第1話 急行「第2白馬」 編 ~昭和39年ごろ~
《物語の時代》
少し昔 ~ 少し未来
※ 本章は、昭和39年ごろをイメージしています。
《登場列車》
急行「第2白馬」(オレ) ・・・ (一)
※ 新宿 23:00 →(松本経由)→ 糸魚川 7:44 間の夜行列車
※ キハ58系で運行
※ 写真はイメージです。
※ 次章以降の登場列車は、その都度掲載する予定です。
《登場人物》
男1(私) ・・・ 主に(一)(二)(三)
男2(俺) ・・・ 主に(三)(四)(五)
(一)
私は、母に手を引かれていました。
母は小走りで、まだ幼かった私は、母についていくのがやっとでした。
その日の母は、ジーンズにスニーカーといった地味な服装で、日頃の派手なイメージとは全く違っていました。その母の姿が、強く印象に残っています。
子どものころの記憶は、曖昧でかつ断片的でしかありません。ですが、あれは・・、新宿駅の地下道だったのだと思います。
そう、たしかに私は、急ぎ足で行き交う人々がぶつかり合うような新宿駅の雑踏の中を、母に強く手を引かれていたのです。
母と私は、小さなアパートで暮らしていました。はっきりとはわかりませんが、新宿駅からさほど遠くない中央線沿線の、多分、阿佐ヶ谷か荻窪あたりのどこかだったのではなかったかと思っています。
まだ新しかった中央線のオレンジ色の電車に乗ったことを覚えています。中野から三鷹まではまだ地平を走っていた時代で、ちょうど高架複々線化の工事の真っ最中の頃でした。いくつかの駅では、仮設のホームを使用していたように思います。
もちろん、通勤電車に冷房なんてありませんでした。暑い季節は、電車に乗ると窓を空けました。というか、最初から空いていることが多かったですね。窓を全開にした電車が、爆音を轟かせながら全力で疾走していくのです。
新宿駅には、その構内の一角に広大な貨物用の敷地があって、電気機関車や貨車が何両も停車していたり、荷物電車に荷物を積み込んでいたりしていました。電気機関車や荷物電車は、今となっては古めかしいこげ茶色をしたものばかりでしたので、それだけに中央線のオレンジ色の電車が、まぶしく輝いて見えたものでした。
あのころ中央線のような通勤電車の初乗りの運賃は、大人で10円だったのではなかったでしょうか。あるとき駅で切符を買う際に、母がそう言っていたような気がします。
そういえば、都電のチンチン電車にも乗ったことがあります。たしか新宿と荻窪を結んでいた路線だったと思います。新宿駅前の電停は、青梅街道が中央線や山手線の下をくぐる大ガードの西側に、道の真ん中にポツンとありました。
都電の電車は、クリーム色の車体に赤色の帯が入っていて、車内に入ると床は板張りでした。屋根上のパンタグラフは、菱形のやつではなくて、大きな布団たたきのような形をしたやつでしたね。いや、そもそも、そういうやつは「パンタグラフ」ではなくて、「ビューゲル」っていうのだったかな・・。
もしかすると、母と暮らしていたアパートは、中央線の駅よりも都電の電停の方が近かったのかもしれません。地下鉄の丸ノ内線が荻窪まで開業して、都電の方は廃止になったのだったかな。あっ、そういえば、装飾された都電の電車を、人込みに紛れ、母と一緒に見送ったような気がします。あれはまさに、都電杉並線の最終日だったんじゃないかな・・。そうそう、母と一緒に歩道を歩いていると、地下を走る丸ノ内線の轟音が通気口から聞こえてきたっけ。通気口の格子状の蓋の上にのると、その振動が足元から伝わってきました。都電にも、丸ノ内線にも、同じ道の上と下でどちらにも乗れて、そんな時代だったんだよな・・。
もう、みんな昔の話です。
その夜、私たちは新宿駅から夜行列車に乗車しました。
