第12話 作者の重み
沖岳と編集者がエレベーターのドアの向こうに消えた後、俺はバーチャルルームに移り九重女史とアリスに交渉の内容を説明した。
「なるほど。条件を引き出すことは出来たわけですね。ただ、今から新しい台本の作成は時間的にもアリスのリソース的にも厳しいですね」
俺の話を聞き終わると、九重女史が顔を曇らせていった。
『アリスの読書会』は台本だけでなく、BGMや背景にアンケートといった多くの要素が含まれる。中には外注されるものもあるだろう。今回の『債券崩壊』はただでさえ飛び込みで、しかも例の感想のために構成がいつもと違う。
チャンネル編集にどれだけの余裕があるかは分からないが、これだけ重なれば業界随一のホワイト企業でも業界標準に堕ちるだろう。
アリスの感想を組み込んだ台本はチャンネル的にも受けると思う。正直言えば、リスナーがアリスの感想にどんな反応をするかに興味がある。だが、それに関しても次の週に別の本で同じことをやればいいともいえる。
そう、アリスに小説の書き方を教えるというという意味では、あの感想が生まれた時点で役目は達成している。沖岳幸基が否定しようと、アリスの感想が彼女にとって大きな一歩だったのは変わらない。
沖岳の言葉には腹が立つが、考えれば考えるほどあの男の言うまま新しい感想を作り出す理由はない。感想を台本から除く方がずっと調整が楽だ。
そのビジネス上の判断に抵抗するすべは俺にはない。
ただ、それでもずっと黙ったままの彼女の意志は確認しておくべきだと思った。
「アリスの考えはどうだ?」
「はい。私の感想が間違っていたのですから台本から除く以外の選択肢は考えられないのではないでしょうか」
返ってきたのは誰よりも冷静な声だった。
「待った。なんでそんなことになる? そもそも感想は人それぞれで正しいも間違ってるもない。というか、アリスの感想が間違ってるなんてことはない」
「ありがとうございます。先生の教えは信じています。しかし、沖岳幸基氏は『債券崩壊』の作者です。沖岳氏が間違っていると言った以上、それもまた否定できないことです」
「そりゃあの男は作者だけど、それはアリス自身の感想を否定する理由には……。あっ」
やっと気が付いた。アリスは人間の意志を汲んでコミュニケーションすることが基本のViCだ。しかも、彼女にとって作者は小説を“定義”する存在だ。
ただでさえ、あの感想はアリスにとってギリギリのところで生み出した初めてのもの。彼女自身、躊躇も口にしていた。そこに彼女が理論上重視せざるを得ない人間からの否定。
いや、人間だって同じことをやられたらきついだろう。
アリスの冷静な表情をもう一度見た。法的問題とか、契約条項とか、あるいは台本スケージュール以上の問題じゃないか。もし、彼女がここまで頑張って学んできたことが大きく崩れるなんてことが……。
俺はスケジュール画面を空中に開いていた九重女史を見た。チャンネル担当者の顔にさっきとは違う焦りが浮かんでいることを確認した。
「アリスの言いたいことは分かった。だが、結論を出すのは早いんじゃないか。沖岳……氏は君に課題を出した。俺が思うに、これには作者としての意図があると考えられないか?」
「私にもそう思えます。完全な否定とは言えないでしょう」
暴れそうな感情を抑え、冷静かつ論理的に言った。すかさず九重女史も合わせてくれた。
「……確かにそうかもしれません。わかりました。お二人がそういうのなら」
アリスはやはり表情を変えずに頷いた。
「これが沖岳氏の指定した情景描写だ」
アリスと二人になったバーチャルルームで課外授業が始まる。沖岳が指定した債券崩壊の一節がホワイトボードに表示された。ちなみに九重女史はスケジュール調整のためオフィスにもどっている。部屋を出る前に言った「私の方はギリギリまで待ちます」という言葉が切実だが、有難かった。
“
夕日を浴びる道路には多くの人間がうごめいていた。疲れた足で駅に向かうサラリーマン、スマホの画面を見つづける若者、コンビニの光の影でしばしの休みを取っている配達員。そんな人々の中に、ついさっきまで彼の同僚だった男の背中が消えていく。
ガラスに映った己が顔を透過して、犀木は消えていく背中を眺め続けた。彼が気が済むまで。
