第3話 本格ミステリ
二日後、バーチャルルームの空中には、前回鳴滝に見せられた映像が流れていた。映っているのはちょうどVIA側の二人が並んで自己紹介をしているところだった。
「不思議な名前ですね」
「んっ? ああ宮本……胡狼と読むのか。ペンネーム、いやこういう場合はニックネームというのかな。ネット文化って感じだな」
「ジャッカルは〇〇原産のイヌ科の動物ですね。この方の自己認識がどうなっているのか不思議に思いました」
「ああ、なるほど? ちなみにアリスは猫と犬どっち派だ?」
てっきりもうAIの方に興味を示すかと思っていたアリスに虚を突かれた俺は、何の気なしに聞いた。
「その質問が人間から発せられた場合、可能な限り回答を避けるようにしています」
「賢明かもな」
そういう言えば、焼き鳥屋の大将も客が政治やスポーツの話を始めたら警戒すると言っていた。
「すいません冗談です。私はイヌの方が好ましく感じます。ちなみにですが先日お会いした早瀬さんはネコがすきそうですね」
「そうだな、猫を飼ってるらしいぞ。お品書きで出てきた「宮ちゃん」のモデルだったかな」
「…………ちなみに先生はどちらが好きですか?」
「その質問が生徒から発せられた場合は可能な限り回答を避けるようにしている」
アリスに合わせたつもりだったが、彼女はどこか不満そうに俺を見た。正直どちらも好きでも嫌いでもないんだが。東京で犬とか猫を飼おうと思ったらいくら費用が掛かるか。それこそ咲季くらい稼いでないと無理だろう。
「そうだ、咲季と言えば対談企画をやったんじゃないのか。あれはどうなったんだ?」
「…………九重さんの判断で没になりました。私が上手くできなかったのが原因です」
アリスの瞳が輝きを落としたのを見て、俺は咲季が原因に違いないと推理した。俺との時みたいに感性のまま喋ったら、真面目なアリスが対応するのは難しいだろう。プロモーションのために猫を被るって質でもないし。
「本題にもどろう。アリスはこのコンペについてどう思う?」
「私には選択の余地はありません。先生の授業が予定より多く組み込まれたことは喜ばしいと思っています」
「いや、コンペに負けるとその授業自体が無くなりかねないんだが」
不戦敗でも授業が無くなるので選択の余地がないのは確かだ。だが、アリスが楽観的なのを不思議に思った俺はいった。
「この方は本当に脅威と言えるだけの能力を有しているのでしょうか」
アリスは動画に目を向けた。シークバーが胡狼のインタビュー部分に一瞬で移動した。胡狼は「動画で培った技術や知識があれば、本格ミステリ小説は書ける」と自信満々に言っている。若いだけあって怖いもの知らずらしい。俺には決して口にできない台詞だ。
本格ミステリマニアに聞かれたら殺人事件の一つも起こりかねないからな。
「技術と知識では小説を書けないのですから、この方には小説は書けないはずです」
アリスは俺を見て真顔で言い切った。ほんの少し前に、自分の能力と情報をもってすれば小説を書けると言っていた若い娘さんがいたような気がする。彼女が成長したことは喜ばしい。
だが、教師としては不都合な例外があることを教えなければならない。
「ああ、もし技術と知識だけで書ける小説があるとしたら『本格ミステリ』だ。このジャンルはな、小説というよりも一種のパズルの側面を持つんだ」
「パズルですか? あの、これは小説の話のはずでは?」
アリスは明らかに困惑した。無理もない、小説家の目から見ても、いや小説家の目で見ればこそ本格ミステリというのは本当に特殊なのだ。
ミステリ要素自体は小説にはありふれている。例えば『債券崩壊』にもミステリ要素はある。帳簿上の金の流れを追うのは証拠の調査だし、ファンドの同僚や出資先の関係者の話を聞くのは事情聴取だ。現実を浮き彫りにするために謎を使う。だから社会派ミステリと呼ばれる。
だが、債券崩壊のミステリがテーマやコンセプトを表現するための“手段”であるのに対して、“本格”ミステリはその謎と答え自体が目的になる。
本格ミステリは決してミステリの一分野ではない。本格ミステリという一つの分野なのだ。
「小説でもあり、文章で作られたパズルでもある。そしてパズルであることを成り立たせるために、本来小説が大事にしているリアリティー、情景描写に代表される人間の心を無視することすらやる」
「それは本当に小説なのですか?」
「そうだな、まずはそこから説明しないとだめだった。アリス、ちょっとした準備を頼む」
本格ミステリは本当に恐ろしい、その話をしているだけなのに助手に推理の披露の準備を頼む探偵のような口調になってしまった。
数分後、俺とアリスは洋館風の建物の中にいた。床は大理石のタイルで、壁には時代がかったランプが並ぶ円形のホールだ。周囲を見渡すと十二個のドアが均等に配置されている。これが小説なら俺はまず生きてこの建物を出られない。文字通り人を殺すためだけに立てられた建物の姿だ。
もちろん実際はバーチャルルームの表示にすぎない。アリスに頼んで、ある本格ミステリを題材にした映画の光景を映してもらっている。
「本格ミステリにとって一番重要な条件は『フェア』であるということだ」
「フェアというのは、公正であるということでしょうか?」
状況説明を終えたらとっとと退場する第一被害者のように口火を切った。頷いたのは、少なくとも最終盤まで生き残るに十分すぎる美貌と属性を持つ若い女性だ。
ちなみに俺は作家になるまではミステリで犯人を当てたことがない。普通に小説として読むので、そもそも犯人を当てようと考えない。解決編で作中の刑事と一緒に探偵の解説に驚いている口だった。
