第18話 静かな朝
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朝が、来ていた。
リアンは天井を見上げたまま、しばらく動かなかった。
昨夜のことを、ゆっくり思い出していた。
城門。
三人。
鞄を地面に下ろしたときの、あの感触。
(帰ってきた)
自分で選んで、帰ってきた。
それは、これまでの「逃げ損ない」とは少し違う気がした。
少し、だけ。
大して変わりはない、かもしれない。
でも、少し違う。
リアンは目を閉じた。
また開いた。
外から、荷車の音がした。
パン屋の呼び売りの声。
どこかで、子供が走り回っている足音。
普通の朝だった。
普通すぎて、昨夜が夢だったような気がした。
夢じゃなかった。
鞄が、部屋の隅に置いてある。
逃げようとした証拠が、そこにある。
リアンはため息をついて、起き上がった。
――――――――
食堂に降りると、一人だった。
窓から朝の光が差し込んでいる。
テーブルに、パンとスープだけ頼んで座った。
ミレイユは昨夜四稿を仕上げると言っていた。今まだ寝ているはずだ。
セリアは早朝練習があると、以前言っていた記憶がある。
アリシアは騎士団の朝礼があるだろう。
三人とも、それぞれのことをちゃんとやっている。
昨夜あんなことがあっても。
リアンは、スープを一口飲んだ。
熱かった。
口の中が少し痺れる。
(昨日の午後、ユルゲンさんに返答を渡した)
王都への返答。
謁見を、受ける方向で。
自分でも、なぜそう決めたか、はっきりとは分からなかった。
「受けます」という言葉が、気づいたら口から出ていた。
ユルゲンが頷いた瞬間、おなかの奥がひゅっと縮んだような気がした。
ひゅっと縮んだまま、今も縮んでいる。
リアンはパンをちぎって、口に入れた。
(まあ……なんとかなるっしょ、たぶん)
たぶん、がついた。
以前はついていなかった気がするが、よく覚えていない。
――――――――
食事を終えて、外に出た。
行く場所は決まっていた。
別に何か用があるわけではない。
ただ、久しぶりに空気を吸いたかった。
職人街の、あの空気を。
リアンは宿から西に向かって歩いた。
旧市街を抜けて、石畳が砂利道に変わる。
鍛冶屋の金属の匂い。
パン屋の甘い匂い。
布屋の埃っぽい匂い。
全部が、重なり合って混ざっている。
子供のころから嗅いでいた匂いだ。
リアンの足が、自然と少し軽くなった。
――――――――
「リアン!?」
鉄槌亭の入り口で、デインが手を止めた。
作業台の上に、半分だけ磨いた短剣が置いてある。
腕には鎖帷子の切れ端が挟まっていた。
デインは仕事中の手袋を外して、直立した。
「久しぶりだな。こっちから連絡しようか迷ってたんだぞ」
「何かあったか?」
「お前が英雄になったとかいう話が聞こえてきたから」
リアンは一歩下がった。
「なってないです」
「そうだよな。そうだと思ったんだよ」
デインはあっさり頷いた。
「でも、盗賊団を壊滅させたのは本当か?」
「偶然で巻き込まれた」
「貴族の陰謀を暴いたのは?」
「踏んだ」
「踏んだ」
「証拠を踏んだ。足で。転んで」
デインは腕を組んだ。
「いや……でも、生きてるじゃないか」
「逃げ足が速い」
「それだけか?」
「それだけです」
デインはしばらく无言で、リアンの顔を見た。
顔を見る時間が、少し長かった。
「……なんか、顔が変わったな」
リアンは思わず自分の頰に手を当てた。
「疲れたんじゃないか」
「疲れてます」
「でも、前より……なんだろうな。変な意味じゃなく」
デインは搔かきながら首を横に振った。
「うまく言えん。まあ、生きてるならいいか」
リアンは返事の仕方が分からなくて、「うん」とだけ言った。
「装備、そろそろ換えろよ。また無料で直してやるから」
「……ありがとう」
「ノーランク冒険者がそんな英雄装備つけてたら浮くだろ,持ってきてから言うな」
「はい」
「あと、ノエルとか言う奴が来て、うちに質の良い鉄材を大量に置いていった。お前の名前で」
「なんで!?」
「さあ?」
デインは肩を落とした。
