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第1話 最弱冒険者の偶然

 冒険者ギルドの掲示板は、今日も賑わっていた。


 朝日が差し込むエントランスでは、石畳の床に光の帯が伸び、空気には革と汗と昨夜の酒の匂いが混ざっている。掲示板の前で、冒険者たちが肩をぶつけ合っている。


「おい、それ俺が先に見てた!」


「早い者勝ちだろうが」


 筋骨隆々の戦士が、魔導書を抱えた魔術師と小競り合いをしている。報酬の良い依頼を奪い合っているのだ。


 その隣では、軽装の斥候が掲示板を指でなぞっている。


「Bランク…いや、こっちのCランクの方が効率いいか」


 みんな迷いがなく、自分が何をできるか、何を選ぶべきか、ちゃんとわかっている。


 その人混みの端——


 リアン・フォルテ(りあん・ふぉるて)は、掲示板の隅で小さくなっていた。


 172センチの体をできるだけ縮め、肩を丸めて壁際に寄る。くすんだ緑のチュニックは袖口がほつれ、灰色のマントは端が擦り切れて糸が垂れている。腰の革のベルトには何度も修理した跡があり、金具は錆びかけている。下げている短剣の鞘は色褪せていて、中の刃は——最後に研いだのはいつだっただろう。


 装備は、全部、中古だ。


 掲示板の前の戦士の腰には磨き上げられた大剣があり、鞘には宝石が埋め込まれている。魔術師のローブは深い青で、刺繍が施された高級品だ。リアンの装備とは、何もかもが違う。


