第19話 逃げない選択
――――――――
翌朝、ノエルがそろばんを弾いていた。
宿の食堂。
朝の光が窓から差し込んで、そろばんの珠が白く光る。
「王都謁見まで四日です」
リアンは椅子の上で、一瞬だけ固まった。
「……四日か」
「正確には三日と十四時間です。出発前日の準備を含めると——」
「もう少し大まかで良いです」
「では四日弱です」
「それはちょっと増えましたよ」
ノエルはそろばんを持ち替えた。
「本日の予定をお伝えします。午前は騎士団の仕立て屋。昼はアリシア様主導のマナー確認。午後はミレイユ様との想定問答第五稿。夕方はセリア様が追加の歌詞を持参するそうです」
リアンはスープを口に運んだ。
熱かった。
「夜は?」
「就寝です」
「貴重な自由時間だ……」
「王都では自由時間はございません」
「なぜ言い切るんですか」
「実績から推定しています」
ノエルは表情を変えずにそろばんを仕舞った。
額に汗が一筋、出ていた。
「……暑い?」
「春先です」
「そうですね」
リアンは前を向いて、スープを続けた。
窓の外。
石畳に朝の人通りが始まっていた。
パン屋の呼び売り。
馬の蹄の音。
普通の朝だった。
普通の朝が、今日はやけに鮮やかに見えた。
(四日後、ここにはいない)
王都。
一度も行ったことがない。
名前だけ知っている場所。
リアンはスープの中の野菜を見た。
人参が二切れ。かぶが一切れ。
(まあ……なんとかなるっしょ、たぶん)
たぶん、がまだついていた。
――――――――
騎士団の仕立て屋は、旧市街の外れにあった。
鉄の看板に、針と糸の意匠が刻んである。
扉を開けると、革と麻の匂いが混ざった。
「いらっしゃい。ああ、こちらが……」
老齢の仕立て師が、眼鏡越しにリアンを見た。
それから、リアンの着ているものを見た。
それから、小さくため息をついた。
「うん。まあ、なんとかします」
「なんとかなる発言をしてくれる人だ……」
リアンは少し安心した。
仕立て師の後ろで、アリシアが腕を組んでいる。
「機能性と礼装感の両立を」
ミレイユが手帳に何か書いている。
「移動時間六時間を想定すると、着心地の優先度が高い。王都での聴取は着席形式のはずなので、腰回りの可動域は——」
「王都の仕立て師に笑われないようなものを」
セリアが両手を合わせていた。
「素敵なものにしてください! 彼に似合うものを! あと少し英雄っぽく!」
「英雄っぽい服って何ですか」
仕立て師が静かに聞いた。
「マントが揺れるやつです!」
「謁見にマントは浮く」
アリシアが即座に止めた。
「でも少しあった方が——」
「浮く」
「一枚くらい」
「浮く」
リアンは台の上に立たされながら、この会話が後ろで続いているのを聞いていた。
仕立て師がメジャーを当ててくる。
「腕を開いて」
「はい」
「肩を落として」
「はい」
メジャーが通るたびに、数字を読み上げていく。
セリアとアリシアの声は続いていた。
「首元が開いてる方が英雄っぽくないですか」
「騎士礼装に首元は閉じる。規定だ」
「でも」
「規定だ。公式文書に記録される立場なので、規定に従ってもらう」
「うう……」
「ミレイユ、何か言え」
「想定問答に肩幅と服装の関係から生じる印象差の項目を追加します」
「……そんな項目がいるんですか」
「王都の聴取担当者は外見の細部から判断する可能性があります。九十四項目になります」
仕立て師がリアンの脇腹をメジャーで押さえた。
「息を止めて」
「はい」
「もう少し止める」
「はい」
「……相当無縁な場所へ行かされるんだね、あなた」
「はい」
仕立て師が静かに同情した顔で頷いた。
リアンは返事の仕方が分からなくて「まあ」とだけ言った。
――――――――
昼は宿に戻って四人とノエルでテーブルを囲んだ。
アリシアが羊皮紙を広げて、王都の礼儀作法を説明した。
「謁見では基本的に先方から発言するまで口を開かない。もし求められた場合、最初の応答は二十語以内に収める」
「二十語」
「以内だ。オーバーした場合でも焦らない。ただしひとつの返答で話が完結するように心がける」
「……長い質問が来たら」
「考える時間を一拍おいてから答える。そこに迷いを見せることで思慮深い印象を与える」
「迷ってるだけなんですが」
「周囲にはそう見えない」
リアンはテーブルの上の茶を飲んだ。
ミレイユが手帳をぱらぱらめくる。