「『リアン様の知人の職人への投資です』と言って帰った。使い道に困ってる……こいつで何か作れと言われても」
「謝ります、あとで」
「お前が謝ることじゃない気もするが」
そう言いながら、デインはリアンの肩を一度だけ叩いた。
職人の手で、迷いなく。
「元気そうで良かった。それだけだ」
――――――――
陽だまりの窯の看板が見えたとき、マルコが扉を開けて出てきたところだった。
でかい焼き籠を抱えている。
「うおっ!? リアン!?」
焼き籠が傾いた。
中から焼きたてのロールパンが三個、道に落ちた。
マルコは三個とも素早く拾い上げて、リアンに押し付けた。
「食え! 熱いうちに食え!」
「洗ってないじゃないですか、その手」
「パン屋の手はいつも清潔だ!」
リアンは仕方なく一個受け取った。
熱い。
でも、いい匂いがした。
マルコは残り二個を自分で食べながら言った。
「噂、聞いたぜ! 王都の謁見!」
「やめてください」
「すごいじゃないか。俺、ずっと言ってたんだよ。リアンはやばい奴だって。ほら、昔から逃げ足だけは誰より速いだろ。あれ、才能だと思ってたんだよな」
「才能……?」
「俺とデインから鬼ごっこで一度も捕まったことないじゃないか。小学校のころから」
リアンには、何か言い返す言葉が見つからなかった。
「それが冒険者になって生き延びてる理由でしょ。シンプルに」
「……そういう見方、したことなかった」
「才能ってそういうもんだろ」
マルコは焼き籠を抱え直した。
「俺は配達があるから行くけど、また来てくれよ。毎朝ここにいるから」
そう言って、日差しの中に出ていった。
リアンはパンをかじった。
うまかった。
特別なものは何もない、普通のロールパンだった。
でも、うまかった。
――――――――
エリスの雑貨屋「四つ葉商会」の前を通ったとき、店から声がかかった。
「……戻ってきたの」
扉の前で在庫を確認していたエリスが、顔を上げないまま言った。
「久しぶり」
「昨日から?」
「昨日からというか——」
「城門から戻ってきた話は、マルコから聞いた」
「早い」
「あの子の情報網は砂糖の溶ける速さだから」
エリスは羊皮紙のリストを丸めて、リアンに振り向いた。
黒いショートの髪。エプロン。きりっとした目。
子供のころから変わっていない。
「入りなさい。少し話せば」
――――――――
帳場の椅子に座らされた。
エリスはカウンターの向こうで、在庫の棚を整理しながら話した。
「王都の謁見、受けることにしたんでしょ」
「……うん」
「逃げようとして、戻ってきて、受けることにした」
「そんな話、誰から——」
「セリーヌさんから聞いたわよ」
リアンの母の名前が出た。
「お母さんが何で知ってるんですか」
「私が教えた」
「なんで!」
「ご家族は知る権利があるでしょ」
エリスは棚から重い革袋を取り出して、棚の下に移した。
「ガレスさんも、ルナちゃんも、心配してるんだから。顔見せに行ってあげなさいよ」
「……行く、今日は行く」
「今日どこか寄ってきたの?」
「デインのとこと、マルコのとこ」
「私が最後か」
「近かったから順番に」
「正直ね」
エリスは小さく笑って、作業を続けた。
「デインは何か言ってた」
「顔が変わったって」
「変わったわよ」
断言だった。
リアンは少し身じろぎした。
「そんなに?」
「変わりたくなかった?」
「……別に、そういうわけじゃ」
「なら良かった」
エリスは手を止めずに言った。
「あんたって、ほんと逃げてばっかりね」
リアンは何も言えなかった。
「盗賊事件のときも、人質事件のときも、貴族の陰謀のときも——話を聞くたびに全部"逃げた"でしょ」
「……そうです」
「でも、毎回ちゃんと戻ってくるじゃない」
エリスの手が、棚の整理の途中で止まった。
「昨夜も。三人に止められてじゃなくて、あんた自分で戻ってきたんでしょ」
リアンは答えなかった。
「そうじゃないの?」
「……そうかもしれない」
「そうかもしれない、じゃなくてそうなんでしょ」
エリスは振り向いて、リアンをまっすぐ見た。