夜行列車といっても、寝台車ではありません。4人が向かい合って座る、いわゆるボックスシートの座席車でした。車内は、大きな荷物を持った人たちでいっぱいで、スキー板を抱えている人たちもたくさんいました。座席にありつけず、通路に座りこんでいる人もいるほどでした。
私には、まだ「遠くへ行く」という概念がありませんでした。電車に乗って出かけるなんて、せいぜい新宿とその周辺ぐらいです。まして、一晩中、列車の中で過ごすなんてはじめてのことです。
向かい側の席では、髭面の大きな男が二人、窮屈そうにしています。そのうちの一人と目が合いました。ギロリと睨みつけられたような気がして、思わず目をそらしてしまいました。
私は、だんだん不安になってきました。ですが、隣に座っている母にもたれかかり、その膝の上に頭をのせてもらうと、いつの間にか眠ってしまいました。それでも、深夜に何度も目が覚めました。駅に停車して目が覚めることもありました。そのたびに母は、
「いま、こうふ・・」
とか、
「まだ、こぶちざわ・・」
といったように、教えてくれるのでした。
といっても、私には未知の世界です。それがどこなのか、まったく分かりません。それどころか、自分がどこ行きの列車に乗っていて、どこで降りるのかさえも分かっていませんでした。もしかすると、母から聞かされていたかもしれませんが、仮にそうであったとしても、私はあまりにも幼く理解できるはずもなかったのです。
その夜、母と私が乗車した列車・・、私がその列車を「第2白馬」という名の列車だったと知ったのは、もっと後になってからのことでした。
◇◇◇
オレには、山の男たちが似合う。
新宿を23時に出発し、中央本線をゆく。
高尾までの国電区間は通勤路線だ。仕事に疲れたおっさんや、遊び帰りのオフィスレディー、そして千鳥足の酔っ払い・・、新宿駅の国電用のホームには、そんな人たちが溢れている。
だが、オレは違う。オレが新宿駅の長距離列車用のホームに入線すると、大きなザックを背負った山の男たちが、列を作って待ち構えている。座席はすぐに埋まり、通路やデッキに新聞紙を敷いて座るのは当たり前、中には通路に寝っころがってしまうツワモノまででてくるしまつさ。
高尾を通過すると、通勤路線に別れを告げ山岳路線へと突入していく。ここからが本当の中央本線だ。「高尾」という名こそ、その入口に相応しいではないか。トンネルと勾配が続き、誰も気が付かないうちに神奈川県の北部をほんのちょっとかすめると、いつの間にか山梨県に入っている。だが、河口湖への玄関口である大月も、甲斐の国の「府」である甲府も、そして、小海線の接続駅である小淵沢も、みんな深夜に通り過ぎてしまう。
小淵沢を過ぎると長野県に入る。そして少し行くと、富士見という名の小駅を通過する。その富士見駅は、中央本線で最も標高が高い駅で、その標高は955.2mにもなる。「富士見」という名こそ、そのサミットに相応しいではないか。新宿からわずか4時間半の間に、900m以上も上ったわけだ。いや、実際には大月から3つ目の初鹿野(※)で620mまで上った後、いったん甲府盆地へむかってかけ下り、その後さらに上ってきた。そして、今度は松本盆地へ向かってかけ下っていく。つまり、本当はアップダウンの連続なんだ。まるで過酷なマラソンではないか。オレにしてみれば、そんなシンドイことを毎晩のようにやっているわけだが・・、みんな寝ている。まあ、仕方ない。
※ 現在の甲斐大和駅、1993年に初鹿野駅から改称
諏訪湖のほとりをかすめ、さらに行く。やっとみんな起きだし、洗面所やお手洗いが混雑する。そして、5時14分、松本に到着する。特に上高地へ向かう人たちは、みんなここで下車していく。
そう、新宿を遅くに出発し、松本をはじめ、信州の各駅に早朝に到着することができるオレは、山の男たちにとってとても便利な列車なんだ。
【参考】急行「第2白馬」時刻表
