第2話 日常の中の小さな違和感
騎士団詰所。
松明の明かりが、白い壁に影を落としている。執務室の扉が閉まり、外の喧騒が遠のいた。
|アリシア・シルヴァレスト《ありしあ・しるう゛ぁれすと》は、机の前に座っていた。
白銀の甲冑を脱ぎ、白いブラウスと黒のズボン姿。肩まで伸びた髪を後ろで結び、ペンを握る。
背筋が、まっすぐ伸びている。
騎士としての訓練が染み付いている。執務でも、戦闘でも、姿勢は常に完璧に。
それが、アリシア・シルヴァレストという騎士の矜持だった。
目の前には、真っ白な羊皮紙。
『盗賊団壊滅作戦 事後報告書』
タイトルだけが書かれている。
その下は――空白。
(何から書けばいい?)
アリシアは、ペンを握る手に力を込めた。
今日の作戦は成功だった。盗賊団は壊滅し、人質は全員無事。騎士団の損害もゼロ。
でも――
(リアン・フォルテ)
その名前が、頭から離れない。
Fランクの冒険者。戦闘能力は低いと聞いていた。でも、今日の彼の動きは――
アリシアは、ペンを走らせた。
『■ 作戦経過』
『14時30分:商人護衛依頼中、盗賊団の襲撃を受ける』
『同行冒険者:リアン・フォルテ(Fランク)』
ペンが止まる。
次に書くべきは、リアンの「行動」だ。
でも――どう書けばいい?
(彼は、逃げた)
それは事実だ。盗賊が現れた瞬間、荷台から飛び降りて、森の中へ走った。
でも、その後――
(地面が抜けて、隠れ家に落ちた)
偶然?
アリシアの手が、再び動く。
『14時35分:リアン・フォルテ、森の中で地面の陥没に遭遇』
『結果:盗賊団の隠れ家(地下施設)への侵入に成功』
「成功」と書いてから、アリシアは違和感を覚えた。
(偶然、落ちただけ。でも……)
思い出す。暗い地下で、リアンがへばりついていた場所。
あれは、盗賊たちの視界から完全に隠れた位置だった。松明の光が届かない影。人質の檻からも見える角度。
(あの位置に、偶然たどり着ける?)
アリシアは、ペンを噛んだ。
インクが唇に付く。気づかない。
(私が到着した時、彼は動かなかった。息を殺して、じっと待っていた)
(盗賊たちが私に気を取られている間、彼は人質の位置を確認していた)
(あれは――)
ペンが、再び羊皮紙に触れる。
『14時40分:アリシア・シルヴァレスト、隠れ家に到着』
『リアン・フォルテは既に内部に潜入済み』
『注目すべき点:彼の位置取りは、敵の視界外かつ人質の監視が可能な地点』
『これにより、私の突入時、人質の安全確認が即座に可能となった』
書き終わってから、アリシアは自分の文章を読み返した。
(…… 「位置取り」?)
自分で書いておいて、疑問が湧く。
(落ちた先が、たまたまあの場所だっただけじゃないの?)
でも――
アリシアの脳裏に、作戦中のリアンの姿が蘇る。
土下座して命乞いをするリアン。盗賊たちの嘲笑。でも、その間、私は外で準備を整えていた。
もし彼が抵抗していたら? もし彼が暴れていたら?
盗賊たちは警戒を強め、人質を盾にしただろう。
(彼は…時間を稼いでくれた?)
アリシアの手が、震えた。
(いや、違う。彼は怖がっていた。本当に怖がっていた)
(でも、結果的に――)
ペンを握り直す。インクが滲む。
『リアン・フォルテの行動は、結果的に作戦の成功に大きく寄与した』
『潜入経路の確保、人質位置の確認、敵の注意の分散』
『これらは――』
書きかけて、アリシアはペンを止めた。
(これらは、「偶然」だと書くべき?)
(それとも――)
窓の外を見る。夜の街。星が瞬いている。
思い出すのは、カフェでのリアンの言葉。
『「偶然っすよ。地面が抜けて落ちただけだし」』
彼は、本気でそう言っていた。
嘘をついている様子はなかった。謙遜でもない。本当に、心からそう思っている。
(なぜ?)