「あんたって昔から、逃げて逃げて、でも最終的には戻ってくるんだよ。鬼ごっこのときも。デインと大喧嘩したときも。お父さんの店の壺割ったときも」
「……壺のことは覚えてる」
「土下座してたじゃない、三十分」
「覚えてました」
「でも戻ってきた。ちゃんと謝りに来た」
エリスは腕を組んだ。
「あんたの逃げ足は速い。でも、戻り足もたぶん速い。それがあんたの癖なんでしょ」
リアンは、うまく答えられなかった。
「戻り足」という言葉が、頭の中を転がった。
逃げる。
でも戻る。
パターン、と呼ぶほどのものでもない。
ただの癖かもしれない。
でも——
「……そうか?」
口から出たのは、それだけだった。
「そうよ」
エリスは棚の整理を再開した。
「英雄かどうかは知らない。偶然かどうかも知らない。でも——逃げながらも戻ってくる奴は、弱くないと思うわよ」
当然のように言って、また作業に戻った。
感動させようとしている様子もなかった。
ただ、思ったことを言った、という感じ。
リアンは椅子の上で、少しの間、何も言わなかった。
――――――――
「ひとつ訊いていい?」
リアンは言った。
「なに」
「エリスは……英雄の噂、信じてる?」
エリスは少し考えた。
「信じてないわよ」
「だよな」
「でも、あんたが生き延びてることは信じてる」
「そっちは本当のことだから」
「本当のことが積み重なったら、それは本物でしょ」
エリスはぼそっと言った。
「英雄かどうかは別として。あんたが何度も生き延びて、何度も戻ってきたのは、全部本当のことでしょ」
リアンは、返事をする前に少し固まった。
「……本物、か」
「なによ」
「昨夜も誰かに似たようなこと言われた」
「あのヒロイン三人ね」
「知ってるような言い方じゃないですか」
「マルコが全部話してくれた。詳細付きで」
「あいつ……」
リアンは頭を抱えた。
「うるさい? あの三人」
「うるさくはない」
「でも、大変?」
「大変」
エリスは小さく「ふふ」と笑った。
珍しく、毒気のない笑い方だった。
「あんたが大変なのは昔からよ。壺割ったときと基本変わってない」
「壺がヒロインになっただけ?」
「スケール感はある」
リアンも、思わず少し笑った。
笑ってから、急に恥ずかしくなった。
「帰ってきなさいよ、たまには。家族も心配してる」
「今日、実家に寄ってから帰る」
「ちゃんと顔見せなさい。ガレスさん、最近腰が痛いって言ってたから」
「聞いてないな、それ」
「あんたが帰ってないからよ」
リアンは立ち上がった。
「……ありがとう、エリス」
「別に何もしてない」
「話してくれて」
エリスは振り返らずに棚の整理を続けた。
「商売の準備があるから、そろそろ帰ってよ」
「はい」
「王都、無事に行ってきなさいよ」
声が、わずかに低かった。
リアンはその声の感じに気づいたが、何も言わなかった。
「……うん」
扉を開ける。
日差しが強くなっていた。
――――――――
実家への道は、子供のころから歩き慣れた道だった。
石畳が少し傾いているところ。
角の花屋がいつも同じ位置に桶を置いているところ。
路地の突き当たりに、誰かが置きっぱなしにした木箱。
全部、変わっていなかった。
リアンは変わったのか、変わっていないのか、よく分からないまま歩いた。
(エリスが言っていた。逃げても戻ってくるって)
戻り足。
そんな言葉、初めて聞いた。
でも——なんとなく、しっくりきた。
逃げることが全部悪いわけじゃない、というのは前から思っていた。
でも逃げることが全部良いわけでもない、というのも、最近なんとなく分かってきた。
(俺、少し変わったのかな)
分からない。
でも、昨夜、鞄を下ろして戻ろうと決めた瞬間のことは覚えている。
誰かに頼まれたわけじゃなかった。
三人に止められたというより——三人の顔を見て、戻りたいと思った。
戻りたい。
逃げたくない、という気持ちとも少し違う。
もう少しここにいたい、という感じに近かった。
(それが……変わったってことなのかな)
答えは出なかった。
でも、問いが変わってきた気はした。
――――――――