5時17分、松本を発車し、いよいよ大糸線へと乗り入れて行く。
日の長い季節であれば、蝶ヶ岳、常念岳、横通岳、燕岳、有明山、東天井岳、大天井岳、北葛岳、鉢ノ木岳、蓮華岳、餓鬼岳、そして、爺ヶ岳、鹿島槍ヶ岳といった北アルプスの山々が車窓左手に高々と現れる。個人的には、田植え前の季節がさらにお薦め。運がよければ、朝日に照らされた頂が、水を張ったばかりの田の水面に映し出されるその様を楽しむことができるだろう。
信濃大町を過ぎると、同じく車窓左手に木崎湖、中綱湖、そして青木湖のいわゆる仁科三湖が次々と現れる。個人的には、一年のうち最も寒い季節がさらにお薦め。運がよければ、その湖面は凍結し、暗闇の中に目を凝らすことによって微かに映し出されるその様を感じることができるだろう。
そして、信濃四ツ谷に近づくと、同じく車窓左手に、白馬鑓ヶ岳、杓子岳、白馬岳のいわゆる白馬三山が、一晩をともにしたオレと山の男たちを出迎えてくれる。
オレは「ハクバ」だが、言うまでもなく山としての「白馬」は「シロウマ」だ。というか、そもそも「シロウマ」とは「代馬」であり、すなわちそれは「代掻き馬」、つまり田んぼの代掻きをする馬のことだ。新緑の季節、白馬岳の山肌に現れる雪形に、まさにその「代掻き馬」に見えるものがあり、そこから「代馬岳」と呼ばれるようになっていたが、いつのころからかより字面のよい「白馬岳」に変化していったということらしい。地元の人たちは、その「代掻き馬」の雪形を農作業を始める目安にしたという。
(新緑の季節、白馬三山)
実は、「オレには、山の男たちが似合う」っていうのは、先輩から受け継いだ言葉なんだ。
今から10年以上昔、まだ戦後まもない昭和23年のことだった。新宿を21時30分に出発して、松本に翌朝5時21分に到着する準急列車が誕生した。そのころは、今のオレのように「白馬」だとか、あるいは「アルプス」といったような、おシャレな名前なんてなくて、ただの「準急列車」でしかなかった。その後、「アルプス」という名前が付いたり、運転区間が変わったりといった多少の変動はあったが、その準急列車がオレの先輩にあたる列車だ。ちなみに、当時の準急「アルプス」は、中央本線で初めて愛称が付いた列車だった。
先輩ががんばっていらしたころは、機関車が牽引する客車の列車だった。当時はまだ、中央本線の電化区間は甲府までだったので、新宿から甲府までは電気機関車のEF13さんが牽引されていたが、甲府から先は蒸気機関車のD51さんが牽引されていた。中央本線の勾配をD51さんが力強く上っていく様は、さぞかし絵になったことだろう。夜中だけどさ・・。
今から4年ほど前の昭和35年、新宿から松本へ向かう夜行列車の役目を、先輩からオレが引き継ぐことになった。先輩が名乗っていた「アルプス」という名は、新たに誕生した昼行の「急行列車」に譲り、オレは「白馬」を名乗るようになった。「アルプス」という名こそ急行列車に譲ったが、もともと中央本線の中ではとても由緒ある列車を引き継ぐわけだからね、身の引き締まる思いだったよ。当時のオレは、先輩と同じ「準急列車」ではあったが、キハ55系というディーゼルカーで運行するようになったことが、先輩との大きな違いだった。
さらにその翌年には、オレも日頃の働きが認められて「急行列車」に格上げになるとともに、急行列車としてふさわしいキハ58系に置き換えになった。そう、オレは急行形ディーゼルカーの最高峰、キハ58で運行しているのさ。
【参考】急行「第2白馬」編成
1号車 キハ58 2等車・自由席
2号車 キハ58 2等車・自由席
3号車 キハ58 2等車・自由席
4号車 キロ58 1等車・指定席
5号車 キロ58 1等車・自由席
6号車 キハ58 2等車・自由席
7号車 キハ58 2等車・自由席
