第12話 告白未遂
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騎士団の鍛錬が終わったのは、七時過ぎだった。
汗を拭いて、武具を磨いて、宿舎の部屋に戻った。
机の引き出しを開けた。日記がある。昨夜の最後に書いた一行が、まだそのままある。
「言う」
それだけ書いた。判断に至った過程も理由も書かなかった。書いたら迷うと思ったから、書かなかった。
(今日、言う)
繰り返した。
言うべき内容が何かは、まだ言葉になっていない。ただ「言う」ことだけが決まっている。言葉は、その場で出てくるものだと思っていた。いつも依頼の現場でそうしてきた——言葉より先に体が動く。今日もそうするだけだ。
でも。
(一対一で、話せる場所が必要だ)
リアンが昼食によく使う場所を思い出した。
ギルドの近く、北側の路地に入ったところにある小さな食堂だ。一人でも来やすくて、安くて、混みすぎない。リアンが「ここの焼き飯が一番安くてうまい」と言っていたのを、何かの話の流れで聞いた。
「昼、そこに誘おう」
声に出した。決まった。
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徹夜明けだった。
論文の第三章の修正が途中になっているが、今朝はそれより先に処理すべきことがある。
手帳の最後のページに、昨夜計算した式がある。感情の定量化は不可能だが、行動の最適化は可能だと、三時間かけて整理した。
変数:相手との接触頻度、一対一の機会の発生確率、競合者の行動ペース。
結論:今日が最適。競合者が動く前に、動く。
(問題は、どこで)
リアンは午前中にギルドへ来る。昼食は習慣としてある特定の食堂を使っている。観察データによると、毎日ほぼ同じ時間に同じ場所で食事を取っている。
昼食時、あの食堂に先に行く。偶然を装う必要はない。ただ「一緒に食べてもいいか」と言うだけだ。その後に、言う。
「言う」内容の言語化は——
手帳を閉じた。
言葉は、その場で出てくるはずだ。研究の発表では毎回そうやってきた。今日もそうするだけだ。
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昨夜から、頭の中で歌が鳴っていた。
告白の歌ではない。ただ、朝が来たときの歌だ。窓の光の色と、起き上がる気持ちの、あの感じ。
「今日、言います」
リュートを爪弾きながら、もう一度言った。
言う内容は、ある程度決まっていた。物語の語り口でなく、ただ自分の言葉で言う。それが今日やることだ。
場所を考えた。
リアンが食事をよく使う場所——北側の路地の食堂のことは、ギルドの人に聞いて知っていた。昼ごはんを「一緒に食べよう」と誘えれば、自然に話せる場所ができる。
(よし)
リュートを壁に立てかけた。コートを着た。
今日は、物語で考えない。
ただ自分で、言う。
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午前中、三人は別々にリアンと接触した。
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リアンがギルドの掲示板を確認しているところへ、アリシアが来た。
「おはよう」
「あ、おはよう——あれ、今日は鍛錬の日じゃないんですか」
「終わった」
「早いですね」
アリシアは少し間を置いた。「……昼、空いているか」
「昼ですか。特に予定は」
「北側の食堂に行こうと思っていた。一緒にどうだ」
リアンがアリシアを見た。特に深い意味はない顔をして、「いいですよ」と言った。
「十二時に、食堂の前で」
「わかりました」
アリシアが立ち去った。
(……よし)
心の中で、小さく、アリシアは確認した。
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同じ日の、十時頃。
図書館の外でリアンと会ったのは、ミレイユにとっては半分計算で、半分偶然だった。
「リアン」
「あ、ミレイユさん。今日も図書館ですか」
「返却に来ました。……昼、予定はありますか」
「昼は……あ、アリシアさんと北側の食堂に——」
「北側の食堂」
「はい」
ミレイユは一秒止まった。
「……私も、昼はその食堂に行こうと思っていました」
「あ、じゃあ三人で」
「はい」
声が少し平坦になった。でも「また鉢合わせか」という諦めが来る前に、「三人で行ける」という事実が来た。
(……条件は変わる。でもゼロにはならない)
「十二時に」
