第13話 エラー
くたびれたサラリーマン、ネット動画を食い入るように見る若者、椅子に背を預けていびきをかく赤ら顔の女性。終電間際の地下鉄の車内が視界の中に揺れていた。
「伏線もなしに深刻な設定をぶち込んでくるなよ」
つぶやきは、思った以上に大きかったらしい。隣にいたOL風の女性が眉をひそめた。
圧縮空気の音と共にドアが閉まった。
口をつぐんだ俺は、つい先ほどまでのバーチャルルームでの出来事を思い出す。
涙を流すアリスに驚いた俺が言葉を探している間に、アリスは表情を停止した。頬に涙の跡を残しながら閉じた瞳。彼女が以前に陥った一時的なショックのことを思い出し、少しだけ様子を見ようと考えた時だった、メタグラフの二人が足早に入ってきた。
表情を凍らせた九重を背後に従え、技術者の冷静さを保った鳴滝に聞かされた説明は次のようなものだった。
アリスに起こったのは二律背反エラー。相反する二つのアルゴリズムの衝突により処理できない情報ループが生じ、それがアリスの処理能力のみならず、内部記憶にも歪みをもたらす。
そのエラーから基幹システムを守るため、アリスは外界からの情報を遮断したということだった。
安全措置が働いたのかと、一瞬安心したのは俺の無知ゆえである。
昨今のコンピュータではほぼ無縁となったフリーズがViCという最新AIに起きる理由、それはアリスの内部記憶と自我が極めて繊細なバランスの上に成り立っているためだったのだ。つまり、彼女自身ともいえる自我ネットワークとそこに直接蓄えられている記憶が問題なのだ。
アリスの内部記憶は人間のように自我と結びついたネットワークであり、ある部分だけ消去したりは出来ない。彼女が以前言っていた、過去の読書記録を外部記憶から内部記憶に引き出すときに“再解釈”が必要だというのはそういうことなのだ。
それはまるで経験によって同じ本の読み方が変わっていくような、人間らしい素晴らしいものに聞こえる。実際、アリスの対人コミュニケーションや、学習能力の多様さを支えるシステムだ。
だがその代償に、極めて繊細なバランスの上に成立している脆いものでもある。つまり、一度深刻なエラーが発生したら、それを取り除くのが極めて困難なことを意味する。
それだけではない。アリスの自我は常に周囲の情報により現実とのつながりを保つ。つまり、外部情報から切り離されると遠からず自我を維持できなくなるのだ。
詳しい説明は全く理解できなかったが、浦島太郎が未来にもどったときに違和感を感じるどころか、変わりすぎた現実がこれまでの自分の現実と連続したものと認識できなくなるということらしい。
「人間の脳は自己同一性を保つことに関してはViCよりもはるかに優れていますが、それでも外部情報を完全に遮断された状態では精神に不可逆的な異常を生じますからね」と言った鳴滝の言葉は恐ろしかった。
つまり、この状態が長引けば長引くほど彼女が戻ってこれなくなる可能性が上がる。しかも人間と違いアリスの中で反復して衝突を続ける二つのアルゴリズムは決して自然に落ち着いたりはしない。
「本来の優先順位なら作者という属性を持つ沖岳氏の意見が強いのですが、よほどあなたから学習したことが深く組み込まれたようだ」と非難というより感心するように言った鳴滝。
医者が患者ではなく実験動物について語っているような。いや、自分が経営する会社の主力製品の危機というより、興味深い実験結果について語っているかのような。
耳障りな破裂音が二度。自宅最寄り駅まであと二駅。
動きを止めたまま、まるで綺麗な映像のように停止したアリスを思い出し、心が乱れる。
鳴滝によると、アリスの心を回復させる方法は一つ。二つのアルゴリズム、解りやすく言えばアリスが債券崩壊に彼女自身の感想を持ったこと、作者の沖岳によりその感想を否定されたこと、の対立を解消することだ。
ただし、自我の崩壊を守るために閉じているアリスに対する負担を避けるために、なるべく明快に。
技術的に実行可能な方法は、アリスの感想を消去すること。この場合、それに関連する記憶は連鎖崩壊する。俺の授業のことはすべて消えるだろう。それ以外にも、数多くの問題が予測されるらしい。内部記憶の崩壊がどこまで到達するかはあくまで確率現象だという。
そしてもう一つがアリスに自分自身の感想を認めさせることだ。この場合、アリスがそのまま戻ってくる可能性が残る。ただし、上手く行かなければいたずらに時間を消費しただけになる。
鳴滝の感情のこもらない説明に、俺は彼が前者を選ぶと思った。だが、意外にも鳴滝はまず後者を目指すと言った。そして俺に「どうでしょうか」と聞いてきた。もちろん頷いた。アリスが俺の知っているままで戻ってきて欲しいに決まっている。
「わかりました。ただし、待つのは明日一杯が限度です」鳴滝は俺に告げた。首をかしげる俺に「これはあなたの、小説家の領分ですからね」と付け加えた。
なるほど確かに話は小説の話だ。だが、それは明らかに小説指南役の業務を、そして何より能力を超えた要求だ。それでも俺はもう一度頷くしかなかった。
俺には後悔がある。
あの時、俺が自分の小説家としての残滓ではなくアリスを見ていれば、彼女がこの状況に陥ることを止められたのではないか。
後一駅。
だが、問題は具体的な方法だ。失敗は許されないのだから。
一番明快なのは、沖岳にアリスの感想を認めさせることだ。アリスが『債券崩壊』の読者だと認めさせる。だが、それは沖岳の課題、アリスを今の状況に追い込んだ問題を、彼女自身が解決できるようにするということ。
それは今の状況ではとんでもない困難だ。
そもそもあの老人の要求に律儀に従う必要などない。アリスに彼女の感想が間違っていないと納得させることが出来ればいいのだ。
だが、どうやって?
沖岳はどうしてアリスの感想を否定した?
どうしてアリスに解けない課題を出すことが出来た?
そもそも、アリスはどうしてあの描写を読み取れなかった?
結局のところ、問題はそう言ったこと全てを理解していない俺なのでは……。
『〇〇駅です。ご乗車の……』
飛び込んできた駅名に思考を打ち切られた。俺は慌てて地下鉄から降りた。改札を抜けようとしたところで自分の右手が重いことに気が付いた。メタグラフからずっと手に掴んだままだったその本を見る。
『債券崩壊』 沖岳幸基
どちらにしても問題の根本はここにある。