8号車 キハ58 2等車・自由席
※ 1~6号車 新宿 → 松本 間
7、8号車 新宿 → 糸魚川 間
※ キ ・・・ 気動車
ロ ・・・ 1等車(現在のグリーン車)
ハ ・・・ 2等車(現在の普通車)
「キハ58」っていうのは、最新式のエンジン、つまり、8シリンダー180PS 横形DMH17H(※)を各車両に2基ずつ搭載していて、特急形のキハ82にも引けを取らない高性能なディーゼルカーだ。いや、引けを取らないどころか、2エンジンの車両のみで編成すると、車体が軽い分だけ、キハ82よりも到達時間を短縮できるだけの性能を有している。まっ、あくまで「急行形」だから、そこまで出しゃばることはしないけどね。
DMH17H(※)よりも古いエンジンは、シリンダーが垂直に並んでいた。つまり、縦型で、その分だけ、車両床下に上下方向のスペースが必要になってしまっていた。そのため、エンジン点検用の蓋を車内の床面に設置しなければならなくなってしまうということもあり、優等列車用の車両には向いていなかった。
だが、それを横型に改良することによって、上下方向に余裕ができ、かつ、車体の横側からエンジンの点検もできるようになった。「縦」と「横」の違いなんて、興味がない人から見ればどうでもいいようなことかもしれないけど、たったそれだけのことでも実は大きな進歩なんだ。
※ DMH17H
DM ・・・ ディーゼル機関
H ・・・ シリンダー数(H=8)
17 ・・・ 総排気量
H ・・・ 横型
各車両にエンジンを2つずつ搭載しているということは、2つの台車が両方とも動力台車ということであり、その分だけパワーがあって勾配にも強い。つまり、特に中央本線のような勾配が多い路線にはもってこいってことさ。
新宿駅には、総武本線や外房線、内房線といった房総方面へ向かう急行列車も乗り入れているが、あいつらは同じディーゼルカーでも「キハ28」で編成されている。キハ28は、見た目はキハ58とほとんど同じなんだけど、エンジンを各車両に1つしか積んでいない。房総の方は、平坦な路線ばかりだからね。その分、スマートで、お上品で、客層も、特に夏の海水浴シーズンなんかには家族連れや若い女の子たちが多く、明らかに違う。
エンジンの数が違うと、もちろん値段も違う。1エンジンのキハ28は1両あたり1780万円(※)だったけど、2エンジンのキハ58は2380万円(※)もしたのさ。エンジン1つでこんなに違うんだ。2エンジンの方が高級ってわけ。
※ 昭和36年度の契約価格
でもね・・、本当は・・、いいことばかりでもないんだ。
エンジン全開で勾配を上っていくでしょ。それだけに、軽油の匂いが漂ってくるし、排煙で屋根は真っ黒になるし、窓を開けたままトンネルに突入してごらん、車内にも煙が入ってきて大変なことになる。蒸気機関車じゃないのにさ。
エンジンを2つも積んでるから、床下はもういっぱいなんだ。洗面所とお手洗い用の水タンクを置くスペースさえなくて、屋根の上に持っていくしかなかったほどだからね。
今はまだいいけど、そう遠くない将来、冷房ぐらい当たり前の時代になってごらん、冷房用の電源なんてどこに置けばいいんだい。その点「キハ28」なら、エンジンが1つしかない分だけ床下に余裕があるからね、冷房用の電源を置くスペースぐらいあるんじゃないかな。でも、1エンジンのキハ28じゃ、中央本線ではパワーが不足してしまうし・・。結局、もっと大出力のエンジンと、それに相応しい新しい車両の開発が必要になるのかもしれないな・・。
そもそも、エンジンが1つだとか2つだとか、そんなことは小さな話でしかなくて、本当は「ディーゼルカー」であること自体が、時代遅れになっていくんじゃないかな・・。
