9 言語学習
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女性がトレーを持って部屋の外へと去った後。俺は急いでシャワーを浴びて歯磨きをした。そして濡れていた髪が乾ききった俺は布団の中でずっとごろごろしている。
スマホがないせいで動画やゲームがなくつまらないが、歯磨きをしたときに歯を確認したらなぜか虫歯がなかったことへの高揚感が未だに続いているので気分はいい。テレビを見ようともしたが、言語が意味不明でつまらないのですぐに消すことになった。
それにしてもなんで虫歯なかったんだろうなあー。なんか俺そういう選ばれしものなのかな。まじ嬉しー。
ずっとこんなことを心の中で呟いていると、ふと、冷静になってきて頭にあることが過る。
俺って結局これからどうなるんだ?
一度こう思った時にはどうでもいいやと思って深く考えなかったが、よく考えてみると俺はこの先絶対……
タイミングよくその時扉の開く音が聞こえた。時刻は8時過ぎ、食事を出す時間にしては遅い…はずの時間帯。いつもの金髪の女性が、何かオレンジの形をした大きな板状の子供のおもちゃのようなものと折り畳み式の椅子を携えて部屋に入ってきた。今回は白衣を着ていた。
女性が机の前に折り畳み式の椅子を、木の椅子のとなり、壁沿いの机の前に広げて座り、持っていた子供のおもちゃらしきものを机の上に置く。布団から顔だけ出して様子を見ていると、女性が隣にある木の椅子の座面をポンポンと叩いたので、座れってこと?と思いベッドから出てその椅子へと座った。
自分の方がいいものに座っていることに申し訳なさを感じつつ、机に置かれている女性が持ってきた子供のおもちゃを見る。初めは女性が持っていて見えづらかったせいでわからなかったが、このおもちゃはオレンジ色の大きな板状で、異世界言語の一文字ずつが書かれた大きなボタンがたくさんついている……あ!これあれだ!!
自分のひらめきが正しいかどうか判断するため試しに一つボタンを押すと、予想通り「ッス」という音声がこのおもちゃから流れた。完全に仕組みを理解した。
これは英語や日本語のアルファベットやひらがなを覚えるために使われる、一つの文字が書かれたボタンを押したときその文字の発音が流れてくるあのおもちゃだ。正確な名称は知らないが、このオレンジのやつもそれなんだろう。
隣にいる女性もさっき俺が押したボタンのところを指さしてッス~みたいなことを言っている。少し面白い。わかってるよという意味でうんうんうなずいていると女性が白衣のポケットからメモ帳とペンを取り出し、俺が押したところに書いてあった気持ち『s』に似てるかもといった見た目の文字を書いたメモ用紙を俺に見せる。自信満々で「ッス~」というと、表情筋はあまり動いていないが「凄い!」と言ってるような顔で女性が拍手してくれた。
ははは、悪い気分じゃないなこれは…って俺は14歳だぞ!!赤ちゃんじゃないんだからこれぐらいできるだろ!!
調子に乗るのは少なくとも全部発音覚えてからだ。
そうして俺は、左上からボタンに書かれたこの異世界言語の発音を覚えることにした。
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30分後
つまんねえ~!!!
あれから2回ほど、ボタンに書かれた全部の文字の発音を覚えているかテストしたが全敗。未だにボタンを押して発音を聞くこの作業を続けている。ありえないほどに苦痛だ。隣の女性はしばらく前から本を読んでおり、なんかそれもむかつく。英語の発音は小学校でやらされて気づけば覚えていたが、意識的にちゃんと言語を覚えようとするのがこんなにしんどいとは思わなかった。
思い返せば俺は英単語を覚えることをとことん避けていたな、なんて現実逃避をしていると、ポンポンと肩を叩かれた。やる気なくなってんのばれてるよなと思って恐る恐る女性の方を見ると怒ってくる様子はなく、何やらメモ帳の切り取った1枚を差し出してきている。手に取って見てみると長い髪の白衣を着た女の子と、半袖短パンの男の子の絵が描かれており、女の子の方の絵に「← %&Y&(謎言語)」男の子の方に「←?」とそれぞれの絵に向け矢印と言葉が書かれていた。
……女の絵は今隣に座ってる女の人で、男の方は多分俺、か?…なら矢印の後に続く「%&Y&」の部分は名前…が一番しっくりくるよな…。『%&』これは『ロ』で、『Y&』これは『ゼ』…って読むのかな?ならこれは発音的には…。
「…ロゼ…?」
自分でも半信半疑で呟いて、そのロゼ(?)の顔を見る。長い金髪に灰色の瞳を持つ白衣を着た女性はうんと頷いていた。その後、自分を指して「ロゼ」と復唱するように口を開いた。そのジェスチャーはつまり、自分の名前はロゼだよという意味で…いいんだよな。こんなにあっさり言葉でコミュニケーションが取れると思わなくて、少しだけポカーンとしてしまう。
色々と俺が世話になっているこの人の名前はどうやら「ロゼ」というらしい。初めて言葉で通じ合えたことに、結構感動している。目頭がジーンと熱くなる感覚が鮮烈だった。女の子の絵に矢印で向けられた言葉はやはり名前を意味していたのだ。
ならこの男の子に向く矢印とその後に続く「?」は俺の名前が何か、ということを意味しているいるにちがいない。
いつの間にか俺の前に置かれていたボールペンを手に取り、平べったいオレンジ型のおもちゃのボタンを押して発音を確認しながら自分の名前を1文字づつ作っていく。メモ帳の矢印の根に書いたその言葉を見せながら、
「メイ!」
自分の名前を伝えた。そう、俺の名前は佐々木明。日本で生まれこの異世界に来たただの男の子だ。俺の名前を聞いたときロゼは優しい表情をしながら何か一言喋っていたが、もちろん意味はわからない。素敵な名前だね、なんて言ってくれていたならいいなと思った。
実際に%&Y&ってロゼが書いていたわけじゃないです。わからない言語だよーってのを表現するためのあれです。