好きだった同級生に抱き締められた
年末年始の休みを利用して実家に戻っていた私は高校のときの同級生数名と居酒屋に来ていた。
私こと大島あゆかは現在二十八歳。大学卒業後に就職した商社で毎日を無我夢中に過ごしてきたせいもあって未だに独身だった。正直あの会社はブラックなのではないかと疑っている。
「どうしたの、悩み事?」
隣の席の加藤くんが声をかけてくる。
私は何でもないといったふうに首を振った。
「ううん、そんなんじゃないよ。それより加藤くんは飲まないの?」
彼の前にあるグラスにはウーロン茶が注がれている。
他のみんなはビールやサワーといったアルコール類なのに彼だけは違っていた。まるで猿山にコアラを一匹だけ紛れ込ませたみたいだ。
加藤くんの銀縁メガネのレンズの奥が冷たく光った、ような気がした。
「いいんだよ、僕は下戸だし」
「そ、そうなんだ」
素っ気なく返され私は苦笑する。
コアラじゃなくてカエルだったか。
あと、どうせなら本田くんの隣に座りたかったなぁ。
何で私はろくに飲めないだけでなく話もつまらなそうな男の横にいるのだろう。
ああもう、こんなことなら来るんじゃなかった。
テーブルの向こうでクラスの人気者で「姫」と呼ばれていた菊池さんと談笑する本田くんを見ながら私は早くも後悔し始めていた。
*
昨夜にかかってきた本田くんからの電話は私に淡い期待を持たせた。
なぜなら彼は私が高校時代に好きだった相手で、昼間偶然にも近所の本屋で再会していたからだ。ときめきというかロマンスの始まりを予感したところで誰に迷惑がかかるというのか。
まあ、本田くんには迷惑かもしれないけど。
電話は飲み会のお誘いだった。
私と付き合いたいとか二人で飲もうとかではなく飲み会の勧誘。何だかがっかりしてしまったのは内緒だ。
それでも本田くんとまた会えるならと私は出席することにした。
その結果がこれである。
*
「か、加藤くんは今何してるの?」
とりあえず何か話そうと私は尋ねた。なぜこんなに自分が気を遣わねばならないのかは謎ではあるが。
というか菊池さん、本田くんにどさくさっぽいボディータッチをするのはやめてほしいんですけど。
加藤くんが親指で銀縁メガネのブリッジを押し上げる。
「聞きたい?」
彼はニヤリと笑った。
「ま、大したことはしてないんだけどね」
「……」
どうしよう。
自分で質問しておいてあれだけどものすごくどうでもいい。
視界の端で菊池さんが本田くんの胸の筋肉の厚みを確かめている。どんな会話をすればそうなるのか私には見当もつかないけど菊池さんならその高いコミュ力でどうとでもできるのだろう。
てか、私も触りたい。
菊池さん、替わってくれないかな。
*
「僕は市立図書館で司書の仕事をしているんだ。ま、そんなに威張るようなことは何もないんだけどね。本当にそんな大したことはしてないよ」
加藤くんはそれからべらべらと司書の仕事について語りだした。申し訳ないくらい、いや全然申し訳ないとは思っていないのだけど彼の言葉は私の耳を通り抜けていく。徹夜明けのロシア語講座並に耳に残らなかった。
ひとしきり話し終えると加藤くんは私に尋ねてきた。
「君はどんな本を読むんだい?」
「えっと」
微妙に頭が疲れてしまっている私は中空に目をやった。
「ミステリーとか読むかな。あと恋愛ものとか」
お気に入りの作家の名前を口にすると加藤くんはあからさまに不愉快そうな顔をした。
親指で銀縁メガネのブリッジを押し上げる。
「駄目駄目、そんな奴の本なんか読んでたって時間を無駄にするだけだよ。それより……」
彼は数人の作家の名を挙げた。その中には私も読んだことのある人の名前もあったけれど、作風はあまり馴染めないものだった。
さらに加藤くんは昨今のミステリーについての講釈を始めた。それはあまりにもくどくどとしたもので聞くに堪えないものだった。
しかし、迂闊に話を止められない威圧感があり私は黙って耳を傾けるしかなかった。
ああ、早く終わってくれないかな。
私はそう思いながらビールグラスの泡を眺めた。
*
「ねぇ」
テーブルの反対側から声が飛んできた。
「あなたたちさっきからずっと仲良くお話してるみたいだけど、確か二人ともフリーだよね」
姫、もとい菊池さんだ。
彼女の横で本田くんが複雑そうな表情をしている。なぜか菊池さんの手が本田くんの腹筋に伸びていて私は心の奥底で小さな殺意を覚えた。
菊池さん、触りすぎ!
