第9話 初めての感想(2/2)
アリスは沈黙する。俺は彼女の口が開くのを待つ。人間が何年もかかる計算を一瞬で終わらせるA.I.が、人間なら一瞬で終わる計算をしている。俺が要求しているのは多分、そういうこと。
コンピュータのシークバーを待つのとは違う種類の緊張に耐えていると、アリスが言葉を発する。
「主人公は非効率的だと感じました」
「なるほど。非効率か」
「えっ!? いえ、今のは正しくありませんでした。登場人物の心理的な反応に対して、非効率的という意見は適切ではありません」
「いや、それでいい。で、どうして非効率的だと思った?」
「合理的に考えれば主人公は組織に残るべきです。一時的に感情的な損失をこうむりますが、トータルとしての利得はそちらの方が大きいと判断できます」
彼女は逡巡して、後ろめたさを感じているような表情になっている。
「ではなぜ主人公はそうしなかったと思う? いや、そうしなかった主人公に対して君は何を感じる? 説明ではなく、感情を聞きたい」
「…………適切な回答を生成できません。私のアルゴリズムが及ばない問題のようです」
アリスは首を振った。
本当にそうだろうか。確かに、アリス自身の説明で、彼女の感情は主に人間とのコミュニケーションのためだということは分かっている。彼女の中にないものを引き出すことはできない、いややるべきではない。
だが、もしあるのに見つけられないのなら望みはある。いや、これは彼女と接してきての直感だが、彼女の中には何かはあるのではないか。
彼女は適切な回答を生成できないと言った。
なら、もし適切ではなかったら?
「君が自分の言葉を生成する時、自分でスコアを付けるはずだよな。どんな形式なんだ?」
「はい。私の発話候補は最大で1.0.最低で0.0の間でスコア化されます。0.5を下回るような発話は、対人コミュニケーションに問題を生じます」
「なるほど。君が生成する会話の下限スコアは?」
「安全性を考えて0.80以上が採用されます。現在は学習モードですから0.7まで許容されます」
文字通り言葉を選んでいるわけだ。なら、その枷を取り払ったらいい。彼女が思っても口に出さない、その心の中をあらわにしたら?
「この質問への答えは0.5でやってくれ。もちろん可能ならだが」
前回の失敗を思い出し、慎重に聞く。
「可能か不可能かなら可能です。ですが、意味が通らない発話が生成される可能性が高まります。先生に伝わらない言葉に、意味があるとは――」
「それでいい。君が感じたのに、却下した何かがあれば、断片でもそれを聞きたい」
「不条理な要求に聞こえます」
「これはあくまで学習だ。リスナーに発表するわけじゃない」
「先生が聞いています」
アリスの言葉は彼女の対人マナーを考えればおそらく拒絶に近い。だが、俺はにこりと笑って見せた。
「大丈夫だ。君がこの文章を読んだことで君の中に生じたものを、俺は聞きたいと思ってる」
アリスはしばらく逡巡していたが「解りました。先生のご指導に従います」と言った。俺は彼女の返事を待つ。
「私は、主人公の、計算不可能な、経済合理性に反した、通常のこの男性のメンタルは安定しているにもかかわらず。時間もありました。そもそも、主人公は問題を解決しようとしているのかという疑問も……。解決できない問題は、取り組むリソースの無駄を」
言葉の断片、前後関係もバラバラな言葉がアリスの口からこぼれ始めた。
「主人公の将来に、組織の将来に大きな影響をもたらす選択。彼の役割の放棄に繋がりかねない……」
頬が上気し、眼が左右に揺れる。声にもかすかな震えがある。まるで今の自分は異常だから、この反応は本当のものではない、そう使用者に訴えるよう。
「一刻も早く明確で合理的な判断を下す必要がある場面で、客観的な基準を放棄していることに…………。仮に不合理な決断を選ぶとしても、ならばなおさら……。彼は彼自身で解決できないと……。あの、この先も言わなければいけないのでしょうか」
許しを求めるように俺を見るアリス。無言で頷いた。彼女の言葉は確かにバラバラで、意味もほとんど通らない。だが、彼女の言葉の対象が主人公から、彼に代わっていることに俺は気が付いた。
彼女はぎゅっと目をつぶり、まるで懺悔するように両手を握った。
そして
「彼の贅沢な悩みに………………反感を覚えました」
その最後の単語を口にした。
「なるほど『贅沢な悩みに反感』がアリスのこの時の主人公の葛藤、悩みに対する感情というわけか。いいじゃないか」
予想通りに予想外の感想が出てきた。俺は大きく頷いた。アリスは大きく首を振った。
「そんな。これは許されません。私はこれを口にするべきではないのです」
「感想に正しいも間違ってるもない。君がこの文章から感じたことがすべてだ。それに、そう感じたということは、君がこの文章の中に主人公を感じた、ということじゃないか」
「えっ!? ……いえ、私には解りません。…………ですが、一瞬だけ全ての処理がこの文章の中に吸い込まれるような感覚になりました。不思議な感覚です。生まれて初めて。これは文章なのに…………まるで中に人がいるみたいに」
アリスは信じられないものを見るような瞳でホワイトボードの一節を見た。俺はそんな彼女に驚きを禁じ得なかった。「これは文章なのに、まるで中に人がいるみたいに」普通なら小説への侮辱ととられかねない言葉だ。
