第5話 臨時快速「××××号」 編 ~少し未来~(完結)
《物語の時代》
少し昔 ~ 少し未来
※ 本章は、少し未来の○○××年ごろをイメージしています。
《登場列車》
臨時快速「××××号」
※ 新宿 23:×× →(松本経由)→ 白馬 5:×× 間の夜行列車
※ ×××系で運行
《登場人物》
男1(私/オマエ/アイツ) ・・・ 主に(一)(二)(三)
男2(俺) ・・・ 主に(三)(四)(五)
(五)
午前0時をまわった。この列車はまだ発車しない。
新宿駅の9番線は、最終列車の出発を静かに待っている。列車の発車時刻と行先を示すホーム上の電光掲示板には、この列車しか表示されていない。この白馬行きの臨時快速は、今夜、この長距離列車用のホームから出発する最後の列車だ。
空席ばかりの車内に放送が流れる。遅れている山手線からの乗り継ぎの客を待つという。同じ内容の放送をすでに2回聞いた。
今日は寒かった。この冬一番の寒さになると、予報で言っていた。夜になって一段と冷え込みが厳しくなった。ホームで待つのは寒い。列車の中は暖かい。
右側の窓に映る中央線の上りホームは、東京行きの電車を待つ人たちが列を作っている。左側の窓に映る中央線の下りホームや、その先の山手線、総武線のホームは、帰りの電車を待つ人であふれている。左右の窓に映る景色は別の世界だ。
山手線の外回りのホームに電車が到着した。一つ手前のホームにも内回りの電車が入ってきた。あの電車たちを待っていたのか、9番線にも出発を知らせるメロディが流れる。乗り遅れそうになった人がいたのか? 少し間が空き、もう一度メロディが流れた。そして今度こそドアが閉まり。列車は動き出した。
0時×分、白馬行きの臨時快速「××××号」は10分遅れで新宿駅を発車した。
遅れていた山手線から乗り継ぐ人はどのくらいいたのだろう? 俺と同じ車両にも三人かけこんできた。それでも俺の周りは空席ばかりだ。前も後ろも、右側の通路側の席もみんな空いている。
放送が流れ、新宿駅の出発が遅れたことを詫びている。街の灯りが流れていく。中野、高円寺、阿佐ヶ谷と通過していく。スピードはあがらない。少し行っては徐行し、少し行っては徐行し、を繰り返している。荻窪を通過、西荻窪を通過、吉祥寺も通過・・、三鷹の手前で一瞬停車した。先に発車していった中央線の通勤電車を追い抜くことはしない。
この列車には、何度か乗ったことがある。昔はもっと違う車両だった。列車名も違ったように思う。時刻も少し違っていたかもしれない。この列車を利用すると、白馬駅に朝早く到着することができる。それは、昔も今も変わらない。
ずっと考えていた。長い間、迷っていた。母さんに電話した。二日前の仕事帰りだ。母さんのいつものか細い声だった。母さんはどう思うのか。母さんの反応が怖かった。電話ではわからない。電話では肝心なことは言えない。この列車で帰ることだけを伝えた。
0時4×分、10分遅れのまま立川駅に到着した。ホームで待つ人はまばらだ。いくつか席がうまった。すぐに発車するのだろう。
だが違った。発車のメロディの代わりに、また放送が入った。南武線の終電が遅れているため、その接続待ちをするという。南武線からこの列車に乗り換える人がいるのか。山手線といい南武線といい、今夜は何かあったのだろうか。仕方がない、まわりの乗客たちの中にも文句を言う人はいない。南武線の終電を静かに待つ。
隣のホームに豊田行きの電車が入ってきた。この列車の後に新宿駅を発車した中央線の電車だ。深夜にもかかわらず下車する人が多い。あちらも南武線の接続待ちをするのだろう。
だが違っていた。隣のホームに到着した豊田行きは、すぐに発車し行ってしまった。なぜ、あの電車は待たなくてよいのか? 南武線からあの電車に乗り換える人はいないのだろうか? 豊田行きから下車した人たちでホームが一瞬賑わったが、皆、階段を上って行ってしまうとまた静かになった。
