第15話 貴族の陰謀(後)
――――――――
夜会当日。
リアンは、宿の部屋の中央で、棒立ちになっていた。
理由は一つ。
動くと、服が軋む。
軋む服は、高い。
高い服は、怖い。
そして——目の前にいるノエル・メルカートが、もっと怖い。
「腕を上げてください」
「腕、ですか」
「腕です」
ノエルは言い切った。
言い切った上で、リアンの袖口を引っ張った。
「……これ、俺、必要なんですか」
「必要です」
「必要なんですか」
「必要です」
やり取りが、昨日と同じだった。
違うのは。
今日は逃げられない。
リアンの喉が鳴った。
鏡に映る自分が、知らない男みたいだった。
シャツが白い。
ジャケットが黒い。
襟元が、息苦しい。
靴が、やけに光っている。
(俺、絶対場違いだ……)
リアンが小声で言うと、ノエルは即座に返した。
「場違いであることが、今回の強みです」
「強み……?」
「誰も、リアン様を“普通の侵入者”とは思いません。目立つのは危険ですが、目立たないのも危険です。中途半端が一番危ない」
ノエルは淡々と言った。
淡々としているから、余計に怖い。
リアンは、心の中で泣いた。
(俺は中途半端の王なんだが……)
「それと」
ノエルが紙袋を差し出した。
「これを」
「また何ですか」
「夜会用の小物です」
「昨日も聞きました」
「今日も必要です」
リアンは、受け取ってしまった。
受け取ってから、(断る流れはどこに)と思った。
――――――――
騎士団詰所の小会議室。
窓の外は、まだ昼の光がある。
室内の空気は、すでに夜みたいに重かった。
ヴィクトリア副長は、机の上に紙束を並べていた。
バルトロメウス子爵家の紋章印。
赤い封蝋の跡。
取引番号。
ゼルダへの前金。
どれもが、硬い紙の上で、硬い事実として並んでいる。
「改めて確認する」ヴィクトリアが言った。「今夜の夜会は、こちらから仕掛ける場ではない。相手が動く場だ。……つまり、罠がある」
アリシアが頷いた。
「承知しています」
ミレイユは眼鏡を押し上げた。
「魔術的な罠の可能性が高い。封蝋の刻印術が、すでに王都式です。子爵単独とは考えにくい」
セリアは、リュートのケースを抱えたまま、静かに息を吸った。
「歌で燃やすのは、禁止ですよね」
「禁止だ」
ヴィクトリアの即答に、セリアが小さく頷く。
リアンは、椅子の上で小さく縮こまった。
(なんで俺がここにいるんだ……)
ヴィクトリアがリアンを見た。
「リアン・フォルテ」
「はい」
「今夜は、喋るな」
「はい……?」
「喋るな。言い訳もするな。謝るな」
リアンは思った。
(それ、俺の存在価値の八割ぐらい消えません?)
でも口には出せない。
アリシアが言った。
「副長。私が前に出る」
「分かっている」ヴィクトリアが言った。「だからこそ、余計な火種は作るな。……貴族の場では、剣より言葉が先に刺さる」
リアンは、昨日も聞いた気がした。
貴族の会話は、刃だ。
そして今日は。
その刃の山の中に、放り込まれる。
ノエルが手帳を開いた。
「入場の名目は整えました。アリシア様は騎士団代表として。セリア様は余興担当として。ミレイユ様は“協会の技術顧問”として。リアン様は——」
「俺は?」
「商人ギルドの“護衛兼運搬係”です」
「運搬係……」
リアンは、自分の人生がどんどん遠くへ行くのを感じた。
ヴィクトリアが言った。
「目的は二つ。夜会に来る“客”の顔と名前を押さえること。もう一つは——子爵が今夜、何を動かすかを掴むこと」
「動かす?」
リアンが反射で聞くと、ヴィクトリアは言った。
「人だ。金だ。証拠だ。噂だ。……そして、お前だ」
リアンの背中が冷えた。
(俺、動かされる側なんだよな……)
――――――――
夜。
中央区の貴族街区は、昼よりも綺麗だった。
綺麗すぎて、怖い。
子爵家の屋敷は、灯りで輪郭が浮かび上がっている。
窓の一つ一つが、宝石みたいに光っている。
馬車が並び、門番が並び、笑い声が並ぶ。
リアンは、門の前で足が止まった。
(帰りたい)
いつもの言葉が、喉まで来た。
でも、隣にいるアリシアの横顔が、それを押し戻した。
平服。
なのに、背筋だけで“騎士団”を名乗っている。
