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3話

 散々シリウス帝国に侵略行為を仕掛けてきたラディカル国。そのラディカル国からの和睦の使者が到着したという知らせは、王城はもちろんフィールド家にも衝撃だった。


「どういうことだ、今更和睦など…」


 フィールド家屋敷執務室にて。お父様は顎に手を当て、思案していた。知らせを受け、私もお父様の執務室に呼ばれていた。そして、そこには同時に別の…これまた重大な知らせがつづられていた。


「…国王の代替わり……」


 お父様のぽつりと呟いた内容に、私は眉をひそめた。国王の代替わり…つまり、これまでの王が退位し、あらたな王がその地位に就いたということ。その地位に就いたのが……


「新たな王は……アルディ王か。元々反戦派だったといううわさは聞いているが」


 そう、新たな王はかつての王子、アルディだった。私の脳裏に、かつての出来事が思い起こされる。デビュタントの日に遭遇した、ラディカル国の間者、バーツ。その彼の任務内容。


(まさか……そんなことないわよね?)


 和睦の目的。それが………私、なんていうのはきっと考え過ぎね。そうでなくとも、バーツの言葉を借りれば、侵略行為には戦費がかかる。それなのに効果を上げていない侵略行為を続けたところで国力を消耗させるだけ。それに気づいていた彼が、和睦を申し入れるのは、私という目的が無くとも当たり前に思える行為だ。


「リリス、お前はどう思う?」


 お父様に声を掛けられ、ハッと顔を上げる。お父様の顔は、納得がいかないと口をへの字に噤んでいる。


「反戦派だったのであれば、権力を手に入れたと同時にそれを執行した、それだけだと思いますわ。ただ、本当にそれだけならずいぶん虫のいい話になりますが」

「その通りだ。散々侵略を仕掛けたのはあちらで、こちらは防衛したにすぎない。にも関わらず和睦というのは、どう見ても裏があるとしか思えない」


 そう、仕掛けられた側が和睦を申し入れ、侵略を止めさせる…ならまだ分かる。けれど今回は、仕掛けていた側からの申し入れ。本当ならそんなことするよりも、謝罪と賠償を申し出て友好関係を築くのが本来の筋。…和睦、という選択肢には行きつかない。


「しばらく気を付けた方がいいな。最悪、全てが目くらましの可能性がある。軍備は整えて置いた方がいい」

「はい、お父様」


 そう、和睦…と油断させておき、その裏でこっそり部隊を配備していたというのは、古今東西戦略の上では至極当たり前のことだ。こうした外交戦術全て相手を騙し裏をかく…それが定石。譜面通りに受け取るなどそれこそ、愚の骨頂だわ。




「シエル、今日もいい毛並みね」


 厩舎に向かい、愛馬に声を掛ける。

 シエル。私が10歳の頃から乗るようになった愛馬。真っ黒な毛並みに、黄金の瞳。絹のような滑らかさをもつ毛並みは、いつまでも撫でていられるほどに気持ちがいい。

 かつて乗せてもらっていたセクトの子供であり、父譲りの逞しい身体をしている。ややもすれば、セクト以上に大きくたくましくも見えるけれど、その性格はセクト以上に気難しい。今に至るまで、私以外は誰もその背に乗せたことはない。お父様ですら拒否され続け、愛馬というか私専用という感じ。


「また、戦場に出るかもしれないわ」


 私の言葉にシエルは「構わない」とでもいっているように軽く首を縦に振る。


「いい子ね」


 そう言って鬣を撫でると、シエルはおとなしくなで続けさせてくれた。


「…少し、走るわよ」


 そう言って、私は手早くシエルに馬具を取り付けた。格好がワンピースだけれど、着替えに行く手間すら惜しいと思った。普段はあまりしない、横座りでシエルの背に乗る。万が一に備えて剣も腰に帯び、そのまま敷地内を飛び出した。




 慣れない横座りでは思った以上に体勢がとりづらいわね。思うようにスピードを出せず、胸に湧き上がるもやもやしたものが吹き飛ばない。それを察したのか、シエルは言っても無いのに勝手に速度を緩め、指示も無く地面に脚を曲げて座り込んだ。


