第10話 対策会議
「そういえばアボカドにはバナナよりも沢山のカリウムが含まれているそうですね」
レストランのテーブルに載った他愛ない豆知識。私は思わず顔を跳ね上げた。向かいに座る美しい女子大生は屈託のない笑顔を浮かべている。緑色の果実にかかったバルサミコ酢のドレッシングが凝固した血液のように見えた。
…………
「こんなおいしいランチは初めてです。いつも相談させていただいているのは私なのに、本当にご馳走になってよかったんですか?」
「もちろんだよ。就職活動で大変な時期に芽衣子のことまで考えてくれているんだ。これくらい当然じゃないか」
レストランを出た。真理亜は「事が落ち着いたら私がご馳走させていただきますね。これでも料理は得意なんです」と言った。「それは楽しみだ」と辛うじて取り繕った。彼女の弾むような笑顔が恐ろしかった。
――『毒と薬』第八話(*下書き)
真理亜と山岸の三回目の対決、イタリアンレストランのシーンが描かれた原稿を見直す。バーチャルルームに表示した映像に囲まれ、アリスとの寸劇を文章化する執筆スタイルもすっかり慣れてきた。
だがどれだけ近未来的なスタイルで書いていても、原稿を見直した時の絶望は先人が万年筆で書いていた時代と変わらないのではないか。今回は完璧に近い原稿が出来たな、と思っても、改めて読み返せば問題だらけだ。
文章を読むのは難しいことではない。作家なら文章は書けて当たり前だ。なのに自分の書いた文章を読むことはどうしてこんなに難しいのか。
物語は半分まできた。真理亜は着実に山岸を追い込みつつある。彼女は既に友人の心臓を止めたのが、血中カリウム濃度の一時的な上昇だとわかっている。ちなみにカリウムを豊富に含んだアボカドを探してくれたのはアリスだ。
純真な笑顔を浮かべて楽しそうな真理亜、内心では心臓にナイフを突きつけられたように感じている山岸。緊張感にあふれたシーンのつもりだった。
ただ、読み返してみると真理亜の描写に違和感がある。探偵役として着実に犯人を追い詰めているのに、彼女の内心にある感情はむしろ……。
「真理亜の山岸に対する好感度なんだが、もうそろそろ――」
「海野さん、少しいいでしょうか」
リテイクを頼もうとした時、バーチャルルームの扉が予告なく開いた。
九重女史と一緒にオフィスに出た時だった、CEOルームから鳴滝が熊のような体格の欧米人と出てきた。二人はドアを出たところで英語で会話をしている。
俺が作中に書くのと違って実にそれっぽい。プリティーという単語は出てこなかった。海の向こうではシリアスにもプリティーを付けるのかと思っていたが違うらしい。
…………
「さて先日発表されたコンペの中間結果ですが」
「健闘しているといっていいな。確かAIが小説を書くというのはとても難しいって話だったからな」
「AI研究者としては感慨深いですね。一位と二位が共に人間とAIの共作なのですから」
CEOルームのライトフィールドディスプレイには『TFX本格ミステリ小説コンテスト』のメインページが表示されている。我らが『毒と薬』は二位だ。つまり一位は宮本胡狼とリリーの『死のフローチャート』ということになる。探偵など必要ない初歩的な論理だ。
ただしその背後には複雑な、そして大金のかかった裁判の状況があるらしい。先ほどの欧米人はViCの副社長だ。京都で行われたAI関係のカンファレンスのため来日した帰りによったのだという。
「ViCとVIA裁判に新しい動きがありました。VIAはViCのサービスの差し止めを要求してきたそうです」
「そんな強引なことが認められるのか!?」
「チキンゲームですよ。失うものの少ないVIAの方が有利なね」
アリスの記憶、そして人格は現実と長く切り離されるとまずいことを思い出し、思わず聞き返した。「この手の裁判では常套手段ですよ」と付け加えた鳴滝は落ち着き払っている。
「請求の論拠として向こうが持ち出しているのがこのコンペです。VIAは『死のフローチャート』の文章の七割は自社のAIにより生成されたものであり。一方、『毒と薬』はその殆どが人間により書かれていると主張しています。もちろん、テキスト分析の結果を添えて」
「最終的に表に出た“文章”に関してはその通りだろう。だが『死のフローチャート』の全体像は宮本胡狼が作っている。以前のそちらの言葉を借りれば、VIAのやっているのは翻訳だ」
やつの動画を見た俺は確信を持って言える。
「ニューラルネットワークはブラックボックスです。出力結果で判断するしかないのですよ。プロの小説家と組んだViCが素人と組んだVIAに負けている。VIAのコミュニケーションアルゴリズムがViCを遥かに凌駕している証拠であり、特許を侵害しているのはViCである。ゆえにサービスの差し止めを求める。タイミングから見て最初からそうシナリオを作っていたのでしょう。今後はマーケティングにも活用してくるでしょうね」
誰の筋書きか知らないが、弁護士より小説家になった方がいいんじゃないか。フィクションなら他人に迷惑はかけないだろうに。