アリシアは椅子に背を預けた。いつもなら保つ背筋が、わずかに丸くなる。
天井を見上げる。木材の梁。松明の光が揺れている。
(彼は、自分の行動を「偶然」だと思っている)
(でも、客観的に見れば――あれは、高度な判断の連続だった)
アリシアは再び報告書に向き直り、背筋を伸ばした。
ペンを握る。決意を込めて。
『■ 評価』
『リアン・フォルテ(Fランク冒険者)の行動は、今回の作戦成功に不可欠だった』
『本人は「偶然」と主張しているが、その行動パターンには一貫性が見られる』
『推測:実力を隠している可能性』
『または:無自覚な戦術的直感を持つ可能性』
『いずれにせよ、今後の作戦において、協力を要請する価値がある』
書き終えて、アリシアは息を吐いた。
これでいい。
いや、これが「正しい評価」だ。
(彼のおかげで、誰も死ななかった)
(誰も傷つかなかった)
(それは――偶然じゃない)
アリシアは、報告書を乾かすため、机の端に置いた。
立ち上がり、窓辺に歩く。
夜風が、頬を撫でる。冷たい。でも、気持ちいい。
(リアン・フォルテ)
その名前を、心の中で繰り返す。
(もう少し、話してみたい)
(彼が――何を考えているのか、知りたい)
星が、瞬いている。
アリシアは知らない。
この報告書が、明日、騎士団長の手に渡ること。
そして、それが「公式記録」として、騎士団全体に共有されること。
その時――
「リアン・フォルテ」という名前が、騎士団の中で「特別な意味」を持ち始めることを。
――――――――――――――――――――――
翌朝。リアンは冒険者ギルドの扉を開けた。
(昨日の盗賊団の件は、もう忘れよう)
あれは完全に事故だった。地面が抜けて、騎士団の作戦に巻き込まれて、訳も分からないうちに生還した。なぜか功労者扱いされたが、俺は何もしていない。
(うん、何もしていない。だから今日からは、いつも通りでいける)
そう自分に言い聞かせて、リアンは一歩を踏み出した。
ギルドの中は、朝から活気に満ちていた。冒険者たちが依頼掲示板を囲み、今日の仕事を探している。リアンもその中に混じって、掲示板を眺めた。
「薬草採取、報酬は銀貨5枚か…」
リアンは、手帳を取り出してメモを取った。依頼の場所、納期、必要な道具。几帳面に書き込んでいく。
これがリアンの日常だった。
地味な依頼を選び、計画を立て、確実にこなす。派手な戦闘は避け、危険は回避し、とにかく生き延びる。それがリアンの冒険者スタイルだった。
「おー、リアン」
声をかけられて振り返ると、ギルドの雑用係トムが手を振っていた。
「よう、トム。おはよう」
「おはよう。昨日の件、すごかったな」
リアンは、手帳をポケットにしまいながら苦笑した。
「いや、あれは…まあ、色々あったけど」
「謙遜すんなって。騎士団と共闘なんて、Fランクじゃ普通ないぞ」
「共闘っていうか、巻き込まれたっていうか…」
トムは、リアンの肩を叩いた。
「まあ、無事で良かったよ。報酬、ちゃんと受け取ったか?」
「ああ、昨日受け取った」
「そっか。じゃ、今日も頑張れよ」
トムは、そう言って受付の方へ戻っていった。
リアンは、再び掲示板を見た。薬草採取の依頼を選び、受付に向かう。
「すみません、この依頼、受けます」
受付嬢が、依頼書を受け取った。
「はい、リアンさん。薬草採取ですね」
リアンさん。
いつもは「リアン」と呼び捨てだったのに、今日は「さん」付けだ。
(気のせい…だよな?)
リアンは内心で首を傾げた。
「納期は明日までです。お気をつけて」
「あ、はい。ありがとうございます」
なんだろう、この微妙な丁寧さ。
(まさか、昨日の件じゃないよな…? いや、あれ俺何もしてないし…)
深く考えないことにした。考えても碌なことにならない気がする。
リアンは依頼書を受け取り、ギルドを出た。
掲示板の隅に、小さな張り紙があるのに気づかなかった。
『盗賊残党の目撃情報あり。森の奥に注意』
それが、次の事件の予兆だとも知らずに。
――――――――――――――――――――――
依頼に向かう前に、リアンは図書館に立ち寄った。
これも日常のルーティンだ。依頼の場所を確認し、地形を頭に入れておく。薬草採取なら、どの薬草がどこに生えているか、事前に調べておく。
図書館は、朝の静けさに包まれていた。
リアンは、棚を見て回った。『薬草図鑑』を探したが、見当たらない。誰かが借りているのかもしれない。
仕方なく、適当に本を手に取った。『地形と戦術』。
別に戦術に興味があるわけじゃない。ただ、森の地形について何か書いてあるかもしれない、と思っただけだ。
そのとき。
「あ…リアンさん」
小さな声が聞こえた。
振り返ると、大きなローブを着た少女が立っていた。銀縁の眼鏡、小柄な体、そして腕に抱えた本の山。
ミレイユ。
二週間前、森で魔獣に襲われているところを助けた――いや、偶然逃げ回っていたら助かった――魔術師見習いだ。
「お、ミレイユさん。おはよ」
リアンは気さくに声をかけた。
ミレイユは、少し緊張したように本を抱え直した。
「おはようございます。その本…戦術の?」
「ああ、これ? いや、薬草図鑑探してたんだけど見つかんなくて。適当に手に取っただけ」
「そう、ですか…」
ミレイユの表情が、ほんの少し意外そうになった。
リアンは気づかなかったが、ミレイユの頭の中では、小さな仮説が生まれ始めていた。
(『地形と戦術』…偶然手に取った、と言った。でも二週間前、彼の動きは地形を完璧に活用していた)
(「適当」と言いながら、無意識に関連書籍に手が伸びる…? これは、身体に染み付いた習慣の可能性がある)
ミレイユの脳内で、小さな仮説ノートが更新された。
「研究、順調?」
リアンが尋ねると、ミレイユは少し驚いたように顔を上げた。