「……ありがとう、シエル」


 場所は何もない、ただの草原。見通しは良く、柔らかい風が吹いている。モヤモヤを吹き飛ばすより、この風に溶け込むほうがいいかも。

 シエルの背から降りると、そのまま草むらに腰を下しシエルの身体にもたれかかる。柔らかな毛並みと、走って上がった体温、それをほどよく冷ます草原の風が気持ちいい。


「…ねぇ、シエル」


 それが呼びかけというよりも、独り言に近かった。モヤモヤは、時がたつにつれその姿を確かなものに変えていく。


「私が……どこに行っても、あなたはついてきてくれる?」


 当たり前だ、と言わんばかりにシエルの大きな舌が私の頬を舐め上げる。本当に頭のいい子。


「ふふっ、くすぐったい。……ありがとう」


 確かな味方がここにいる。それだけでも心が少し軽くなった。


 モヤモヤ。それは、私がラディカル国に行くかもしれないという懸念。1年前、私に想い人がいるのかと聞かれたとき、そんなことはありえないととうに忘れていた。けれど、今それに必要な一歩が踏み出された。その一歩がどこに向かっているのかは分からないけれど、もしかしたら…と思ってしまう。


「女一人に……そこまでするかしら?」


 今ではずいぶん薄れてしまったかつての王としての記憶。その、男としての記憶で、そこまで女に執着した覚えは無かった。

 これまでの国の在り方を転換し、それがただ一人の女を手にするためなら……しかも、その女の曰く付き加減といえば半端じゃない。


「ありえない……ありえないわ」


 自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。そうだ、彼は…アルディ王はただ自国を想って無益な侵略行為を止めたに過ぎない。

 それならそれでいい。それなのに……どうしてモヤモヤは消えないの?




 数日後。城にて和睦の使者との協議が続いている中、続きの知らせがフィールド家に入ってきた。その知らせにお父様は理解不能だという色を浮かべた。


「…和睦の条件に、リリスを王妃として輿入れ、だと……?」


 まさかの条件に、お父様は言葉を失った。当然だ。条件として王族同士の婚姻…それは在りうる。婚姻といえば聞こえはいいが、ありていに言えば人質だ。だが、今回は明らかに状況がおかしい。

 侵略行為を繰り返していたのはラディカル国だ。しかしそれに対し、シリウス帝国は一切の侵略を許していない。全て国境で撃退していた。戦力という点で有利な立場にあるのはシリウス帝国側だ。にも関わらず、この場合の人質となる人物を、シリウス帝国側から出せ、ということ。

 しかも、近年において最もシリウス帝国側の戦果を上げている私を、だ。これだけ見れば、最も有力な人物を軍から引き抜き、弱体化させることで、再度侵略行為を行う…そう見るのが普通。むしろ、それ以外にどう見ろというのか理解に苦しむくらい。


「決まったな。和睦など嘘だ。お前を輿入れさせ、和睦したなどと油断させて今度こそ侵略する。それがラディカル国の新たな王の戦略だ」


 お父様の読みは正しい。誰だってそう思う。なにせ、シリウス帝国側にこの条件を呑む理由は無い。最も戦果を挙げている者をわざわざ敵国に引き渡す馬鹿がどこにいるのか。

 そう思うのに……


「何故皇帝はこの条件を受け入れた!返答次第ではこちらにも考えがあるぞ!!」


 お父様は使者を恫喝した。そう、皇帝はこの和睦の条件を受け入れた。私を、ラディカル国に引き渡すという結論を出した。普通に考えて、あり得ない結論。どんな愚か者でも出さない結論。けれどそれを出した……かつての息子。

 でも、どこかでありうるとも私は思った。息子は、父を嫌っていた。正義の名のもとに断罪を力で繰り返す父の姿を。もっともそれを知ったのは死後だったけれど。だから、息子…皇帝は侵略を繰り返すラディカル国に使者を送り続けていた。話し合いで解決できると。