セリアは、いつもより静かだった。
静かにリュートのケースを抱え、視線を落としている。
ミレイユは、周囲の魔力の流れを読むように、微かに眉を寄せている。
ノエルは、当たり前の顔で列の先へ進んだ。
「招待状です」
門番に紙を見せる。
門番が、紙を見て、リアンを見て、もう一度紙を見た。
そして——深く頭を下げた。
リアンは反射で背中を丸めた。
(やめてくれ……俺、そういうの耐性ない……)
門が開く。
音が、重い。
重い音の向こう側に、別の世界があった。
――――――――
夜会の会場は、広間だった。
天井が高い。
シャンデリアが怖い。
床の模様が、踏んだら怒られそうで怖い。
香水の匂いが濃い。
笑い声が軽い。
軽いのに、目だけが重い。
リアンは思った。
(俺の知ってる笑いと違う……)
その瞬間。
広間の奥から、男が歩いてきた。
背が高い。
仕立ての良い服。
手袋。
丁寧な笑み。
でも、目が笑っていない。
「ようこそ。我が家へ」
エドウィン・バルトロメウス子爵。
昨日、庭で会った男だった。
リアンの胃が、きゅっと縮んだ。
エドウィンは、アリシアに向けて、完璧な礼をした。
「シルヴァレスト家のご令嬢。お越しいただき光栄です」
「騎士団の代表として来た」アリシアが言った。「慈善の名目であっても、治安の確認は必要だ」
「もちろん」
言葉は柔らかい。
柔らかいまま、刃が入っている。
エドウィンの視線が、リアンに滑った。
ほんの一瞬。
庭での冷たさが、薄く蘇る。
「……この方は?」
アリシアが一拍置かず答えた。
「協力者だ」
リアンは心の中で叫んだ。
(協力者って言わないで!)
でも、ここで喋るなと言われた。
喋ったら死ぬ。
リアンは黙って、軽く頭を下げた。
エドウィンが笑った。
「協力者。なるほど」
笑いの形が、理解の形じゃない。
(やばい)
リアンは、確信した。
この人は、今夜、何かを動かす。
その“何か”の中に、自分が入っている。
――――――――
広間の片隅。
セリアは、余興の席に案内され、椅子に座っていた。
周囲の貴族たちの視線が、じわじわと集まる。
「吟遊詩人の方ですか?」
声が掛かる。
セリアは、微笑んで答えた。
「はい。今夜は、慈善のために」
「では、英雄の歌を」
別の声。
セリアの指が、リュートのケースをきゅっと掴んだ。
リアンは、少し離れた場所から、その様子を見ていた。
セリアが我慢できない顔をしている。
(やめろ……今夜は我慢しろ……)
祈った。
祈ったのに。
セリアは、ゆっくりとリュートを取り出した。
リアンの胃が沈む。
セリアは、弦を軽く鳴らす。
いつもの、街の歌じゃない。
音が小さい。
優しい。
慈善の名目に合わせた、穏やかな旋律。
それが逆に、怖かった。
貴族たちは、満足そうに頷いた。
そして、言った。
「上品だ」
「物語がない」
「物語がないのが、逆に意味深だ」
(やめてくれ)
リアンは、心の中で二回目の泣きを入れた。
――――――――
ミレイユは、広間の端の壁に指先を近づけた。
微細な魔力痕。
見えない糸みたいな結界が、広間全体を包んでいる。
「音が外へ漏れにくい」
ミレイユが小さく言った。
リアンは、ミレイユの隣に立っていた。
理由は単純。
この場で一人になると、確実に死ぬ。
死ぬ理由は色々ある。
話しかけられて死ぬ。
見られて死ぬ。
歩き方が変で死ぬ。
つまり、死ぬ。
「……ミレイユさん。俺、ここにいていいですか」
「いてください」
即答だった。
安心する。
安心した瞬間、背後から視線を感じた。
振り向くと、使用人の男が、薄く笑っている。
「お客様。こちらは立ち入りを」
「す、すみません」
リアンが反射で謝りかけて、思い出した。
喋るな。
謝るな。
リアンは口を閉じた。
代わりに、ミレイユが平坦に言った。
「結界の構造を確認しています。慈善夜会に不必要な魔術が張られているのは、なぜですか」
使用人の笑みが、一瞬だけ固まった。
「……安全のためです」
「安全のための結界は、もっと別の形になります」
ミレイユの言い方は、怒っていない。
ただ、否定している。
否定が、刃になる。
使用人が、微かに唇を噛んだ。
その瞬間。