「想定問答の概要だけお伝えします。第一類型は戦績に関する質問。第二類型は動機の確認。第三類型は今後の方針。第四類型は個人的な境遇や家族構成。第五類型は——」
「五類型ある」
「十一類型あります」
「……」
「最大の難所は第七類型の『なぜ王都の招待を受けたのか』です。ここは論理的整合性が取りにくい」
「なぜかというと」
「リアンが承諾した理由を、リアン自身が明確に把握していないからです」
正確だった。
「なんとなく、という回答は通用しません」
「通用しないですか」
「王都の官吏の前では通用しません」
「……じゃあ何と言えば」
「今考えています」
「俺が答えることじゃないですか」
「九十五項目の範囲に入れます」
セリアが手を挙げた。
「王都の人たちって、怖い人ばかりなんですか?」
「怖い人かどうかではなく、別の価値観で動いている人たちが多い、と思っておく方が正確だ」
アリシアが答えた。
「別の価値観というのは」
「形式と序列をとても大事にする。そこから外れると、理由がどうであれ評価が下がる。反対に、外れないでいれば実力以上に評価される」
「それはそれで変な感じですね」
「そういうルールの中で動いている場所だ」
アリシアの声が、少し硬かった。
リアンはその声の感じに気づいたが、今は何も言わなかった。
(アリシアさんも、あそこが得意ではない……のかもしれない)
聞けなかった。
でも、なんとなく、そういうことかと思った。
――――――――
昼が過ぎて、午後になった。
ミレイユとの想定問答は二時間かかった。
「第七類型、今のところの最善案です」
ミレイユが三種類の回答例を手帳に並べた。
「Aパターンは感謝と義務感を軸にした答え。Bパターンは国家への貢献意欲を前面に出した答え。Cパターンは——」
「Cは?」
「正直に、自分でもよく分からないと言う」
「それは通用しないと言ってたじゃないですか」
「通用しない可能性が高い方法ですが、整合性はある。リアンが答えた時の自然さは、Cが最も高いと思います」
リアンは少し考えた。
「……Cにします」
「理由は」
「整合性があるなら、慣れない嘘をつくより良い気がする」
ミレイユが少し手を止めた。
「……それは賢明です」
「なんで少し驚いた顔するんですか」
「驚いてません。……九十五項目に、Cパターンの準備を追記します」
追記されていた。
窓から午後の光が入ってきた。
ミレイユの横顔が、少し穏やかだった。
「リアン」
「はい」
「王都から、帰ってきますよね」
声が少し小さかった。
「帰ってきます」
「謁見が終わったら、すぐ?」
「できるだけ」
「……そうですか」
ミレイユは手帳を閉じた。
「想定問答集、全部渡します。読んでおいてください」
「全九十五項目を」
「九十六になりました。いま追加しました」
「……はい」
――――――――
夕方、セリアが新しい歌詞を持ってきた。
宿の食堂で、セリアが手帳を広げて少し恥ずかしそうにした。
「この歌は、王都から帰ってきてから発表しようと思っているんですが……前に約束したので、聴いてもらおうかと」
「聴きます」
「えっと、では……短いので」
セリアは少し息をついて、小さく歌った。
伴奏なし。
ただ声だけ。
メロディは静かだった。
いつもの派手な英雄譚の曲調ではなかった。
リアンには、歌詞の全部は聞き取れなかった。
ただ、途中で「逃げながらも、戻ってくる人」という言葉があった気がした。
気のせいかもしれない。
歌が終わった。
セリアが顔を上げないまま言った。
「……どうですか」
「良かったです」
「本当に?」
「本当に」
セリアは耳が赤くなっていた。
「批評があれば言ってほしいんですが」
「俺、歌のことわかんないので……良かった、しか言えないです」
「それが一番難しい感想です」
「そうなんですか」
「そうなんです」
セリアは手帳を閉じて、立ち上がった。
「……王都から帰ってきたら、ちゃんと演奏します。リュート持って」
「聴きます」
「約束ですよ」
「うん」
セリアが出て行った後、食堂に静けさが残った。
外が、夕暮れの橙色に染まっていた。
――――――――
夕食は五人で食べた。
いつもと変わらない食事だった。
アリシアが明日以降の行程を確認した。
ミレイユが想定問答のポイントを繰り返した。
セリアが「王都にはどんな食べ物があるんですか」と聞いた。
ノエルが「商業地区に相場より三割安い食事処があります。ルートを確保しました」と答えた。
