祭りのあと
チュンチュンと小鳥達が囀ずる。
ランドセルを背負って、元気よく駆ける小学生達。あくび混じりに通勤するサラリーマン。ゴミ収集所前では主婦達が噂話に花を咲かせている。
そのどれもこれもが当たり前の光景。ごく普通の、当たり前の日々の始まりだ。
「よう。ガッコーか」
玄関を抜けて、門扉を出ると誰かが声を掛けてきた。
「これでも学生だからな」
一瞥する鮎川。
声を掛けてきたのは成瀬健一。上下ジャージ姿で半帽を被りスクーターに跨がっている。
「大変だな学生は」
「そうでもないさ」
こうして二人、ゆっくりと並走する。
二人の出会いは幼稚園の時。
当時鮎川は、幼稚園を仕切っていた。頭もよく容姿も端麗、その上喧嘩も強い。当然の結果だ。
そこに入園してきたのがひとつ年下の成瀬健一。今と変わらず大胆で目立つ性格の持ち主。
それ故二人は、しょっちゅう喧嘩していた。鮎川は園のボス、ケンは孤独な新参者として。
そんなある日のことだ。鮎川が大怪我をしたのは。
遠足の日だった。市内郊外にある丘でのハイキングが目的だった。
鮎川は仲間数人を引き連れて、その群れからはぐれる。
先生からは遠くに行かないで、との注意は受けていた。
それを鮎川は完全に無視する。山奥に行けば図鑑に載ってる、ヘラクレスカブトムシを見つけられると踏んでたからだ。
いくつかの丘を越え、いくつかの沢を渡った頃には、完全に迷っていた。
その頃になると仲間達は絶望に震えていた。
先生の言うこと聞かないから、ボクたち死んちゃうの、ガクガクと震えるだけ。
鮎川ひとりが気を吐く。焦るな、ここを行けば誰かいる筈だ。……勿論根拠はない。
「あの先、なにかあるな」そう踏ん張って身を乗り出した時だ。
その両足はなにもない宙に浮かんでた。誤って崖から足を踏み外したのだ。高低差は十数メートルあっただろう。
引力に逆らえる筈もなく、鮎川は落ちていく。
やがて感じる全身の痛み。胸の奥を一際激しい鈍い痛みが貫いた。
最初鮎川は、なにが起こったか理解出来なかった。
遠い視線の先、崖の淵で仲間達がなにやら叫んでいる。
だけど酷い耳鳴りで、上手く聞き取れない。なにより感覚が麻痺していた。
結果から言って、鮎川は背中から落ちていた。背中から胸元に向けて、折れた竹が突き刺さっていた。
これはマズい。流石に理解した。この状況を打開しようと必死にのたうち回る。
だが状況は変わらない。血が流れ、感覚が麻痺していく。
「助けてくれ!」堪らず叫んだ。こんな状況、ひとりではどうにもならない。
だけど虚しさだけが込み上げた。仲間達はまだ四~五歳の幼稚園児。
崖の上で蒼白になり、ガクガク震えるだけ。
生まれて初めて死という感情を覚えた。
孤独という感覚を知った。
地面が赤く染まって、世界から色が消えていく。
「おめーらなにしてんだ」遠退く意識、誰かの声が響いていた。
どれぐらい経っただろう。
鮎川は暖かい感覚で目が覚めた。
覚めたといっても朧気な感覚だ。激しく痛烈な痛みは続いている。
それでも何故か心地よい。
「龍之介、気付いたのかい」「もう少しだよ」その左右で仲間達が伝えた。不安げな表情。
それでも希望に溢れた言葉。その根拠は未知数だが、鮎川にもその意味は理解出来る。
何故なら自分はまだ生きているから。この激しい痛みは、まだ生きてる証拠だ。
「ケン、疲れてないか?」仲間の一人が言った。その視線は鮎川の少し前を捉えている。
「大丈夫だ、あと少しだ」力強く響く声。
それで鮎川はハッとする。自分は誰かの背中に乗せられているのだと。
少しだけ記憶を整理する。
意識が遠退いたあの時、仲間とは違う声が響いていた。
少しだけムカつくあの響き、どこか訊いた覚えはある。
「ケンが助けてくれたんだよ」「あの崖を降りてくれたんだ」しみじみと伝える仲間達。
それで気付いた、俺を背負ってるのは成瀬健一だと。
朧気な記憶、その中でケンは生き生きと躍動してる。
……お前ら、鮎川はどこだ……
……龍之介はあそこだよ……
……あそこって助けなきゃヤバいじゃん……
……そうだけど、この崖だよ……
……だからなんだ。仲間だろ……
「あいつ崖を降りたんだ」「手探りで少しずつね」それで理解した。成瀬健一、この男は本当の男だと。
結果、鮎川龍之介は一命を取り留めた。
勿論その代償は大きく、怪我の治療とリハビリに一年の歳月を要する……
「昨日は傑作だったな。浜崎の外道、これに懲りておとなしくすりゃいいが」
覚めたように言い放つケン。そこにいつものふてぶてしさはない。
「総長辞めたこと、後悔してるのか?」
それを鮎川が横目で窺う。
二人は丘の上からだらだら続く下り坂を歩んでいた。
空は快晴、左手方向には港湾部の光景が浮かぶ。