広間の奥で、笑い声が少しだけ途切れた。
リアンは、嫌な予感を感じた。
そして——嫌な予感は、だいたい当たる。
――――――――
エドウィン子爵は、客を一通り挨拶して回った後、自然にアリシアの側へ戻ってきた。
「先日の件は、騎士団をお騒がせしました」
「先日の件?」
アリシアが言葉を尖らせないまま返す。
エドウィンは、穏やかに笑った。
「庭の件です。警備が不手際を」
「不手際で済む話ではない」
アリシアの声が、少し低くなった。
エドウィンは、目だけで笑った。
「ご不快でしたら、謝罪と補償を」
「補償?」
「貴族の場では、正義より先に“形”が必要です」
言った。
さらりと。
それが一番怖い。
アリシアが言った。
「形で、罪は消えない」
「罪、ですか」
エドウィンは、ゆっくりと首を傾けた。
「では、確認したい」
声が、少しだけ冷えた。
「昨日、庭で見つかった箱。……あれは、本当に我が家のものですか」
アリシアの目が細くなる。
「あなたの屋敷で見つかった。あなたの紋章印が押されていた」
「紋章印は偽造できます」
エドウィンが言う。
周囲の貴族たちは、笑っている。
笑っているのに、会話は静かに刃を投げ合っている。
リアンは、遠くからその様子を見て、胃が痛くなった。
(これ、俺が口挟んだら死ぬやつだ)
挟まない。
だから、見ない。
リアンは、見ない努力をした。
見ない努力をしたのに。
視線が合った。
エドウィンの目と。
リアンの胃が、さらに痛くなった。
――――――――
その時。
広間の扉の向こう側——廊下の奥から、低い声が聞こえた。
「……今夜だ」
聞きたくない声だった。
リアンの体が、勝手にそちらを向く。
向いた瞬間、ミレイユがリアンの袖を掴んだ。
「行きます」
「え」
「行きます」
即答だった。
リアンは思った。
(俺、今夜“即答”が一番怖い)
ミレイユは、廊下の奥へ静かに進む。
リアンは、ついていくしかない。
廊下の先。
壁の陰。
そこに、二人の男が立っていた。
片方は、屋敷の使用人。
もう片方は——貴族ではない。
服は上等。
でも、姿勢が違う。
武器の匂いがする。
「貨物は、南の門から」
使用人が言った。
「門は騎士団が見ている」
もう一人が言った。
声が、低い。
笑いがない。
「だから、騎士団の目が逸れる瞬間を作る」
「どうやって」
「英雄を燃やす」
短い言葉。
リアンの背中が冷えた。
「……リアン・フォルテ」
男が言った。
名前を、道具みたいに呼んだ。
「今夜、彼が盗みを働いたことにする。貴族の場で。目撃者は揃えてある」
使用人が小さく笑う。
「騎士団も動けなくなる」
「動けば、貴族への無礼になる」
男が言った。
そして、淡々と続けた。
「黒い封書は、すでに王都へ行った。ここで足を止める必要はない」
黒。
黒い封蝋。
昨日の最後の封書。
リアンの心臓が、一拍だけ遅れた。
(やばい)
ミレイユが、息を吸った。
その息の音が、ほんの少しだけ大きかった。
男の首が、こちらを向く。
視線が刺さる。
「誰だ」
リアンは、思った。
(終わった)
――――――――
走った。
リアンは、走った。
走るしかなかった。
ミレイユも、走った。
走りながら、ミレイユが小さく呟く。
「結界が、追跡型に変わります」
「追跡型?」
「人の魔力反応を拾う」
「俺、魔力ないですよね」
「ありません」
「じゃあ助かる?」
「リアンは目立ちます」
「そっちか……!」
リアンは心の中で叫びながら、廊下の角を曲がった。
曲がった先。
扉があった。
開いていた。
開いている扉は、嫌な予感しかしない。
でも、後ろの足音も嫌だ。
リアンは扉に飛び込んだ。
中は——書庫だった。
本の匂い。
紙の匂い。
リアンが嫌いな匂い。
でも、今はそれどころじゃない。
リアンは棚の影に身を潜めた。
息を殺す。
殺しながら、心臓だけが暴れる。
扉の外で、足音が止まった。
「この先だ」
低い声。
嫌な声。
扉が、ゆっくり開く。
リアンは、反射で一歩下がった。
下がった足が、何かに当たった。
カタン。
小さな音。
棚の一番下に置かれていた花瓶が、揺れた。
揺れて——倒れた。
ガシャン。
音が、派手に鳴った。
(うわあああ!)