「これまで以上のリソースをメタグラフに提供しているのに、成果が上がっていない。むしろ敵に付け入るスキを与えた。先ほどの副社長の話を要約するとそういうことです」
「……俺の仕事には関係ない話だが」
「そうですね。では『毒と薬』という小説の評価を高めるために何をすればいいかという話題に変えましょう。九重さん解析データを出してください」
「コンペのアクセス数などのアナリティクスをまとめました」
九重女史が立ち上がり、壁の大画面の表示がグラフに変った。一話から現在公開中の七話まで、時系列にしたがったアクセス数やネット上のSNSの評判などが折れ線グラフで表される。
言うまでもなく話題は一切変わっていない、この手のセリフの後で話題が変わるわけがない。俺だって小説ならそう書く。小説ならだが……。
三話までは互角だった『毒と薬』は話が進むごとに『死のフローチャート』に負けてきている。この一二話では明確に差がついている。一位と二位の差の方が、二位と三位との差よりも広い。
まずいのは上位三作の中で下を向いているのは『毒と薬』だけということだ。
「私の分析では四話の前後から、小説にアクセスするユーザーの性質が変ってきています。最初は宮本胡狼のゲーム実況動画やアリスのチャンネルのファンが多かったのですが、中盤にかけてミステリファンが加わってきています。この傾向は現在も続いています」
「本格ミステリファンなんてニッチで硬派な閲覧者をよく集められるな」
「TFXのユーザー数、そしてパーソナリティー分析の精度でしょう。ミステリ映画を見るユーザーに“おすすめ”として小説コンペのページが出るようになっています」
流石巨大プラットフォームだ。映像化を目的とした原作小説のコンペという趣旨に沿っているので文句のつけようがない。むしろフェアといっていいくらいだ。
「データから見てこれからますます本格ミステリとしての評価が問われるということですか。九重さんに質問です。もと編集者の立場からみた『毒と薬』の本格ミステリとしての評価を教えてください」
「それは……」
「率直に言ってくれていい」
「海野さんは聞きなれた言葉と思いますが、よくできているけどインパクトが足りません。論理的ですが地味な展開です。物語の魅力の中心は探偵と犯人の心理戦と頭脳戦ですが、探偵が犯人を追い込んでいるというより、探偵が犯人に導かれているように感じます」
九重女史が一話の時から同じことを言っていたことを思い出した。
「では、ここから打てる対策は?」
「結果はあくまで最終投票できまります。コンペの小説は誰でも見られますが、投票権を持つのはTFXの正規ユーザーだけです。本格ミステリとしての完成度を上げる、そして誰もが驚く解決編を作る、ですね。当たり前の結論で申し訳ありませんが」
全く以て正論だ。俺もこの小説を半分まで書き進めた状態の作者じゃなかったら頷いただろう。
「万が一、アリスの稼働を止めるようなことがあれば、その損害は極めて大きなものになります。メタグラフの業務的にも先生に依頼しているアリスの教育という点でもです。内容には口を出しませんが海野先生には何らかの対策を望みます」
改めて思う。この男は現実とミステリ小説を混同している。現実世界には名探偵はおらず、逆に解決不可能な問題は溢れている。
CEOルームを出た。うすうす感づいていたが、この仕事はメタグラフにとってもViCにとっても結構な重みをもつ。
おそらくだが小説を書くというアリスの挑戦自体がAIの研究開発というレベルで位置づけられている。メタグラフとViCが投じているコストとリターンが釣り合っていない。「内容に口は出しません」と鳴滝の言葉は一見寛大だが、それがかえって恐ろしいと感じる。
縁起でもない考えがよぎった。アリスのスイッチを切るのがVIAとは限らないのではないか。…………現実とミステリを混同しているのは俺の方か。
「もしかしてほっとしてる? 勢いで参加したけど冷静になったらまずいと思ったとか」
コンテスト結果を見た友人の顔に現れた微妙な変化を文美は見逃さなかった。
「そんなわけないでしょ。大体、一緒に書いてる文美に対して裏切りになるでしょ」
「でも、女の友情が男絡みでっていうのはホワイダニットの定番だしね」
「ミステリ脳。っていうか文美こそ思うところはないの。このままじゃAIに負けちゃうけど」
「まあ、話題性って意味でもファンの母数でも勝てないからねえ。実質私たちが一位、みたいな」
「……ファンの数で負けてるなら、私のファンに告知したら」
文美の言葉に共著者は唇をかんだ。彼女の前のテーブルクロスが皺を作る。
「あんたのファンなら映像配信サイトと相性いいかもね。まあ私らプロだし、やるなら止めないけど。でも、それくらいなら最初から堂々といつものペンネーム出したらよかったじゃない」
文美は肩をすくめる。そして彼女の言葉に唇をかんだ同業者を見て、きっぱりと言う。
「大丈夫、おかしな小細工はいらないって。私にも本職としてのプライドがあるからね。それよりも最後のトリック、あんたの目が頼りなんだからさ」