雑貨屋「フォルテ商会」の扉を開けると、奥から母の声がした。
「いらっしゃい——あら! リアン!?」
セリーヌが飛び出してきた。
エプロンで手を拭きながら、リアンの顔をぐっと見た。
「痩せた?」
「そんなことないと思いますけど」
「疲れてる?」
「少し」
「ご飯食べてる?」
「食べてます」
「うそ、絶対ちゃんと食べてない顔してる」
母親というのはなぜこういうことが分かるのだろう、とリアンはいつも思う。
「ちょっと待ってて、シチューが残ってるから」
「昼前ですよ」
「午前中のシチューが一番美味しいの。座って」
縦長の帳場に、いつもの椅子がある。
リアンは座った。
父・ガレスが奥の棚から出てきた。
「帰ってきたか」
「はい」
「腰が痛くて作業が遅くなってる。ちょっと手伝ってくれ」
「今日は帰りが——」
「一時間でいい」
ガレスはあっさり言った。
「お前の話は後でゆっくり聞く。さあ来い」
リアンは思わず立ち上がった。
父は昔からこういう人だった。
大事なことを大げさに言わない。
リアンが冒険者になると言ったときも、「そうか」と一言だった。
「腰は本当に痛いんですか」
「痛い。お前のせいじゃないから安心しろ」
「いや、俺のせいって思ってないですけど」
「たまに帰ってきて荷物でも運んでくれれば助かる。それだけだ」
窓から、陽が差し込んでいた。
棚の木の温かい匂い。
昔から変わらない、店の匂いだった。
――――――――
荷物を運んで、シチューを食べて、妹のルナに「お兄ちゃんかっこいい!」と言われて困った。
「なんで?」
「王都の謁見でしょ!」
「そんなにかっこよくない」
「かっこいいよ! 友達に話したら全員うらやましいって言ってた!」
「やめてくれ……」
「でも本当にすごいんでしょ? 悪い貴族を踏んだって」
「踏んだのは本当だけど、ただのつまずきで——」
「お兄ちゃんってつまずいてよかった方向に転んだことしかないよね!」
ルナはけらけら笑った。
リアンは頭を抱えた。
母が「ルナ、お兄ちゃん困ってるから」とたしなめたが、笑いながら言っていた。
父は奥で帳簿をつけながら、何も言わなかった。
でも——なぜか、その沈黙は責めてなかった。
居心地が良かった。
英雄でも何でもない自分が、ただそこにいることが許されている、という感じ。
(昔から、ここはそういう場所だった)
リアンは気づかないうちに、肩の力が抜けていた。
――――――――
実家を出るとき、母が追いかけてきた。
「リアン、ちょっと待って」
扉の外まで出てきて、リアンの腕を掴んだ。
「何ですか」
セリーヌは少し真剣な顔で言った。
「王都の謁見、怖い?」
「怖い」
即答した。
母は少し目を細めた。
「怖くて当然よ。でも——あなた、冒険者になる前から、ずっと怖いって言いながら何でもやってきたでしょ」
「やってこれてはいないですよ、全然」
「やってこれてるわよ」
セリーヌは微笑んだ。
「六ヶ月、続いてるじゃない。そういう子だって、お母さんは知ってるから」
リアンは返事に詰まった。
「また来てね。シチュー作っておくから」
「……うん」
「ルナが来年、冒険者に憧れてるって言い出したら止めてね」
「俺じゃ説得力ない」
「あら、そうかしら」
母は笑って、店の中に戻った。
リアンは少しの間、扉が閉まる音を聞いていた。
――――――――
職人街を抜けて、宿への帰り道。
西に日が傾き始めていた。
空が、少しずつ橙色に変わっている。
石畳の隙間から草が生えているところを踏まないようにしながら歩いていると、視界の端に見知った顔があった。
ミレイユが、本屋の前で立っていた。
薄い外套をまとって、棚に並んだ本を眺めている。
まだ起きていたのか、と思った。
というか、ちゃんと眠れたのか。
ミレイユが気配に気づいて振り向く。
「リアン? 職人街?」
「幼馴染のとこに」
「……あ」
ミレイユは少し目を丸くした。
「会いに行ったんですか」
「たまには」
「……良かったです」
理由は言わなかった。
でも声が、少し柔らかかった。
「想定問答、仕上がったんですか」