「えっと…これは…」


 人混みの隙間から、掲示板を覗き込む。


 羊皮紙の依頼書。文字を追う。


『魔獣討伐:報酬金貨2枚:必要ランクD以上』


 リアンは、すぐに目を逸らした。


「無理…」


 次の依頼書。


『迷宮探索:報酬金貨3枚:必要ランクC以上』


 また目を逸らす。


「もっと無理…」


 掲示板の中央には、高ランクの依頼ばかり。


 リアンの手が、無意識に腰の短剣に触れる。


 柄を握る。


 指が、こわばる。


 リアンは、そっと手を離した。


「…こっちだな」


 掲示板の隅。


 他の冒険者が見向きもしない場所。


 そこに、小さな依頼書が一枚。


『街道護衛依頼(初心者向け)』


 報酬:銀貨5枚


 危険度:低


 必要ランク:F以上


 内容:商人の荷車を護衛しながら、隣町まで移動。事故率:過去3ヶ月で0件。


 リアンの目が、そこで止まった。


 事故率0件。


 安全。


 リアンの唇が、わずかに緩む。


「これなら…」


 依頼書を引き剥がそうとして——


「おっ、リアン」


 背後から声がした。


 リアンの肩が、びくっと跳ねる。


 振り返ると、トムが立っていた。


 ギルドの雑用係。リアンと同い年。茶色の髪に、人懐っこい笑顔。エプロンにインクの染みがついている。


「あ…トム…」


「今日も早いな。掲示板チェック?」


「うん…まあ…」


 リアンは、後頭部を掻いた。癖だ。


「その依頼、いいんじゃね?」


 トムが、リアンの手元を覗き込む。


「商人護衛だろ? 楽勝楽勝」


「う、うん…事故率も0だし…」


「お前、ほんと慎重だよな」


 トムは、カウンターの後ろから、書類を取り出す。


「いつもそういうの選んでるし」


「まあ…命あってのなんとやらっていうか…」


 リアンは苦笑した。口の端だけが上がる、自嘲的な笑い。


「でもさ」


 トムが、ペンを回しながら言った。


「お前、半年くらいだろ? 冒険者始めて」


「そんなもんかな」


「で、依頼失敗したこと、一度もないんだよな」


「…運がいいだけだって」


「運だけで半年も無事故は無理だって」


 トムは、笑った。


「同期のやつら、もう半分くらい辞めてるぞ。農家に戻ったり、商人見習いになったり」


「まあ…うん…」


 リアンは、視線を逸らした。


「俺はただ…」


 リアンの声が、小さくなる。


「逃げるのだけは、得意だから」


「逃げるのも技術だって」


 トムは、書類をカウンターに置いた。


「というか、お前、そろそろランクアップ試験受けたら?」


「いや、無理だって」


 リアンは、すぐに首を横に振った。


「俺、戦えないもん」


「でも結果出してるじゃん」


「それは…まあ、なんとかなるっしょ精神で…」


「それお前の口癖だよな」


 トムが、肩を竦めた。


「まあいいや。じゃ、手続きするから、そっち持ってきて」


 リアンは、依頼書を受付に持っていった。


 手続きを済ませ、依頼書の控えをポケットにしまった。


 ギルドの外に出る。


 朝の光が、まぶしい。


 街道は、ここから北へ延びている。


 待ち合わせ場所は、街の北門。


 リアンは、手帳を取り出して確認した。


 擦り切れた革の表紙。ページの端が折れている。


 いつも持ち歩いている。依頼の内容、地図、注意事項。全部、ここに書き込んでいる。


「よし…行くか」


 リアンは、手帳をポケットにしまって、歩き出した。


――――――――――――――――――――――


 街道。


 午後の陽射しが、石畳を照らしている。


 馬が引く荷車が、ゆっくりと進む。木製の車輪がガタゴトと石畳を叩き、布で覆われた荷物が揺れる。


 御者席には中年の商人。その隣に、ベテラン護衛の傭兵。


 そして、荷台の後ろに——リアンが座っていた。


「新人、大丈夫か?」


 ベテラン護衛が、振り返って声をかける。


 筋肉質の体。傷だらけの顔。ベテランの風格。


「は、はい…大丈夫です…」


 リアンの手が、腰の短剣に触れる。


 柄に指がかかる。


 でも、すぐに離した。


 握ると、指がこわばる。嫌な予感がする。


(頼む…何も起きないでくれ…)


 心の中で、祈る。


 事故率0件。そう、今日も無事に終わるはずだ。


 でも——


 ヒュッ。


 空気を切り裂く音。


 リアンの目の前の荷物に、矢が突き刺さった。


「っ!?」


「盗賊だ!」


 ベテラン護衛が、叫ぶ。


 森の中から、人影。


 三人。


 弓を構えた盗賊たち。


「荷物を置いていけ!」


 盗賊の声。


 リアンの顔が、真っ青になる。


(え…嘘…事故率0じゃ…)


「新人! 後ろを守れ!」


 ベテラン護衛の指示。


 でも——


 リアンの足が、動かない。


 震えている。


 心臓が、耳の奥で打っている。


 呼吸が——できない。喉が締まる。


 視界の端が、暗くなる。


 血の匂いが、鼻を突く。


 違う。今は血なんて流れていない。でも——


 記憶が、フラッシュバックする。


 赤。呻き声。睨む目。


 「お前のせいだ」


 三ヶ月前の声が、頭の中で響く。


(また…また…)


 恐怖。


 思考が、止まる。


(無理無理無理無理……)


 もう一本、矢が飛んでくる。荷台に当たる。


 リアンは、反射的に——


「うわああああっ!」


 荷台から飛び降りた。地面に打ちつけた膝が痛い。でも、痛みより恐怖が勝る。


 立ち上がり——走った。


 森の中へ。盗賊とは反対方向へ。とにかく、逃げた。


「待て、新人!」


 ベテラン護衛の声が、背後で聞こえる。


 でも、止まらない。


 止まれない。


 足が、勝手に動く。


(逃げろ逃げろ逃げろ!)