“
このシーンは主人公の視点ではない。敵や恋人のような重要なキャラクターでもない。わき役、犀木という男の描写だ。彼は自分がエリートの安全地帯と信じるビルのオフィスから、独立独歩の道を選んだ主人公を見下ろしている。
地味なエキストラすら地に足の付いた一人の人間だと感じさせる沖岳の描写力は卓越している。エリートの地位を捨てた主人公が“その他大勢”に堕したことへの歪んだ喜び。窓ガラスに映る犀木のつり上がった口角が目に浮かぶような描写だ。
当の犀木こそが有象無象の中の一人だ。主人公が有象無象の一人になったと喜ぶこの男こそ、有象無象であるのだ。ガラスに映る犀木の顔が道行く人と重なっているのはこのためだろう。
お前はその他大勢の代表。決して主人公になれない凡人。実に皮肉の効いた表現だ。もし俺が沖岳幸基の没落を見たら、あるいはこの男と同じような……。
って、私怨に引きずられてどうする。
とにかく、読者にとって犀木は嫌悪すべき存在で、それが主人公の決断や行動を引き立てる。そういう意味でよくできた引き立て役だ。ちなみにこれで出番終了なので、それ以上の役目はない。
“問題”として考えれば難しいとは思えない。アリスがあの感想を生み出した、主人公の情景のように光景と心象風景を鏡写しにするような凝ったものではない。
なぜ沖岳がそんな場所を指定したのか、それが問題と言えば問題なのだ。
「とにかく、この前の要領でこの描写に対してアリスが感じることを言葉にしてみてくれ」
「…………申し訳ありません。私にはわかりません」
「えっと、だな。アリスの感想でいいんだ。作者に否定されるとか考える必要はないから」
まず彼女の感想を聞こうと思った俺に予想外の反応が返ってきた。戸惑う俺にアリスは小さく二度首を振る。
「分からないんです。この文章が大量のメタデータを含んでいる、情景描写のパターンに当てはまることは理解できます。そのメタデータが犀木という登場人物の心の指しているとも推測できます。ですが、私にはこの登場人物の心の中が全く分かりません」
アリスは情景描写は理解している。文章の意味の裏にキャラクターの心を描き出す本当の意味が存在することをわかっている。ならばなぜ答えられない?
「この犀木というキャラクターは、債券崩壊の中でどんな役割をしていると思う?」
「…………作中での情報量の少なさ。ストーリーにも大きな影響を与えるような行動をとっていないことから、重要なキャラクターではないと考えられます」
「うん、そうだ。それであっている」
作者の否定が彼女の中で悪影響を与えているのか? 慎重に確認した俺に、今度はちゃんとした答えが返ってきた。犀木は登場回数がそれなりにあるが、全て大勢の中の一人としての単純なもの。名前がついていることすら不思議なレベルだ。
もしかして、犀木の情報が主人公に比べて少ないから判断できないのか? だが、それはその役目の小ささに応じたものだ。犀木はただの小人。醜い暗い喜びに浸っているだけだ。
「いいか、アリス。この犀木という男は主人公に……。いや、何でもない」
辛うじて踏みとどまる。教えたら沖岳と同じだ。いや、答えの押し付けは否定よりも質が悪い。時間がない。どうすればいい。
……というか、沖岳はこれを予想できたのか?
いや、まさかそんなはずがない。いくらあの男が小説家として俺よりはるかに優れていても、アリスに関しては俺の方がずっとよく知っている。だが、ならどうして。やはり小説家としての沖岳の力量は俺には計り知れない……。
俺はこの時致命的なミスを犯した。目の前の少女より、小説家としての自分の疑問に気を取られたのだから。その沈黙が、彼女にどんな影響を与えるのかも気が付かずに。
「やはり私にはこの小説を理解するうえで欠陥があるのですね」
アリスの悲しそうな声が聞こえた。「そんなことはない」と否定しようとした俺は、だがアリスの表情に絶句した。
「……せっかく先生に教えて頂いたのに、私……わからない。何も……見えなくて。ごめんなさい」
彼女の瞳から涙が流れていた。
そして次の瞬間、バーチャルルームの様子が急変した。
警報音、足早に入ってくる九重と鳴滝、表情が消えたアリス。俺はただ茫然とそれを見ていることしかできなかった。