リアンはスープを飲みながら、その会話を聞いていた。
普通だった。
いつもの、にぎやかな夕食だった。
でも——
(今日、何か気になったことがある)
午後、用足しに宿の裏口から出たとき。
路地に、二人の男がいた。
荷物もなく、目的もなさそうに、ただ立っていた。
片方が、リアンに気づいて視線を外した。
(気にしすぎか)
そうかもしれない。
路地で立っている人間はいる。
でも——なんとなく、目が違った気がした。
見るというより、確認する、という目だった。
(気にしすぎっしょ)
自分に言い聞かせた。
テーブルの向こうで、アリシアが「明日の採寸の補正があれば午前中に申し出ること」と言っていた。
リアンは「はい」と答えた。
夜が、静かに来ていた。
――――――――
深夜。
リアンは目を開けた。
天井。
暗い。
外の気配が、あった。
(何だ)
起き上がって、耳を澄ます。
宿の廊下が、きしんでいた。
足音。
普通の足音ではない。
重くて、遅い。
慎重に、何かを避けながら進む足音だった。
リアンはゆっくり毛布を脇に退けた。
床が冷たい。
革靴を素足で履いて、扉に近づく。
隙間から、廊下を見た。
薄明かりの中。
男が二人。
どちらも、腰に剣を帯びている。
見覚えがなかった。
宿の客では、ない。
リアンは息を止めた。
(……昼間の路地の奴らか)
全身に、冷たいものが走った。
男たちは廊下を進んでいた。
向かう先は——部屋の番号で、アリシアの部屋がある方向だった。
リアンは扉から視線を外して、部屋の反対側を見た。
窓。
開ければ、屋根の縁に出られる。
隣の路地に降りられる。
夜の外に、出られる。
(逃げれる)
足が、窓の方に向いた。
一歩。
二歩。
窓の前に立った。
夜気が、縁から滲んでいた。
路地は暗い。
人もいない。
出れば、誰も気づかない。
そのまま夜の中に消えていける。
(逃げろ。それが正解だ。俺は弱い。剣も魔法も才能ゼロだ。あそこで男二人に絡まれたら、一瞬で終わる)
手が、窓の留め金にかかった。
冷たい。
金属の、冷たさだった。
そのとき。
廊下の向こうから、音がした。
扉の取っ手が、動く音。
アリシアの部屋の扉が、軋む音。
それから——
「!」
セリアの声だった。
廊下をひとつ挟んだ向こうの部屋。
セリアが、何かに気づいた、という短い声。
声はそれだけだった。
リアンは窓の前に立ったまま、止まった。
一秒。
二秒。
三秒。
足が、窓の方に動かなかった。
留め金から手を放した。
振り返った。
「……逃げない」
誰にも聞こえない声で、ひとこと言った。
理由は分からなかった。
正しいかどうかも、分からなかった。
ただ——足が、扉の方に向いた。
――――――――
廊下に出た。
男二人のうち、近い方が振り向いた。
リアンと目が合った。
「……なんだ、客か」
男がゆっくり剣に手をかけた。
(まずい、まずい、まずい)
最初の一歩を踏み出したとき、靴の底が廊下の染みにすべった。
つるっと。
「うわっ」
靴の底がおかし。なぜなら素足に革靴だったから。
リアンの体が前のめりに突っ込んだ。
男の胴体に、頭から激突した。
「ぐっ!」
「すいません!」
男が数段、階段の角に向けて吹き飛んだ。
ドン、という音。
男が階段の踊り場に倒れた。
リアンは廊下の床に転がって、頭をさすった。
(痛い……)
もう一人が剣を抜く気配がした。
リアンは反射的に立って走った。
廊下の奥へ。
引き戸があった。
開けた。
物置だった。
入った。
扉を閉めた。
(やばい、詰んだ)
真っ暗。
背中に、棚が当たった。
棚にぎっしり何かが入っている。
掃除道具の棚だった。
扉の外から足音が近づく。
「どこだ……」
男の声が聞こえた。
リアンは棚から何かを掴んだ。
モップだった。
扉が開いた。
男が中に踏み込む。
リアンは手に持っていたモップをそのまま前に倒した。
払うというより、落とした。
モップの頭が男の顔に直撃した。
「ぶっ」
男が後退した。
棚が揺れた。
揺れた拍子に、上に積んであったバケツが落ちた。
男の頭に。
連続で。
ごん、ごん。
「……」
男が無言で倒れた。
リアンは固まった。
(何か今起きた)
物置の中から出た。
廊下の端から、足音が来る。
複数。
今度は三人。
最初の二人とは別の男たちだった。
手に、短剣が光っている。
(三人!? 何人いるんだ!?)
