第14話 存在しない男(1/2)
東京の外れに立つ古い2LDK、その小さな方のリビングが俺の仕事場だ。L字型のデスクとホワイトボードに囲まれてまるでネットカフェのブースのような空間。そこにドンという鈍い音が響いた。
手から離れた『債券崩壊』が机とぶつかった鈍くて重い音だ。
紙が重いことは誰もが知っている事実だが、作家ほどその重さにいろいろな意味を感じる人間はいないだろう。それは締め切りまでの重圧であったり、紙上に並ぶ文字に込められた時間と精神力だったり、将来得られる収入だったり。
人は所詮動物なのだ。狩りの肉や集めた果物を持ち運んでいた原始から、文字を発明し文明を築いた果てに電子データの現代になってさえ、両手に感じるその重さに価値を感じる。
ついさっきこの両手に乗っていた重さは、さしずめ沖岳幸基と自分の実力の差と言ったところか。俺が小説を書かない人間だったら感動の重みだっただろうから救われない話だ。
小説の横に置かれたコピー用紙を見る。債券崩壊の主人公の情景に対するアリスの感想だ。プリントアウトされた一枚の紙は隣の本に比べて吹けば飛ぶように軽い。
ふと思った。アリスはこの本の重量が約450グラムであることは理解するだろうが、そこにある価値の重さを感じ取ることはないのかもしれない。
首を振った。今必要なのはそれっぽい描写をこねくり回すことではない。目の前にある課題の解決だ。
読み直した『債券崩壊』の内容を反芻する。
『債券崩壊』の舞台は投資ファンドだ。新興国に持続可能な経済発展をもたらすという美しい理念を掲げ、日本の富裕層の資金を債券形式で運営する金融エリート集団。
もちろん、非の打ちどころのない立派な組織は社会派ミステリの舞台にならないので、ファンドの理念は侵食されている。投資家が、ファンドの運営者が、徐々にその行動理念を理想から利益へと変化させていく。主人公が直面するのは組織の経年劣化とでもいうべき問題だ。
組織対個人というのはどこにでもある対立関係だが、小説にするのは実は難しい。
人間の興味を引くのは人間であり、組織を敵とする場合でもその組織の問題を象徴する人物との対決が基本になる。いわゆるラスボス、織田信長なら足利義昭だ。これは『テーマ』と『コンセプト』にも関係する。
社会的問題、つまり経年劣化した室町幕府を象徴する足利義昭との対立という感じだ。良い悪役は読者の憎悪を一身に背負う、同時にそこに作者の愛を感じる。
だが、沖岳幸基の小説にその手の悪魔化された人間は登場しない。彼の小説は、世の中が複雑であるという、多くの人間が知っていても目を逸らすこと、を当たり前のように描き出す。
このリアリティーこそが社会派ミステリの巨匠と言われる要因だろう。
リアリティーのある重厚な小説、往々にして地味な小説の言い訳に使われる文句だが、沖岳作品はそのストーリー構成も人物の内面の造形も卓越している。
主人公の宮本はファンドの資金が理念とは逆の環境汚染を引き起こす資源開発に流用されていることに気が付いてしまう。主人公がファンドの理念が崩壊していった過程を探っていく前半は会計ミステリとでもいうべき展開だ。
元銀行員である沖岳の知識と経験が間違いなく活かされているのだろう。だが、舞台中にあまりに自然に練り込まれているため、全く嫌味がないのが嫌味だ。もちろん、小説を書く人間の視点としてはということになるが。
後半は明らかになったファンドの問題を解決しようとする主人公の葛藤だ。主人公を取り巻く人間がその裏の顔を見せていく展開は、劣化していく組織を赤裸々に描き出す。静かな展開なのに、サスペンスのような緊迫感がある。
そこがまた俺にとっては……。閑話休題の四文字すら惜しい状況を認識しろ。
アリスの感想を生み出した一つ目の描写、オフィスの窓から外のビルを見る主人公。自分の職場が動物園の高級な檻にすぎないと感じる情景は、告発を決意してファンドを後にする直前だ。
彼は自分の担当事業である持続的農業のための用水路が、鉱毒で汚染される未来を知りついに行動するしかなくなる。巨悪が存在しないのと同様、主人公はヒーローではない。自分の将来や地位を失うことに悩む。その葛藤の積み重ねが、クライマックスへの行動へ転じる瞬間だ。
間違いなく、この小説で一番大事な情景描写だ。
アリスはこれをしっかり選択して、主人公の板挟みの状況やそれに至る流れをちゃんと認識して、主人公の迷いを認識した。そしてそれに対して『贅沢な反発』という感想を生み出した。
それは彼女が初めて小説の中に見つけた自分の感情であり、俺だけでなく九重女史やCEOの鳴滝も認める進歩だ。アリスのこれは間違いなく彼女の感想だ。
一枚のコピー用紙にプリントできる数行の文章だが、アリスがこれを生み出すまでの課程を知る俺にとっては決して軽くはない。改めて読み直しても、沖岳が一体何が気に食わなかったのか、いまだに分からない。
考えてみれば、沖岳はこの感想の内容にはまったく言及していない。「AIは読者ではない」ということのみ。それは偏見にすら聞こえる言葉だ。あるいはA.I.に自分の小説について判定されることへの人間の拒否感。そう考える方がずっとわかりやすい。
アリスのことなど何もわかっていない老人の我儘。その結論は魅力的だ。
だが、彼はアリスが自分のために小説を読んでいないという点を突いた。人間のために小説を読まされているAI。それはこれまでのアリスに関して言えばある意味では鋭い指摘だ。