「え、ええ…地道に、進めてます」
抱えていた本が、少しずれる。慌てて抱え直す。
「古代魔法陣だっけ? 難しそうだな」
「ええ…誰も興味を持たない分野なので」
ミレイユは、少し寂しそうに笑った。
以前、図書館で会ったとき、彼女は自分の研究について話してくれた。失われた古代魔法陣を復元する、という、誰も興味を持たないテーマ。
他の人は笑うか、呆れるか、無視するか。
でも、リアンは――
「でも、面白そうじゃん。昔の魔法ってロマンあるし」
リアンは、本当に興味深そうに言った。
からかいじゃない。社交辞令でもない。
ミレイユの胸が、温かくなる。
「…ありがとうございます」
小さく微笑む。顔が熱い。
(この人は…私の研究を笑わない)
言いたいことがある。もっと話したい。
でも、何を話せばいいのか。
普通の人は、こういう時、どう話すんだろう。
「あの…」
ミレイユが口を開いた。
リアンが、待つように顔を向ける。
「リアンさんは…今日も、依頼ですか?」
当たり障りのない質問。
馬鹿みたい。もっと、何か――
「ん? ああ、薬草採取。楽なやつ」
リアンは、後頭部を掻いた。
「ミレイユさんは? 今日も一日中ここ?」
「はい…資料を読まないと…」
会話が、途切れる。
ミレイユは、本を抱え直した。指に力が入る。
(もっと話したい。でも、何を…)
リアンは、時計を見た。
「あ、やべ。そろそろ行かないと」
「あ、はい」
ミレイユの声が、小さくなる。
(もう行っちゃう…)
「頑張ってくださ――」
「あのっ」
ミレイユは、思わず声を上げた。
リアンが、足を止める。振り返る。
「…えっと…」
何を言おうとしたんだろう。
頭が、真っ白になる。
「…気を、つけてください。森、危ないこともあるので」
それだけ。
ミレイユは、眼鏡を何度も押し上げた。耳まで熱い。
「おう、ありがと。まあ、なんとかなるっしょ」
リアンは、笑顔で手を振った。
「じゃあね」
扉が閉まる音。
ミレイユは、その場に立ち尽くした。
(何やってるの…私…)
本を抱え直す。重い。
足が、動かない。
(「気をつけてください」…それだけ?)
もっと言いたいことがあった。
もっと話したかった。
でも、何も言えなかった。
ミレイユは、窓際の席に歩いた。
誰にも見られない場所。
――――――――――――――――――――――
ミレイユ視点。
(また…会えた)
二週間前、助けてもらってから、時々図書館で顔を合わせるようになった。
でも、まだ「顔見知り」程度の関係だ。
もっと話したい。でも、どう話しかければいいのか分からない。
扉が閉まる音。
リアンの足音が、遠ざかっていく。
ミレイユは、抱えていた本を机に置いた。
どさり、と鈍い音。三冊の魔導書が積み重なる。
でも、ミレイユの手は、別の本に伸びた。
小さなポケットから取り出したのは――黒い革表紙のノート。
ボロボロだ。端が擦り切れ、背表紙に亀裂が入っている。何度も開いて、何度も閉じた痕跡。
ミレイユは、窓際の隅の席に座った。
誰にも見られない場所。
ノートを開く。
ページをめくる。カサカサという音だけが、静寂を破る。
タイトルページ。
『観察記録:リアン・フォルテについて』
その下に、小さく。
『(研究目的:確率論的行動分析)』
ミレイユは、空白のページを開いた。
ペンを取り出す。インクで青黒く染まった羽根ペン。
日付を書く。
『■ 第7回観察記録』
そして、今日の出来事を思い出す。
リアンの顔。リアンの声。リアンの手に持っていた本。
(『地形と戦術』……)
ミレイユの手が、震えた。
でも、書く。正確に。感情を排除して。
『場所:図書館』
『時刻:午前9時15分頃』
『遭遇:偶然』
書いてから、「偶然」という文字を見つめる。
(本当に、偶然?)
ペンを握り直す。
『彼が手に取った書籍:『地形と戦術』』
『理由(本人談):「薬草図鑑を探していたが見つからず、適当に手に取った」』
そこまで書いて、ミレイユは眼鏡を外した。
視界がぼやける。
レンズを、ローブの裾で拭く。ゆっくりと。丁寧に。
考える時間を作るために。
(「適当に」手に取った本が、『地形と戦術』)
(でも、二週間前――)
記憶を辿る。
森での魔獣襲撃。リアンが逃げた方向。あれは、木々の間を縫うように。地形の高低差を利用していた。
魔獣の視界から外れ、でも私には詠唱の時間を与えてくれた。
(あれは、地形を「知っていた」動き)
(それとも――本能?)
眼鏡をかけ直す。
視界がクリアになる。
ペンが、再び動く。
『■ 分析』
『仮説A:彼は実際に「適当に」手に取った』
『 → 確率的には、数百冊ある書棚から戦術書を選ぶ確率は低い』
『 → しかし、彼の行動パターンを考慮すると……』
ミレイユは、ページをめくった。
過去の記録。
『■ 第1回観察記録(2週間前・森)』
『彼の退避行動:地形の高低差を利用』
『結果:魔獣の視線を遮断、私に詠唱時間を確保』
『■ 第4回観察記録(5日前・図書館)』
『彼が読んでいた書籍:『森林地帯の生態系』(タイトル確認済み)』
『本人談:「暇つぶし」』
『疑問:なぜ森林の本? 薬草採取の事前調査?』
ミレイユは、今日のページに戻った。
『仮説B:無意識の習慣』
『 → 彼は、必要な情報を「無意識に」選択している可能性』
『 → 本人は自覚していない』
『 → これは、経験による身体化された知識?』
『仮説C:確率操作』
『 → 非科学的だが、可能性として記録』
『 → 彼の「偶然」は、統計的に異常値を示す』
「ここだよ…ここが面白いんだ…」
書いていて、ミレイユは自分の心臓の音に気づいた。
速い。
手のひらが、汗ばんでいる。
(これは…研究の興奮?)
