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第11話 交渉

「虎の威を借る狐という言葉があるが。あれは狐としてはしごく有用な戦術なのだ。ただし、常に上手く行くとは限らない」


 何度も頭を下げてからオフィスから出て言った編集者の背中を見て沖岳は言った。


 きっちりと整えられたくすんだシルバーの髪と目じりの鋭い皺。猛禽類の老鳥を思わせる威厳を以て告げられた大作家の言葉に、俺は全く同調できなかった。


 編集者にとってあなたは虎かもしれないが、大抵の作家は猫、俺に至っては鼠である。今や自然保護区程度の限られた領域しかない文芸という山で、狐の機嫌を無視できる作家がどれだけいるだろうか。


 昔、自分が虎になれると勘違いしていた時なら、沖岳幸基はいわば目標、憧れだった。だが、今は畏敬という言葉を以ても足りないだろう。作家とは小説の書き方を知っている人間だ。そして必然的に小説を書き続けることの困難さを知っている人間でもある。


 小説の中心にあるのはテーマだ。テーマを生み出すのは作者が世界をどう見ているかの視点だ。人間はだれしも他人とは違う視点で世界を見ている。だからこそ、誰でも人生に一冊は面白い小説が書けると言われる。


 これに関しては、多くのプロ作家が同意するだろう。


 だが、生半可な視点など一度で飽きられる。一作目は読者に新鮮に思われても、二作目ではやくも同じことを書いていると言われる。小説は文字を通じて読者の頭の中に直接世界を想起する。作者の世界観が無意識レベルで読者に伝わる。それは小説という媒体の最大の強みであり、そして書く側にとっては最大の困難だ。


 作家は新しい資料を集めて勉強する。作風やジャンルを変えてみる。だが、読者は無意識に同じ人間の視点だと見抜く。画期的な織田信長を書いた歴史小説家は、同じくらい画期的な毛利元就を書いても駄目なのだ。


 作品ではなく作者自身が飽きられるのだから逃げ道はどこにもない。さらに深刻なことは、作者自身が自分の小説に飽きることだ。それはもはや技術ではごまかしがきかない段階だ。自分のテーマを外から取り込んだ技術や知識で延命させた挙句に、潰れた俺が言うんだから間違いはない。


 もちろん例外てんさいというものはどこの世界にもいる。例えば今俺の目の前にいる男は、シリーズ物を一つも書かず、一年に一冊計画するように小説を生み出し、一作ごとに新しい世界を読者に見せる。


 何が売れるが誰にも予想できないと言われるこの業界で、当たり前の結果として売れているとしか思えない、そういう異常な存在なのだ。


 俺にはどんなことをしたらそれが出来るのか想像もつかない。おそらく、彼の視点は誰よりも高く、そして広く世界を見下ろしているのだろうということくらいだ。


 十年前の作家になる前の俺なら憧れ、三年前の作家としての限界を知った俺なら嫉妬、そして今の俺にとっては畏怖。読者にとって読めば読むほど面白い沖岳幸基は、作家にとっては読めば読むほど恐ろしい。


 そんな相手と、これから交渉しなければいけない。なるほど、特別報酬のつけは大きかったというわけだ。考えてみればこの業界においしい話なんてそうそう転がってるわけがなかった。


 自嘲ちょうしが出てきた。


 この仕事は作家としての俺ではない、教師として自分の生徒アリスの感想を守る。鳴滝が俺に交渉を押し付けたのは意味不明だが、アリスの先生としてやるべきことをやろう。


「多くの作家がアリスのチャンネルでの紹介を望んでいます。それをここまで来て止めるというのは贅沢な事だと感じますが」


 なるべく冷静に聞こえるように注意しながら切り出した。


 読書会でのプロモーションを望む出版社は多い。俺がここに出入りした数回だけで、大手の文芸編集者がこの窓際のブースで九重女史と打ち合わせしている姿を何度も見ている。


 それこそまるで編集者に対する作家のように、九重女史に丁重に接する編集者の姿は、年齢差も手伝って悲壮感すらあった。狐に対する狼くらいの立場の差が見えた。


 そんな中で『債券崩壊』は割り込みで、しかも出版日という特例待遇だ。沖岳幸基の新刊という話題性がチャンネル拡大へ寄与するというメタグラフの計算はあったとしても、出版社も力を入れたプロモーションに違いない。先ほどの副編集長の勇み足もそれで説明がつかなくもない。