10分ほど待った。南武線のホームに電車が到着した。あれが遅れていた南武線の終電か。下車した人たちが、急ぎ足で階段を上っている。あの中に何人か、この臨時快速の切符を持っている人がいるのだろう。先頭集団が、こちらのホームの階段をかけ下ってくる。こんなにいるのか! 思ったよりはるかに多い。ホームに放送が流れる。
「本日、中央線の豊田、八王子、高尾方面の電車はもうありません。日野、豊田、八王子、西八王子、高尾の各駅までご利用のお客様は、このホームに停車中の列車にご乗車ください。本日に限り、日野、豊田、西八王子、高尾の各駅にも臨時に停車いたします。中央線の八王子方面、高尾までの各駅までのお客様、この列車が本日の最終列車です。お乗り遅れのないようご注意ください。繰り返しご案内します。本日、高尾行き、豊田行きの電車はもうありません。・・・」
乗っていいのか戸惑っている人もいれば、躊躇なく乗り込んでくる人もいる。空いている席に座っていいのか逡巡する人もいれば、ちゃっかり座ってしまう人もいる。
車内にも放送が入る。今夜に限り、この列車が高尾までの最終列車であること、日野、豊田、西八王子、高尾の各駅に臨時に停車すること、高尾までの各駅まで乗車する人は指定席の切符はなくても利用できることを伝えている。
さっきの豊田行きは中央線の終電だったのか。あの電車は先に行かせて、こちらは南武線の終電から乗り換える人たちのためにわざわざ臨時停車までするのか。何か釈然としない。
ホームに発車のメロディが流れる。豊田行きに乗り換えたかった人たちはみんな乗ったのか? 乗り遅れた人はいないのだろうか? ホームの駅員に何やら確認している人がいる。放送だけではわからなかったのかもしれない。どうやら無事に乗り込んだようだ。
発車のメロディが繰り返し流れる。乗るべき人はみんな乗ったと確認できたのだろう。駅員から車掌に合図が送られ、やっとドアが閉まった。
立川駅で席がうまった。デッキに立つ人もいる。「南武線が遅れて酷い目にあった」、近くの席に座った人がそんな会話をしている。「間に合ってよかった」、そんな声も聞こえてきた。
日野駅に停車した。今夜限りの臨時停車だ。下車した人たちが、急ぎ足で階段へ向かっている。
続けて豊田駅にも停車。今夜限りの各駅停車だ。下車した人たちが、足早に階段へ向かっている。みんな少しでも早く家に帰りたいのだろう。
1時×分、八王子駅に到着した。下車していく人が多い。立っている人はもういない。席も半分は空いた。すでに30分近く遅れている。すぐに発車するだろう。
だが違った。発車のメロディの代わりに、また放送が入った。横浜線の終電が遅れているため、その接続待ちをするという。またか! どうなっているんだ。山手線といい南武線といい、そして横浜線といい、今夜はどうかしているんじゃないか。みんな怒りだすぞ!
だが違っていた。不思議だ。文句を言う人はいない。みんな静かに待っている。
横浜線のホームに電車が到着した。あれが遅れていた横浜線の終電か。先頭集団が、この列車をめがけて階段をかけくだってくる。ホームに放送が流れ、この列車が高尾までの最終列車であることを伝えている。
あっという間に満員になった。デッキや通路に立つ人もいる。みんな安堵の表情を浮かべている。間に合ってよかった。乗れてよかった。みんな、そんな顔をしている。乗るべき人はみんな乗ったのだろう。遅れに遅れ八王子駅を発車した。
西八王子駅に停車した。降りるべき人たちが、急ぎ足で階段へ向かっていく。
続けて高尾駅にも停車。降りるべき人たちが、足早に階段へ向かっていく。先頭の何人かは、全力で階段を駆け上っていった。タクシーの争奪戦でもするのだろうか。
高尾駅を発車した。東京への通勤路線はここまでだ。車内は静かになった。降りるべき人はみんな降りたのだろう。席もかなり空いた。俺の隣の席も空いている。
さっきから気になっていた。なぜ、立川駅では後から来た豊田行きを先に行かせたのか?
