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第1話 俺を愛する必要はない

「再度確認するが、この婚姻はあくまで表向きだけのものであり、契約だ。君が俺を愛する必要はないし、俺も君には今後とも指一本触れるつもりはない」


 その彫像の様に冷たく整った顔からは、何の感情も読み取ることはできなかった。私に保障される待遇、そして求められる役割――ただ淡々と契約内容を再確認してゆくだけの唇は薄く、わずかにもその口角が上がることはない。


「だからどうか、安心して欲しい」


「どうか安心して」の言葉とは裏腹に。その硬質な声音はまるで分厚い壁となり、私のことを拒絶しているかのようである。

 それでも私は、深々と頭を下げた。


「かしこまりました、旦那様」


「では今日は、引っ越しやら手続きやらで疲れただろう。……おやすみ、イヴェッタ」


「はい。おやすみなさいませ」


 私達が戸籍上の夫婦となってから、初めての夜――隣り合う二つの寝室を隔てる扉に、ガチャリと重たい錠の音が響いた。



  ◇ ◇ ◇



 縁戚にあたるシルヴィオ様と婚約したのは、もう十年も昔のこと。私がようやく十歳で、彼が十八の時だった。


 武門の一人娘である私に婿入りする彼とは完全な政略結婚だったけど、私はとても幸せだった。父の剣術の弟子でもある彼には、幼い頃からたまに遊んでもらっていたけれど……同年代の意地悪な男の子たちとは大違いで、いつも優しく紳士的な彼が、私は大好きだったからである。


 だがまだ十歳だった私との婚約を突然急いだのには、理由があった。間もなく彼は戦地へと向かい、それから一度も顔を合わせることのないまま八年間、二人の間を繋ぐものは文通のみ。その末に待っていたのは……彼が遠い異国で戦死したとの(しら)せだったのである。


 だが徐々に激化した戦場は本土へ、そして王都にまで及び、哀しみに打ちひしがれる暇さえ与えられないまま、さらに二年が過ぎ。ようやく戦争は祖国の敗北で完全なる終結を迎えたが、私は二十歳を迎えても、未だに新しい嫁ぎ先を探す気にはなれなかった。もっとも探したところで、この状況では見つからないかもしれないのだけれど。


 我が家は貴族の末席に連なるとはいえ、領地を持たない王家直参(じきさん)の軍人の家系である。長引く戦争で男手を失った我が家に(のこ)されたのは充分な額の遺族年金であるはずだったが、戦後の物資難による貨幣価値の暴落(インフレーション)で、紙切れ同然となっていた。


 かつてクローゼットを埋め尽くしていたドレスを、一枚、また一枚と、わずかな食糧に変えながら食いつなぐ日々――彼が我が家に訪ねて来たのは、それも底をつきかけていた頃のことだった。


 アベラルドと名乗った彼は、私の婚約者シルヴィオ様とは同じ部隊で戦った戦友であったらしい。黒髪黒目を持つ彼は、柔らかな金髪に暖かな碧眼(へきがん)を持っていたシル兄さまとは正反対で……座っていても明らかなほどの長躯(ちょうく)から見下ろすように、こちらへと冷たく強張(こわば)った顔を向けた。


「どうやら生活に困っているように見受けられるが」


 彼の無遠慮な視線に恥ずかしくなって、私は無言で顔を伏せ、古びた喪服のスカートをつかんだ。これでも、まだ()()な一枚を選んだつもりだったのに……。


「すまない、そんな顔をさせるつもりはなかった。俺はいつも言葉足らずでな……今日は親友であるシルヴィオとの、最期(さいご)の約束を果たしに来たんだ」


「約束……で、ございますか?」


「ああ。自分の死後に愛する君が困っているようならば、代わりに助けてやって欲しいと。そういう訳なので、俺と結婚しないか」


「なっ……! たとえ親友といえど、シルヴィオ様は本当にそんなことを貴方に頼んだのですか!?」


 あまりにも軽く発された、求婚の言葉――。その理由に動揺を隠しきれない私とは裏腹に、彼は一片たりとも表情を崩さず言葉を続けた。


「もちろん、君がこの二年間シルヴィオへの操を立て、新たに婚約者を探すこともなく、喪服を着続けていることは知っている。だから便宜的な、あくまでも白い結婚の提案だ。俺から君への援助は惜しまない。その代わり君には、俺の妻となったフリをしてもらいたい。だが友に誓って、君の貞操は絶対に守ると約束しよう」


「白い、結婚……」


 その存在は、噂で聞いたことがある。表向きは普通に婚姻を結んだ夫婦が、身体の関係を結ぶことなく共に暮らすというものだ。だが彼にとって、「妻のフリ」がどんな利点となるのだろうか。彼の実家はこの混乱の世にあっても大身(たいしん)を保つ伯爵家であるし、彼自身も思わず目を引かれるほどの美丈夫である。社交界では良家のご令嬢方に、放っておかれないだろう。


「貴方がそれを望む理由を、伺えますか?」


 白い結婚を選ぶ理由の多くは、人には言えない恋人がいるからだと聞いたことがある。真の恋人を守る隠れ(みの)とするため、表向きの妻を(めと)るのだと。ならばお相手を知っていた方が、口裏を合わせるくらいはできるだろう。


「それは、今は話すことはできない。だがこの契約に応じてくれたら、こちらの事情も全て打ち明けると約束しよう」


 確かに、受けるとも分からない相手に秘密を明かせないのは道理である。それにしても契約とは――いっそ潔いけれど。私が戸惑っている間にも、彼は言葉を続けた。


「だが事情を伏せておく必要がある以上、子を持たないことに対する周囲の風当たりは強いだろう、だが君の名誉は絶対に守ると、それも契約書に明記しておこう」


 その無機質を思わせる表情は、記憶の中でいつも優しく微笑んでいるシル兄さまとは大違い……でもだからこそ、思い出さずに済むのだろうか。


 戦地から届いた手紙の束を読み返しては、どうしても新しい相手を探す気にはなれなくて、ただ過ぎてゆく日々から目を逸らし続けていた。でも女ばかりで生きてゆくには、今は厳しい世の中である。いずれ受け入れてくれそうな修道院を探してはいたが、しかし腰の悪い母にとって、(いまし)めの多い暮らしは辛いものだろう。


 悩み抜いた挙句に、私が前向きな答えを返すと。次に現れたとき、彼の手には早くも半分以上が記入された婚姻許可願いと共に、こと細かに記された婚前契約書が握られていた。覚悟を決めた私は二つの書類にしっかりと署名して――こうして私達は、たった二度の面談だけで戸籍上の夫婦となったのである。


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