そして何よりもあの課題を出した。いや、出すことが出来た。
やはり問題の鍵は二つ目の情景になる。沖岳自らが指定した描写であり、アリスが読み取れなかった描写だ。奇しくも、というか絶対に計算してだが、主人公の情景と同様にビルの窓からの光景だ。
“
夕日を浴びる道路には多くの人間がうごめいていた。疲れた足で駅に向かうサラリーマン、スマホの画面を見つづける若者、コンビニの光の影でしばしの休みを取っている配達員。そんな人々の中に、ついさっきまで彼の同僚だった男の背中が消えていく。
ガラスに映った己が顔を透過して、犀木は消えていく背中を眺め続けた。彼が気が済むまで。
“
一つ目の描写の直後で、作中の時系列もほぼ同じ。ファンドを飛び出した主人公をビルの上から見下ろす犀木という男の視点だ。犀木は主人公の同僚で、主人公と同じく不正に気が付きながら何の行動も起こさないキャラクターだ。
ちなみに、犀木は不正にかかわっていない。もし関わっていたら重要なキャラクターだっただろう。だが、この男は傍観者にすぎない。実は小説を通じてセリフの一つすらない。主人公を嘲笑する最後の情景だけはしっかり描かれているが、所詮は主人公の葛藤、決断、行動を引き立てるだけにすぎない。
誰でも変わりが務まりそうなその他大勢だ。
アリスもそういう“情報”は読み取れている。そして、最後に主人公に対する彼の情景描写があることも理解している。彼女の分析能力は健在で、俺が教えたことも理解している。
だが、主人公を嘲笑する犀木の感情が読み取れない。これが不思議だ。犀木の情景は主人公よりも単純だ。自分には決してできない行動をするヒーローへの嘲笑。まるで俺が沖岳を見るような……。
時計を確認する。とっくに日を跨ぎ、短針は三時に迫っている。
俺に与えられた猶予は“今日”一杯。つまり後二十時間。アリスが、アリスのまま戻ってこれるかのタイムリミットでもある。
だが、改めて読み直しても解決策が見つからない。
やはり問題などないのではないか。沖岳のあれは芸術家気取りのクレーム。あるいは時代に取り残されそうな老人の繰り言。その考えが再び頭を持ち上げる。あれはただのクレームだ、相手にしなくていいとアリスを説得しようとする自分の姿が見えた。
首を大きく左右に振る。それで俺がアリスを説得できるイメージが浮かばない。なぜなら、俺自身がその結論に全く納得していないからだ。
結局、アリスが第二の情景に対して感想を生み出せない理由が分からない。沖岳がこの描写をピンポイントで指定できた理由が分からない。
沖岳が言っていたのはアリスが読者ではない、つまりA.I.と人間は違うということ。そしてもう一つ、自分の小説にはテーマも主人公もないということ。この二つがやはりポイントだ。あの時は感情が先に立っていたが、思い返しても沖岳がこだわっていたのはアリスの感想の中身というよりも、アリスが読者かどうかだった。
後者は本当に理解できない。読み直しても、債券崩壊には明確なテーマと主人公が存在している。これでも十冊近く小説を書いた。出版されないものも含めたらもっと。読解力ではなまじっかな人間には負けない。
文章に何が含まれているか、何をどう描くか、ストーリー上の意味は、そんなことばかりを考え続けるのが作家なのだ。その俺の技能から見てこの第二の描写は……。
時計の秒針の耳障りな音をこらえて、必死に考える。
「…………そもそも、この犀木というキャラクターは本当に必要か?」
あり得ない疑問が浮かんだ。
机の上に載った閉じた本を見る。赤と緑の付箋が飛び出している。赤は主人公、緑は犀木だ。主人公の付箋が重要なものだけでも二十を越えているのに対し、緑は最後を合わせても六しかない。
緑の付箋をチェックしていく。犀木について書かれた文章はとても短い。登場毎に一、二行程度。何をしているのかを書いているだけ。それも机で仕事をしていたり、食事をしていたりという日常的な行動だ。
仕事の内容すらろくに分からない、何を食べているのかも描かれない。組織の不正に気が付いた時すら、問題の帳簿を見ているから気が付いたのだろう程度。
このキャラクターはストーリー上何の意味もなく小説の中に存在している。なのに名前を付けて何度も出す。おまけに最後にその視点でしっかりとした情景描写を添えて?
六カ所の緑がすべて主人公の重要な行動に隣接していることに気が付いた。
馬鹿馬鹿しいと思いながら机からコピー用紙を一枚取り出し、ボールペンを手に持った。
小説の文章を手で書き写す、いわゆる写経だ。これは時代遅れでも精神論でもなんでもない。読むのはもちろんキーボードすら、文章に含まれる情報をすべて把握するには早すぎる。一文字一文字、自分の手で写し取ることで、文章に込められた膨大な意図が、頭の中で消化可能なのだ。
特に漢字は元が絵だけあって実際に指を動かして書くことで意味を感じることが多々ある。作者がどうしてその文章を書いたか、それを知るためにこれ以上に“効果的”で“効率的”な方法を俺は知らない。
…………。
書き写し終わった六つの文章を見る。読んだ時と同様、いやそれ以上に無味乾燥だった。それを確認した俺の手からペンがこぼれた。転がるボールペンが辿っていく、自分で書き写した文章を見て唖然とする。
「俺はなんでこいつが主人公を嘲笑していると思った?」
床に落ちたボールペンの乾いた音が深夜の仕事場に響いた。