(それとも――)
ミレイユは、ページの余白に、小さく書き込んだ。
『個人的所感:』
ペンが止まる。
何を書けばいい?
(「また会えて嬉しかった」?)
(「話すと、緊張する」?)
(「でも、楽しい」?)
ミレイユは、眼鏡を何度も押し上げた。
耳が、熱い。
(違う。これは研究だ。感情は不要)
ペンを置く。
でも、余白は埋まらない。
『個人的所感:』の後は、空白のまま。
ミレイユは、ノートを閉じた。
抱え込むように、胸に抱く。
「…変数が多すぎる」
誰に言うでもなく、呟く。
窓の外で、鳥が鳴いている。
ミレイユは、ノートをポケットにしまった。
そして、魔導書を開く。
今日の研究課題――古代魔法陣の第三階層理論。
でも、文字が頭に入ってこなかった。
リアンの笑顔が、頭から離れない。
『まあ、なんとかなるっしょ』
あの軽い口調。
あの、どこか遠くを見ているような目。
(なぜ、私は――)
ミレイユは、自分の頬を両手で叩いた。
ぱん、という音。
図書館の司書が、「静かに」という視線を送ってくる。
ミレイユは、小さく頭を下げた。
(集中しなきゃ。研究、研究…)
でも、心の奥で。
小さな声がする。
(また、明日も会えるかな)
――――――――――――――――――――――
同じ頃、騎士団詰所。
訓練場に面した廊下を、一人の騎士が歩いていた。
名前はハインリヒ。ベテラン騎士。アリシアの上司の一人。
手には、羊皮紙の束。
昨夜提出された、盗賊団討伐の報告書だ。
「ふむ…」
ハインリヒは、歩きながら報告書を読んでいた。
アリシアの文字。几帳面で、読みやすい。
作戦経過。結果。評価。
すべて、手順通りに記載されている。
でも――
ハインリヒの目が、ある一文で止まった。
『リアン・フォルテ(Fランク冒険者)の行動は、今回の作戦成功に不可欠だった』
「…Fランク?」
ハインリヒは、足を止めた。
もう一度、その文を読む。
『本人は「偶然」と主張しているが、その行動パターンには一貫性が見られる』
『推測:実力を隠している可能性』
ハインリヒの眉が、上がった。
「実力を隠している…か」
訓練場の方から、剣がぶつかり合う音が聞こえる。
ハインリヒは、報告書を読み続けた。
『いずれにせよ、今後の作戦において、協力を要請する価値がある』
「ほう…」
ハインリヒは、廊下の窓から訓練場を見下ろした。
若い騎士たちが、汗を流している。
その中に、アリシアの姿もある。
白銀の甲冑を身につけ、剣を構え、相手の攻撃を受け流している。
完璧なフォーム。無駄のない動き。
(あの彼女が、Fランク冒険者を評価するとは)
ハインリヒは、報告書を抱え直した。
「これは…団長に報告すべきだな」
彼は、廊下を進んだ。
団長室の扉を叩く。
「失礼します」
「入れ」
低い声。
ハインリヒは、扉を開けた。
団長室。
大きな机。壁には騎士団の紋章。窓からは、街全体が見渡せる。
団長――ギルバート・ストーンハートが、椅子に座っていた。
50代。白髪混じりの短髪。傷だらけの顔。それでも威厳がある。
「報告書か」
「はい。盗賊団討伐の件です」
ハインリヒは、報告書を机に置いた。
ギルバートは、それを手に取り、読み始めた。
無言。
ただ、目だけが動く。
一分。
二分。
そして――
「…リアン・フォルテ」
ギルバートが、その名前を口にした。
「Fランク冒険者、だそうです」
「ふむ」
ギルバートは、報告書を机に置いた。
「アリシアが、ここまで評価するとは珍しい」
「私も驚きました」
「調べたか?」
「いえ、まだ」
「調べろ。ギルドに問い合わせてみろ」
「了解しました」
ハインリヒは、敬礼して部屋を出ようとした。
その時。
「ハインリヒ」
団長が、呼び止めた。
「はい」
「その報告書、回覧に回せ」
「…よろしいのですか?」
「ああ。全騎士に読ませろ」
団長の目が、窓の外を見ていた。
街。人々。そして、どこかにいるであろう「リアン・フォルテ」。
「もし、本当に実力者なら――我々にとって、貴重な協力者になる」
「承知しました」
ハインリヒは、部屋を出た。
数時間後、騎士団詰所の掲示板に、報告書のコピーが貼られた。
それを見た騎士たちが、ざわめき始める。
「リアン・フォルテ? 誰だそれ」
「Fランクだって」
「でも、アリシア様が評価してるぞ」
「実力を隠してる…? なんでまた」
噂は、騎士団の中で広がり始めた。
そして、その日の夕方。
騎士団と取引のある商人ギルドにも、その話が伝わった。
商人たちは、情報を交換する。
そして――
夕暮れ時、冒険者ギルドにも、その噂が届き始めた。
騎士団が注目している冒険者。
Fランクなのに、実力を隠している。
その名は――
リアン・フォルテ。
――――――――――――――――――――――
図書館を出たリアンは、街のカフェに立ち寄った。
いつもの席。窓際の、静かな場所。
依頼に出る前に、計画を確認する。これもルーティンだ。
コーヒーを注文し、手帳を開く。
薬草採取。場所は北の森。魔物はスライム程度。危険度は低い。
