一話 月夜と忍
一話 月夜と忍
高坂月夜は一見するとごく平凡な会社員に見える。まあ実際平凡な会社員であった。チャコールグレーの平凡なスーツにモンクストラップの黒い革靴、そして革の黒いビジネス用鞄を持ち、髪は短髪で後ろに撫で付け黒縁の眼鏡をかけている。どこにでも居そうな青年だった。
ただ彼が他の人と決定的に違っていたのは、彼が”忍者”として育てられたという事だった。
そもそも昭和生まれの彼の父親が”忍者”の大ファンであった。そして、あろうことか母親までも”くノ一”に憧れていたのである。そんな家庭に育った月夜は、当然幼い、物心つく前から忍者として育てられたのである。
小学生くらいまでは、月夜も疑問に思わず生活してきたが、さすがに中学生になると自分が他の人と明らかに違うと感じてきた。
日曜日には近くの道場で、昔柔道をやっていたという父親に投げられ続けた。投げられる事で投げられるようになるという父親の主張だったが、たんに仕事のストレスを発散しているだけに月夜は感じていた。
そして、母親からは毒にも耐性をつけなければ一流になれないと、なにやら得体の知れない食事を毎回食べさせられた。これも、たんに失敗した料理の残飯整理に違いないと月夜は感じていた。
だけど、月夜はそれを両親からの虐待などと、これっぽっちも思わなかった。なぜなら両親からの愛情は存分に感じていたからだし、月夜自身も両親の事が大好きだったからだ。
小学校は徒歩圏内であったが、中学校になると同級生はみんなバス通学か一部運動部に入部した者は自転車で通学するようになった。しかし、月夜は当然、徒歩通学である。入学した頃は片道二時間かかっていた通学時間も、卒業する頃には三十分にまで短縮出来ていた。
そして、無事高校にも入学し、中学よりさらに遠い学校まで走って通学する毎日を送った。おそらく運動部に所属していたならば、インターハイで素晴らしい成績を上げる事が出来たのではと思えるが、両親は忍者は”忍ぶ者”決して目立ってはいけないと徹底した教育方針を貫いていた。
現代の忍者は教養も必要だからと言い、月夜は大学まで行かせてもらえた。地方の大学だったがキャンパスの外にも山や川などが広がり自然が豊かで修行にもとてもいい環境だった。
大学生になった月夜は、忍者は一人でも生きなければならないと、初めて下宿で一人暮らしを始めたが、時折り両親が抜き打ちでチェックに訪れるので、のんびりと毎日を送るわけにはいかなかったのである。それでも月夜は曲がらずに真っ直ぐ育っていった。
そして、大学を卒業した月夜は、ごく平凡な会社に入社する。食品の卸売りの小さな会社だったが、目立たずに生きるという両親の教えを忠実に守った結果だった。
* * *
「チーフ 明日の会議の資料ですがチェックお願いします 」
月夜のデスクに資料を置いたのは、後輩の服部睦美だった。
「了解 ありがとう もう定時過ぎてるから急いで帰ってくださいね 」
「はい それでは失礼します お疲れ様でした 」
睦美はペコリと頭を下げると、自分のデスクに行き帰り支度を始めた。月夜は渡された資料に目を通す。彼女が作った資料なら間違いないだろうが、社長は思わぬところを指摘してくるので一通り目を通しておいた方が無難だ。
資料にチェックしているうちに社内に残っているのは月夜一人になっていた。月夜は大きく伸びをすると自分もそろそろ帰るかと帰り支度を始める。
事務所に鍵をかけた月夜は門を出て辺りを見回した。そして、誰もいない事を確認すると事務所の横を走っている鉄道の線路の上に乗りダッシュする。
・・・今日は風が気持ちいいな ・・・
月夜はあっと言う間に次の駅の近くまで来ていた。月夜は駅の手前で線路から道路に降りる。そして、何食わぬ顔で駅の横を歩いて通り過ぎると再び線路に乗り走り出した。途中、電車と行き会った時は線路脇の草むらに身を隠し、電車をやり過ごすとまた線路を走り出す。
自分の住む町まで帰ってきた月夜は郊外の自宅へと向かって田圃の中の一本道を走っていると突然、”くない”を持った黒い影が飛び掛かってきた。月夜は後方転回し忍具を隠してある場所まで行き自分も”くない”を取り出し対決する。
キィーン
”くない”同しがぶつかり火花が飛んだ。飛び掛かってきた黒い影はそのまま月夜の胸に飛び込んでくる。
「ミー ただいま 」
月夜は胸に抱いた三毛猫に挨拶する。それは高坂家の忍猫ミーだった。その時、闇をついて一本の矢が月夜の胸を狙って飛んでくる。
キィーン
だが月夜は難なく”くない”で矢を叩き落とす。
「危ないな、母さん ミーに当たったら大変だぞ 腕が落ちたんじゃないか 」
月夜がぼやくと、暗闇から声が聞こえる。
「うーん 母さんも年取ったのかね あんたの頭を狙ったつもりだったけど…… 」
そして、暗闇から忍び装束の女性が現れた。目だけ覗く頭巾を被った黒装束で、忍び足で歩いてくる。
「おかえり、月夜 でもね、私はまだ父さんよりは若いよ 」
そう言って、ふふっと笑いをこぼす。
「父さんたら、あんたに向かって火遁の術をやろうとして自分が燃えているんだから 」
何やってんだと月夜も笑い出した。三毛猫のミーも、にゃにゃにゃと笑い出す。平和な一日だった。
* * *
翌日の朝礼時、本日より入社した新しい仲間ですと社長が一人の小柄な女性を紹介した。どうやら、月夜の部署に配属になるようだ。前に社長に人員を補充して下さいと進言していたのを覚えていてくれたようで月夜は素直に嬉しかった。これで、いつも残業になってしまっている睦美と伊賀崎寅之助も定時で上がれるようになるだろう。月夜は社長に感謝した。
朝礼終了後、課長に連れられ先程の女性が挨拶に来た。
「今日からお世話になります藤林忍と言います 早く仕事を覚えられるよう頑張ります よろしくお願いします 」
元気があってよろしいと課長は御満悦だ。睦美と寅之助も、笑顔でよろしくと挨拶する。月夜もお辞儀したが、彼女の名前を聞いた時、また?と思わずにはいられなかった。自分が”高坂”。そして、”服部”と”伊賀崎”。それに今度は”藤林”って、みんな実在の忍者の名前じゃないか。社長、わざとそうしてるのか?
「それじゃ、高坂チーフ 彼女をよろしく頼むね 」
課長は月夜の肩をポンと叩くと自分のデスクに戻っていった。
月夜は改めて忍を観察する。黒い日本人形のようなおかっぱ頭にごく普通のビジネススーツ。取り立てて目立つようなところはない。本当に普通の女性だが、なぜか月夜は自分と同じ臭いを嗅ぎ取っていた。
忍の方も月夜を値踏みするように、じっと見つめている。
・・・藤林って伊賀の上忍じゃないか まさか、その末裔とか ・・・
これから、何が起きるんだ。月夜は無表情で自分を見つめる忍に、ちょっと恐いという印象もあったが、同時に何かワクワクした楽しい気分も心の中に湧き上がってきていた。