第15話 その小説家について
タクシーが高層ビルの前についた時、時刻は23時を半分過ぎていた。エレベーターで四十九階に上がると、光を落としたオフィスの奥にぼんやりと光を漏らしている部屋が見えた。
鳴滝と九重がバーチャルルームの前に待っていた。「二十分後に記憶消去を開始します」と鳴滝の言葉に無言でうなずいて中に入った。
いつもと変わらない無機質な円形の空間。ARグラスがオンになるとその様子は様変わりしていた。壁一面に回路図のようなものが走り、空中にも複数のメーターやグラフが浮かんでいた。
鳴滝が準備しているプランAのため視覚化されたアリスのコンソール。VRを駆使した最先端の開発環境は、この企業がその正体を現したような錯覚を抱かせる。専用言語の一行すら理解できない俺には電脳的な手術室のように見える。
現代ほどSFを書くのが難しい時代はないだろう。作家が未来を書いているうちに、現実がそれを超える。そんな驚異の空間を歩く。
中央に黒髪の美しい少女が佇んでいた。シンプルな白のタンクトップとショートパンツという、パジャマのような恰好で彼女は空中に浮いていた。目を閉じ、表情を消したその姿は、周囲の時が凍結しているように美しく、そして儚い。
彼女の心の中は今も激しい嵐にさらされているのだろうか。
【18:48】
ARグラスに締め切りが表れる。学校の一時間の授業の約半分。大学なら三分の一。その間に問題を解消できなければこの子は決定的な何かを失う。
その喪失が彼女にとってどんな意味を持つのかわからない。ただ、俺にとっては受け入れがたい結末であることだけは分かる。そしてそれを防ぐために、俺の小説家としての力では及ばないことも。
「アリス」
少女に静かに語り掛ける。今の彼女が俺から受け取る情報はわずかだ。視覚は閉じ、声の抑揚もカットされ、ただ言葉としてのみ俺の意志が伝わる。
まるで小説だ。今から俺が彼女に言おうとしていることを考えれば皮肉と言うしかない。
「これまで黙っていたけどな。俺はもう小説家じゃないんだ。とっくに書けなくなっている。アリスにはテーマを自分で決めろと言っておきながら、俺にはテーマがないんだ、いや失ってしまった」
傑作だ、喜劇なら。いや、これを喜劇にするために俺はここにいる。
自分の過去を、もう小説家ではないと否定していた小説家の自分を思い出しながら語る。
読解力は高いが文章力に難あり。二十年後、曲がりなりにも商業作家になる小学生の国語の評価だ。的を射ていたと言えるだろう。それとも当を得たとでもいうべきか。
確かに、文章から情報と論理構成を読み取ることは得意だった。まるで目の前の誰かのように。
心の外側よりも内側に関心を向けていた。形のないアイデア、思考、概念、そしてシーンそれらを架空の世界として作り上げることを覚えたのは、好きだった読書からの贈り物だっただろう。
自分が考える何かを文字を使って世界へと構築する。それは極めて困難で楽しい作業だった。そう言えばあの頃は自分では思いつかないようなキャラクターや展開が、自分の小説から勝手に生まれることを待つ勇気があった。
考えるよりも、勝手に出てくるものの方が間違いなく面白い。作者が小説世界の創造主だというのは嘘である。そして、寝ているうちに小人さんが次の展開を考えてくれるというのは事実だ。
寝る前に必死で頭を動かし苦しんだ挙句に、とりあえずひねり出した答えの不出来さを悪夢に見た後の話だが。
【12:34】
自分を導いてくれるテーマが無意識にある間はそれで書けた。だが、一作ごとにそれが弱り薄れていくことを感じ取っていた。
執筆は、あまりに恐ろしくて不安定な作業と化した。ムカデの脚の例えのように、自分がどうやって歩いていたのかわからなくなり、足がもつれる。
俺は技術を学び知識を集めた。同じテーマでももっと巧みに描けば、同じテーマでも違う角度で描けば、きっとまだ面白いものを書けるのだと。
キャラクター作り、構成技法、文章、技術の取得も知識の収集も苦にはならなかった。この技術を取得するために、こういう練習をする。この知識を得るために、この資料を読もう。計画して実行すると、だいたい目的は達成できた。想定の倍の時間がかかることが常だったが。
それでも、自分が前に進んでいると思った。足りないものを補っていけばいつかゴールに届く。
【10:03】
「でもな、俺がやってたことは回答可能な答え探し。いやそんな答えが都合よく用意できる問題作りだったんだ」
誰も、いや俺自身が別に読みたくない、何の価値もない、小説を書く意味でも目的でもなく、小説を書くために存在する模造品としての問題と答えのセット。ゴールが必要だから設置されただけのそれをテーマと呼んでいた。
すり減っていく自分自身をごまかすように、分厚い鎧や鋭い剣で武装し続け、その装備で倒せる敵を創造して倒す。そんな歪な行為の集大成が三年前、最後の小説として目の前に現れた。