「その公正だ。本格ミステリの『フェア』とは小説の最初に提示された謎が、小説の文中に提示されているヒントにより、最後に論理的に解決されるということになる。本格ミステリの中心はテーマではなく、謎とその答えなんだ」
「論理的なのですね。パズルというのはそういう意味なのでしょうか」
「そうだな。それを象徴するのが本格ミステリを分類するための言葉だ。今言った謎の種類により本格ミステリはいくつかに分類できる。英語の疑問符からフーダニット、ハウダニット、ホワイダニットという」
「英語の疑問符由来……。Who、How、Whyでしょうか?」
「正解だ。フーダニットは “Who done it?” つまり、誰が殺ったかという意味になる」
物騒な言葉をあえて使う。本格ミステリの定義は『フェア』なので、提示された謎が論理的に解けるのなら別に殺人事件でなくてもいい。実際、日常の謎というジャンルもある。だが、専門家ではない俺の知識では単純化しないと説明できない。
というか、こんな思わせぶりでひねくれた専門用語が当たり前に存在している時点で素人お断りであることは明白なんだよな。
「フーダニット《Who?》は、誰が殺したのかが謎の“中心”になる。被害者がどう殺されたのかはわかっているが、複数の犯人候補の中の誰が被害者を殺したのかはわからない。そういう謎が最初に提示され、作中のヒントを頼りに誰が殺したのかを推理していく。現実の刑事事件に一番近いかもしれないな」
「次の、ハウダニット《How?》はこの関係が逆になる。どうやって殺したかという手段が謎の中心になる。誰が殺したかじゃなくて、どういう手段で殺したかが問題ということだ。密室殺人なんかがこれだ」
「最後のホワイダニット《Why?》はちょっと毛色が違う。これは犯人がなぜ殺したのかが謎の中心になる。分かりやすく言えば動機だ。目に見えない人間の心に迫るという意味では一番小説らしいかな」
俺は本格ミステリの愛好家以外は誰も必要としなさそうな説明を終えた。真面目な顔で聞いていたアリスは、素直に頷いた。
「本格ミステリというのは本当に謎が中心になり、その謎の形式も様々なのですね。だからこそフェアであることが重要な定義になるのですね。極めて明確です。むしろ普通の小説よりもわかりやすいです」
「そこが曲者だ。まずこの三つは複雑に絡み合うのが普通だろ。誰が、どうやって、なぜ殺したのかは密接に関係する。本格ミステリ内の事件も、この全てが関わったりする。なのにどうしてこんな分類がまかり通るかといえば、それはそうでもしないと整理できないくらいややこしいからだ。例えば……」
俺はホワイトボードに文章を書く。
“
アリスは血だまりの上に倒れている女を見つけた。女の側には血の付いた包丁を持った男が立っていた。
“
「さて女を殺した犯人は誰だ?」
「包丁を持った男です」
「本格ミステリの愛好者ならこの男をまず犯人の候補から外す」
「…………状況が想定できないのですが」
「よく文章を読むんだ。女は血だまりの上に倒れている。血を流しているなんてどこにも書いていない。多分この女は別の方法で殺された後でここに運ばれた。男はすぐ近くにあった包丁を思わず拾ったとかだな」
「そのようにする必然性が全く想定できません」
「読者を騙す……ミスリードするためだ。さっき説明したフーダニット、ハウダニット、ホワイダニットを言い換えれば。意外な犯人、意外な手段、意外な動機になる」
本格ミステリの愛好者ならこの男を真っ先に候補から外し、だからこそ作家はこの絶対犯人に見えて、どう考えても犯人じゃない男をどうやって犯人にするかを考えたりする。
「本格ミステリはその歴史の中でどんどん複雑化していった。最初は単純に犯人を当てるフーダニットだったのが、とにかく奇抜であり得ないトリックを作り出すハウダニットになって、それが行き過ぎて人の心の謎というある意味どうとでも出来るものになるホワイダニット、という感じだ」
俺は探偵よろしく両手を広げて舞台を示した。
「結果、行きつく先がこれなんだ。こんな建物あるわけないだろ。おおよそ現実離れしている」
円形の建物に十二個のドアが時計の文字のように配置される。出入り口もない。しかも、この建物は絶海の孤島にあって、極めてタイミングよく嵐によって孤立する必要まであるだろう。本格ミステリはその多くが現代を舞台にして、論理性を重んじるが、それゆえに意外性に走った結果人の心とリアリティーを失う。
前者は普通の小説において一番大事とされる。また、小説ではリアルではなくリアリティーが重要だと言われるが、本格ミステリが切り捨てたのはこのリアリティーの方だ。
「パズルという意味がわかった気がします。小説とは何かが分からなくなりそうですが」
「ああ、本格ミステリ作家は専門職なんだ。そして俺は本格ミステリ作家じゃない」
内科医にメスを渡して手術室に放り込んだら患者は極めて高い確率で死ぬ。これはミステリでもなんでもない。そして、本格ミステリが手術だとしたら普通の小説家はよく言って内科医だ。つまり、今俺がやったことは内科医が訳知り顔で手術のことを講義したわけだ。信用できない語り手とはまさにこのことか。
「本格ミステリ小説の特殊性は理解しました。ですが説明を聞くとなおさらこの方には書けないように思えます。先生の方が優れているはずです」
呆れたように泳いでいたアリスの視線が、迷宮の壁に残っていたディスプレイで止まった。創作ならデスゲームの黒幕が現れそうなその画面には、怪盗よろしく顔を仮面で隠した男が映っている。