「アリシアさんも十二時って言ってたので、そこで」
「わかりました」
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十一時。
ギルドの階段でセリアがリアンに話しかけた。
「リアン! 今日の昼、北側の食堂に行きませんか!」
「あ、北側の食堂——」
「一緒に食べながら話したいことがあって!」
「……実はアリシアさんとミレイユさんも行くって」
セリアの瞳が、一瞬だけ止まった。
「……三人で?」
「そうなりました」
「……なるほど」
一拍の間があった。
セリアはにこっと笑った。「物語的には、これが正しい展開ですね!」
「何が正しい展開かは……」
「では十二時に!」
颯爽と行ってしまった。
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リアンはギルドの階段で、一人になった。
(……なんで全員が北側の食堂を知ってるんだ)
自分がそこをよく使うことを話した記憶がない気がするが、ないとも言えない。あの店の話はしたことがあったかもしれない。
まあ、いい。四人で昼飯を食べるのは珍しくない。
(なんか今日、みんな少し様子が違う気がしたが……)
気のせいかもしれない。最終的に「まあいいか」が追いついた。
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「北の角食堂」は名前のとおり、路地の角にある、八卓しかない店だった。
壁が古びていて、窓が小さくて、入口に木の看板が壁から曲がって出ている。料理は多くないが安くてうまい。一人客が多い。リアンはここ半年ほど、昼は大体ここだった。
リアンが着いたのは五分前だった。
アリシアが既にいた。入口の外で、背筋を伸ばして立っていた。いつも通りの完璧な姿勢だが、何か少し固い。
「先に来てたんですか」
「少し早く出た」
ミレイユが来た。本を抱えていた。「リアン、アリシア。お待たせしました」
「ちょうどです」
三人で入口に並んだ。
そこへ、息を少し切らしながらセリアが来た。コートの前ボタンを留め間違えていた。
「すみません、少し迷いました! 方向音痴で!」
「毎回ですね」リアンが言った。
「一度来た場所も迷うのが私の特技です!」
「特技ではないと思います」ミレイユが言った。
「なんでも特技になります! 個性として記録しておいてください!」
四人で店の中へ入った。
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ちょうど四人分の窓際の卓が空いていた。
四人で座った。
リアンが正面に座って、三人がその周り——アリシアが右、ミレイユが左、セリアが正面——に。
注文を取りに来た店の若い女が、テーブルを見て少し目を丸くしてから、何も言わずに受け取った。
「焼き飯と、汁物を」リアンが言った。
「私は野菜の炒め物と、パンを」アリシアが続けた。
ミレイユが早口で頼んだ。セリアが迷った末に同じものを頼んだ。
店の女が去った。
四人に、静寂が来た。
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食堂の中の他の客のざわめきは普通にある。外から荷馬車の音がする。でも、このテーブルだけ、空気が少し違う。
(……重い)
リアンは感じた。
昨日の帰り道のあの感じに似ているが、今日はより明確だった。三人が何もしていない。何もしていないのに、テーブルの上に何かが張っている。
(何が起きているんだろう)
考えたが、わからなかった。
「昨日の依頼の件、古地図の確認は今日中にできそうですか」
アリシアが言った。依頼の話を出した。話題を出した。
「協会の資料室には午後に行けます」ミレイユが答えた。「今日中に図面を入手できるなら、明日の張り込み準備に間に合います」
「それは助かる。騎士団側の割り当てと情報を突き合わせれば——」
「一報入れていただければ、自分も参加できます」
「——そうだな。それが早い」
二人が話した。
セリアが正面からリアンを見ていた。何かを言おうとしているような、やめたような、顔をしていた。
料理が来た。
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食事が始まって、しばらく経った。
アリシアは食べながら、タイミングを計っていた。
(ミレイユが手帳を見ている。今なら)
「リアン」
「はい」
「昨日、思ったことがある」
「何ですか」
「お前は——」
「リアン」
ミレイユが同時に言った。