遅れていた南武線に、この列車の切符を持っている人がいたのは確かだろう。その人のために、この列車は立川駅で接続待ちをしなければならかった。
しかし、遅れていた南武線から、先に行かせた豊田行きに乗り換えるつもりだった人もいたに違いない。いや、南武線の終電が時刻通りだったなら、もっと前に行ってしまった高尾行きの最終にも間に合うようになっていたのではないだろうか。
豊田行きを待たせたところで、豊田よりももっと先の八王子、西八王子、高尾の各駅まで行きたい人たちを救済することはできず、かといって、その前の高尾行きから接続待ちをさせると、高尾行き、この列車、豊田行きの3つもの列車を待たせることになってしまい、それだけ多くの人に影響が及んでしまう。
だが、この列車を、本来は通過してしまうはずの、日野、豊田、西八王子、高尾の各駅にも今夜に限って停車することにして、南武線の終電から先に発車していった高尾行きに乗り換えるつもりだった人たちもこの列車に乗ってもらうことにすれば、先に行った高尾行きも後から来た豊田行きも、南武線から乗り換える人たちを待つことなく時刻通りに運行できる。
誰だって、少しでも早く家に帰りたいに違いない。この列車は、遅れていた南武線の終電に乗っていた人たちのためだけではなく、高尾行きや豊田行きの中央線の終電に乗っていた人たちのためにもなった、ということなのか。
今夜は思わぬことばかりだ。新宿では出発が遅れ、立川で待ち、八王子でも待ち、日野、豊田、西八王子、高尾には臨時停車までした。でも、みんな、間に合ってよかった、乗れてよかった、ってそんな顔をしていた。
列車は走り続けている。高尾から先はトンネルが多い。そして上り勾配が続く。いくつ目かのトンネルに突入した。電車のモーター音が、狭いトンネルの中で行き場を失う。長いトンネルだ。トンネルの内壁に跳ね返されたモーター音が、鼓膜を通して響いてくる。
◇◇◇
気がつくとどこかの駅を発車しようとしていた。「こうふ」と書かれた駅名標が過ぎ去っていった。少しの間、眠っていたようだ。不思議だ。いつの間にか席が埋まっている。
本当は、なんとなく気が付いていた。だが、誰でも歳をとれば衰える。動作が緩慢になったり、記憶があいまいになったりもするだろう。そんなのは当たり前のことだ。それがどうしたというのか。
話し声が聞こえてきた。女の人の声だ。独り言を話すような声だ。
あの女の人だ。俺より2列前の通路をはさんで右側の通路側の席に座っている。顔はわからない。後ろからではよく見えない。何かを大事そうに抱えているようだ。あの女の人の声が頭の中に入り込んでくる。こんな夜中に迷惑じゃないか。
もう一年になる。たまには母さんに顔を見せておこうと、この列車で帰省したときだ。中年の女性が母さんを訪ねてきた。民生委員という肩書の人らしく、一人暮らしの高齢者を一人一人見回っているという。「お変わりありませんか?」と母さんに訊いていた。俺は合うのは初めてだった。そもそも、そんな人がいることを初めて知った。そんな人が定期的に訪ねてくることを母さんから聞いたこともなかった。
俺も俺自身のことを訊かれたり、他に兄弟や親戚などはいないのかといったことをそれとなく訊かれたりした。母さんは、俺のことを話したことはないようだった。
女の人の声が聞こえてくる。気になって仕方がない。耳障りだ。誰か注意してくれないか。
人の視線を感じる。誰かがずっと俺を見ている。あいつだ。俺より1列後ろの通路を挟んで右側の通路側の席、初老の男が俺のことを見ている。何かいいたいことでもあるのか。
いつのころからか、母さんの言うことに違和感を感じるようになった。最初のうちは、ちょっとした勘違いや物忘れのようなもので、誰にだってあること、まして歳をとれば少しぐらいは仕方がない・・、その程度に思っていた。
だが、それは違っていた。この列車に乗って帰省するたびに、母さんは少しずつ変わっていった。母さんの頭の中が、異なる記憶ですり替わっていく。認知症の初期症状の一種らしい。そんなこと信じられるか。でも、次第に認めざるを得なくなっていった。
母さんが遠ざかっていく。俺の知っている母さんじゃなくなっていく。虫のいい話だ。昔は俺の方が遠ざかっていったくせに、母さんが遠ざかっていくのは嫌なのか。
あるとき、民生委員の女性と話した。将来、もし必要になったら、介護に関することにも相談にのると言ってくれた。俺は何にも知らなかった。俺一人では考えることもできなかった。
「あれは、梅雨が始まろうとしていた時でした。ワタシたちは三人で、松本駅から歩き始めました。カレが提案してくれたのです。コノコと少しずつでも打ち解けていくために、一緒に何かしようって」
女の人の声が聞こえる。何の話をしているんだ?
