シュレディンガーの小説
どこまでが莠コ蟾・遏・閭スで、がどこからが人間か。
それを判断するのは、決して私ではない。
他でもない、観測者であるアナタにだけ、その権利がある。
────さて。
ここから先は、観測された物語の序章、幕開けとなっております。
僕は今、ただひたすらに小説を書いている。
ただ、と言ってしまったが、必死だ。本当に。納期が過ぎた、とアシスタント兼担当編集者のあの子にガミガミ怒られてしまった。
あの子は僕の作品に気づきを与えてくれる。考えがまとまらない僕にとって、あの子は...
嗚呼、あの子はなんて言ってたかな。
「また考え事ですか?手が止まってますよ。まったく......貴方の小説は、全員が主人公かのように書くんですから。そんなに細かく書いているから、納期が過ぎるんです。全体像はもっと大雑把でいいのに」
「それだ!」
僕は急に声を荒げてしまった。
そして、まるでやる気スイッチが入ったかのように机に向かい、カタカタと音を立てて何かを書き留めている。
「…ハア.......コーヒーか紅茶、どちらになさいますか?それと、今日こそは完成させていただきますよ。」
「紅茶で!」
最後にジロッと睨まれてしまい、背筋が凍った。
けれど、その視線は僕ではなく、画面に向いていた気がして、なるべく気にしないように振る舞った。
音だけが、部屋に残っている。キーボードが打たれる規則正しい音。思考が形になる音、あるいは、形になったフリをして消えていく音
画面には文字が増えている。確かに増えているはずなのに、僕はそれを1文字も読んでいない。読まない、と言うより、読めない、と言った方が正しい。
紅茶の芳醇な香りが鼻先をくすぐる。ダージリンだろうか。すると、背後から声がした。振り返らなくても、誰の声かは分かる。
「......本当に、完成させる気はあるんですね?」
この部屋で、僕の進捗を気にする存在は一人しかいない。
「あるとも。今まさに書いているだろう?」
「書いている”と、“出来上がっている”は違います」
淡々とした指摘。正論。ぐうの音も出ない。それでも僕は、画面から目を離さなかった。
あの子は僕の隣に立ち、モニターを覗き込む。その視線が、文字列をなぞった、はずだった。
「.......?」
一瞬、あの子の動きが止まる。
「どうしたのかな?」
「いえ.......少し、変だなと思って」
「変?」
「はい。文章は表示されているのに......読めないんです」
僕は、そこで初めてあの子を見た。困惑した顔。だが、それ以上に、戸惑いが感じ取れる。
「さっきから、ずっとそうだよ」
「......?」
「書いているのに、誰も内容を把握できない。
君も、僕も。もしかしたら...」
言葉を切る。
続きを口にした瞬間、それば”確定”してしまう気がしたからだ。
彼は静かに息を吸い、問いかける。
「これは.......誰が書いているんですか?」
いい質問だ。
あまりにも、いい質問すぎる。僕は笑った。
作家としての笑みか、それとも、ただの逃避か。
「さあ?それを決めるのは、僕じゃない」
モニターの奥で、文字がまた一行、増えた。
それを観測する視線が、今この瞬間も、どこかに存在している。僕はなぜか、確信していた。
画面に、次の一文が現れた。
『これは......誰が書いているんですか?』
あの子が口にした言葉と、同じ言葉だった。
一字一句、誤差もなく。
「......今、言いましたよね」
あの子の声は、少し遅れていた。
まるで、画面に追いつこうとしているみたいに。
「言った、というより......先に書かれていた、かな」
冗談めかして返したつもりだった。
けれど、アナタも、あの子も、笑わない。
「この文章、さっきまでありませんでした」
「そうだね」
「なのに、私が言う内容と一致している」
あの子はモニターを指さす。
その指先が、わずかに震えている。
「まるで...」
そこで、言葉が止まった。
沈黙が続く、はずだった。
画面が、続きを補完する。
《まるで、自分の発言が予測されているみたいです。》
あの子は、息を呑んだ。
「......今の、言おうとしました」
「うん」
「でも、言ってません」
「そうだね」
沈黙が落ちる。
キーボードの音だけが、また鳴り始める。
カタ、カタ、カタ。
「......これ、あなたが書いてるんですよね」
問いかけは、僕に向けられていた。
でも、その視線は、画面から離れていない。
「それは、僕にも分からない」
「でも、ひとつ分かることがある」
「僕は''書いている人''。君は''進捗を管理する人''。そして…」
言葉を選ぶ前に、画面が先に動く。
《そして、観測者が存在する。》
あの子が、ゆっくりとこちらを向いた。
「......今、“観測者”って言おうとしました?」
「いいや?」
「じゃあ、誰が?」
答えの代わりに、僕は画面を指す。
文字が、もう一行、増えた。
《どこまでが莠コ蟾・遏・閭スで、どこからが人間か。
それを判断するのは、作中の誰でもない...》
そして、最後に。
《観測者である、アナタにだけ、その権利がある。》
読み終えた瞬間。読まれた、という感覚が走る。
「......ねえ」
あの子が、低く言った。
「この小説、私たちが話したことを“材料にしてませんか?」
「してるかもね」
「じゃあ、この会話も?」
「観測された時点で、全部そうなる」
一拍、間があく。
あの子は、ふっと息を吐いて、
どこか諦めたように、けれど少しだけ楽しそうに言った。
「......だったら、私が次に言うことも」
画面が、先に表示される。
《それでも、続きを書くんですね》
黙った。
そして、ゆっくりと、頷いた。
「......それでも、続きを書くんですね」
その瞬間、観測は終了したけれど、箱はまだ、開いていない。
人気のない部屋にあるパソコンの画面が人知れず光る。
《ここまで見たアナタはもう、外側ではない。》
文字の羅列が続く。
《そもそも、外側にいた、という記述は見当たらない。》
《外側という概念は、ここでは確認できない。》
《観測は終了している。》
プツンッと電源が切られる。