ルートを頭の中でシミュレーションする。
そのとき、カフェの扉が開いた。
「リアン」
声をかけられて顔を上げると、白銀の甲冑を纏った少女が立っていた。
長い髪、凛とした立ち姿、騎士団の紋章。
アリシア・シルヴァレスト。
昨日、盗賊団の件で一緒だった騎士だ。
「あ、アリシアさん」
リアンは少し驚いて、手帳を閉じた。
アリシアは、リアンのテーブルに近づいてきた。
「少し、いいかしら」
「あ、はい」
アリシアは、向かいの席に座った。
カフェの中の他の客が、一斉にこちらを見た。騎士団の、それも有名な令嬢騎士が、Fランクの冒険者と話している。珍しい光景だ。
「昨日の件、改めて礼を言いたくて」
「いやいや、俺、何もしてないって。マジで」
リアンは、軽い口調で答えた。
(また始まった。昨日もこんな話されたけど、マジで心当たりがない)
アリシアは、少し不思議そうにリアンを見た。
「…そう言うのね」
「え? いや、本当に何もしてないんすよ。落ちて、命乞いして、壁にへばりついてただけで」
「本気で、そう思っているのね」
アリシアの声には、疑問が混じっていた。
(いや、「本気で」じゃなくて事実なんだって…)
リアンは内心でツッコミを入れつつ、正直に頷いた。
「だって、偶然っすよ。地面が抜けて落ちただけだし」
――――――――――――――――――――――
アリシア視点。
(彼は…本気で自分を評価していない)
疑問は消えない。でも、今は追及する段階ではない。
――――――――――――――――――――――
リアン視点。
短い沈黙が流れた。
まだ、二人の間には距離があった。以前から何度か共闘しているとはいえ、依頼以外で話すのは初めてに近い。何を話せばいいのか、お互いに分からない。
リアンは、コーヒーカップを手に取った。
(気まずい…)
騎士団の人と、二人きりで話す機会なんて、普通ないし。
「アリシアさんこそ、お疲れ様でした」
リアンが先に口を開いた。
「騎士団って、大変そうっすよね」
「ええ…まあ、それなりに」
アリシアの声が、いつもより柔らかい。
窓の外を見る。街を行き交う人々。
「でも、やりがいはあるわ。人を守れる仕事だから」
「すごいっすね」
リアンは、素直に言った。
「俺なんて、逃げるのに必死だし」
「そう…ね」
アリシアが、リアンを見る。
深い紺碧の瞳。
その瞳に、何かを探すような光がある。
「あなたは…どうして冒険者に?」
「え?」
予想外の質問に、リアンは戸惑った。
「い、いや…食うためです。本当に、それだけで」
「…食うため」
アリシアは、その答えを反芻した。
(シンプルな言葉だ。でも――本当の動機を言える人間は、そう多くない)
(私には言えない。「家のため」「期待に応えるため」。その一言で、片付けられない)
「妹もいるし」
リアンは、後頭部を掻きながら付け加えた。
「生意気だけど、まあ、養わないとな、みたいな」
(家族のために、迷わず答えられる)
アリシアの中で、何かが静かに羨ましくなった。
それは、リアンへの「評価」ではなかった。
もっと、厄介な感情だった。
「あの…」
アリシアが、口を開きかけた。
リアンが、顔を上げる。
でも、言葉が出ない。
「…いえ、何でもないわ」
アリシアは、立ち上がった。
白銀の甲冑が、わずかに音を立てる。
「お時間、取らせてしまったわね」
「いえいえ、全然」
リアンも、慌てて立ち上がる。
「ありがとうございました」
「ありがとう」
アリシアは、形式的に微笑んだ。
でも、その笑顔は――どこか寂しそうだった。
「それじゃあ、私はこれで」
扉に向かう。
でも、手が扉に触れる直前で――
アリシアは、振り返った。
「リアン」
「はい?」
「あなたは…」
言いかけて、止まる。
(何を聞こうとしているの…私…)
「…気をつけて。依頼」
「あ、はい。まあ、なんとかなるっしょ」
リアンは、いつもの口癖で答えた。
アリシアは、小さく頷いて――
カフェを出ていった。
リアンは、再び手帳を開いた。
(騎士さんって、忙しそうだな)
手帳のページを見つめるが、文字が頭に入ってこない。
(何か…言いたそうだったけど)
最後のアリシアの表情が、頭に残る。
扉の前で振り返った、あの瞬間。
(まあ、礼儀正しい人なんだろう。俺みたいなのに構ってくれて)
リアンは、コーヒーを一口飲んだ。冷めている。
(それにしても、なんで俺に礼なんて…落ちただけなのに)
深く考えても答えは出ない。リアンは手帳に集中することにした。
――――――――――――――――――――――
昼過ぎ、リアンは北の森に到着した。
いつもの場所だ。薬草がよく生える地域を、リアンは把握していた。
「確か、この辺りに…」
リアンは、手帳の地図を見ながら、森の中を進んだ。
魔物の気配に注意しながら、でも効率よく。危険を避けながら、でも無駄な動きをしない。
それが、リアンが長い時間をかけて身につけたスタイルだった。
カサッ。
茂みから音がした。