「昼ごろ完成しました。全部で九十二項目あります」
「九十二!?」
「足りないくらいです」
「十分すぎます!」
「リアンの否定を論理的に上書きできるかが核心なので、量は必要です」
「……ありがとうございます、本当に」
ミレイユは眼鏡のフレームを押し上げた。
「お礼言われると照れる」
「でも言います」
「…………」
ミレイユは本の棚に向き直った。
横顔が、夕暮れの色で染まっている。
「一緒に帰りますか」
「はい」
二人並んで歩き始めた。
ミレイユが少し早足で、リアンが合わせた。
「今日、実家で何か食べましたか」
「シチュー」
「家の味がしましたか」
「しました」
「……それは良かったです」
また少し、声が柔らかかった。
リアンは前を向いて歩いた。
夕暮れが路地を橙色に塗っていた。
――――――――
宿の扉を開けると、食堂のテーブルにセリアがいた。
手帳に何か書いていたが、リアンを見て顔を上げた。
「お帰りなさい!」
そして一瞬、昨夜のことを思い出したのか、少し耳が赤くなった。
「あの……昨夜は、いろいろ」
「俺こそ、変なこと言いました」
「変なことじゃないです!」
大きな声が出て、セリアは咳払いをした。
「……変なことじゃないと、私は思いました」
「…………」
「それだけです!」
手帳をぱたっと閉じた。
「どこに行ってたんですか」
「幼馴染のところに」
「あ、そうなんですね。楽しかったですか」
「楽しかったかどうかは……でも、良かったです」
「『良かった』、ですか。それはそれで大事ですね」
セリアは小さく頷いた。
「私も、歌を練習してました。今日は書き直したくなって」
「どんな歌ですか」
「……まだ、教えないです」
セリアは手帳を胸に抱えた。
「できたら聴いてください」
「はい」
「約束ですよ」
リアンは少し迷ってから、「うん」と言った。
約束、という言葉を久しぶりに使った気がした。
――――――――
夕食の前に、アリシアが騎士団から戻ってきた。
銀の鎧が、夕暮れ色に染まっている。
食堂で四人が揃った。
特別なことは何もなかった。
アリシアが王都謁見の準備日程を淡々と説明した。
ミレイユが想定問答集の概要を発表した。
セリアが「私は歌で盛り上げます!」と言って、アリシアに「謁見は歌う場ではない」と止められた。
そういう夕食だった。
リアンはスープを飲みながら、三人の会話を聞いていた。
(昨夜と、今と……変わったか?)
変わっていないかもしれない。
状況は何も解決していない。
王都への謁見は控えている。
英雄の噂は消えていない。
でも——何かが、今日一日で少し動いた気がした。
エリスの言葉。
デインの「顔が変わった」。
マルコの「逃げ足も才能」。
母親の「怖くて当然」。
全部が、英雄の話ではなかった。
リアンの話だった。
(俺は、たぶん変わったんだと思う)
どう変わったかは、うまく言えない。
でも——逃げることと戻ることを、昔よりちゃんと分けて考えられるようになった気がする。
昔は逃げることが全部恥ずかしかった。
今は、逃げながら戻ることが、自分の動き方なんだと少し分かる気がする。
弱いまま、どこかへ向かっている。
どこへかは分からない。
でも——方向は、あるかもしれない。
「リアン、聞いてますか」
アリシアが呼んだ。
「……聞いてます」
「謁見の服装について、明日採寸に行ってもらいたい。騎士団の仕立て屋を紹介する」
「……俺の服装まで騎士団が」
「あなたの着るものを今のまま王都に持って行かせるわけにはいかない」
「服に問題は……」
「全部ある」
断言だった。
ミレイユが手帳に何か書き込んだ。
「服装の想定問答も追加します」
「九十二項目から増えるんですか!?」
「九十三項目になります」
「……ありがとうございます」
セリアが「衣装! 素敵なやつにしてほしいです!」と言った。
アリシアが「騎士団の仕立て屋は実用優先だ」と返した。
ミレイユが「機能性と見映えは両立できる」と口を挟んだ。
三人の議論は、また始まった。
リアンは続きを聞きながら、スープを一口飲んだ。
熱かった。