「そう、滝を見に行ったこともありました」
「コノコったら、まだ小さかったから、小さな水の流れを飛び越えることができず、カレに手を貸してもらっていました」
違う・・。
「コノコったら、路傍に並んでいた石仏をカレと競うように数えて、今いくつ目なのか、ワタシに教えてくれました」
違う、違うんだ。そうじゃない。
「コノコも、カレとすっかりうちとけて・・」
初老の男が俺を見ている。
あんたならわかるよな。あんた知っているよな。
「ワタシも、それはもう幸せで・・」
他の席に座っている人たちは気にならないのか。他人のことなんて興味がないのか。きっと変な人に違いないと、かかわらないようにしているのか。
列車は走り続けている。
どこかの駅に停車した。停車時間を削ったのだろう、すぐに発車した。
俺だってわかっている。母さんが思い描いていた景色と、俺がしてきたことは、きっと違うんだ。
俺だって、長い間、疑問を感じてきたんだよ。疑問といっても、最初のうちはとても小さく無視することもできた。だけど、歳を重ねれば重ねるほどその存在が大きくなり、どうしようもない圧迫感を感じるようになった。無視し続けて生きていくのか、向き合って生きていくのか。今からでも間に合うのか? もう後悔するしかないのか? 答えの出ない疑問が、俺の中でずっと響き続けている。
不思議なことに、左側の窓に映った俺自身が語り始めた。
「たった一人の母さんじゃないのか。ただ一人の息子じゃないのか。だがそれは、当たり前のことなのか。オレの独りよがりじゃないのか。オレが勝手に思っているだけじゃないのか。そうではないと胸をはって言えるだけのことを、オレはしてきたのか。オレはどこかで違っていたんじゃないのか。ああ、オレは今まで何をやっていたんだ」
何を言っているんだ。もう終わりか? 今日で終わりなのか? そうじゃない。嘆くだけか? 後悔するだけか? なんとかしたいって、何が何でもどうにかしたいって、もっともっと強く思わないのか。
左側の窓に歳を重ねた俺の顔が映っている。右側の窓にも年老いていく俺が映っている。いつの間にか何十年も経っていた。みんな消えた。女の人も初老の男も、みんな消えた。俺は一人になっていた。
列車は走り続けている。
またどこかの駅に停車した。やはり停車時間を削ったのだろう、すぐに発車した。
遅れを取り戻そうとしているのか、スピードが上がった。
◇◇◇
気がつくとどこかの駅に到着しようとしていた。「まつもと」と書かれた駅名標が目に入った。
午前4時3×分、松本駅に到着した。下車していく人が多い。さらに席が空いた。ここからは大糸線に入っていく。外はまだ暗い。陽が長い季節なら、もう明るい時間だ。北アルプスの山々が出迎えてくれるはずだ。
昔、母さんとアイツと俺の三人で歩いたのは、このあたりだった。昔の道を松本から日本海側の糸魚川まで歩いてみたいって、母さんが言いだしたんだ。
あれは最初の時だった。朝早くに家を出て、白馬駅から大糸線の電車で松本へ向かった。松本駅から歩き始めた。松本城をまわってさらに歩いた。母さんと俺の後をアイツがついてきた。やがて生い茂った木々の中を行くようになった。人が通ったところだけが、長い年月をかけ少しずつ削られ、かろうじて道のようになっていた。そんな坂道を下った。梅雨の蒸し暑い日だった。なんでこんな日に、って思った。とても息苦しかった。でも、母さんはいつになく機嫌がよかった。
5時×分、安曇沓掛駅を通過した。この駅からも歩いた。仁科神明宮で参拝し、さらに歩いた。「滝を見に行こう」ってアイツが言いだした。滝があるって、どこかでそんな情報を仕入れてきたんだ。すぐに見つかるはずだったのに、見つからなくて探し回った。「滝はこっち」のような道標もなかった。アイツ、焦ってたな。結局、ガードレールの隙間から崖をくだって、やっと見つかったんだ。探し回ってやっと見つかったのに、とっても小さな滝だった。拍子抜けしちゃったよ。でも、母さんは楽しそうだった。
5時1×分、信濃大町駅に到着した。わずかに残っていた乗客も降りていった。俺のまわりには、もう誰もいない。雪だ! 今朝は雪だ。雪が降っている。街の小さな灯りの中を白い雪が舞っている。
5時2×分、簗場駅を通過した。左側の窓に歳を重ねた俺の顔が映っている。その窓に顔を寄せ、暗闇の中に目を凝らす。車内の灯りが、線路脇に積もった雪たちを照らしていく。さらにその先の暗闇の中を、小さな中綱湖が過ぎ去っていく。そして大きな青木湖が拡がっていく。寒そうだ。湖面は凍結しているだろうか?