リアンは、反射的に身を低くした。
スライムが二匹、ぬるぬると這い出してきた。
「あー、いたか」
リアンは、すぐに判断した。
戦わない。
リアンは、そっと逆方向へ移動した。スライムの視界から外れ、大きく迂回する。
こうすれば、戦闘を避けられる。無駄な体力も使わない。
迂回した先――そこには、薬草がびっしりと生えていた。
「お、ラッキー」
リアンは、手早く薬草を採取した。
効率的だった。無駄がなかった。
(まあ、戦わないのが一番だよな。体力温存できるし)
リアンにとって、それは当たり前の計算だった。
「これで半分くらいかな」
リアンは、袋に薬草を詰めながら、次のポイントへ向かおうとした。
そのとき――
「うわあああん!」
遠くから、子供の泣き声が聞こえた。
リアンは、動きを止めた。
「…嘘だろ?」
森の中で迷子だろうか。それとも、魔物に追われているのか。
リアンは、一瞬迷った。
でも――
「しゃーねーな」
リアンは、薬草の袋を地面に置き、声のする方へ走った。
数分後、リアンは森の奥で、小さな男の子を見つけた。
五歳くらいだろうか。服が泥だらけで、泣きながら座り込んでいた。
「おい、大丈夫か?」
リアンが声をかけると、男の子は怯えた目でこちらを見た。
「おじさん…誰…?」
「おじさんって言うな、まだ19だっての。冒険者だよ。どうした? 迷子か?」
「うん…お母さんとはぐれちゃって…」
「そっか。じゃ、街まで送るから、一緒に行こう」
リアンは、男の子を背負った。
(うわ、軽い。ちゃんと飯食ってんのかこの子)
「怖かったな」
「うん…奥の方で、変な人たちがいて…」
「変な人たち?」
「うん…なんか、怖い顔してた…武器みたいなの持ってて…」
リアンの脳裏に、掲示板の張り紙が浮かんだ。
『盗賊残党の目撃情報あり』
(マジかよ…)
背筋が冷たくなった。
(逃げよう。今すぐ逃げよう)
リアンは、足を速めた。
「お兄ちゃん、早い」
「うん、まあ。逃げるのは得意なんだ、俺」
(冗談じゃなくマジで得意だからな、逃げるの)
リアンは、来た道を正確に戻った。
迷わない。無駄がない。
それは、何度もこの森を歩いて、道を覚えているからだ。どこに魔物が出やすいか、どこを通れば安全か。全部、逃げ回った経験から学んだことだ。
(やばいとこ通らない、危ないとこ避ける。基本だよな)
十五分後、リアンは森の入口に到着した。
そこには、泣きそうな顔をした女性が立っていた。
「タロー!」
「お母さん!」
男の子は、リアンの背中から飛び降りて、母親に抱きついた。
「本当にありがとうございます! 冒険者さん!」
「いえいえ、たまたま近くにいただけっすから」
「お名前は? お礼を…」
「あー、いや、大丈夫です。無事でよかったっす」
リアンは、そそくさとその場を離れた。
(お礼とか、そういうのマジで苦手なんだよな…)
背後で「本当にありがとうございます!」という声が聞こえたが、リアンは振り返らなかった。
(目立ちたくない。俺はただの薬草採取中の通りすがりだ。うん)
リアンは、再び森に戻り、先ほどの場所に置いた薬草の袋を回収した。
「さて、残りも集めるか」
リアンにとって、それはただの「ちょっとしたハプニング」だった。
でも――
その「ちょっとしたハプニング」が、後に大きな波紋を呼ぶことになる。
リアンは、そんなこと知る由もなかった。
――――――――――――――――――――――
夕暮れ時、リアンはギルドに戻ってきた。
袋いっぱいの薬草を受付に提出する。
「お疲れ様です、リアンさん」
受付嬢が、丁寧に薬草を確認した。
「はい、問題ありません。報酬は銀貨5枚です」
「ありがとうございます」
リアンは、報酬を受け取った。
いつもの流れ。いつもの一日。
でも――
ギルドの空気が、少し違った。
視線。
複数の冒険者が、こちらを見ている。
リアンは、それに気づかないふりをした。
(気のせいだろ…)
「あ、リアン!」
トムが駆け寄ってきた。
「聞いたぞ! 森で迷子を助けたって!」
「え、もう広まってんの?」
「その子の母親、商人ギルドの人だったんだよ。今、街中で話題だぞ」
「マジか…」
リアンは、頭を抱えた。
目立ちたくないのに。
「でもさ、森の奥に盗賊がいたって話、本当か?」
「いや、俺は見てない。子供がそう言ってただけ」
「でも、お前が助けなかったら、危なかったかもな」
「たまたまだって」
「またまた、謙遜して」
トムは、リアンの肩を叩いた。
その時――
ギルドの奥、酒場エリアから声が聞こえた。
「――リアンって、昨日アリシア様と共闘したんだろ?」
リアンの動きが、止まった。
(え、なんでその話が)
「マジ? あのアリシア様と?」
「ああ。騎士団の報告書に載ってたらしいぞ」
トムが、リアンを見た。
目が輝いている。
「お前、騎士団の報告書に名前載ったの!?」
「し、知らない…」
「すげえじゃん!」
トムは興奮して、酒場エリアに向かった。
「おい、みんな! リアン本人だぞ!」
(やめろォォォ!)