幹線を中心に、どんどん電化が進んでいるでしょ。オレたちのような列車には、列車ごとに「列車番号」っていうのが付いているんだけど、ちょっと前までは、昔ながらの「客車」の列車も、オレたちのような「ディーゼルカー」で運行している列車も、はたまた「電車」で運行している列車も、みんな数字のみで区別はなかったんだ。それが、ある時から、「客車」はそれまでと同じ数字のみだけど、「ディーゼルカー」は数字の後ろにアルファベットの「D」、電車は同じく「M」を付けて列車番号を見るだけで区別が付くようにしたんだ。分かりやすいということは理解できるけど、「M」の方が新しいとか、優れているといったような見方をする人もいるような気がして、「D」を振られている立場で言わせてもらうとなんだか複雑なんだよね。
オレたちの中央本線だって、もうすぐ松本まで電化が完成する。そうなったら、オレたちディーゼルカーは、電車に置き換えになっていく。オレたちは、地方の路線にまわされ、新宿のような都会にはご縁がなくなっていくだろう。
もちろん、そんなことは最初からわかっていた。既定路線なんだ。電車は利用者の多い幹線を中心に使うが、ディーゼルカーはローカル線にも使う。だから、電車に比べ、極力お金をかけないよう、設計のときから苦心しているんだ。
例えば、同じ「急行形」でも、電車の153系の場合は、先頭車前面の運転室にはより高価な「曲面ガラス」が使われている。でも、オレたちの方はより安価な「平面ガラス」。見た目は大事だよ! そんなところケチらないでくれよ!
車内だって、例えば1等車だと、電車の153系の場合は、よりお金をかけて天井の蛍光灯にはカバーが付いている。でも、オレたちの方は2等車と同じようにカバーなんてなくて蛍光灯がむき出しになっている。1等車なのにだよ! 安っぽいじゃないか、そんなところケチらないでくれよ!!
床下の台車だって、電車の153系の場合は、より高価で乗り心地がいい「空気ばね」の台車を履いている。でも、オレたちの方はより安価な「コイルばね」。急行列車なのにだよ! 乗り心地に影響するだろ、そんなところケチらないでくれよ!!!
決して劣っているわけじゃないんだよ! そういうコンセプトなんだよ!! 方向性の問題なんだよ!!!
これからは電車の時代だよ。
ディーゼルカーなんて、もう流行らないのさ。
オレも・・、電車に生まれてくればよかったのかな・・。
◇◇◇
翌朝、母と私は、大糸線の信濃四ツ谷という駅で降りました。
暖かかったディーゼルカーの車内からホームに降りると、辺りはまだ暗く、雪が舞い、とても寒かったのを覚えてます。そして駅前には、それまで私が見たことがないほどの雪が積もっていました。
私は、なぜこんなところまでやってきたのか、分かっていませんでした。その日のうちにでも、自分たちのアパートに帰るのだと思っていました。
ですが、それは幼かった私がよく理解できていなかっただけで、母と私は、とても寒く雪に埋もれた小さな街で暮らしていくことになるのでした。
そのとても寒く雪に埋もれた小さな街は、母の故郷だったのです。
---
(2)へ続きます。
《年表》
以下、年表です。(主にこの章に関する部分)
1960年(昭和35年) (第2白馬)新宿-松本 間の夜行準急
※ キハ55で運行
※ 新宿 23:00 → 松本 5:20
1961年(昭和36年) (地下鉄) 荻窪線(現・丸ノ内線) 新宿-南阿佐ヶ谷 間が段階的に開業
(全国) 10月1日 白紙ダイヤ改正
※ 通称・サンロクトオ
(第2白馬)急行に格上げ、大糸線・信濃森上まで延長
※ キハ55からキハ58に置き換え
※ 新宿 23:00 → 信濃森上 6:43
※ 松本-信濃森上 間は準急
1962年(昭和37年) (地下鉄) 荻窪線(現・丸ノ内線) 南阿佐ヶ谷-荻窪 間 開業
(第2白馬)大糸線・糸魚川まで延長
※ 信濃森上-糸魚川 間は普通