今朝の朝食と、同じくらいの温度だった。
(今日は・・・・・・静かな一日だったな)
にぎやかだったが、静かだった。
そういう一日もある。
嵐の前には、たいてい静かな時間がある。
リアンはそれを知らなかったが——今日の空気がそれだということを、なんとなく感じていた。
夜の食堂に、三人の声が重なっていた。
――――――――
夜。
部屋に戻って、机に向かった。
特に書くものはない。
ただ、座りたかった。
窓の外。
職人街の方角に、灯りがいくつか見える。
デインの鉄槌亭も、まだ遅くまで作業しているはずだ。
マルコの窯は夜明け前から回る。
エリスの店は、明日の朝また開く。
みんな、そういう日々を送っている。
英雄でも何でもなく。
でも、ちゃんとそこにいる。
リアンは窓を少し開けた。
夜の空気が、冷たく入ってきた。
昨夜とは、少し温度が違う気がした。
寒いには寒い。
でも、息がしやすかった。
机の上に、ミレイユが置いていった想定問答集の第一稿がある。
薄い本のような厚さになっていた。
表紙に「リアン・フォルテ王都謁見用・想定問答集(改訂四版)」と書いてある。
まじめだな、と思った。
笑えてきた。
笑いながら、リアンは思った。
(逃げながら戻ってくる。それが俺か)
たぶん、そうだ。
だったら——もう少し、戻ることに慣れていこうと思った。
逃げることは得意だ。
戻ることも——意外と悪くない。
そういう気がした。
窓の外に、星が出ていた。
昨夜より少なかったが、晴れていた。
明日は晴れるか、と思った。
明後日どうなるかは分からない。
でも——
「まあ、なんとかなるっしょ」
呟いた。
窓を閉めた。
ベッドに入った。
目を閉じたら、わりとすぐ眠れた。
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(第18話・終)
――――――――
翌朝。
宿の食堂で、ノエルがそろばんを弾いていた。
「王都謁見まで四日です」
「早い!?」
「スケジュール上は余裕があります。ただ、リアン様の突発的な事件遭遇率を加味すると、実質ゼロ余裕です」
「なんでそんな数字が出るんですか」
「実績から割り出しました」
「……返す言葉が見つからない」
ノエルはそろばんを静かに仕舞った。
「リアン様が戻ってきてくれたことで、恩義返済計画のフェーズ2が実施できます」
「フェーズ2って何ですか」
「王都に同行します」
「なんで!?」
「リアン様の商業的価値が急上昇しているため、適切な折衝が必要です」
「人を商品みたいに」
「違います」
ノエルは少し口元が動いた。
「……商品じゃなくて、恩人への同行です」
「顔赤いですよ」
「暑い」
「春先ですよ」
「私の体温は通年高めです」
食堂に、朝の光が満ちていた。
窓の外から、荷車の音がして、どこかでパン屋の呼び売りが聞こえた。
普通の朝だった。
でも、静かなのに、なぜかにぎやかだった。
第19話「逃げない選択」
嵐は、想像していた方向から来なかった。
第18話、お読みいただきありがとうございます。
第18話「静かな朝」でした。
嵐の前の静けさ、という回です。
王都謁見まで四日。クライマックムはすぐそこにあるのに、リアンは幼馴染のとこで荷物を運んで、シチューを食べています。
デインは「顔が変わった」と言い、マルコは「逃げ足も才能」と言い、エリスは「逃げてばっかりだけど、毎回ちゃんと戻ってくる」と言う。
英雄の話は誰もしない。リアンをリアンのまま見ている三人です。
エリスの「戻り足」という言葉が、この回で一番書きたかったものでした。
逃げること自体を否定せず、でも逃げながら戻ってくることを「あんたの癖」として肯定する。
ヒロイン三人が「英雄リアン」を見ているとしたら、幼馴染は「ただのリアン」を知っています。
そのギャップが、今のリアンに必要なものだった気がして。
どう変わったか言葉にできないけど、確かに何かが動いた一日——というのを、静かに書いたつもりです。
次は「逃げない選択」。嵐が来ます。
引き続きお付き合いいただければ幸いです。