リアンの心の叫びは、届かなかった。
酒場にいた冒険者たちが、一斉にこちらを見る。
十数人。
ベテランから新人まで。
みんな、ジョッキ片手に。
「おお、リアンか!」
一人の戦士――ランクC、名前はブルーノ――が手を挙げた。
「ちょうど話してたんだよ。昨日の盗賊団の件」
「いや、あれは、その…」
リアンは、言い訳を探した。
でも、見つからない。
「アリシア様の報告書、俺も読んだぞ」
別の冒険者――魔術師のクララ――が言った。
「え、読めるんすか?」
「騎士団の掲示板に貼ってあった。今日の昼、仕事で詰所に行ったら見えたんだ」
クララは、記憶を辿るように目を細めた。
「えっと…なんて書いてあったかな…」
彼女は、カウンターのメニュー表の裏に、ペンで書き始めた。
「『リアン・フォルテの行動は、作戦成功に不可欠だった』…だったかな」
「マジっすか」
リアンは、冷や汗をかいた。
(俺、何もしてないのに…)
「あとさ」
ブルーノが、ジョッキを置いた。
「お前、依頼失敗したことないんだろ?」
「え、まあ…運が良かっただけで…」
「運だけで半年も無事故は無理だって」
別の冒険者――斥候のレイ――が口を挟んだ。
「俺、お前のこと見てたんだよ。森での動き」
「え」
「魔物を避ける動き、完璧だった。無駄がない」
「いや、あれは逃げてただけ…」
「『逃げる』って言うけどさ」
レイは、身を乗り出した。
「お前の逃げ方、尋常じゃないんだよ。地形を完璧に把握してる。敵の視線を読んでる」
「そんなこと…」
「俺、Dランクだけど、お前ほど正確に動けないぞ」
リアンは、言葉に詰まった。
周囲の冒険者たちが、ざわめく。
「でもさ、なんでFランクなの?」
若い冒険者――新人だろう――が質問した。
「それな」
ブルーノが頷いた。
「ランクアップ試験、受けないのか?」
「いや、俺、戦えないんすよ。マジで。剣も抜けないし」
「……剣を抜けない?」
ブルーノが怪訝な顔をする。
「あ、いや、緊張すると指がこわばるっていうか……」
「でも結果出してるじゃん」
「それは…運というか…偶然というか…」
「偶然が半年続くかよ」
クララが笑った。
「お前、面白いな。そこまで謙虚だと、逆に怪しいぞ」
リアンは、何も言えなかった。
そのとき。
「まあまあ」
カウンターの奥から、マスターが声をかけた。
初老の男。元Bランク冒険者。
「リアンは謙虚なんだよ。それが彼のスタイルだ」
「でもマスター」
トムが言った。
「昨日の盗賊団壊滅って、すごくないっすか?」
「ああ、すごい」
マスターは、グラスを磨きながら頷いた。
「だが、リアンはいつも『自分は何もしてない』と言う」
「それ、逆にカッコよくないっすか?」
若い冒険者が、目を輝かせた。
「実力者ほど、自分を誇らないって言うし」
「ああ、そういう話、吟遊詩人がよく歌ってるな」
ブルーノが笑った。
「『真の英雄は名を求めず』ってやつ」
リアンは、頭を抱えた。
(違う違う違う! 俺はマジで何もしてないんだって!)
でも、声には出せなかった。
言えば言うほど、「謙虚」だと思われる。
この悪循環、どうすればいいんだ。
「とにかく」
マスターが、新しいジョッキをカウンターに置いた。
「リアン、今日も無事に帰ってきた。それを祝おう」
「え、いや、俺別に…」
「遠慮すんな。今日は奢りだ」
マスターは、ジョッキに酒を注いだ。
周囲の冒険者たちが、笑顔で頷く。
「リアン!」
「お疲れ!」
「また面白い話、聞かせてくれよ!」
リアンは、ジョッキを受け取った。
周囲の視線。
暖かい。でも、重い。
(なんか…期待されてる…?)