リアンの脳内が叫んだ。
扉の外の男たちが、すぐに入ってくる。
ミレイユが、指先を動かした。
花瓶の破片が、ふわりと浮く。
そして、別の棚の前に落ちる。
ガシャン、ガシャン。
音が、分散する。
「奥だ」
男の声が、そちらへ向いた。
その隙。
リアンは、棚の影から反対側へ移動した。
移動して——足を滑らせた。
絨毯が、高級すぎて滑る。
リアンは、棚に手をついた。
棚が、少しだけ動いた。
動いた棚の裏。
壁が——少しだけ開いた。
(え?)
壁の中に、金属の箱。
箱には、封蝋。
赤じゃない。
金でもない。
黒。
黒い封蝋。
リアンは、思った。
(やばいやつだ)
分かる。
分かるのに、手が伸びる。
手が伸びてしまう。
リアンは、箱を掴んだ。
掴んだ瞬間。
背後で、男の声が響いた。
「そこだ」
終わった。
リアンは、終わったと思った。
でも——終わらなかった。
ミレイユが、リアンの手首を掴んで引いた。
「走れ」
「はい!」
リアンは、反射で返事をして、走った。
走りながら思った。
(喋るなって言われたのに!)
――――――――
広間へ戻る。
戻った瞬間。
空気が変わった。
音楽が止まっている。
笑い声が止まっている。
全員の視線が、一点に集まっている。
そこに。
アリシアがいた。
エドウィン子爵と向かい合っている。
そして——エドウィンの側に、さっきの低い声の男がいた。
男は、リアンの手の箱を見て、薄く笑った。
「見つけた」
言った。
まるで、落とし物を拾うみたいに。
エドウィンが穏やかに言う。
「皆様。少々、騒がしいことになりました」
貴族たちが、ざわりと笑う。
笑いが、好奇心の匂いを持つ。
「我が家の書庫から、盗まれた品が見つかった」
エドウィンの声は、やさしい。
やさしい声で、人を殺せる。
リアンは、そう思った。
「犯人は——」
エドウィンの視線が、リアンに落ちた。
視線が、針みたいに刺さる。
リアンは思った。
(来た)
「この方だ」
言った。
静かに。
周囲が、息を飲む。
息を飲む音が、リアンには聞こえた。
(助けて)
口に出したら終わる。
リアンは、黙って、箱を握り締めた。
アリシアが言った。
「その箱は、こちらの証拠品だ」
「証拠品?」
「王都要請に関わる案件だ。騎士団が預かる」
エドウィンが、わずかに目を細めた。
「王都要請状は、免罪符ではありません」
昨日と同じ言葉。
昨日より、周囲に人がいる。
だから、刺さり方が違う。
貴族たちが笑う。
笑いが、リアンに向けられる。
「英雄が、盗み?」
「英雄にも、欲はある」
「噂は噂か」
リアンは、胃がひっくり返りそうだった。
そこへ。
ノエルが一歩前に出た。
ノエルは、いつもの顔だった。
いつもの顔で、いつもより冷たい声で言った。
「その箱が、書庫のものだという根拠を提示してください」
エドウィンが微笑む。
「商人ギルドの方ですか。……根拠は、簡単です。この屋敷の中にあった」
「屋敷の中にあったなら、屋敷の管理責任です」
ノエルの言葉が、刃だった。
貴族たちが、一瞬だけ黙る。
エドウィンの笑顔が、ほんの少しだけ薄くなる。
アリシアが言った。
「この場で争うつもりはない。証拠は預かる。異議は、正式に」
エドウィンは、ゆっくりと頷いた。
「よろしい。では——この方は、どうします?」
指先が、リアンを示す。
リアンは思った。
(俺だ)
アリシアが、短く言った。
「連れて帰る」
エドウィンが微笑む。
「逃がすのですか」
「騎士団の管理下に置く」
「管理下」
エドウィンが、もう一度笑った。