 もちろん、沖岳作品ならプロモーションなどしなくても売れるだろう。だが、彼の作品が出版社にもたらす利益のスケールを考えれば、その多少の振れですら影響が大きいというのは想像できる。


「私は決して人に推薦はさせない。私自身も推薦文などはすべて断っている。作品と読者の出会いは一期一会であるべきであり、間に入る要素は出来る限り除くべきだからだ」


 沖岳は前に読んだ文章をまた見せられた、という顔でいった。いや、編集者からも鳴滝からも、この手の話は聞かされたことは分かってるよ。でも、新しい章が始まったら最初に状況の確認は入れるだろ。


 もちろん、先入観無しで読んで欲しいというのは作家の願いだろう。沖岳作品の帯はいつもシンプルなのを思い出した。大作家の貫録を演出しているのかと思っていたが本人の方針だったらしい。


 だが、それは宣伝しなくても売れる作家だから言える贅沢だ。


「流石に難しいのでは。そもそも『沖岳幸基』作品であること自体が読者に先入観を与える。発売日には債券崩壊は書店の目立つ位置に大量に積まれるでしょう」


 反感を抑え、言葉をギリギリまで選ぶ。


「出版社にとって本を出すのは事業だ。少しでも売り上げを伸ばしたいのは当然。書店もまた同様。ゆえに出来る限りといった。今回のことは事後承諾であったが、契約がメタグラフと出版社の間で結ばれた以上はやむなし。そう考えて監修に来たわけだ」


 沖岳は肩を竦めた。そして、当たり前のように次の言葉を口にした。


「そこでA.I.の感想と称するものを見せられたわけだ」

「感想と称する、ですか」

「あれさえ除けば文句はない。いつものように淡々と紹介だけすればいい」


 机の下で自分の膝を掴み、なんとか表情を保つ。


 今回のことは本来は出版社と沖岳の問題だ。メタグラフもアリスもとばっちり。ただ、A.I.による人間の著作物の利用には沖岳の言う法的な保護があるのも事実だ。


 鳴滝は俺が納得させられなかったら中止を受け入れると言質を与えた。沖岳はいつでも「納得できなかった」といって話を終わりにしてしまうことが出来る。


「アリスの感想のどこに問題があるか私にはわかりません。該当箇所の描写は『債券崩壊』の主人公宮本明彦の迷いを表すものですよね。主人公が組織の一員であるよりも、個人の意思を選ぶ決断の直前におかれた葛藤であり、それが最後に提示されるテーマへとつながる」

「私は作品について自分で読者に語らない。読者の感想は読者のものだ」

「ちょ、それはいくら何でも。いや、ならアリスの感想に対して干渉するのはおかしいでしょう」

「A.I.は私にとって読者ではないということだ」

「なっ、それはいくら何でも。……まさかアリスが主人公に反感を感じたというのが気に入らないわけでもないでしょう」


 思わず言葉に力がこもった。小説の主人公じゃあるまいし、交渉者としてはまずい態度だ。目の前の峻厳な老人の表情一つ動かさなかった。


「小説は人間が人間のために書くものだ。私の小説はA.I.に向けて書かれたものではない」

「A.I.に対する偏見があるように聞こえますが」

「A.I.の是非を問うつもりなどない。だが、人間に対して書かれた小説をA.I.が読むということは、人間のためにA.I.に小説を読めと言っていることだ。私はそれを読者、いや読書とは言わない」

「っ!」


 あまりに傲慢で一方的な決めつけ。だがその中核にある一点において、俺は反論に詰まった。アリスは自分ではなく“人間のため”に小説を読んでいる。それは、アリスの存在の基盤ともいうべき条件だ。


 いや、だけどアリスは確かにそれだけじゃない何かを小説に……。


「そもそも君の言うテーマだの主人公だのとはなんだ? 私の小説にテーマも主人公も存在しない」

「はっ?」


 言い返そうとした俺に耳を疑うような言葉が飛び込んできた。唖然として沖岳を見た、大作家は憐れむような目でこちらを見ていた。


 テーマも主人公も存在しない? そんなわけがない。テーマは小説を書く目的、そしてその小説が本当に語りたいことだ。それだけではない、純粋に技術的にも作品という構造物の柱としての必要性がある。