 木々の間を、駆け抜ける。


 枝が顔を引っ掻く。


 根っこに足を取られる。


 でも、走る。


 ひたすら、走る。


 そして——


 別の人影に、ぶつかった。


「うわっ!」


「ぐあっ!」


 二人とも、地面に倒れる。


 リアンは、慌てて顔を上げる。


 目の前にいたのは——


 盗賊だった。


 いや、違う。


 街道にいた盗賊とは、別の男。


 弓を持っている。


 伏兵だ。


 街道を狙うための、伏兵。


「て、てめえ…!」


 盗賊が、弓を構える。


 リアンは、悲鳴を上げた。


「すみませんすみませんすみません!」


 土下座。


 即座に、土下座。


 額を地面にこすりつける。


 盗賊は、困惑した顔をする。


「な、なんだこいつ…」


 その時——


 ベテラン護衛の声が、響いた。


「伏兵を発見したぞ!」


 リアンと盗賊、同時に顔を上げる。


 ベテラン護衛が、剣を抜いて駆けつけてくる。


 盗賊は、慌てて矢を放つ。


 でも——


 リアンが転んだ。


 木の根に足を取られて、前のめりに倒れた。


 矢が、リアンの頭上を通過する。


 立っていたら、命中していた。


「っ…外れた…!」


 盗賊が、舌打ちする。


 ベテラン護衛が、到着する。


 剣と弓がぶつかり合う。


 そして——


 盗賊が、逃げた。


 森の奥へ。


 ベテラン護衛は、追わない。


 代わりに、リアンを見る。


「お前…わざと囮になったのか…?」


「え…?」


 リアンは、地面に座り込んだまま、首を傾げる。


「伏兵の位置を探るために、わざと森に入った…そして、伏兵と接触して、俺に知らせた…」


「いや…あの…」


「それに、さっきの回避…矢を予測して転んだのか…?」


「違…」


「すげえな、新人…」


 ベテラン護衛が、リアンの肩を叩く。


 痛い。


 でも、リアンは何も言えなかった。


(違う…俺、ただ逃げて、ぶつかって、転んだだけ…)


 でも、言葉が出ない。


 説明できない。


――――――――――――――――――――――


 街道に戻ると、商人と荷車は無事だった。


 盗賊たちは、撤退していた。


「助かった…ありがとう、冒険者殿…」


 商人が、深々と頭を下げる。


「あ、いや…俺は…」


「特に、伏兵を見つけてくれて…あれがいたら、危なかった…」


「それは…偶然…」


「謙遜なさらず」


 商人は、笑顔で荷車に戻る。


 リアンは、ため息をついた。


(なんか…誤解されてる気がする…)


 でも、まあ、いいか。


 無事だったし。


 報酬ももらえるし。


(まあ…なんとかなった…っしょ)


 リアンは、荷車の後ろに戻ろうとして——


 足を滑らせた。


「うわっ!」


 街道の脇の斜面。体が滑り落ちる。


「ちょ、待っ、無理——!」


 声も、虚しく。


 リアンは、斜面の下へ。


 木々の間を転がり落ちる。


 痛い。


 全身が、痛い。


 そして——


 地面が、抜けた。


「え———!?」


 落下。


 下へ。


 暗闇へ。


 縦穴。


 いや、隠し扉?


 地面に偽装された、隠し扉。


 それが、リアンの体重で抜けた。


 落ちる。落ちる。落ちる。


 ドサッ。


 藁の上に落ちた。痛い。でも、死んではいない。


「…………」


 リアンは、ゆっくりと体を起こし、周囲を見回す。


 暗い。でも、松明の明かりがある。


 地下? 洞窟?——いや、違う。壁が整えられ、木箱が積まれ、武器が並んでいる。人工的な部屋だ。


 そして——人の気配。


 リアンは、息を殺す。


 心臓が、また激しく鳴り始める。


(やばい…やばい…やばい…)


 ゆっくりと、木箱の陰に隠れる。


 覗く。


 そこには——


 盗賊たちがいた。


 五人。


 さっき街道にいた盗賊たちとは、別の連中。


 いや、待て。


 顔が似ている。


 同じ組織?


(ここ…盗賊のアジト…?)


 リアンの顔が、さらに青ざめる。


 そして——


 もう一人。


 白銀の甲冑を着た人物が、木箱の陰に隠れていた。


 プラチナブロンドの長い髪。


 深い紺碧の瞳。


 女性。


 そして——


 |アリシア・シルヴァレスト《ありしあ・しるう゛ぁれすと》だ。


 騎士団副長候補。


 リアンも知っている。三ヶ月前に初めて依頼で顔を合わせて、それから何度か一緒になっている。共闘、というほどでもないが、同じ現場に立ったことは確かだ。


(最初の依頼で足を引っ張って謝ったら、"次から気をつければいい"って……なんか毎回、話しかけてくれるんだよな……なんでだろ……)


 低ランクの自分と違って、いつも凛としていて、何度か助けられている。手を引っ張られるように。それが——少しだけ、居心地が悪くも、悪くない。


 でも、なんで——ここに?