1963年(昭和38年) (都電) 14系統(杉並線) 廃止
1964年(昭和39年) (全国) 10月1日 東海道新幹線 開業
1965年(昭和40年) (中央本線)新宿-松本 間の電化が完成
※ 松本運転所へ165系 配備
(第2白馬)名称を「穂高」に変更、165系に置き換え
※ 運転区間を新宿-信濃森上 間に変更
※ 新宿 23:00 → 信濃森上 6:29
※ 急行「白馬」は昼行列車のみに
1967年(昭和42年) (中央本線)特急「あずさ」運行開始
(大糸線) 信濃大町-南小谷 間 電化
1968年(昭和43年) (全国) 10月1日 白紙ダイヤ改正
※ 通称・ヨンサントオ
「列車号数」の表記を変更
※(例)「第1アルプス」→「アルプス1号」
「白馬」、「穂高」を急行「アルプス」に統合
(大糸線) 「信濃四ツ谷駅」を「白馬駅」に改称
《補足》
本章の内容について、一部、写真を利用して補足させていただきます。
① 有田川鉄道公園で保存されている キハ58 003(2018年9月29日撮影)
※ 乗車体験会の日以外は車庫に入っており、車内に立ち入ることはおろか、外から写真を撮ることも難しいようです。また、乗車体験会の日でも、エンジンが故障しているため、自走ではなく機関車が牽引/推進しての運転になっています。そもそもその乗車体験会についても、別の車両の日の方が多いようです。
キハ58 003 は、富士急行が国鉄に乗り入れるために国鉄のキハ58と同等の車両を導入した3両のうちの1両で、昭和38年に製造されました。
富士急行時代は、新宿-河口湖 間の「かわぐち」として活躍しました。なお、新宿-大月 間は、主に「アルプス」に併結されての運行でした。
富士急行で活躍した後、和歌山県の有田鉄道に譲渡されましたが、その有田鉄道が2002年に廃止になった後は、その金屋口駅近くに作られた有田川鉄道公園で保存されています。
キハ58 003 は、国鉄の車両ではありませんでしたが、国鉄のキハ58をもとにして製造されたため、見た目はほとんど変わりません。また、車内も、冷房改造もされていませんし、その他、座席等の設備も、ほとんど当時と変わっていないものと思われます。そのため、本章の「第2白馬」の時代のキハ58をイメージするにはぴったりではないかと思っています。
ただし、キハ58 003 は、車体の両側に運転台を取り付けたため、洗面所とお手洗いはありません。よって、本文中の水タンクを屋根の上に載せた旨の記載については、キハ58 003 は水タンクそのものがありませんので該当しません。
また、本文中に冷房の話がでてきますが、昭和40年代に入るとキハ58も冷房改造が進められました。ただし、その場合、キハ58に冷房装置そのものを取りつけても本文に記載したようにその電源を設置するスペースがありませんので、3両に1両の割合で、冷房用の電源を搭載したキハ28か、新たに開発された大出力のキハ65を編成に組み込む必要がありました。ですが、そもそも幹線を中心に電化も進んでおり、キハ58の中には、冷房改造されないまま車両としての生涯を終えたものも多数ありました。
② 津山まなびの鉄道館に保存されている キハ58 563 と キハ28 2329
(2018年10月8日撮影)
※ 通常、車内に立ち入ることはできないようです。
岡山県の津山まなびの鉄道館には、キハ58とキハ28が1両ずつ保存されています。本文中に記載したように、見た目にはほとんど区別がつきません。ちなみに、写真の左が キハ58 563 で、右が キハ28 2329 です。反対側の車端部を確認することができれば、本文に記載したようにキハ58の方は、屋根上に水タンクが載っているはずです。ですが、ここでは扇形機関車庫内に展示されているため、反対側の車端部を詳しく観察することは難しいです。しかし、キハ58とキハ28をこのように並んで写真を撮ることもできますし、とてもありがたいです。