 そして、その忌み嫌う力を最も持つフィールド家。その今や筆頭である私。その私を引き渡すことで、侵略が止むなら…そう考えたのだろう。

 だけど、お父様はそうもいかない。例え皇帝の考えを知ったところで、そんな理由で私を引き渡してもいい…そんな考えはあり得ない。


「貴様もこの条件を出したということは娘がどういう扱いになるか分かるはずだ!それとも貴様の娘も差し出させるぞ!」


 さっきから使者は顔を俯かせて、青ざめっぱなしだ。お父様と同じことを考えたのは使者も同じなのだろう。…それが分かって、こうして伝えに来たのだから、彼もまた不憫でしかない。


「…それとも、皇帝は我がフィールド家を甘く見ているのか?幾度も侵略を退けてきた我がフィールド家を…」

「お父様」


 それ以上はいけない。その意味も込めて、私はお父様を制止した。これ以上言葉を続ければ皇帝に対する反逆行為ととられかねない。……鈍りきった帝国軍と、幾たびも侵略行為を退けてきたフィールド家軍との実力差は歴然だ。力で、屈服することはありえない。けれど、そういう問題じゃない。


「…すまない」


 私の呼びかけに冷静さを取り戻したお父様。ごほんと咳払いすると、改めてこちらに向き直った。


「………」


 どうする?とその目が問いかける。私の答えは…もう決まっている。それが国のため、民のためなら。


「お父様、私、ラディカル国に行きます」

「いいのか?」


 人質。それが分かっていて娘を差し出す親の心境とはどれほどのものか。…私には、経験できなかったこと。


「はい。それに…」


 私は、にっこりと使者に向き直る。


「『黄金の死神の鎌』を王妃にすること…それがどんな意味を持つかは、いずれ分かるでしょう」


 使者は顔を青ざめさせたまま、なんとか表情筋を動かして笑みを作る。

 お父様も、私の言葉の意図を察し、どこか呆れたように息を吐いた。あいにく、ただの令嬢じゃない。戦場で、最も敵兵を殺してきた令嬢。それが私。




 使者が帰ったあと、私は再びお父様と向き直った。


「本当にいいのか?」

「ええ」

「……わかった、もう何も言うまい」


 それきり、お父様は口を閉じた。私は、そんなお父様を安心させたくて、どこかふざけたように言葉を紡ぐ。


「ご安心ください。もしラディカル国が条件を破れば……その時は鎌が、王の首を刎ねます」

「……自ら未亡人になるつもりか」

「ふふ、未亡人という響きも悪くありませんね」


 そもそも、人質というつもりは全くない。それどころか、人質になったのは果たしてどちらか。


「……ずいぶん楽しそうだな」

「ええ、思ったよりも楽しくなりそうですわ」


 置かれた状況に、言葉通り思った以上に楽しくなりそうだと思う自分がいる。それに、わざわざ1年前に想い人がいるかと聞いてきた張本人だ。それがどんな人物なのか、そのときはただの馬鹿だと思ったけれど、予想以上の大馬鹿者。きっと、楽しいことになりそうだ。




 それから話はとんとん拍子で進み、和睦の使者が国に帰り、条件を呑んだという話が伝わると、ラディカル国の動きは速かった。正式に婚姻の話が進み、輿入れはわずか3か月後に決まった。

 その際、輿入れには身一つでいいと言われたが、それでは面白くない。私はとある条件を出し、それをラディカル国は呑んだ。その条件にお父様はほとほと呆れていた。


「…リリス、本当にそれでいくつもりか?」

「ええ、お父様」


 そして輿入れ当日。そこには豪奢なドレスに身を包…まず、戦場と同じ戦闘服を身に纏い、シエルにまたがり、その手にはお父様と同じサイズの私用のハルバードがある。風になびく金髪も一まとめにし、戦場で語られる『鎌』の姿そのもの。それ以外には旅路の最低限の着替えを詰め込んだバッグが二つだけ。旅の路銀。それ以外は無い。従者も、侍女も、護衛も。

 これが私の出した条件。輿入れにおいてラディカル国に向かう際は、私の自由であること。一切の要求は聞かない。そしてその自由の結果が、私一人でラディカル国へ向かうというもの。


「お前はどこに行くつもりだ…」

「あらいやだわ、ラディカル国の王妃になりますのよ、私?」


 何を今更、とすっとぼければますますもって呆れるお父様。これが今生の別れになるかもしれないのに、こんなやりとりが私たち親子らしい。ちなみにお母様はこんな輿入れの姿の娘は見たくないと、昨晩別れは済ませてある。