 アリシアも、リアンに気づいた。


 目が合う。


 アリシアの紺碧の瞳が、わずかに見開かれる。


 でも、すぐに——


 人差し指を唇に当てる。


 静かに、という合図。


 リアンは、頷く。


 でも——


 盗賊の一人が、こちらを見た。


「ん? 何か音がしたか?」


 足音。


 近づいてくる。


 リアンは、パニックになる。


(見つかる…見つかる…)


 どうする?


 戦う?


 無理。


 逃げる?


 どこに?


 じゃあ——


 謝る?


 盗賊が、木箱の陰を覗き込む。


 リアンと目が合う。


「……誰だ、てめえ!」


 リアンは、反射的に——


「ま、待ってください! 全部わかってます! 見逃してください!」


 土下座。


 即座に、土下座。


 額を地面にこすりつける。


 盗賊は、困惑した顔をする。


「全部わかってる…? 何が…?」


 その時——


 アリシアが動いた。


 木箱の陰から飛び出す。


 剣を抜く。


 一瞬で、盗賊の剣を弾く。


「っ…騎士!?」


 盗賊が、驚愕する。


「全員、動くな!」


 アリシアの声が、地下室に響く。


 他の盗賊たちが、武器を手に取る。


 でも——


 その時。


 天井が、崩れた。


 いや、破られた。


 上から、騎士たちが飛び降りてくる。


 白銀の甲冑。


 深紅のマント。


 騎士団だ。


「突入!」


 騎士たちの声。


 剣と剣がぶつかり合う音。


 盗賊たちの悲鳴。


 混乱。


 リアンは、その混乱の中で——


 壁際に逃げた。


 とにかく、戦闘から離れる。


 壁にへばりつく。


 震える足。


 震える手。


(怖い怖い怖い怖い……)


 戦闘は、すぐに終わった。


 盗賊たちは、全員拘束される。


 騎士団の圧勝。


 リアンは、壁にへばりついたまま、動けなかった。


――――――――――――――――――――――


 戦闘が終わり、静寂が戻る。


 盗賊たちは、縄で縛られている。


 騎士たちが、周囲を確認している。


 そして——


 アリシアが、リアンに近づいた。


「リアン。無事でよかった」


 凛とした声。


 でも、どこか安堵の色が混じっている。


「え、あ、はい…すみません、邪魔を…」


 リアンは、頭を下げる。


 でも、アリシアは首を横に振る。


「謝ることはない。むしろ、君がいてくれて助かった」


「え…?」


 リアンは、顔を上げる。


 灰色の目が、困惑で揺れている。


「助かった…ですか…?」


「ああ」


 アリシアは、周囲の騎士たちに向けて、説明を始める。


「彼は、リアン・フォルテ(りあん・ふぉるて)。冒険者だ」


 騎士たちが、リアンを見る。


 アリシアは、続ける。


「彼の協力により、この作戦は成功した」


「え…」


 リアンの声が、小さくなる。


 アリシアは、淡々と語る。


「彼が誘導した。伏兵の位置、入口、突入の合図——全て」


「合図……って」


 アリシアの視線が、まっすぐリアンを射抜く。


「"全部わかってます"。あの言葉だ」


 リアンは、絶句した。


(命乞いです。普通に命乞いです)


 言えない。言えるわけがない。


 アリシアは、さらに続ける。


「そして、彼は突入後、逃走路を封鎖する位置に陣取った」


「逃走路…?」


 リアンは、自分がへばりついていた壁を見る。


 そこには——


 小さな扉があった。


 隠し扉。


 盗賊たちの逃走路。


 リアンが、その真正面にいたのだ。


「全ての配置が、最小被害で制圧するための計算だった」


 アリシアの紺碧の瞳が、まっすぐリアンを見ていた。


 なぜか——居心地が悪かった。


 騎士たちの視線が、リアンに集まる。どう見ても——称賛の類だった。


 若手騎士が、呟く。


「すごいな…あの新人冒険者…」


 ベテラン騎士が、頷く。


「伏兵に気づくとは。さすがだ」


 副長格の騎士が、アリシアに言う。


「アリシア、いい仲間を見つけたな」


 リアンは——


 何も言えなかった。


 ただ、立ち尽くすだけ。


(違う…全部偶然なんです…)


(逃げて、ぶつかって、落ちて、命乞いして、怖くて壁に逃げただけ…)


 でも——


 どう説明すればいい?