リアンは廊下の反対側に走った。
その背後から、部屋の扉が一枚開いた。
光が差した。
光と一緒に、アリシアが飛び出してきた。
夜着の上から騎士剣を構えている。
「リアン、下がれ!」
「下がるのはそっちです!」
「何が起きている!」
「分かんない!」
アリシアが三人の前に立った。
剣が入光に光る。
三人が少し足を止めた。
(やった、引いた)
引いたと思ったところで、廊下の別の方向から二人が走ってくるのが見えた。
(追加人員!)
リアンは後ろの階段に向けて走った。
二人が追う。
階段を勢いよく駆け下りた。
「うわわ」
一段踏み外した。
またすべった。
今度は全段。
階段を三段飛ばしで落ちながら、最下段で一回転した。
着地は奇跡的にできた。
追ってきた二人が、転倒したリアンにつまずいた。
两人が重なって廊下に倒れた。
リアンはふらふらと立ちあがった。
(自分のミスで勝った……?)
食堂はがらんとしていた。
厨房の扉が開いている。
リアンは厨房に飛び込んだ。
暗い。
でも台所の布巾や鍋の位置は、三日間の食事でなんとなく覚えていた。
足音が近づいてくる。
手当たり次第に鍋を棚から落とした。
がしゃん、がしゃん。
音がした。
「何の音だ!」
宿の上の方から、声がした。
旅人の誰かが目を覚ましたらしい。
扉のあちこちが開く音。
足音が増える音。
男たちの足が、乱れた。
――――――――
厨房の扉から少し先、勝手口があった。
勝手口の扉が内側から開いた。
外から、人が入ってきた。
大柄な男。
着込んだ服に、武器。
さっき廊下で見た男たちとは、少し種類が違う。
指揮官、という感じの立ち方だった。
男の後ろに、腕を掴まれたノエルがいた。
「……静かにしてもらいましょうか」
男は低い声で言った。
「騒ぎが大きくなる前に、おとなしくついてきてもらえれば。この子には傷をつけません」
ノエルがぎっと男の腕を見た。
「リアン様、ご指示を」
ノエルは血の気が引いているのに、声が落ち着いていた。
リアンは厨房の台の前で、固まった。
(ご指示って言われても)
周りには鍋と布巾しかない。
これ以上落とせる鍋はない。
(……でも)
ノエルを置いて逃げることは、できなかった。
背中に扉があった。
厨房の奥の窓もあった。
男は一人で、ノエルを掴んでいる。
(逃げない、って決めた)
リアンは深呼吸した。
手が震えていた。
全部で一秒くらいかかった。
動いた。
男には向かわなかった。
横に動いた。
台の上の大きな鍋の蓋を掴んだ。
盾にするつもりだった。
でも足が滑った。
またすべった。
今度は水が床に撒かれていたところで。
鍋の蓋が、手を離れた。
縦回転して、男の腕に当たった。
ノエルを掴んでいた腕に。
がん、という音。
「くっ」
男がひるんだ。
ノエルが素早く腕を引いた。
男が前につんのめったところに、廊下側から扉が開いた。
アリシアが飛び込んできた。
一息で男の腕を取った。
拘束した。
倒した。
沈黙。
「……捕らえた」
アリシアが静かに言った。
リアンは床に手をついたまま、男を見ていた。
男は動かなかった。
――――――――
夜が、ぱっと明るくなった。
宿の旅人たちが続々と食堂に降りてきた。
その中に、がっしりした体格の冒険者が数人いた。
荷物を解いたばかりのような顔で、目が覚めている。
「騒ぎがあると聞いた。怪我人は」
一人が言った。
アリシアが短く応答した。
廊下の倒れた男たちを確保するよう頼んだ。
冒険者たちは即座に動いた。
旅慣れた動きだった。
ミレイユが二階から下りてきた。
手に魔道具を持っている。
「廊下側は制圧しました。拘束術式を使いました。九人です」
「九人!?」
「さらに二人が窓から逃げました。追いかけます」
「待って、追いかけなくていいです!」
ミレイユが足を止めた。
「……判断基準は?」
「夜中に一人で追うのが危ない」
「危険度計算では0.4以下です」