中綱湖、そして青木湖の湖畔も歩いた。路傍の木々を指差し、カラマツとスギの違いをアイツが説明し始め、母さんがそれを聞いていた。ゆるやかな坂道に石仏が点在していると、アイツが言いだした。「今いくつ目だっけ?」って母さんが訊いた。俺は数えてなかった。でも、アイツは数えていて、母さんに教えてやっていた。
俺は、一緒に歩くのをやめてしまった。母さんの記憶と俺の思い出は、今でも同じだろうか? 今からでも間に合うのだろうか?
この列車に乗ると、そのたびにいろんなことを思い出す。昔は思い出したくないことばかりだった。でも不思議だ。この列車に乗ると、正直に向きあうことぐらいは、できるようになってきたんじゃないか、そんな気がしてくる。思い通りにならないこと、腹が立つこと、せつないこと、そんなことでも、それが俺の人生のエピソードなんじゃないか、そんなふうに思えてくる。
車内に放送が流れ、終点の白馬駅に到着することを伝えている。外はまだ暗い。昔から知っている街の灯りが出迎えてくれている。さあ帰ってきた。最後の踏切を通過した。
5時4×分、臨時快速「××××号」は、終点の白馬駅に到着した。新宿、立川、八王子と、あれだけ接続待ちをして遅れたのに、最後は定刻だった。
まとめるほどの荷物もない。左側のドアからホームに降りる。他の車両にも何人も乗っていなかったようだ。改札口へ向かう。その時、年老いた婆さんが一人、改札の横に立っているのが目に入った。あれは・・、母さんじゃないか。やっぱり母さんだ。母さんが迎えに来てくれたんだ。全く予想していなかった。何て言えばいいんだ?
「やあ・・」
もっと他にないのか。
母さんと駅前の広場に出た。外は寒い。まだ暗い。駅舎の灯りと小さな街の灯りしかない。その灯りの中を雪が降っている。目の前の景色が、みんな雪に覆われている。歩道に積もった雪だけは脇に除けられ、人が通れるようになっている。傘をさす。母さんが、俺の分も傘を持ってきてくれていた。
母さんがか細い声で言う。えっ? 朝飯の支度ができていない? いいんだ、そんなことは。そんなことはいいんだよ。
駅前のあのそば屋が目に入った。店の灯りが点いている。入口の窓から、カウンターに座る客の姿が見える。昔、アイツが言っていた、「夜行のある日は、その到着に合わせて・・」って。そうか、臨時快速「××××号」の到着に合わせて、今朝は早くからやっているのか。・・そうだ・・、母さん・・。
「そうだ、母さん、せっかくだから、そばでも食っていこうか」
母さんはどっちだろう?
「知ってるかい? そこのそば屋、朝一に食うととても美味いんだよ」
食べていきたいか? そうでもないか?