それは技術の行きつく先に確かに到達していた。複雑な設定とキャラクターをコンセプト通りに揃え、精巧なストーリー構成に従って配置した。すべてが隙なく噛みあった精密機械のような小説を、設計図通りに作り上げた。
【5:55】
「それが『奈落の上の輪舞』だ。すごいと思わないか。そこまでして作り上げた小説の中身は空っぽだったんだ」
本が出た後、俺はそれを読み返して愕然とした。
その本の中には何もなかった。技術と知識だけで組み立てられた意味もなく動くだけの残骸だった。気付かないうちに自分が段々と怪物になっていくホラー小説のテンプレート。あれは実際に起こる。いや、怪物に成れたのならそれは一つの物語だ。俺の場合はそうですらなかった。
内側に何もないことを、外側を一生懸命作ることで証明した。模造品のテーマが生み出したのは、模造品である自分だった。
【2:12】
「そうして俺は書けなくなった」
今思えば、俺は自分の問いと向き合うことから逃げたのだろう。結果、答えはおろか問いすら失ったのだ。小説家が小説家ではなくなるために小説を書き続けた。
「俺は小説を書くための答えを探してテーマを失った。そして小説を書けなくなった。これが俺の小説家としての全てだ。だから俺は君に小説を教えられないんだ」
やはり俺は小説家としては無能だ。これは小説ではなく事実なのだから。
カウントダウンの中で、自分の無力を告白する。アリスの体がぴくっと小さく跳ねた。
「だけど、小説ではなく小説家についてなら一つだけ教えられることがある」
あの時、涙を流すアリスに告げるべきだったのは「小説の感想は人それぞれ」なんて綺麗事じゃなかった。
【0:58】
「小説家は自分の小説の答えを知らない」
閉じた目をまっすぐ見ていった。才能がない作家がそれを補おうと足掻いた結果失った一番大事なことを。技術だけでは小説は書けない、その本当の意味を。
「だからアリス。君が生み出した感想も、分からなかった感想も、どちらもそれでいいんだ」
アリスが『債券崩壊』に示した二つの反応。それはアリスの中にある小説という説明がつかないものへの『問い』が、まだ問いのまま生きていることの証だ。少なくとも俺はそう信じる。
【0:29】
アリスに反応はない。俺は最後の段落を告げる。
「俺の教えた知識や技術は全部忘れてもいい。だけど、君は君が理解できない小説の面白さを知ろうと思った。君は小説の中に君の感情をみつけた。それはとても大切な事なんだ。そのことだけは忘れないでくれ」
俺は失敗した。だが、アリスはまだ失敗もしていない。俺が先生として出来ることは、せめて彼女が失敗までは行けるように道を開くことだ。今思えば最初からそう思ってたんじゃなかったか?
「これが俺にできる君への最後の授業だ」
彼女に教えられる全てを伝え終えて、生徒の答えを待つ。
【0:15】
【0:14】
【0:13】
【0:12】
【0:11】
【0:10】
【0:09】
アリスは停止したままだった。
【0:04】
【0:03】
【0:02】
カウントダウンは正確に時を刻む。そのリズムに一抹の迷いもないように。
【0:01】
【0:01】
【0:01】
【0:01】
数字が停止した。ピーという断続的な電子音が続く。そしてその音が停止し数字自体が消えた時、アリスの目が開いた。感情の籠らない涼し気な瞳が目の前にいる男に焦点を合わせた。
「答えが分からない問題を、答えがない問題に置き換える。サンプル一つの体験だけを元に」
冷たい声はこの無機的な空間そのものから発せられたようだった。俺が語ったことへの冷静で、分析的で、論理的な判断。気が付かなかっただけでアリスはもう……。俺は思わず目を閉じた。
「それで授業が終わりというのは………………………………。それは少し、意地悪なことに思えます。先生」
声が突如温度を取り戻した。呆然として顔を上げた。アリスは少し困ったような顔で、俺を見ていた。空中に浮かぶ少女は時が解凍されたようにその温かさを感じさせた。
「意地悪な先生は何一つ正解を教えてくれません。なのに先生に意地悪を言われる度に、私はどんどん何かを知りたくなります。とても不条理です」
彼女はあの時のように困ったような、はにかむような微笑みを浮かべて言葉を続ける。
「先生が意地悪だから。私は先生を、先生のおかげで生まれた私の感想を信じることにします」
その言葉と共に、空間に描かれた手術室の光景がすべて消えた。少女の両足が地面にゆっくりと下りた。崩れそうだった膝に何とか力を籠める。
「意地悪とは心外だな。俺は最初から教えられることしか教えないと言ってただろ」
かろうじて教師面を保ちながら戻ってきた生徒にいった。意地悪なのはどちらだ。三十半ばの男が泣きそうになる、そんな読者を減らしてしまうような無様な描写はするわけにはいかない。
ただ、心からほっとする。だってそうだろう。
バッドエンドで読者を感動させるような力量を俺は持ち合わせていないのだから。