「その計算を納得する前に逃げていきましたよ!」
ミレイユが少し口を閉じた。
「……確かに」
セリアが毛布を持って食堂に飛び込んできた。
「みんな無事ですか!?」
全員を順番に見た。
「リアン! 血が出てます!」
「え?」
「額!」
「ああ……廊下で転んだとき」
「治癒薬がいります! ノエルさん、持ってますか!」
「常備しています」
「えらい!」
ノエルがそろばんの隣の小袋から薬を出した。
セリアがリアンの額に貼ってやった。
手が少し震えていた。
「平気ですか」
「俺より手が震えてますよ」
「びっくりしました」
低い声だった。
「起きたら廊下に足音がして……ドア、揺れていたんです」
「気づいたんですか」
「ええ……でも部屋に鍵をかけて、ミレイユさんを叩き起こしました」
「賢い対応だ」
「英雄譚の知識です。部屋に鍵をかけるのは定石です」
「定石があったんですか」
「あります。たくさん」
セリアは薬を押さえながら、顔を上げた。
「……逃げずにいてくれたんですね」
「え」
「部屋から出てきてくれた。廊下で転んでいたのを見ました」
「転んで突っ込んだだけですよ」
「でも出てきた」
セリアの手が、少し強くなった。
「良かった……と思います」
短く言って、薬の具合を確認した。
――――――――
捕らえた指揮官格の男を、アリシアが尋問した。
食堂の隅で、ノエルとミレイユが記録を取った。
男は名前を言わなかった。
「誰に頼まれた」
「……知らない」
「依頼人は」
「会っていない」
「報酬は」
「仲介を通した」
アリシアの目が細くなった。
「指示内容は」
「……王都に、あいつを連れて行かせるな」
男がリアンの方を見た。
「それだけか」
「それだけだ。理由は聞いていない」
「紋章か合言葉はあったか」
男が少し黙った。
「……紋章だけ、見せられた」
「どんな紋章だ」
「双頭の鷲。翼が一方だけ折れている」
アリシアの目が動いた。
一瞬だけ。
すぐ元に戻った。
「以上だ。騎士団に引き渡す」
男を連行させた。
ミレイユが記録を止めた。
「アリシア、何か分かったんですか」
小さな声で聞いた。
「……少し、心当たりが出てきた」
「王都と関係が?」
「かもしれない。が、今ここで話せる話ではない。王都に行けば、もう少し分かる」
アリシアは羊皮紙を巻いた。
「謁見を延期する選択肢もある」
「延期?」
「危険が明確になった。ギルドマスターに相談すれば——」
「行きます」
リアンが言った。
アリシアが振り向いた。
「……今の状況でか」
「今の状況だから、行った方がいい気がします」
リアンはうまく説明できなかった。
「誰かが俺を行かせたくないなら……行かない理由が増えた、じゃなくて、行く理由が増えた、って感じで」
「感じか」
「感じです」
「……根拠のある判断ではないな」
「ないです」
アリシアはしばらく黙った。
「分かった。護衛は強化する。ヴィクトリア副長にも話す」
短く言って、外へ向かった。
――――――――
夜明け前の食堂が、ゆっくり静かになった。
旅人の冒険者たちが二階に戻っていく。
ノエルが記録を整理している。
セリアが毛布を畳んでいる。
ミレイユが術式の消費量を計算している。
全員が、動いていた。
全員が、平気ではないはずなのに、それぞれの仕事をしていた。
リアンは食堂の椅子に座ったまま、それを見ていた。
ミレイユが向かいの椅子を引いて、座った。
「怪我は額だけですか」
「頭が痛いのと、足が少し」
「解熱の薬草を取ってきます」
「いいです、大丈夫です」
「大丈夫じゃない顔をしています」
「していませんよ」
ミレイユはリアンをじっとした目で見た。
「……なぜ部屋から出たんですか」
静かな声だった。
「聞きましたか、窓の前に立っていたのを。確認しようとして、ちらっと見えた」
リアンは少し固まった。
「見てたんですか」
「ミレイユの部屋から廊下の一部が見えます。月明かりで少しだけ」
ミレイユが眼鏡のフレームを押し上げた。