私の本田くんにこれ以上べたべたしないでよ!
まあ、彼は私のではないけど。
私の心など関係なく菊池さんが話を進めてくる。
「いっそ付き合っちゃえば? 加藤くん、そろそろ結婚したいって言ってたじゃない。あゆかも加藤くんが相手なら安心だよ。彼、真面目だし実家はお金持ちだし」
「……」
えっ、これ何?
私と加藤くんをくっつけようとしてる?
「おいおい、冗談きついよ」
私が戸惑っていると加藤くんが眉をひそめた。
「確かに結婚したいって言ったけど誰でもいいって訳じゃない。僕にだって選ぶ権利はある」
「……」
ええっ、何それ。
まるで私が加藤くんにふられてるみたいなんですけど。
まあ、別にふられたって構わないんだけどね。
相手は加藤くんだし。
*
電話がかかってきて本田くんが中座する。
見送る菊池さんの目には恋する乙女を感じさせるものがあった。
本田くんはイケメンだし彼女もいないって言ってたから彼を狙う人がいても不思議ではない。
でも菊池さんがライバルだとしたらなかなかに厄介だ。私に勝ち目はないかもしれない。
つまらなそうに加藤くんが訊いてくる。
「あれか、やっぱ大島も本田のほうがいいのか?」
「へっ」
思わず変な声が出た。
やれやれといった調子で加藤くんがため息をつく。やけに盛大なため息だった。
「どいつもこいつもイケメンイケメンって……僕のほうがあいつよりよっぽど優秀なんだぞ。見てくれに騙されているとろくな目に遭わないからな」
「……」
加藤くん。
見てくれだけでなく中身も負けていると思うよ。
とは言えず。
でもまあ、ここは何かフォローしておくべきなのかもと頭を巡らせているとマナーモードにしておいたスマホが震えた。
*
画面を確認すると会社の上司からだった。
私は「ちょっとごめん」と謝りながら場を離れる。急いで店の外に出ると応答した。
「遅いっ!」
上司の罵声がいきなり襲ってくる。
それから彼の怒りのマシンガントークが炸裂した。
私のミスにより取引先に届くべきものが届かなかったそうだ。
地方に里帰りしていた私では物理的に対応不可能であるため都内在住の上司が代わりに処理してくれたらしい。
ヘマしたのは私なのだからお叱りの言葉を受けなくてはならないのはわかる。むしろ私の失敗をカバーしてくれた上司に感謝するべきなのかもしれない。
でも、何でこのタイミングなんだろう。
通話を終えても私はみんなのところへ戻る気になれなかった。
私はその場でうなだれる。
本当に情けない。
本田くんとのロマンスを期待したのに違ってたし。
飲み会の隣の席は加藤くんだし。
その加藤くんにもふられるし。
菊池さんには敵いそうもないし。
仕事はミスってるし。
私、駄目駄目だ。
もう駄目すぎて泣きそう。
*
「大島?」
背後から降ってきた声に私はびくりとした。
慌てて溢れかけた涙を拭う。でも酷い顔になっているかもしれないのですぐには振り返らなかった。
「どうした、気分でも悪くなったのか」
「ううん、そうじゃないの。私のことはいいから放っておいて」
「……」
思いの外声が上擦っていた。こんなときにごまかすこともできないなんて情けないにもほどがある。
本田くんもきっと呆れてるよね。
ふわっと温かいものが私の背中を包んだ。
えっ?
驚く私の耳を微かな吐息がくすぐる。
「よくわからないけど放ってはおけないな」
……本田くん?
*
後ろから抱き締められて私は心音を加速させる。
とくとくとくとくと騒ぎ立てる鼓動は不意打ちを食らったからだけではない。
彼への気持ちが浮上し私の体温を高めていく。
振りほどきたいとは思わなかった。むしろこのままでいたい。
彼の体温が胸の鼓動がじんわりと伝わってくる。
心のどこかで菊池さんに勝ち誇っている自分がいた。
あなたは自分から彼に触れていたけど、私は彼のほうから触れてきたのよ。
本田くんが耳元でささやく。
「このまま二人で抜け出さないか?」
「へっ?」
またも変な声になる。
彼は小さく笑うと腕の力を強めてきた。
私はくらくらと目眩を覚えながら彼の口にした言葉を無言で繰り返す。意味がわからないほど子供ではなかった。
彼の体温も上がっていくのを感じる。
本田くんも私と同じ気持ちなんだよね?
今度こそロマンスを期待してもいいよね?
これからのことを想像し、胸のときめきが止まらなくなる私だった。
(了)