「では、見届けましょう。……英雄が、どこまで守られるか」
言葉が、周囲に落ちる。
落ちて、貴族たちの笑いを呼ぶ。
リアンの胃が、底まで落ちた。
――――――――
屋敷の外。
夜風が冷たい。
冷たいのに、リアンの背中は汗で濡れている。
門を出た瞬間。
影が動いた。
低い声の男が、近づいてきた。
距離が近い。
近すぎる。
アリシアが、半歩前に出た。
「下がれ」
男が笑った。
「騎士団の令嬢。剣は抜けないだろう? ここは夜会の余韻の中だ」
言い方が、武器だ。
アリシアの指が、微かに動く。
抜けない。
抜けないのに、守らなければならない。
その一瞬。
リアンの手の紙袋が、揺れた。
ノエルから渡された“夜会用の小物”。
中身が、床に落ちた。
小さな金具。
薄い鏡。
飾りのついた留め具。
そして——小さなガラス瓶。
瓶が割れた。
透明な液体が、石畳に広がる。
(え?)
リアンは、瓶のラベルを見た。
小さく書いてある。
『香水』
香水。
この場で。
香水。
リアンは思った。
(今じゃない)
でも、もう遅い。
香りが広がる。
広がって——男が一瞬だけ顔を歪めた。
「……っ」
ミレイユが、すぐに言った。
「吸い込まないで。微量の刺激性薬剤が混ざっている」
リアンは思った。
(香水って、そういうものなの!?)
ノエルが、淡々と言った。
「対策品です」
「聞いてないです!」
リアンは思わず叫びそうになって、口を閉じた。
喋るな。
でも、これは喋りたい。
男が、咳をしながら距離を取った。
その瞬間。
屋敷の外門の影から、別の足音が響いた。
金属の音。
騎士団。
ヴィクトリア副長が、夜の闇の中から現れた。
「——そこまでだ」
声が短い。
夜会の笑いとは違う。
現実の声だ。
男が舌打ちした。
次の瞬間、男は踵を返して走った。
走って——消えた。
消えた代わりに、何かが落ちた。
黒い封蝋の欠片。
ほんの欠片。
でも、見ただけで胃が痛い色。
ヴィクトリアが拾い上げ、指先で転がした。
「……黒か」
言葉が、重かった。
――――――――
騎士団詰所。
夜更け。
机の上に、黒い封書が置かれていた。
リアンが書庫で掴んだ箱。
その中から出てきたもの。
封蝋は黒。
刻印は潰れている。
でも、紙質と魔力痕が、王都式。
ミレイユが、結界解析用のクリスタルで照らす。
「複数の封印術が重ねられています。……読み取りを妨害するタイプ」
ヴィクトリアが言った。
「読めるか」
「時間はかかります。ですが——」
ミレイユは、視線を上げた。
「これは、子爵の屋敷に置いておく物ではありません。置いておけないから、隠していた」
アリシアが唇を結ぶ。
「子爵は、誰かの指示で動いている」
ノエルが手帳をめくった。
「そして、“誰か”は、子爵を切り捨てられる立場です」
セリアは、静かに言った。
「物語の悪役って、そういう人多いんですよね」
「物語じゃない」
リアンは心の中で反射した。
でも、今夜は。
現実の方が物語みたいに残酷だ。
ヴィクトリアが、封書を見下ろして言った。
「明朝、王都へ報告する。これ以上、街だけで抱え込めない」
リアンの胸が、ひやりとした。
王都。
あの金の封蝋。
上の世界。
リアンは、椅子の上で小さく縮こまった。
(俺、もう無理です)
口に出したら、また誤解される。
だから、言えない。
言えない代わりに、リアンは小さく呟いた。
「……帰りたい」
声が、誰にも届かないくらい小さい。
でも、ミレイユが聞き取ってしまった。
ミレイユが、珍しく言葉を迷ってから言った。
「帰れるようにします」
アリシアも言う。