「まったく…リリスには呆れるばかりだ」

「仕方ありませんわ、お父様の娘だもの」

「まったく……その減らず口も、今日限りか」


 シエルにまたがる私を見上げるお父様。その顔に、こみ上げる何かがある。ハルバードを地面に刺して固定し、シエルから降りる。そして、お父様に抱き着いた。


「行ってまいります、お父様」

「行ってきなさい、リリス」


 お父様と、お母様と、屋敷のみんな。16年ともにした家族に別れを告げ、一滴の涙をその場に残して私はラディカル国への旅に出た。




 道中はすこぶる順調だった。多少盗賊の類に襲われるかも?と思ったけれど、シエルという巨躯の馬に、ありえないサイズのハルバード。その二つに恐怖したのか、何にも襲われなかった。豊富に持たされた資金のおかげで、宿はその街の一番良い宿に泊まり、じっくり疲れを取る。

 

 そして、いよいよ国境。ここを越えればあとはいよいよラディカル国。既に国境の警備兵には事情は通達してある。何の問題も無く素通りし、いよいよラディカル国に入った。あとは王都を目指すのみ。


 ……だったのだけれど。


「では一泊お願いするわ」

「は、はははははいぃ!」

「………」


 全身を使って恐怖を表現されるとそれ以上何も言えなかった。

 『黄金の死神の鎌』の異名は、ラディカル国全土で知れ渡っているらしく、ところによっては泣く子を黙らせる常套句だとか。

 こうして途中の街の宿に入り、名簿に記帳すると私の名を確認した店主が震え上がった。


(こんなんでやってけるのかしら…)


 私が、じゃない。国王が、である。こうまで国民に恐れられる女を王妃に娶り、その後の治世ができるのか心配になってきた。ちなみに私の頭の中からは、私が『人質』扱いという懸念はとうに消えてるわ。

 二階の泊まる部屋へと向かう。街一番と思われる宿だけあって、部屋の内装は整っていた。これでも一応辺境伯家の令嬢なので、その辺を見る眼はある。とはいっても、小さな町の一番…なので、普通の貴族なら止まるには難色を示す程度には…まぁぼろい。戦闘服を少しだけ緩め、伸びをする。シエルとハルバードは近くの厩舎に預けてきた。さすがに常人の倍の長さがあるハルバードを室内に持ち込むことはやめた。

 夕飯は、部屋に運ぶのと食堂で食べるのとどちらかと聞かれ、食堂と答えた。その瞬間、店主の顔が絶望に沈んだのは見なかったことにした。せっかくのラディカル国初めての宿泊、少しは国内事情というのも把握しておきたかった。そういう意味では夕飯という酒も入って本音も出やすい場は恰好のポイントだ。


 時間になり、下りていくと既にそこは賑わっていた。1日働いた者たちがその日の疲れを癒すために酒に酔いしれる。よくある光景だ、と思いながら隅の空いている一席に腰を下した。


「ご、ごごごご注文は!!」


 すると、下した直後に店員と思われる娘…多分私と近い歳…が聞きに来た。おそらく、店主にわずかな粗相もしないようにと言われているのだろう。気の毒なほどに怯えている。

 …なんだろう、さっき国王の心配をしたけれど、自分の心配もしてきた。こんなに怯えてばかりいられては別の意味でこちらが参りそう。

 メニューを広げ、さっと目を通し、そしてぱたんと閉じた。


「子牛のフィレステーキセット、あとは10年物のワインをお願いね」

「は、ははははい!」


 注文を受け付けた娘が脱兎のごとく厨房へと向かう。ちなみに今頼んだものは、この店で一番高価なメニュー&飲み物。本当は店のおすすめをいただきたかったけれど、ここでは少しパフォーマンスも兼ねて頼んでみた。

 料理を待つ間、隅から店内を眺めれば、酒に酔いしれる客の中からいくつかぶしつけにこちらを睨みつける者が数名。果たして、そのにらみつける理由が何か。私を『鎌』と知っての行為か、それとも高価なものを平然と頼む貴族娘への妬みか。

