第14話 存在しない男(2/2)
ボールペンの転がる音が響く深夜の仕事場で、俺は呆然と呟いた。
「俺はなんでこいつが主人公を嘲笑していると思った?」
犀木について書かれた文章はすべてごく普通の、どこにでもいる男のものだ。この男の情報は少ないのでなく本当に何もない。犀木が主人公をどう思っているか、そんなことを判断出来るような情報は何もない。
こいつは主人公がストーリー上で重大な気づきや行動をする前後に、同じ部屋でそれを見ているだけ。
そして最後だけ数行に渡る情景描写。アリスはそれを読み取れずに、そして俺はなぜか読み取ってしまった。
このリアリティーのある、だが中立の文章に、俺はなぜあの感情を見た?
情景描写はそれ自体は光景にしか見えなくても、その前後あるいはキャラクターの行動や心理の流れを追うことで、どう感じればいいか作者からの意図を受け取るものだ。
織田信長と足利義昭の長い因縁の関係があってこそ、戦場に沈む夕日が信長の哀愁を表すことがわかるように。描かれていなくても、夕日の色が赤ではなく橙だとわかるように。
なのに犀木にはそれが全くない……。
だとしたら、俺がそう思った理由は一つだけ。犀木などというキャラクターはこの小説の中には存在せず、存在しているのは、いや招き入れられたのは……。
「馬鹿な、いくら何でもそんなことできるわけがない」
俺は仕事部屋の収納を開いた。
壊れたメカニカルキーボードと校正用のブックスタンドが重なった奥から、段ボール箱を引き出した。ガムテープをはがして箱を開くとハードカバーの小説が五冊入っている。三年前、大量に本を処分した時に捨てたくても捨てられなかった本だ。
その中から沖岳幸基の作品を取り出した。三冊もあることに今更ながら呆れる。
過去の重荷を机の上に積み重ねる。一冊目を手に取る。記憶を頼りにページをめくる。二冊目、三冊目と同じことを繰り返す。
監獄のような小さな窓から朝日が差し込み、それが中天に上るまで俺は読書を続けた。
『極東の窯』:萩焼の工房を世界的ブランドに飛躍させる、陶工と銀行マンのコンビ。
『苦吟』:一世を風靡したシンガーソングライターと音楽会社の担当者の協力と対立。
『阿佐ヶ谷 7―11』:平凡なサラリーマンの出社と帰宅だけを描く。
社会派ミステリの巨匠、沖岳の小説のテーマは組織と個人の関係を中心に据えている。ただその内容は多彩だ。舞台は現代が多いが扱う分野は多岐にわたる。ある主人公は組織に反し、ある主人公は殉ずる。
すべてが新鮮なのに、全てが沖岳幸基、それが彼の小説だ。多くのファンを引き付け続けるその力量は技術だけとっても練達と言える。
だからこそ、あり得ないのだ。
これだけの小説を書ける人間が無味乾燥な、居なくてもいいキャラクターを出すはずがない。なのに、どの作品にも犀木のような傍観者がいた。
沖岳の小説はすべて主人公視点の三人称だ。小説としては最もオーソドックスな形式。読者は基本主人公の肩越しに小説の世界を見る。その主人公の近くに何の特徴もない男が一人いる。文字通り一般人代表だ。普通に仕事をして食事をして。小説のストーリーに何の影響も与えず、主人公とも絡まない。台詞の一つもしゃべらない。
ただ、主人公がクライマックスに向かう前に、ほんの一瞬だけ視点がこのエキストラに移る。『債券崩壊』ならファンドから飛び出る主人公を窓から見下ろす犀木の描写だ。
ただ犀木の目に映った光景だけが描かれる。俺は犀木が引き立て役として主人公を嘲笑していると思った。
だが、ガラスに映った犀木の笑みは嘲笑だったかもしれないが、自嘲だったかもしれない。あるいはそのどちらでもなかったかもしれない。改めて読めばどんな可能性もありえた。
なのになぜか嘲笑と思った。その心情があまりに自然に俺の心に浮かんだ。犀木の肩越しに犀木の光景を見ているつもりで、あの瞬間だけ完全に重なっていた。いや、重なる先に実体がないのだから重なるも何もない。
つまり、主人公を嘲笑していたのは俺だ。自分には決してできないことをしてのける、自分よりもはるかに才能を持つ人間が、調子に乗って失敗したのだと、そう思い込もうとするそんな醜悪な人間。
例えば、憧れていた作家の本を捨てることも出来ずに、物置の奥にしまい込んだようなみじめな男なら……。
それは小説の中に設けられた一瞬の空白。我に返るというのは違う。むしろ自分自身が作中に吸い込まれた。それも、自覚なしに。情景描写に隠した罠、無意識にはまり、はまったことにすら気が付かない。
こんなのアリスに答えられるわけがない、この小説の中には答えの欠片もないのだから。
悪辣、辛辣、傲慢、尊大。
感嘆、驚愕、超越、圧倒。
いくつもの単語が頭の奥から飛び出してくる。そんな感情の中で最後に残ったのは希望、ではなく疑問だった。
なるほど、ひどいトリックだ。
だが、この小説はアリスを引っかけるために書かれたのではない。A.I.に答えられない問題を作るために長編小説一冊を書く作家がいるわけがない。
読者自身を取り込むために犀木という空の入れ物を作った。それは確かに驚愕すべき“技術”かもしれない。だが、技術はどれだけ優れていても技術だ。テーマを描き出すための道具にすぎないはずだ。