「帰らせる」
セリアが、同じように言った。
「帰る場所を、守ります」
ノエルは、そろばんを弾きながら言った。
「帰るための費用も、計上しておきます」
リアンは思った。
(違う……そうじゃない……)
でも。
その“違う”が、言えない。
言えないことが、また胃を痛くする。
――――――――
翌朝。
王都へ向かう使者が、騎士団詰所から出た。
封書は二つ。
一つは、王都の金の封蝋。
もう一つは、黒い封蝋の欠片を同封した、厳重な包み。
ヴィクトリアは、見送る背中に短く言った。
「最短で行け」
使者が頷く。
その背中が、小さくなる。
リアンは、詰所の廊下の端で、その様子を見ていた。
見ているだけで、胃が痛い。
(俺の人生、王都に向かってる……)
嫌だ。
でも、止められない。
止められないのに。
街では、もう止まっていなかった。
――――――――
金獅子亭。
昼前。
まだ酒場が本格的に混む前なのに、噂だけは混んでいた。
「聞いたか? 子爵の夜会で、英雄が盗賊扱いされたってよ」
「で、どうなった」
「子爵が謝ったらしい」
「謝ったのか?」
「謝ったってことに、なってる」
話が、勝手に育つ。
リアンは、その場にいない。
なのに、名前だけが走る。
セリアは、吟遊詩人ギルドの部屋で、リュートを膝に置いていた。
歌詞の紙は、白いまま。
白いままなのに、噂は黒くなる。
セリアは、指を震わせて呟く。
「……歌ってないのに、広がるんだ」
誰もいない部屋で、笑ってしまった。
物語は、歌がなくても動く。
だから。
今は、歌わない。
——歌わない。
セリアは、自分に言い聞かせた。
その言い聞かせが、逆に怖かった。
――――――――
リアンは宿の部屋で、布団に潜っていた。
昨日の夜会の光。
香水。
笑い声。
刃の言葉。
全部が、布団の外にあるのに、布団の中に入ってくる。
リアンは、布団の中で小さく呟いた。
「……俺、普通の人生が良かった」
普通。
薬草採取。
安い飯。
失敗して怒られて、笑われて。
それで十分だった。
でも。
アリシアの目。
ミレイユの指先。
セリアの旋律。
ノエルの即答。
それが浮かぶ。
浮かんでしまう。
守りたいなんて、言えるほど偉くない。
でも、巻き込んでしまった以上——逃げたくない。
リアンは、目を閉じて、いつもの言葉を探した。
そして、見つけた。
「まあ……なんとかなるっしょ」
言った。
言っただけで、少しだけ呼吸ができた。
――――――――
(第15話・終)
――――――――
王都。
高い塔の上。
金の封蝋が割られ、書状が広げられた。
読み終えた男が、短く言った。
「……リュミエルで、またリアン・フォルテか」
部下が、慎重に尋ねる。
「例の件と、繋がりますか」
「繋がる」
男は、黒い封蝋の欠片を指先で転がした。
「英雄が、貴族の陰謀を踏み抜いた。……なら、こちらから呼ぶ」
机の上に、白い封筒が置かれる。
封蝋は金。
文字は短い。
「王都へ」
第16話「王都からの手紙」
噂は、招待状になる。
第15話、お読みいただきありがとうございます。
第15話「貴族の陰謀(後)」でした。
第14話で証拠が出た以上、相手も当然“動く”。
そして貴族の場では、剣より先に言葉が刺さる——そんな怖さを描いた回になりました。
リアンは相変わらず、逃げて、滑って、掴んでしまう。
本人の胃はずっと痛いのに、結果だけが国の方へ積み上がっていきます。
次回は「王都からの手紙」。
噂が、いよいよ“正式な形”になって返ってきます。
引き続きお付き合いいただければ幸いです。