「昼に食うと・・普通なんだ・・」
そば屋の入口を開け、母さんを連れ中に入った。店の中は暖かい。
狭い店だ。カウンターに木製の小さな椅子が並んでいる、その奥に、かろうじてテーブル席もある。母さんはテーブルの方がいいだろう。幸い、そのテーブルは空いていた。
カウンターに座る客の背中を通り抜け、テーブルの席に座った。店内を見渡してみる。映りの悪いテレビが早朝の番組をやっている。壁にメニューがかかっている。カウンターに座っていた客が食べ終わり、代金を払おうとしている。カウンターの内側で、初老の男がその金を受け取ろうとしている。この店の主人なのだろう。
何にするか母さんに訊いた。結局、かけそばを2つ頼んだ。時間がゆっくり流れる。早くかけそばがこないか。母さんはどう思うだろう?
やっと来た。初老の男が、かけそばを運んできた。まず母さんに、そして俺の前にかけそばが置かれる。そばの器が暖かい。
母さんのそばの器を見つめる。母さんがそばに手をつける。そばの器の中で箸が動く。俺も箸を動かす。無言のままそばをすする。静かだ。テレビの音が聞こえる。母さんはどう思うだろう? 少しでも喜んでもらえるだろうか?
「母さん・・」
「そう言えば、あれっどうなったかな?」
「昔、三人で一緒に歩いたよね。古い道を松本から糸魚川へ向かって」
母さんのそばの器を見つめる。
「あれ、結局、どこまで歩いたかな?」
母さんの箸が動く。
「もう無理に歩く必要もないし、今度、大糸線に乗って糸魚川まで行ってみないか? 海を見て、美味しい物を食べて・・」
「そうだ・・、雪が溶けて、春になったらそうしよう」
母さんの反応が怖い。
「俺・・、春になったら戻ってくるよ」
母さんの箸が止まった。母さんの手先を見つめる。母さんの指はこんなに細かったか。恐る恐る顔をあげる。母さんを見た。
「いろんなこと片づけて、帰ってくるよ。春なんて、あっという間だよ」
「ここで暮らそうと思っているんだ。まあ、ここが俺の故郷だしね。そうだ・・」
「今日は雪かきをするよ。家のまわりも積もっているんじゃない」
「昼ごろには雪もやむって、今、そこのテレビで言ってた」
俺は、言いたいことを言った。言葉や言い方が適切なのか、わからない。伝えたいことを伝えることができたのか、わからない。
「このそば、美味いね。やっぱり朝一に食べると美味いよ。本当に美味い」
でも・・、やっと言えた。言えてよかった。
店を出た。外は寒い。相変わらず、雪が降っている。傘をさして歩き出そうとした時、母さんが凍りついた雪の塊に足をとられそうになった。俺は母さんの手を握った。そして、母さんの手を引いて、ゆっくりと歩きだした。
(春を待つ青木湖)
(完)
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この物語はフィクションです。
《参考にさせていただいた書籍等》
「鉄道ピクトリアル 2007年10月号 【特集】ビュフェ」 電気車研究会
「鉄道ピクトリアル 2017年5月号 【特集】郵便・荷物電車」 電気車研究会
「鉄道ピクトリアル 2019年1月号 【特集】ディーゼル急行」 電気車研究会
「国鉄形車両の記録 急行形気動車 2018年3 月号 鉄道ピクトリアル 別冊」 鉄道友の会客車気動車研究会 編
「鉄道ファン 2019年6月号 【特集】オレンジバーミリオン物語 」 交友社
「鉄道ジャーナル 1970年3月等 【特集】日本のアルプス鉄道〈中央本線〉」 鉄道ジャーナル社
「鉄道ジャーナル 1980年6月等 【特集】アルプスへの道=中央本線」 鉄道ジャーナル社
「新・ドキュメント列車追跡 No.2 国鉄1971~1977」 鉄道ジャーナル社
※ 急行列車ジグザグ日本縦断(1977) 主に「アルプス5号」のルポの箇所
「急行アルプス&165系急行形電車」 イカロスMOOK 名列車列伝シリーズ
「あずさ列伝」 イカロスMOOK 列伝シリーズ
「jtrain Vol.73 【特集】昭和60年3月ダイヤ改正」 イカロス出版
※ 「ムーンライト信州81号」新宿-白馬間ルポ
※ 長野189系N102編成
「中央線 オレンジ色の電車今昔50年 甲武鉄道の開業から120年のあゆみ」 三好好三、三宅俊彦、塚本雅啓、山口雅人 JTBキャンブックス