③ 碓氷峠鉄道文化むらに保存されている キニ58 1(2018年12月24日撮影)
※ 通常、車内に立ち入ることはできないようです。
群馬県の碓氷峠鉄道文化むらには、キニ58 1 という車両が保存されています。
この キニ58 1 は、キハ58系の1等車(グリーン車)であった、キロ58 7 を荷物用に改造した車両です。ただし、車体は改造時に新しく製造されたものですので、全体的な見た目からキロ58の当時の面影を見出すのは難しいです。
ですが、床下のエンジンや台車などだけとはいえ、本章の「第2白馬」の時代に1等車として使用されていたことに間違いはなく、想像力をたくましくして当時を偲ぶのも面白いのではないでしょうか。
④ 鉄道博物館に保存されている クモハ101 902(2018年12月24日撮影)
本文中に出てくる「中央線のオレンジ色の電車」とは、言うまでもなく、この101系のことです。
101系は、1957年(昭和32年)に登場した通勤形電車です。いわゆる「新性能電車」の先駆けで、その後の国鉄の通勤電車のスタイルを確立した車両でした。
私が子どものころも、中央線の快速や特別快速と言えば、もちろんこの車両でした。
⑤ 青梅街道、新宿西口の大ガード付近(2018年11月18日撮影)
青梅街道を西新宿側から新宿駅方向を写したものです。写真中央にいわゆる大ガードがあり、中央線の電車が通過しています。
本文中に出てくる都電杉並線の新宿駅前電停は、大ガードよりも手前側の中央分離帯の辺りにあったと思われます。電停の利用者は、横断歩道から行き来したのではないでしょうか。
なお、都電杉並線は、新宿駅前-荻窪 間を結んでいた路面電車でしたが、地下鉄丸ノ内線が荻窪まで開通した翌年の1963年(昭和38年)に廃止になりました。
当時の杉並線を偲ぼうと思い、荻窪駅から新宿駅まで青梅街道を歩いてみました。さすがに当時の面影を見出すのは難しいものがありましたが、ネットや書籍で見つけた当時の写真がとても参考になりました。
⑥ 地下鉄博物館に保存されている 丸ノ内線の301(2018年11月25日撮影)
地下鉄丸ノ内線と言えば、やっぱりこれですね。
なお、丸ノ内線が荻窪まで開通した当時は、新宿-荻窪 間と中野坂上-方南町 間は荻窪線と呼ばれていました。それが、丸ノ内線に編入されたのは、1972年(昭和47年)のことでした。
⑦ 田植え前、水を張った田に映える餓鬼岳(2018年4月28日撮影)
本文中の「朝日に照らされた頂が、水を張ったばかりの田の水面に映し出されるその様~」とは、こんなイメージです。なお、この写真は、大糸線の安曇沓掛-信濃常盤 間で、「ムーンライト信州81号」の車内から撮影したものです。
⑧ 冬、凍結した中綱湖(2018年3月10日撮影)
大糸線の下り列車の場合、信濃木崎駅を過ぎて少し行くと車窓左手に木崎湖が、さらに進み簗場駅からは同じく左手に中綱湖、青木湖が続けて現れます。その木崎湖、中綱湖、青木湖の仁科三湖は、寒い季節には湖面が凍結することもあるようです。
この日は、中綱湖と青木湖が凍結していました。簗場駅で下車し、少し散策してみたのですが、とても静かで湖しかないようなところでした。でも、それで充分でした。
⑨ 新緑の季節、白馬三山(2018年4月28日撮影)
本文中に掲載した白馬三山の写真に、その頂と、雪形「代掻き馬」の位置を記入しました。
この写真では「代掻き馬」が小さくて、その詳細な形などが分かりにくいかとは思いますが、ネット上に多数あるかと思いますので、そちらも合わせてご参照いただければ幸いです。




