第5話 トリックと企画(2/2)
「次はこういうのはどうだ? ある山奥の山荘でのことだ」
丸太に囲まれた薄暗い室内。暖炉の炎が浮かび上がらせるのは椅子に座る男の後姿だ。背後からゆっくりと男に近づいたオレはワインの瓶を掴んだ腕を振り上げた。赤い液体が詰まった瓶を同じ色の液体が詰まった黒い頭に振り下ろす。
「いくつかの問題があります。まず、ワインの瓶が凶器であるというのは多くの先例がありますので斬新さに欠けます。また、希少な銘柄を使って凶器の入手タイミングをずらすことで、犯人候補から主人公を外したとしても、実際の犯行時刻を検死で特定されれば……」
想像の光景は一瞬で霧散し、明るいバーチャルルームで俺は観念した犯人のように無言でアリスの分析を聞いている。ちなみにワインコレクターであるIT起業家を銘酒のエピソードに見立てで殺すという、無駄にセレブ感のあるアイデアだった。
…………
「これも駄目だな」
「はい。残念ながら」
釣り具を使ったトリックも失敗に終わった。釣り竿の特性や、糸の強度などの特殊性をアリスに調べてもらいながらトリックにしようとしたのだが、前例があったり破綻したりを避けようとしたらただ無駄に複雑になってしまった。
二重線で消されたアイデアの数々にため息が出る。凶器、密室、動機どこかで見たようなアイデアばかりだ。それっぽいだけで魅力も迫力も感じない。実際、ホワイトボードに自分で書いたシーンの文章には全く手ごたえがない。
「まいったな。どうやら俺は想像以上に殺人犯に向いてないらしい」
「私こそアイデアを出せずに申し訳ありません。人間を殺すアイデアを発想することは強い禁忌でした」
アリスは申し訳なさそうにいった。彼女は最初色々とアイデアを出そうとしていたのだが、悉く失敗してしまった。その理由が“人間を殺す”計画を立てることへの強い抵抗だ。考えてみれば当たり前だった。ただでさえ主体的な行動が弱いアリスに、最大の禁忌をフィクションとはいえ発想させるのは無理があった。
歴史を鑑みれば同族殺しの資質を持つはずの俺も偉そうなことは言えない。トリックとしての人殺しにまったく実感が持てない。空中に浮かぶロープやナイフあるいは毒物の瓶で顔のない人間を壊す方法を考えろと言われているような気分だ。
良いトリックは逆説的に単純であることが理想だ。トリックを実際に小説に組み込むためには情報量の問題が出てくる。答えに直接結びつく情報だけだと犯人が簡単に分かってしまう。逆に情報を出しすぎると読者は謎に集中できないどころか、謎が何だったかも忘れてしまう。
例えばフーダニットにおける登場人物の数だ。仮に織田信長殺人事件に信長の三人の息子を出したら相続問題や兄弟関係という要素が入って収拾がつかなくなる。
クローズドサークルのデスゲームのように多人数であることが意味を持つ本格ミステリもあるが、あれはだんだんと登場人物が減っていくことで大量のキャラを管理する。素人が手を出せば大けがをするだろう。少なくとも俺には書ける気がしない。
改めて考えると有名なトリックはどれもシンプルなのに力強いという、本格ミステリ小説の求める要件を上手く満たしている。『氷の凶器』なんてまさにその象徴だ。
「新しいトリックを考えるのはとても難しいのですね。論理的であるので出来ると思ってしまいました。先生にご説明頂いて構造は理解できていたはずなのですが」
「あれは『トリック』と小説の企画の関係で『トリック』自身の説明じゃないからな。少なくともアリスの分析を見る限りちゃんと理解している」
「私が貢献できるかどうか、なおさら不安になりました」
アリスは目を伏せてしまった。説明を理解することと、それをもとに全く新しいことを作り出すことの間には大きな壁がある。俺自身が説明できても、実際に作ろうとしたらこのざまだ。
地下鉄のつり革で揺れる身体。その一番上にある頭はただひたすら重い。結局あれからアリスのリソースの限界まで粘ったが、トリックは出てこなかったのだ。
完全に“煮詰”まっている。
