まだ始まったばかりだった。


第3話をお読みいただき、ありがとうございます!


今回はコメディ成分を控えめにして、ガッツリ重めの展開を書かせていただきました。


リアンの「友達を見捨てることだけは、しない」という台詞——本人は震えながら言っているし、格好なんか全然ついていないんですが、それがむしろ刺さってくれれば嬉しいです。英雄だから助けに行くわけじゃなくて、弱いくせに引けない、というだけの話。ミレイユはそれを「英雄の資質」と解釈するんでしょうけど(笑)。


(まあ……なんとか……なる……っしょ)という満身創痍の口癖、こういう使い方が一番好きです。


次回の第4話では、倒れそうなリアンが森の奥へ向かう続きです。例によって「偶然」が積み重なっていきます。


感想・評価いただけると、次の話を書く燃料になります! よろしくお願いします。


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