小説において最も基本的な技術は情報をいかに絞るかだ。千文字の下書きに五十文字加えてよくなることはほぼない、五十文字削ればほぼ確実に良くなる。小説は文章だけで世界を描くのだ。逆説的に情報は厳選しなければならない。
天気が重要ではない場合、そのシーンには天気は存在しない。必要になったらそれまであったような顔をして詳細に描かれる。小説世界は何を書くかと共に何を書かないかで成立している。余計な情報がないからこそ、ただの記号が世界を作れるんだ。
名手の作品ほど無駄はない。テーマに、コンセプトに、ストーリーに貢献しないキャラクターなど無駄の最たるものだ。丁寧に取られた出汁に、完璧なバランスで加えられた具、そこに氷の粒を浮かべる料理人などいるはずがない。
「作品と読者の出会いは一期一会であるべきであり」
沖岳の声が勝手に脳内に再生された。読者自身を作品の中に招き入れる。その為にこんなことをやったのか? 筋は通る。無駄ではなくなる。
だが、それ以上に深刻な問題が発生する。
敢て独立したパラグラフを設け、主人公を別始点から見せることで、主人公というキャラを深堀する。これ自体は有効な技術だ。
だが、なぜそのキャラクターが読者自身でなければいけない? せっかく感情移入した主人公からの離脱の危険だ。もはや暴挙に近い。主人公がどう見えるか作者には全く予想が出来なくなるんだぞ。
主人公の勇敢さに心打たれて応援するかもしれない、俺のように妬み嘲笑するかもしれない。なんでそんな不確定要素をテーマやコンセプトを崩壊させるかもしれない危険を冒せる。
主人公に感情移入させて主人公の視線で物語を描く。自分の作った世界に読者を取り込む、それだけでプロの領域だ。
なのになぜ一番大事なところで読者自身という異物を自分の世界に入れる? 否定しながら必死で考える。合計四冊の沖岳幸基から、何かこれまで見えなかったもの、いや見たくなかったものが…………。
…………『問い』だからか?
気が付きたくない、気が付くなよ。見たくないんだ。それを認めてしまえば……。自我を突き破って浮かび上がってきた一つの答えをだが、拒否できない。
沖岳幸基の『テーマ』は作品を成立させるための構造的な柱でもなく、沖岳の伝えたい主張でもなく、問題への答えでもない。それは問いなのだとしたら。それで彼が肯定されてしまう。
おそらく俺は無意識に気が付いてはいた。沖岳の小説は社会対個人ではない。一人の人間の中にある社会の一員としての自分と個人としての自分の葛藤だ。だから沖岳作品の主人公はヒーローではないし、悪魔化された敵も出てこない。
主人公は最終的に組織や社会の問題を解決するために決断し、行動する。ある主人公は組織のために殉じ、ある主人公は組織を裏切り、ある主人公は組織を内部から変革する。だが、彼らの中にあるこの問いは決して解決しない。
集団の一員としての自分自身と、自分自身としての自分。
答えの出ないとわかっている問い。おそらく人類がサルの群れであった時から存在し、そして現在まで続く。その問いに、異なる立場や理念や状況により向かい合わされる主人公達が体現する問い。
沖岳本人も答えを持っていないのだ。答えを持っていないからこそ、他者を世界に招けるんだ。答えではなく、問いを共有するという形で。
閉じた本の中に、開かれた世界が見える。
多彩なテーマと多彩なコンセプト。重厚な舞台。地に足の着いた登場人物。だから飽きられない。そう思っていた。人間が社会的動物である限り、社会と個人の関係が読者を引き付けるのは当然だと思っていた。それを操る技量が巨匠と言われるゆえんだと。
彼は確固たる答えを持ち、高みから人界を見下ろす高峰なのだと。
だが、沖岳の小説にあるのは徹頭徹尾問いだ。物語世界の創造主と言った傲慢さは欠片もない。
答えられない問題への、問いを続ける行為。それは確かに非生産的な行為だ。科学ではなく、工学ではなく、哲学であるかもしれないが、それとも違う。それが文学。
答えられる問いならそれは科学や工学の範疇だ。小説における問いは、そもそも答えられない問題に対するものだ。答えられない問いが人生に存在するからこそ、小説が存在するのだ。
良いテーマとは良い問いである。それは陳腐にすら聞こえる、言い古された言葉。
だが、それは小説を“書くために”答えを作り出そうとしていた俺との違い。
それは、沖岳の小説が常に新しく常に違っていて、常に彼の作品であることの理由だ。
小説を書くための答えを探していた俺。
答えのない問いに挑むために小説を書いている沖岳。
技術ではなく、知識ではなく、才能ですらない。
「なるほど、勝てるわけがない」
改めて机に詰み上がったハードカバーを見た。それは確かに、最初読んだ時と同じく高い山だ。さっきまではその高い山は沖岳自身に見えた。だが、今の俺はそこに全く違う光景を見ている。
まるで、本を読みなおした時に同じ描写が全く違うものに見えたように。
何冊読んでも見えなかった小説の中の沖岳幸基が、やっと少しだけ見えた。
「まいったな、やっぱり俺のせいじゃないか」
アリスにこの問題は解けない。なぜなら彼女に小説を教えたのは俺だからだ。小説のテーマに問いではなく答えを求め、そしてその挙句に書けなくなった作家だからだ。
そんな俺が沖岳幸基の小説を教えられるわけがなかった。
だから俺は彼女に教えよう。自分の教えられるたった一つのことを。
俺という書けなくなった小説家のことを。