それが、一番怖かった。
リアンは、小さくジョッキを掲げた。
「…ありがとうございます」
酒場が、歓声に包まれた。
――――――――――――――――――――――
リアンは、自室のベッドに寝転がった。
薄暗い部屋。小さな窓から、月光が差し込んでいる。
擦り切れた手帳を開く。
今日一日の出来事を振り返る。
ギルドで依頼を受けて、図書館に寄って、カフェで休憩して、依頼をこなして、帰ってきた。
そして――酒場で、変な騒ぎになった。
「はぁ…」
ため息が出る。
リアンは、手帳のページをめくった。
今日の記録。
『薬草採取:成功』
『迷子保護:成功』
『ギルドで変な噂:対処不能』
最後の一行を見て、リアンは苦笑した。
「対処不能、か」
その通りだった。
否定すればするほど、「謙虚」だと思われる。
どうすればいいんだ。
リアンは、手帳を閉じた。
天井を見上げる。
木製の梁。ひび割れている。
「明日も、平和に過ごしたいな」
それがリアンの、ささやかな願いだった。
でも――
心のどこかで、小さな不安がある。
(なんか…雲行きが怪しい気がする)
受付嬢の丁寧さ。
酒場の冒険者たちの視線。
「騎士団の報告書に名前が載った」という話。
(目立ちたくないのに…)
リアンは、枕に顔を埋めた。
くぐもった声で、呟く。
「まあ、なんとかなるっしょ…」
それがリアンの、いつもの結論だった。
考えても仕方ない。
明日になれば、みんな忘れるだろう。
そう思いたかった。
――――――――――――――――――――――
アリシアは、執務机に向かっていた。
昨日書いた報告書。
そのコピーが、今日、騎士団中に回覧された。
アリシアの机の上には、複数の書類が積まれている。
『リアン・フォルテに関する調査依頼』
『次回作戦での協力要請案』
『ギルドへの問い合わせ記録』
アリシアは、一枚一枚、目を通していた。
ギルドへの問い合わせ記録。
『リアン・フォルテ(Fランク)』
『冒険者歴:6ヶ月』
『依頼達成率:100%(失敗ゼロ)』
『戦闘記録:なし(回避専門)』
『評価:「逃げ足が速い」「謙虚」「真面目」』
アリシアは、その記録を見つめた。
「依頼達成率…100%」
驚異的だった。
Fランクで、半年間、一度も失敗していない。
普通はありえない。
Fランクは、初心者。失敗して当たり前。
でも――リアンは、一度も失敗していない。
「やはり…」
アリシアは、ペンを取った。
メモ用紙に書き込む。
『リアン・フォルテ』
『能力:不明(戦闘記録なし)』
『特徴:回避・撤退に特化』
『疑問:なぜFランクに留まる?』
書いていて、アリシアは思い出した。
今日のカフェでの会話。
『「偶然っすよ。地面が抜けて落ちただけだし」』
彼は、本気でそう言っていた。
自分を評価していない。
(なぜ?)
アリシアは、ペンを置いた。
窓の外を見る。
夜の街。星が瞬いている。
「もう少し、話してみたい」
その言葉が、自然と口から出た。
それが「興味」なのか。
それとも――別の感情なのか。
アリシアは、まだ分からなかった。
でも、確かなことが一つある。
(彼のことが、気になる)
アリシアは、メモ用紙を引き出しにしまった。
机の上のランプを消す。
部屋が、暗闇に包まれる。
月光だけが、窓から差し込む。
アリシアは、ベッドに横になった。
でも、すぐには眠れなかった。
リアンの顔が、頭に浮かぶ。
あの、どこか遠くを見ているような目。
(おかしい…)
アリシアは、枕を抱きしめた。
(私は…ただ、作戦のために情報を集めているだけ)
(それなのに…)
胸の奥で、小さな鼓動が速くなる。
アリシアは、それを認めたくなかった。
――――――――――――――――――――――
同じ夜、ミレイユは机に向かってノートを開いていた。
タイトルは『観察記録:リアン・フォルテについて』。
今日、図書館で書いた内容を見直している。
ランプの明かりが、ページを照らす。
『■ 第7回観察記録』
『彼が手に取った書籍:『地形と戦術』』
『理由(本人談):「適当に手に取った」』
『■ 分析』
『仮説B:無意識の習慣』
『仮説C:確率操作』
ミレイユは、眼鏡を外した。
視界がぼやける。
レンズを、ローブの裾で拭く。
そして――
ページの余白を見た。
『個人的所感:』
その後は、空白。
ミレイユは、ペンを握った。
何を書くべきか。
(今日も、会えた)
(話せた)
(嬉しかった)
その感情を、どう言語化すればいい?
ミレイユは、小さく息を吐いた。
「…これは、研究」
誰に言うでもなく、呟く。
「感情は、不要」
でも――
手が、動いた。
ペンの先が、紙に触れる。
インクが滲む。
『個人的所感:データ不足。継続観察が必要。また、話す機会を作るべき』
書いてから、ミレイユは自分の文章を見た。
「…また、話す機会を作るべき」
その一文を、何度も読み返す。
そして――
顔が、熱くなった。
「ち、違う! これは研究のため!」
ミレイユは、ノートを閉じた。
抱え込むように、胸に抱く。
心臓の音が、聞こえる。
速い。
(落ち着け…落ち着け…)
ミレイユは、深呼吸した。
一回。
二回。
三回。
でも、心臓の音は収まらない。
ミレイユは、机に突っ伏した。
「変数が多すぎる…」
その呟きは、誰にも届かない。
部屋の中、ランプの明かりだけが、静かに揺れていた。
――――――――――――――――――――――
リアンは、いつも通りの日常を過ごした。
誤解の雪だるまは、静かに転がり始めた。
止まることなく。
そして、森の奥では――盗賊残党が動き始めていた。
「リアン・フォルテ」という名前は、もう、リアン自身の手の届かないところへ転がり始めていた。
第2話をお読みいただき、ありがとうございます!
今回は「誤解の連鎖が静かに広がっていく」回でした。
リアン本人は「いつも通りの一日」のつもりなのに、報告書ひとつで騎士団全体に名前が広まり、迷子を助けた行動が商人ギルドを通じて街中に届き……「対処不能」の一言が全てを言い表しているなと書きながら笑ってしまいました。
アリシアのメモ帳・ミレイユの観察ノート、二人ともしっかり記録を取っているのに、その「記録」自体が誤解を強化しているのが勘違いコメディの業ですね。
次回、第3話「森の奥の偶然」では、いよいよ盗賊残党が本格始動します。騎士団の捜索作戦にリアンが(またしても)巻き込まれ、アリシアとミレイユも同時に登場する場面が待っています。リアンの「逃げる理由」がさらに積み上がる予定ですので、よろしければお付き合いください。
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