 この状況を。


 この結果を。


 説明できない。


 リアンは、小さく口を開く。


「あの…俺は…ただ…」


「謙遜する必要はない」


 アリシアが、静かに言う。


 その言葉が——


 リアンの弁明を、完全に封じた。


 アリシアは、一瞬だけ視線を逸らした。


 口元に、かすかな何かが浮かんで——すぐに消えた。


 リアンには、それが何だったかわからなかった。


――――――――――――――――――――――


 その日の夕方。


 冒険者ギルド。


 酒場は、いつもより賑わっていた。


 冒険者たちが、酒を飲みながら話している。


 そして——


 その話題の中心に、リアンがいた。


 いや、正確には——


 リアンの噂が、中心にあった。


「聞いたか? リアンが騎士団の作戦に参加したって」


「マジかよ。あのFランクが?」


「伏兵を発見したらしいぞ」


「しかも、盗賊のアジトまで見つけたって」


「すげえな…」


 トムは、カウンターの後ろで、苦笑いしていた。


 リアンは、カウンターの隅で、報酬を受け取っていた。


 護衛依頼の報酬——銀貨5枚。


 そして、騎士団からの謝礼——銀貨10枚。


 合計、銀貨15枚。


 リアンにとっては、大金だった。


「お前、やるじゃん!」


 トムが、リアンの肩を叩く。


「いや…あれは…」


「騎士団の作戦に参加したんだって?」


「参加っていうか…巻き込まれっていうか…」


「謙遜すんなって! アリシア様が褒めてたぞ!」


 リアンの顔が、青ざめる。


「アリシアさん…何言ってるんですか…」


「"彼の協力で作戦が成功した"って、騎士団の報告書に書いてあるらしいぞ」


「報告書に…!?」


 リアンは、頭を抱える。


(やばい…やばいやばいやばい…)


(これ、誤解が広まってる…)


 酒場の冒険者たちが、こちらを見る。


 尊敬の眼差し。


 好奇の眼差し。


 羨望の眼差し。


 リアンは——


 逃げたかった。


 今すぐ、ここから逃げたかった。


 でも、足が動かない。


 トムが、笑いながら言う。


「これで、お前も有名人だな」


「有名人なんていらない…」


「まあまあ。いいことじゃん」


「よくないよ…」


 リアンは、報酬の銀貨を懐にしまった。


 そして——


 できるだけ目立たないように、ギルドを出た。


――――――――――――――――――――――


 夕暮れの街。


 オレンジ色の空。


 石畳の道を、リアンは歩いていた。


 一人。


 肩を落として。


「全部…偶然だったのに…」


 小さく呟く。


 誰に言うでもなく。


「なんで…こんなことに…」


 でも——


 よくわからない。


 自分でも、よくわからない。


 なぜ、あんなことになったのか。


 なぜ、伏兵と鉢合わせたのか。


 なぜ、隠れ家に落ちたのか。


 なぜ、逃走路の前にいたのか。


 全部——


 偶然。


 ただの、偶然。


 リアンは、空を見上げた。


 オレンジ色の空。


 雲が、ゆっくりと流れている。


「まあ…」


 小さく笑う。


 力が抜けたような、空っぽな笑い。


「なんとかなった…っしょ」


 ため息が、夕風に溶けていく。


 特に深い意味はなかった。今日も死ななかった——ただ、それだけだ。


 この夜、騎士団の詰所では、アリシア・シルヴァレストが報告書に何かを書き記していた。ギルドの酒場では、トムが「聞いたか?」と話し始めていた。


 リアン本人は何も知らないまま、家に帰った。


翌朝、ギルドの掲示板の前に人だかりができていた。


昨日の噂が、もうそこまで広がっていた。


街の向こう、魔術師協会の図書室では、一人の少女が手帳を開いていた。昨日の事件の話を耳にして——何かを計算し始めていた。


次回、第2話「噂は育つ」——否定すればするほど、誤解は深まっていく。


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