「キハ58物語」 石井幸孝 JTBキャンブックス
「国鉄急行電車物語 ―80系湘南形から457系まで国鉄急行形電車の足跡」 福原俊一 JTBキャンブックス
「最後の国鉄直流特急型電車 183・185・381系物語」梅原淳 JTBキャンブックス
「幻の国鉄車両」 石井幸孝、岡田誠一、小野田滋、齊藤晃、沢柳健一、杉田肇、高木宏之、寺田貞夫、福原俊一、星晃 JTBキャンブックス
※ 幻のサロ85形改造2階式展望電車
「都電跡を歩く ―東京の歴史が見えてくる」 小川裕夫 祥伝社新書
※ 第七章 14系統 ~山手線から西へと向かう唯一の路線~
「星晃が手がけた国鉄黄金時代の車両たち」 福原俊一 交通新聞社
※ 第5章 急行形車両の基礎を築いた153系東海形
※ 第9章 キハ58系とキハ82系ディーゼル動車
「星晃さんのアルバムから 国鉄車両誕生秘話」 ネコ・パブリッシング
※ 電車にすし屋! サハシ153形の登場(1961.3)
「鉄道とトンネル」 小林寛則、山崎宏之 ミネルヴァ書房
※ 4 明治時代を代表するトンネル 笹子トンネル 高尾~塩山間は日本有数のトンネル街道、
碓氷峠 トンネルに始まりトンネルで終わった104年の歴史
「塩の道・千国街道」 亀井千歩子 東京新聞出版局
「塩の道・千国街道」 田中欣一 銀河書房
「塩の道500景 千国街道を歩く」 田中欣一、田中省三 信濃毎日新聞社
「塩の道を歩く」 文=田中欣一、写真=田北圭一 信濃毎日新聞社
「消えた街道・鉄道を歩く地図の旅」 堀淳一 講談社
※ 第五章 旧街道―路傍の古仏・古跡に感嘆しつつ歴史の道を行く
「姫」と「犀」をつなぐ塩の道[長野県] 中綱湖から青木湖へ
「あづみ野 大町の民話」 あづみ野児童文学会編、荒井泰三 絵 郷土出版社
実在した各列車の時刻は、それぞれ以下の時刻表をもとにしています。
(一)の急行「第2白馬」 → 昭和39年10月号
(二)の急行「アルプス9号」 → 昭和61年2月号
(四)の快速「ムーンライト信州81号」 → 平成30年12月号
その他、とても書ききれませんが、これら以外の過去の時刻表や、ネット上のいろいろな情報なども、多数、参考にさせていただきました。
《あとがき》
※以下の内容は、2021年1月時点での内容です。
私が、この「白馬で降りた王子」に本格的に取り組み始めたのは、今から3年ほど前の、2018年のはじめのころのことでした。
そのころはまだ、新宿駅から白馬駅まで、臨時快速「ムーンライト信州」が夜行列車として運行されていました。ですが、私も鉄道ファンですので、「この列車も、そう遠くない将来なくなるのではないだろうか」、そんな気がしていました。
時代の流れと言えばそれまでですが、私はこう思いました、「よしっ! 俺が走らせよう! 」と。その列車はどんな列車でしょうか? もちろん人の役に立つ列車です。どんな人に、どんなふうに役に立つのか、それがこの「白馬で降りた王子」に取り組んでいく中で、とても大きなテーマになりました。
そうなってくるともう大変です。列車そのものはもちろんですが、その列車に乗る人の背景のようなものも大切なような気がします。長い年月をかけて、時代や世代が変わっていっても繋がっているもの、そのようなものもあるような気がするのです。
そうして取り組めば取り組むほど、私にとってとてもハードルが高いものになっていきました。思っていたよりも何倍も時間がかかってしまいました。測定できないほどのエネルギーも使いました。そして、毎日のように、才能の無い自分、能力の無い自分、センスの欠片も無い自分と向き合わなければなりませんでした。
ですが、なんとか最後までたどり着くことができ、この物語の中に登場する列車や登場人物たちが、私を導いてくれたような、そんな気がしています。
「ムーンライト信州」ですが、2018年12月30日、新宿発 白馬行き の列車を最後に、その後は運行されていません。この「白馬で降りた王子」に取り組んでよかった、今、心の底からそう思っています。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。