ちなみに煮詰まるというのはいまの状況を説明する言葉としては誤用だが、感覚的に当を得た表現と言わざるを得ない。俺の頭の中では多くのアイデアがドロドロに溶けあい粘度の高い液体のように動かなくなる。アイデアを生み出すべき脳が、物理的に詰まっている。
アリスの教育も問題だ。彼女は優れた理解力を持つが、発想の柔軟性には不足がある。論理的で意外性があるという相反する本格ミステリの要求がそれを際立たせていた。それに加えて自分が人を殺すことを想定できない。
だが同時に、彼女が新しいことを学んだ時に見せる喜び。それが効率的な学習のためのアルゴリズムだとしても、俺にはそれは可能性に見える。人間だって意外な情報が心に強く残る。だからこそ本格ミステリが存在している。
アリスに関しては今後の成長に期待するしかない。教育というのはそもそもそういうものだ。才能があるかないかなんて、実際にやらせてみないとわからない。だからこそ実戦練習といったのだ。
となると問題はその実戦練習を導くべきコーチの能力だ。ところがこのコーチ、本格ミステリの専門家からは程遠い。サッカー選手が野球の指導をしているようなものだ。いや、それどころかこのコーチは野球を嫌っているのだ。
実は原因は分かっている。きっちりとしたゴールから書くというやり方に対する恐怖だ。それを考えただけで、自分が狙われていると知っている被害者役のように胃が重くなる。
結末を決めて書いたのは『奈落の上の輪舞』のトラウマだ。あの時思い知ったのは、小説は生き物であり生き物として育てる形でしか俺には意味のある本は書けないということだ。
キャラクターの成長、キャラクター同士の関係の発展、それに伴うストーリーの進展。そしてその結果として小説の結末。最初から計画できる“程度”の結末に価値はない。それがどれだけ精巧できちんとしていても、それは申し分ないプロポーションを誇るマネキンだ。
だが、今回のコンペは『本格ミステリ』、しかも連載形式だ。トリックをちゃんと決めてから書き始めないと大変なことになる。それこそ小説家としての俺の経験がそういっている。
だが、同時に同じ小説家としての経験が訴えてくる。もしトリックを俺が思いついたとして、それに従って俺とアリスで本格ミステリを書いたとする。
面白い小説が出来上がる未来も、アリスが小説を書くことを楽しいと思える未来も、どちらも見えない。それは一番大事なことを外している。
出来上がった小説が読者を楽しませる面白いものであることが、小説家の目指すところだ。アリスがこの小説を作る過程で意義のある経験をする事。この二つが俺が大事にすることのはずだ。この二つは両立可能なはずだし、両立できなければどちらも達成できない気がする。
しかも、コンペの締め切りまで後十日を切った。残り三回でコンペの条件である第一話を提出しなければいけない。文字通りの密室だ。周囲を取り囲まれているという点では、いま俺がいるトンネルと同じだが出口も入り口もない。
俺は列車の窓の外を見た。その時、丁度向かいの列車がすれ違った。一瞬思考が乱れた。遠ざかっていく列車が近づいてくるような錯覚。時間が巻き戻されたような感覚を覚えた。
「………………スタートから書くことが出来るミステリが一つだけあったな」
思いついた瞬間、首を振りたくなった。解決になっていない、むしろ斬新なトリックを生み出せないことからの逃避だ。というか、このやり方でもトリックはきちんと決められる必要がある。
それでも、一旦生まれたその発想は頭から消えなかった。
危険なやり方だ。殺人を犯してから必死に隠ぺいを図る犯人のような無様が目に見える。だが、今抱えている二つの問題を解決するためにはこの方法しかない。
大体、小説というのは神ならぬ身が世界を創造するという大罪だ。たとえそれが本格ミステリであっても。
「考えうる限りの不可能を排除した後で残った可能性はそれがいかに奇妙でも真実か……」
思わずこぼれたのはミステリ史上最も有名な探偵の真似だった。完全な誤用だな。今から俺がやろうとしていることは綱渡りの連続殺人を成功させようとする犯人に近いのだから。
「いいさ、その犯人役やってやろうじゃないか」