間があった。
「……どうぞ」アリシアが言った。
「いえ、アリシアが先でした」ミレイユが言った。
「私も話の途中ではなかった。先にどうぞ」
「先は、アリシアです」
「あなたも話し始めていた」
「一言だけです」
「私も途中です」
二人が止まった。
セリアがリュートを持っていないことに気づいた顔をして、代わりに水のコップを両手で持った。
「……二人とも言いたいことがあるなら、じゃんけんはどうですか。正当です」
「リアンに向けて話すことを順番でやるのは——」アリシアが言いかけた。
「自然ではないですね確かに」ミレイユが言った。
「どちらでも」リアンが言った。三人が止まって、リアンを見た。「俺は、どちらが先でも聞きます」
三人が黙った。
(……なんか今、絶対に何かある)
リアンは確信した。でも何があるかは全くわからない。
アリシアが水を飲んだ。ミレイユが手帳を開いて、閉じた。セリアがコップを持ったまま、天井を見た。
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また静寂が来た。
今度はより密度が高かった。
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三分後に、アリシアがもう一度口を開いた。
「リアン。私は——」
「すみません! リアン・フォルテさんはいらっしゃいますか!」
入口から声がした。
四人が振り返った。
ギルドの制服を着た若い男が、店の中を見回していた。ギルドの伝令係だ。
リアンが手を上げた。「はい」
伝令係が素早く近づいてきた。「緊急依頼の件で、ギルドマスターより直接ご連絡があります。今すぐご来館をとのことです」
「——今すぐ?」
「はい。至急とのことです」
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ギルドのマスター室は、普段は入れない部屋だった。
四人で来ると、ギルドマスターのユルゲン・ホレルが待っていた。五十代の、白髪交じりの男で、ギルドの運営を十五年やっている人だ。平素は穏やかな人物だが、今日の顔は違った。
「来てくれたか。全員で来てよかった」
テーブルの上に、封書が置かれていた。
金の封蝋。王都の紋章だった。
「三日前に、王都の冒険者連合本部から来た」ユルゲンが言った。「内容は、ここでしか話せない。聞いてくれるか」
四人が頷いた。
「ここ最近、王都周辺で貴族家が関わる不審な動きが複数報告されている。商業ルートの迂回、魔術師の失踪、騎士団外部の傭兵の増加。それぞれ単独では説明できる範囲だが——まとめると、誰かが何かを準備している規模感になる」
アリシアの目が変わった。「王都の騎士団が動いていないのですか」
「動いている。だが、王都内部に情報の漏がある可能性がある。外部から独立して調査できるチームが必要になった」
「それが、私たちですか」ミレイユが眼鏡を押し上げた。
「名前が挙がったのは、主にリアン・フォルテだ」ユルゲンがリアンを見た。「魔術師協会への貢献、人身売買組織の摘発、先の倉庫街調査での現場判断——さまざまな実績が上の人間に届いている。彼を中心とした少数精鋭で動いてほしいという要請だ」
リアンが「え」と言った。
「俺が?」
「そうだ」
「ただ逃げてたり偶然見つけたりしてただけなんですが」
「それが上の評価と食い違っているのは承知している。ただ、要請は出ている。断ることもできるが」
リアンが三人を見た。
アリシアが静かに言った。「私は動く。騎士団として、こういう件は看過できない」
「私も同行します」ミレイユが手帳を出した。「情報の整理と戦術分析は必要になる」
「参加します!」セリアが即座に言った。「記録者として、情報の管理に貢献できます。それに——一人にしません」
最後の一言がリアン向けだった。
リアンはしばらく黙っていた。
「……わかりました。やります」
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マスター室を出た後、廊下で四人が立ち止まった。
「正式な依頼票と情報の引き継ぎは明日になる」とユルゲンに言われていた。今日はここまでだ。
廊下は静かだった。
アリシアが言った。「今日は解散にしよう。明日に備えて準備がある」
「はい」ミレイユが頷いた。
「では! また明日!」セリアが言った。
三人が動いた。
リアンは廊下に残って、三人の背中を見た。
(……今日、何か言いそうな気がしていたのに)
三人が、それぞれ去っていった。
なんとなく。