「窓の前に立っていて……出なかった。なぜかと思った」
「……」
「理論的には、出た方が合理的です。リアンの戦力から言えば、廊下で戦うより逃げる方が生存率が上がる」
「そう、ですよね」
「でも出なかった」
「……出なかったです」
リアンはテーブルの木目を見た。
「理由は、よく分からないです。セリアさんの声が聞こえて……そうしたら足が動かなくて」
「動かなかった」
「逃げない、って思ったのか、逃げたくなかったのか、足が動かなかっただけなのか、自分でもよく分からないです」
ミレイユが少し黙った。
「でも、逃げなかった」
「……そうです」
「それは」
ミレイユが言葉を選んでいる様子だった。
「リアンにとって、何かが変わったから……だと、私は思います」
「変わった?」
「以前なら迷わず出ていたと思う。逃げることを選んでいたと思う。でも今日は——止まった」
リアンは返事に詰まった。
「かもしれない」
「かもしれない、ではなくそうだと思います」
「……なぜ断言するんですか」
「窓の前に三秒いました。三秒後に振り返った。その三秒が……変化の証拠だと思うから」
ミレイユは手帳を閉じた。
「測れる変化は、信頼できます」
そう言って立ち上がった。
「薬草を取ってきます」
「いいです本当に」
「三秒の変化をした人間が、頭痛で倒れるのは困ります」
それだけ言って、階段を上っていった。
リアンはテーブルに肘をついて、額を押さえた。
痛かった。
でも——ミレイユの「三秒」という言葉が、頭の中に残った。
(三秒か)
そんな小さなことが、変化と呼べるなら。
変わったのかもしれない。
少し、だけ。
――――――――
夜明けが来た。
窓から、空が白み始めている。
リアンは食堂を出て、宿の裏の外階段を上った。
屋根の縁に出た。
冷たい空気が、頬に当たった。
空は広かった。
東の端が、うっすら橙色に変わり始めていた。
職人街の方角。
デインの鉄槌亭は、もう煙突から煙が出ていた。
マルコの窯の火は夜明け前から回る、と言っていた。
エリスの店は、今頃仕入れの準備が始まっているはずだ。
みんな、それぞれの朝に入っている。
リアンは屋根の縁に腰を下ろした。
昨夜のことを、ゆっくり考えた。
窓の前。
留め金の、冷たさ。
セリアの声。
(逃げない、と思ったのか)
(逃げたくなかったのか)
(足が動かなかっただけなのか)
今でも、はっきりとは分からなかった。
でも——あの三秒、何かが自分の中で決まった気はした。
「逃げながら戻ってくる」
エリスの言葉が浮かんだ。
逃げることが全部悪いわけじゃない。
でも——昨夜は逃げなかった。
戻ることを選んだ、というより——戻りたかった。
戻りたいから、出なかった。
そういうことなのかもしれない。
リアンは膝を抱えた。
王都まで、四日弱。
謁見がある。
外には、誰かがまだいるかもしれない。
怖いことが、まだいくつかある。
でも——なぜか今朝は、以前ほど胃が縮む感じがなかった。
縮んでいないわけじゃない。
縮んではいる。
でも、縮んだまま、ここに座っていられる。
(そういう感じか)
弱いままで。
何もできないかもしれないが。
でも——ここにいることを選んでいる。
そういうことかもしれない。
東の空が、少しずつ明るくなった。
風が吹いた。
シャツの布が、揺れた。
寒かった。
でも、悪くない。
「まあ……逃げなかったっしょ」
呟いた。
いつもの口癖と少し違う言葉が、口から出た。
逃げられた。
でも逃げなかった。
そういう朝だった。
空が、橙から薄い青に変わっていた。
今日も晴れそうだった。
明後日には王都への道に出る。
どうなるかは分からない。
でも——逃げながら戻ってくる人間が、王都に向かっている。
それは——まあ、なんとかなるっしょ。
たぶん。
か、な。
リアンは少しだけ笑って、立ち上がった。
朝の冷気の中、下に降りた。
食堂では、すでに朝食の準備が始まっていた。