 小説は薄めの文庫本でも十万字の文量がある。特にエンターテインメントは構成にはしっかりとした山と谷、キャラクターには魅力的な特徴を求められる。それらは作品をバラバラにしそうな強い要素だ。それを一つのストーリーにまとめ上げる柱がテーマだ。


 確かにコンセプト重視の作品はある、まるで外骨格の甲虫のようにカッコよさを追求するタイプの娯楽性に振った作品だ。それでもテーマは必要だ。昆虫の体にも中央線に沿った秩序はあるのだ。


 テーマ無しで長編小説を書くなど、背骨のない人間に踊れというようなものだ。


 そもそも、沖岳あんたの作品にはどれも揺るぎないテーマがあるじゃないか。あんたはテーマの重要性は百も承知のはずだ。


 いや待て……。


 背筋に悪寒が走った。


 まさか知らないのか?


 もしかして目の前の天才は息をするように傑作を生み出せるのか?


 もし、俺が読んだこの男の小説がそんな風に生み出されていたなら、この世の中には最初から小説が書ける人間と、そうではない人間が存在するということになる。


 その才能を持たない者が小説を書くためにする努力はすべてが無駄ということだ。この三年の俺が証明したように……。


 この男にとってアリスが読者ではないのと同様に、俺は作家ではないなら……。


 反射的に腰が引けた。


 これは押し付けられた仕事という思いが浮かんだ。俺の役目はアリスに小説の書き方を教えることだったはずだ。この感想だって台本に組み込むことを最終的に決めたのは九重女史だ。いや、そもそも鳴滝がわざわざ不利な条件にしたのが原因じゃないか。


 この交渉を成立させる責任が俺にあるわけがない。夜に急な呼び出しに応じてクライアントへの義理は果たしたんじゃないか。


 定番のシーンを書くように言いストーリーが脳裏にならんだ。


「どうやら話はここまでだな」


 沈黙する俺に興味を無くしたように沖岳が腰を上げた。俺は座ったまま目の前の重圧が去っていくのを待とうとした。その時だった。


 沖岳の背中に隠れていた垂れ幕が目に入った。ブースの壁にかかった垂れ幕の中で、黒髪の美しい娘が本を手に笑顔を浮かべていた。


 初めての感想にどこか誇らしげに笑ったアリスが浮かんだ。俺は自分の仕事を思い出した。


「つまり、アリスがあなたの小説の読者だと証明できればいいわけですね」


 あの時のアリスは間違いなく小説の読者だった。少なくとも読者になろうとしていた。フィクションでもバーチャルでもなくそれは俺が直接見た事実だ。誰であろうと、それを否定される理由などない。


 今の俺は小説家としてではなくアリスの先生としてここに居る。俺と沖岳の作家としての差なんて、それが天地以上の開きがあろうと、そんなことは関係ない。


「どうしたらアリスが読者だと認めますか。メタグラフに対しては無理を押しているのはあなただ。それを提示するのが筋でしょう」

「なるほどそれも道理か……」


 俺は両手に力を込めて、見下ろす沖岳に言った。沖岳は俺の言葉に少しだけ考えた。そして手元にあった『債券崩壊』を開いてテーブルに置いた。後半のページ、その最終段落に孤島のようにある文章列に、筋張った指が置かれた。


「この感想を件のA.I.に作らせて見せるがいい。もしそれが出来ればアリスというA.I.が私の読者であるとしよう。読者ならどんな感想を抱こうと、それを公開しようと自由だ」


 沖岳はそういってブースを出た。メタグラフの玄関で副編集長が沖岳に駆け寄ってくるのが見えた。律儀に待っていたらしい。


 一方、俺は大御所を見送ることもなく、座ったまま開かれたページを凝視していた。


 これがそんなに重要な描写?

2022/10/30

ここまで読んでいただきありがとうございます。

本日より隔日投稿になります。

次の投稿は火曜日です。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 今話もありがとうございます! >テーマ 「作家を含むあらゆる種類の芸術家は、出世作のテーマを生涯追い続ける」らしいですね。 (この格言めいた言葉の正確な出典は知りませんが) [気になる…
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