 そうしてしばらくして、頼んだメニューが到着した。


「お、おおおお待たせしました!」


 皿に乗ったほどよい焼き加減のステーキ、それにパンとサラダ。ソース。ワインは店主直々に注いでくれるらしく、瓶とグラスを手にした店主が現れ、震える手でコルクを開け、グラスに注いでいく。


「ありがとう」


 漂う香りに、震えながらも仕上げられたメニューはなるほど一流のシェフの出来と見まごうほどだ。

 素直にお礼を言えば、「滅相もございません!」と首が取れそうな勢いで頭を下げられ、これまたすぐに厨房へと引っ込んでいった。


(どれ……)


 ナイフとフォークを手に、ラディカル国初の食事に取り掛かる。


「へぇ…」


 つい感嘆の声が漏れた。フォークの刺さり具合、ナイフの切り具合、そのどれもが極上の柔らかさを感じさせてくれる。一口サイズに切り分け、口に運べば溢れる肉汁と適度な下味が舌を満足させ、焼けた肉とバターの香りが鼻を満足させてくれる。


(これはワインが進むわ)


 芳醇な香りを放つワインを口に含めば、香りのデュエットとばかりに鼻に抜けていく。思わず笑みがこぼれるほどだ。

 酒と料理に酔いしれていると、気付けばこちらを睨みつけていた視線が減っていた。


(……ふむ…)


 なぜかは知らないけど、まぁいいわ。

 そのまま料理を食べ終え、その後はおつまみにこれまた店で最高のチーズを頼み、それを肴にワインを頂く。

 とはいっても決して酔っぱらっているわけではなく、あちこちに聞き耳を立てて情報収集の真っ最中。民衆の話題の中心は新王についてだ。

 曰く、これまで他国からの資源頼りの政策から国内資源を活用した輸出政策への転換。そのための国内整備に力を入れ、あちこちで街道が整備されている。そのための工夫があちらこちらで募集。結果として各地での盗賊の被害が減っているとか。

 確かに盗賊に堕ちる理由の一つが、働き口が無いこともある。それも踏まえての施策だとすれば大したものだこと。

 それ以外は今日の現場はどうだの、街を統治するお貴族様がどうだの……まぁどこにでもある不平不満。


(ぼちぼち切り上げましょ)


 まだ王都への距離は長い。今のペースであと5~6日くらい。疲れを溜めないように、早めに就寝することにした。

 最後の一口を飲み干し、席を立つ。その瞬間、食堂の空気が少し変わった。それはわかったけれど、気にすることでもない。そのまま厨房へと進む。


「店主」

「は、はいい!な、なななにか粗相でも!?」

「お料理、大変美味しかったわ。ありがとう」


 そう言い手を差し出すと、店主はその手を見つめ、握手を求められていることに気付いた。慌てて近くのタオルで手を拭きだす。それでは足りないとばかりに新しいと思われるタオルも取り出し、逆に痛々しいと思えるほどに手をゴシゴシと、まるで磨くように拭いていく。


(そこまでしなくても…)


 そう思いつつ、わざわざそれを指摘することもない。おずおずと差し出された店主の手を、私は両手で包み込む。その際、こっそりと手には金貨を忍ばせて。


「えっ、あの」


 私の手が離れた後、自分の手に金貨が残されていることに気付いた店主が驚きに顔を上げる。私は人差し指を唇に当て、微笑む。


「朝食、楽しみにしているわ」

「は、はい!」


 頭の残像が見えそうと思うくらいにの速さで下げられた頭に、やっぱり内心は苦笑してしまう。

 これもまたパフォーマンス。貴族としてお金は使いつつ、礼の心と、親密さを演出。決して傲慢さは出さない。かといって成金のような、金の亡者のような振る舞いもしない。だからこそ、チップとして渡した金貨の存在を知るのは店主のみ。客からは見えない位置というのも計算している。厨房を出て部屋へと向かう。



 翌朝。店主の技が込められた至高の朝食を堪能し、宿を後にした。宿を出るときには店主と店員の娘に揃って見送られてしまった。ちょっと気恥ずかしい。

 

 シエルにまたがり、また旅を進める。食堂の客の話の通り、街道のあちこちで工事が行われていた。それに駆り出される人夫の数も多く、これなら盗賊業をしている暇もないでしょう。


(…意外に、平和ね)


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