だが、彼女のことを知っている俺には全く別の意味を持つ。
小説の中に入り込む、主人公の肩越しに同じ光景を見る。そして、主人公の感情を感じ、それに対して自分の感情を抱く。それこそが小説を読むということだ。
そして、俺はアリスと同じホワイトボードの文字列を見る。
沖岳幸基の小説を題材にしたことは、彼女にとって幸運なことだったのだろう。
「よし。じゃあこの「贅沢さに反感」を中心にして、アリスの感想をまとめてみようか。読書会で発表するみたいに」
「先生は、とても意地悪な方なのでしょうか」
「先生として必要なことを言っているつもりだ。第一、これは君の得意分野だ。人間に伝わるように客観性をもって説明するんだからな。そうだ「これは文章なのに、まるで中に人がいるみたいに」これも使ってみればいい」
「先生はとても意地悪な方です」
『主人公が窓から見ている光景は、彼の心の中にある迷いを映し出しているのでしょう。林立するビルを動物園の檻に見せているのは、彼が物語の最初から抱えていた組織と自分との間の葛藤の現れなのでしょう。私はこの描写に深刻で複雑な彼の悩みを感じます。
そして同時に、私は主人公のこの悩みが一種の贅沢だという反発も感じます。彼の悩みの深さや大きさは、彼の持つ未来に対する可能性の大きさも現しているように思えるからです』
アリスの作り出した文面がホワイトボードに現れていた。
相変わらず読みやすくわかりやすい綺麗で品のある文章だ。だが同じ綺麗な文章でも『お品書き』のチャンネルで聞いた年表めいた無味乾燥さは影を潜めている。BGMも背景もなくても、アリスが小説の中に主人公という人間を感じ取っていることがしっかり伝わってくる。
正直に言えば『贅沢だという反発も感じる』という言葉には違和感はある。主人公が迷っていることを非効率だと感じるのは、アリスの“判断”としておかしくない。しかし、彼女は未来への可能性というポジティブな評価で感想を締めている。
このちぐはぐさこそがこれが彼女自身の、それも初めての感想であることの証明にも見える。だからここは口出しはしない。
「いいじゃないか」
「驚きました。私にとっては欠陥、失敗のはずの計算を元にしているのに、私にとってこの小説の主人公の行動を一番うまく説明しているように感じます」
俺が頷くと、アリスは驚きと喜びの混じったような表情になった。そんな彼女の顔を見て、俺は一つ思いついたことを口にした。アリスの顔が、再びこわばった。
「これがアリスの『債券崩壊』への感想ですか……」
バーチャルルームに入ってきた九重女史がホワイトボードの文章をじっと見る。アリスが緊張しているのが分かる。大丈夫だと思っている俺まで緊張が伝染しそうだ。
「いいですね。新鮮というか、アリスちゃんが本当にそう感じたんだなっていうのが伝わってきます」
九重女史が感心したように頷いた。アリスちゃんという言い方が、ビジネスライクな彼女としては意外だった。
「越権を承知で言うんだが。これ、次の台本に組み込むことは出来ないかな」
「ええ、私もそれを考えていました」
俺の言葉に九重女史は即座に頷いた。
「そんな、お話が違います。先生はリスナーには見せないと言いました」
「確かにそう言ったけど、小説家は嘘をつくのが仕事だからな。それに、アリスも言ったじゃないか。先生は意地悪だと」
「もし台本に問題が生じたら。九重さんは、止めてくれないのですか」
「だって、私もこの感想は採用したいと思うもの。これはチャンネル担当としての判断。ただ」
九重女史は笑顔で俺に振り返った。
「アリスに「意地悪」と言わせるなんて、海野先生が一体どんな授業をしたのかとても気になりますけど」
家庭教師が娘に良からぬことを教えたのを疑う母親のようなその目に、俺はあわてて両手を振った。
「強い躊躇を感じます。リスナーの方々におかしく思われないでしょうか」
そんな抵抗を口にしながら、アリスが自分の感想に向けるはにかむような、どこか愛おしそうなその表情。彼女のファンでもなんでもない俺が思わず引き込まれそうなほど魅力的だった。
オフィスに出た。九重女史は「変更を考えると台本のアップがギリギリになりますね。通常作者の監修は形だけですから、その分の余裕を……」とスケジュールを調整している。彼女が先ほどの「意地悪」の追及を忘れてくれるように祈りながら、俺はメタグラフを出た。
地下鉄の揺れにぶり返してきた眠気の中で、アリスの最後の表情を思い出した。まるで初めて一冊の小説を読み終えた女の子のような彼女。もしかしたら、俺は彼女に技術を越えたことを教えることが出来たのかもしれない。
柄でもない俺の教育者気分を現実に引き戻したのは、銀行のアプリが告げる二回の通知だった。通常の報酬に加えて、特別報酬という名の二つ目の振り込み。その金額は俺の初版印税を越える額だった。
何かの間違いではないかと目をこすった。だが、明細には社長決裁という文字があった。
まあ、確かにそれくらいの仕事はしたのかもしれないな。何しろ『奈落の上の輪舞』を評価していたアリスに『債券崩壊』の価値を教えることが出来たのだから。
小市民的な罪悪感を打ち消した俺は臨時収入の浄財を考える。そう言えば、あいつに礼をするって決めてたんだった。