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宿舎に戻って、日記を開いた。
「言う」という昨夜の一行の下に、ペンを当てた。
何を書くか考えた。
「言えなかった」は、事実だ。でも正確ではない。
「状況が変わった」と書いた。
本当のことを書いた。
状況は変わった。王都の案件が来た。何かが、また大きくなろうとしている。
でも。
(言いたかった気持ちは、消えていない)
持ち越した気持ちは、問題の後には解決される。そう思うことにした。
問題が終わったら、言う。
昨夜の「言う」の下に、小さく「問題の後で」と書き足した。
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手帳の計算式を見た。
「今日が最適」という結論が出ていた。今日ではなかった。
誤差があった。変数が足りなかった。「外部からの介入(緊急依頼の発生確率)」を考慮していなかった。
——結論:次回の最適タイミングを再計算する。
手帳に書いた。研究として整理した。
でも、手帳を閉じた後で、少し窓の外を見た。
(……今日、アリシアも言おうとしていた)
わかっていた。正確に観測していた。
わかっていて、それでも今日行ったのは、計算だけじゃなかったかもしれない。
そこまで考えて——手帳を再び開いて、考えた記録を消した。
定量化できないものは記録しない。そういうルールだった。
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宿に戻って、リュートを取った。
指が動いた。歌詞も音符も決めていない、即興の旋律だ。
今日のことを、物語の語り口で追いかけようとした。
三人の女と、一人の英雄。言えなかった一日。そして、新しい使命。
——でも、言葉より先に、メロディが来た。
きれいだと思う旋律ではなく、少し歪んでいる旋律だった。
(告白できなかったから、悲しい)
そう思ったのかと気づいた。
物語の「展開の都合で持ち越された」ではなく、「言いたかったのに言えなくて、残念だった」。
それが今の自分の気持ちだ。
(……本物だ)
歪んだ旋律が少し、丸くなった。
問題が終わったら、言う。今度こそ。
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宿の部屋に戻って、ベッドに腰を下ろした。
今日一日を振り返った。
昼に四人で食事をして、その後で王都絡みの案件を引き受けることになった。
昼の食堂で、三人がずっと何か言いそうで言わなかった。アリシアが二回口を開いて止まった。ミレイユが手帳を出して閉じた。セリアがコップを持ったまま天井を見ていた。
(……何だったんだろう)
わからない。でも、何かあった。
それは確かだ。
王都の件は大変そうだった。正直、怖い。またあの「英雄扱い」のまま大きな話に乗っかることになるのが、慣れてきているのか慣れていないのか、よくわからない。
「まあ……」
天井を見た。
「なんとかなるっしょ」
いつもの言葉が出た。
でも今日のそれは、少しだけ、昨日までと違う重さがあった。
「なんとかなる」ではなく、「なんとかする」に、少し向いていた。
そのことに、リアンは気づいていなかった。
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(第12話・終)
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都市の北区で、一流の騎士が三人、次々と負傷して運び込まれた。
いずれも一撃。痕跡なし。
騎士団に、一通の手紙が届いた。
「アリシア・シルヴァレスト。次は、あなたの番です」
——第2部・完。
第13話「殺人騎士ゼルダ」
完璧なものを壊すことが、美しいと信じている人間がいる。
第12話、お読みいただきありがとうございます。
今回は「告白未遂」。
三人がそれぞれの朝に「言う」と決めて、でも現実はそう都合よくは進まない——という、恋と誤解の詰め合わせ回でした。
リアンにとっては日常の延長のつもりの行動が、周囲にとっては重大イベントに見えてしまう。
そのズレが加速すると、今度は“言葉”そのものが誤解の材料になっていきます。
ここまで来ると、リアンの「まあ、なんとかなるっしょ」は呪文みたいなものですね。本人は胃が痛いのに。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
次回も引き続きお付き合いいただければ幸いです。




