終わらない世紀末 - 第六章:アフリカの矛盾
季節は冬へと向かい、ケンタの「世紀末」への想像は、新たな疑問と直面していた。それは、テレビで繰り返し流される、貧しいアフリカの人々の映像だった。痩せこけた子供たち、乾いた大地、そして、まばらに草を食む家畜の群れ。大人は「食糧問題」と口々に言い、人類は毎年増え続けているから、いつか食糧が足りなくなると語っていた。
(人類が増えすぎて、食糧がなくなる世紀末…)
ケンタは、そのシナリオにリアリティを感じていた。しかし、同時に不思議に思った。テレビに映るアフリカの人々は、なぜあんなに貧しいのだろう? なぜ、もっと畑を耕したり、工場で何かを作ったりしないのだろう? ケンタの目には、広大な土地で家畜を追う「放牧」の姿は、働いているようには見えなかったのだ。
(アフリカは、もう世紀末なのだろうか? でも、僕が想像する世紀末とは、なんだか違う…)
ケンタの頭の中では、食糧不足で荒廃した未来の都市と、テレビの中のアフリカの風景が、奇妙に重なり合っていた。しかし、そこには決定的な違いがあった。ケンタが夢見る世紀末は、劇的な破滅の後に訪れる、新しい世界への希望を秘めていた。だが、テレビのアフリカには、そんな希望の光は見えなかった。ただ、貧困と飢餓が、日常として存在しているだけだった。
そんなケンタの疑問をよそに、またしても吉田先生が、社会科の授業中に、食糧問題について語り始めた。
「お前たち、飢えている人々がいるのは、食糧が足りないからではない! 食糧は、この地球上に十分に存在する! だが、一部の人間が、それを**収奪し、独占している**から、貧しい人々が飢えているのだ!」
吉田先生の声は、いつものように怒りに満ちていた。
「アフリカの貧困は、彼らの努力不足ではない! かつて植民地支配によって資源を奪われ、今もなお、先進国の都合の良いように搾取され続けているからだ! 彼らは、我々が享受している豊かな生活の、**犠牲者**なのだ!」
吉田先生は、食糧問題もまた、社会の不平等と権力による収奪の構造に絡めて語った。彼の言葉は、いつも何かと戦っているようだった。アメリカ、金持ち、支配者…吉田先生の頭の中には、常に明確な「敵」が存在しているようだった。
ケンタは、吉田先生の言葉を聞きながら、複雑な思いを抱いた。吉田先生の言うことは、確かに筋が通っているようにも思えた。しかし、彼の「世紀末」への夢は、特定の誰かの「悪意」によって引き起こされるものではなく、もっと避けられない、人類全体の業のようなものであってほしかった。
(この先生は、いつも何かと戦っている。でも、僕が待っている世紀末は、もっと違うものだ…)
ケンタは、吉田先生の語る「食糧収奪」の世紀末に、以前のような興奮を感じなくなっていた。彼の夢見る世紀末は、もっと個人的で、もっと壮大な、そして、どこか美しい終焉であってほしかった。大人たちが語る「食糧問題」は、ケンタの夢見る「世紀末」を、またしても陳腐なものに変えていくようだった。彼は、早くこの退屈な日常が終わり、真の「世紀末」が訪れることを、心から願っていた。