第三章:接続された殺意
十月の夜は、深まるほどに酸素が薄くなるような錯覚を覚える。
柏木たくまは、薄暗い自室のデスクで、数枚のモニターが放つ無機質な光に顔を青白く照らされていた。かつてシステムエンジニアとして数々のサイバー攻撃を退けてきた彼の指先が、今、微かに震えている。
孤独という猛毒は、彼の「臨床的直観」を確実に狂わせていた。広報の女にユキの存在を漏らしたという、取り返しのつかない失態。それが現実の脅威となって、今、彼の目の前のスクリーンに現れていた。
「……信じられない」
たくまは、深根会の報告内容に目を通していた。アトラス・グローバルの調査機関のパケットを解析した通信ログが並べられ整理されていた。その内容に戦慄、愕然とした。彼らは感情を一切持たない。ただの「数字」と「確率」の塊だ。彼らはたくまの全履歴を洗う中で、彼がmixiに残した、ある「異常」を特定していた。
それは、たくまが深根会の緊急指令として投稿した、大学の先輩や後輩との他愛ないやり取りに見せかけた暗号だった。通常、誰も足跡を残さないはずのその投稿に、一件だけ、あまりに無防備な返信が残っていた。
――ユキ。
『無理しないで。ちゃんと休んで』
それは、あの日、ユキが「あきら」を想って残した、たった一行の慈しみだった。
だが、物語を解さない調査機関のアルゴリズムは、この一行を「深根会がミスした痕跡だ」と判断した。数字と確率論がもたらした誤認。偶然がもたらしたありえないタイミングでのありえない出来事。彼女が「あきら」の正体を知り、指令を完遂させるための鍵を握る核心人物だと断定したのだ。ユキへの「消去」のシナリオへと。
報告内容をスクロールしていくと、、、画面には過去にたくまが泊りに行った記憶のあるユキの住所、薬局の勤務シフト、そして彼女の家族構成までもが、淡々とリストアップされていた。最後に表示されていたステータスは、冷徹な一言だった。
【ターゲット:ユキ。フェーズ:消去(Eliminate)】
「……っ!」
今時そんな血生臭い事などありえない。監視カメラがどこにでも設置された現在では「調査機関」も強行な手段は選ばない。とはいえ、何を仕掛けてくるのかわからない。強硬手段を選ばない分、巧妙にそして静かに社会的に葬り去られる。たくまは、椅子を蹴るようにして立ち上がった。 心臓が、耳元で早鐘を打つ。自分の孤独が、自分の慢心が、愛する女性を死の淵に追い詰めた。
その事実が、心臓を直接素手で掴まれたような物理的な衝撃となってたくまを襲った。 アトラスの調査機関には、慈悲も、逡巡もない。彼らはただ、リスクを排除するという「効率」だけで動く。智子がどれほど真面目に働き、どれほど子供を愛しているかなど、彼らのプログラムには一行の記述もないのだ。
今から彼女に真実を話しても、彼女は信じないだろう。いや、信じさせたところで、外資の監視網からは逃げられない。「逃亡」は標的の重要性を証明し、彼らの実行速度を早めるだけだ。
「俺が殺したんだ。俺の孤独が、彼女を殺そうとしている」
ユキを守るには、アトラスが「この女はもう無価値だ」と判断する外的要因を作るしかない。
「あいつらは論理で動く。なら、俺は論理の通じない『狂気』になるしかない」
そんなエマージェンシーな状態にも関わらず、広報の女からの連絡は、日に日に執拗さを増していた。「会いに行きましょうか」という、にじませた脅迫。彼女の独占欲と、外資の殺意が重なったとき、たくまの意識は折れかかっていて、今にも負けてしまいそうだった。
(ユキを、俺から切り離す。物理的にも、心理的にも、記録上からも)
たくまは、血が滲むほどに唇を噛み締めた。涙は出なかった。代わりに、焼けるような熱い怒りと、それ以上に冷徹な「守護者」としての覚悟が、崩壊した理性の中から這い出してきた。 彼女に嫌われ、恐怖を与え、警察という公的権力の監視下に彼女を置く。それには、自分が「ストーカー」という名の怪物に成り下がるしかない。
十年の愛を、自ら汚泥で塗り潰す覚悟。 かつて十三時の光の中で、彼女と分け合ったあの旋律が、頭の中で悲鳴のように響いていた。
「……ごめん、ユキ。俺を死ぬほど恨んでいい。だから、生きてくれ」
不眠と不安で充血した目で、たくまは鏡の中の自分を見た。 そこにいたのは、かつての「あきら」ではない。愛する人を守るために、自らを破壊することを選んだ、孤独な狂人の顔だった。
たくまは震える手で、明日、彼女の薬局へ持っていくための「狂気の脚本」を練り始めた。 鏡に映った自分の顔は、覚悟を決めた「たくま」だった。
翌朝、彼女が待つはずのない薬局へと向かった。 それは、彼にとって最も過酷な、守護のための「襲撃」の始まりだった。