「後悔なんてしねーよ。ウチには頼れる後釜が多く揃ってるしな」
祭りの後、そんな寂しさはあった。それでも自分で決めたこと、だから後悔はなかった。
「お前の方こそどうなんだ? ……やっぱり警察官への道進むんだろ」
「ああ。元々警察官になるだろうとは思っていたんだ。今回のことで確定したってだけだ」
鮎川は父である神奈川県警本部長に依頼をするにあたり、それなりの条件を提示していた。
暴走族を辞めて、学業に専念すること。国家公務員を目指して、警察官になること。
とはいえ父親に言われた訳ではない、自分で提示した条件だ。
「流石は生まれついてのエリートだな。俺ら庶民とは考えが違う」
遠く港湾部を見つめるケン。
海風に乗ってサイレンの音が響いてくる。街の治安の為、警察官が働いている証拠だ。
「お前も目指してみるか?」
その鮎川の問い掛けで、ハッとした表情を見せる。
ひとときの沈黙。
「てめー、またその冗談かよ。俺にはムリだって言ってんべ」
苦笑するケン。
「……そうか」
鮎川としては冗談のつもりではなかった。
この男と一緒なら、警察官になるのも悪くない。今でもそう思っている。
そもそもナイトオペラの副長になったのも、その延長線上でのこと。
それだけ成瀬健一に惚れ込み、信頼していた。
そしてその思いは鮎川の父親も同じ。
息子の命の恩人は、それなりの正義感があると、確信している。県警に来ることを夢想してる。
「しかしこれから暇になるな。マンガ書くにもマンネリだし」
空に向かって延びをするケン。
それが鮎川には間抜けたツラに思える。この男のことだから、当分定職にも就かないだろう。
気付いたようにカバンの中を探る鮎川。
「こいつ、受けてみろよ」
数枚綴りのパンフを差し出す。
「なんだよそれ?」
それを受け取るケン。
怪訝そうにそれを見つめる。
「おいおい、これガッコーの案内書じゃんか」
それは市内にある高校の募集要項だ。
「まさかお前、俺を本気で警察官にするつもりか?」
その問い掛けに暫し考え込む鮎川。
「それもある。だけどそれだけじゃない」
意味深な言い回し。
「そもそもマンガ家になるにもそれなりの肩書は必要なんだ。学校に通えば、マンガのネタにも事欠かないだろ? お前の原稿見せられて、そう思ったんだ」
「うーん、そりゃそうだが……」
それはケンも痛感してるだろう。
昨夜あの後、風太達と帰宅する最中、その話題になった。
鮎川の車中で、たまたま真樹がケンの原稿を見たそうだ。
それで感想を訊ねた。「絵が上手いね」彼女は言った。とびきりの笑顔。だがストーリーに触れると言葉がぶれる。つまり面白くない、そう暗に示していた。
ケンにすれば一番の課題だろう。
「勿論一年生からのやり直しだ。時期は来年、俺が三年でお前は一年。俺の後輩さ」
「それは仕方ない。元々お前は俺の一個上の先輩だしな」
「そもそも今回の件で、お前も思い出したんじゃないか? 学生生活の楽しさを」
「まあ」
それも昨夜のやり取りで痛感した筈だ。
慎治は明日から学校に行くと決心していた。
あんな腐った先公とエリートばかりの学校でも、慎治からすれば立派な学校だ。自分自身に打ち勝ったあいつなら、上手く行くとみんな信じている。
風太と真樹も、明日からは普通の学校生活を始めるだろう。
かくいう鮎川だってそうだ。昨夜のことは忘れて、真面目に学校に行こうとしてる。
違う学校でも、同じ学生。希望に溢れている。
そんな三人の会話にケンは付いて行けず、疎外感ばかりを感じていた筈だ。
「そもそもお前、どうして復学しないの? 勉強が嫌いなのか?」
「勉強は嫌いだ。だけど必要性は理解してる。バイト先で散々言われたからな」
そもそも勉強ってのは、社会に出て初めて通じるものだ。だから学生のうちは必要性を感じない。
「だったら何故?」
「頼れる仲間がいなきゃガッコーなんてつまんねーじゃん。青春なんてそんなもんだろ」
つまり要はスパイスだろう。学業単品じゃ味気ない。仲間というスパイスで味を整えるから美味く感じる。
「ウチの学校はそこそこ男気ある奴いるぜ。なにより俺がいる」
「だから、考えてみるって言ってんべよ。しつこいな」
こうしてケンは満面の笑みを浮かべる。明日への希望、それで満ち溢れているようだ。
それを鮎川は満足そうに見つめる。
この成瀬健一という男、進藤風太や本田慎治のように、ストレートに仲間という程素直じゃない。それでもその意味だけは理解してる。
この男のことだから、警察官になる可能性はほぼゼロだろう。
もしかしたら世界を揺るがす大悪党になる、可能性さえ秘めている。
だけど賭けてみる価値はある。
自分の正義に真っ直ぐで、本当の価値の分かる男だから。
「悪くないぜ、ウチの学校。私立オーク学園、最強の学園さ」
呼応して鮎川も笑った。