ミレイユが想定問答集の九十六項目を広げていた。
「おはようございます。昨夜の件を踏まえ、九十七項目が加わりました」
「増えてる!?」
「王都では昨夜の件が先に届いている可能性があります。『護衛中の騒乱に際しての対応』が質問項目になり得ます」
「九十七項目全部読むんですか」
「今日中に一周します」
「今日が最後の有意義な一日になりそう……」
アリシアが騎士服で戻ってきた。
「ヴィクトリア副長に連絡した。王都までの護衛に精鋭三名が付く」
「三名も」
「本来ならもっとつけたいが、人員の問題で。過不足ないと判断した」
「ありがとうございます」
「礼は不要だ。護衛は騎士の仕事だ」
アリシアはテーブルについた。
声が、少し柔らかかった気がした。
セリアが食堂に下りてきた。
「おはようございます! 昨夜は怖かったですが、よく眠れました!」
「それは良いことです」
「感情の切り替えが早い、と言うか——なんか、全部歌詞に変換しようとしてたかもしれない」
「……職業病ですね」
「そうかもしれません!」
セリアはリアンの隣に座った。
「額の傷は?」
「大丈夫です」
「本当に?」
「本当に」
「見せてください」
「見なくて大丈夫です」
「見ます」
セリアがリアンの顔に近づいた。
「……ちゃんとくっついてます。良かった」
満足そうに言った。
ノエルが奥から現れた。
そろばんとともに。
「王都謁見まで三日となりました」
全員が一瞬、静かになった。
「三日弱です。正確には——」
「大まかで」
「三日です」
「ありがとう」
リアンは朝食を待ちながら、窓の外の朝を見た。
晴れた朝だった。
四人の声が、また重なって聞こえていた。
――――――――
(第19話・終)
――――――――
翌朝、ヴィクトリア副長が自ら宿に現れた。
「昨夜の報告は受けた。双頭の鷲……か」
副長の目が、少し遠くなった。
「王都でも動いている組織だ、おそらく。あなたの謁見が、何かを揺らしているらしい」
リアンに向けてそう言った。
「俺が、揺らしている……?」
「あなたが王都に行くことで、何かが変わると誰かが判断している。それは——あなたが本物の何かだということかもしれない」
リアンは返事に詰まった。
「俺は본物じゃないです」
「そうかもしれない」
副長は腕を組んだ。
「でも——昨夜あなたは、逃げなかったんだろう?」
リアンは、何も言えなかった。
「それで十分だ」
副長は背を向けた。
「護衛の引継ぎをする。明後日の出発に備えろ」
第20話「それでも、まあ、なんとかなるっしょ」
三日後、リュミエル北門に馬車が一台並んでいた。
第19話、お読みいただきありがとうございます。
第19話「逃げない選択」でした。
この話で書きたかったのは「逃げない」という選択の質感、でした。
英雄的な覚悟でも、誰かのための崇高な犠牲でもなく——窓の前に三秒立って、足が動かなくて、そのまま振り返った。それだけのことです。
ミレイユが「三秒の変化」と呼んでいますが、リアン自身は「逃げないと思ったのか、逃げたくなかったのか、足が動かなかっただけなのか、分からない」と言っています。
理由がきれいに言語化できない選択が、今回のリアンには一番似合う気がして。
偶然で解決する部分——転んで突っ込む、モップを落とす、鍋の蓋が飛んでいく——はいつものリアンです。でも窓の前で止まった三秒だけは、本物だったと思っています。
第18話のエリスの「戻り足」から、このエピソードにつながりました。
逃げながら戻ってきた人間が、初めて逃げないという選択をする朝。最後の「まあ……逃げなかったっしょ」は、いつもの「なんとかなるっしょ」と言葉は似ているけれど、意味が少し違います。
次は第20話「それでも、まあ、なんとかなるっしょ」。ラストです。
誤解は解けない。でもリアンは変わった。そういう締めくくりにしたいと思っています。
引き続きお付き合いいただければ幸いです。




