エロイム
眼を開くとそこには新しい世界が広がっていた。
どこまでも続く草原が、駆けまわる風の影を私に見せた。
「うわ!」
不意の強い風が吹き、私は押し倒されて草の上に倒れこんだ。
温かい。空には太陽らしきものが輝いて、ポカポカしていた。
なんだか眠くなってきたな...
私はゆっくりと目を閉じた。
「タ...テ...。コ...ダ...」
何だ?遠くから声がするような...
眼を開くと、私の腰ほどの大きさの体から羽を生やした緑色の生物が私を取り囲んでいた。
頭は禿げていて、口は耳元まで避けている。瞳は深海魚のように曇っていて、耳は尖っていた。手足や胸は骨が浮き上がっていてがりがりなのに、腹だけは異様に膨らんでいた。
そしてそのがりがりの胸には何やら紋章のようなものが彫ってあった。
「んな!うわーー!」
私は飛び起きた。
「ウギャー―!」
その奇怪な生き物も飛びのいた。私の周りには円ができた。
私はどうしたらいいかわからなかった。逃げてしまおうか。それとももうちょっと様子を見ようか。
そんなことを考えていると、漆黒の塊が近づいてきた。
手とも足ともつかない触手を大量に生やし、体中に目が付いている。鋭い牙が大量についた口が、壊れたジッパーのようにバカみたいに開きドロッとした粘液をまき散らしている。おぞましく、この世のものとは思えない化け物だ。
化け物は黙り込んだ。私も化け物もうんともすんとも言わない。
ただただ沈黙が続いた。
「オマエ、ナゼ、ココニ、イル?」
急に私と同じ言葉をしゃべりだした。
ここにいてはまずいのだろうか?
「えっと、私は違う世界から来ました。もしここにいるとまずいならすぐに出ていきます。」
「ココ、テンジョウ。オレタチ、イバショ。」
テンジョウ?空の上ということだろうか?そんなところに僕は来てしまったのだろうか?
試しに草原を私は進んでいった。
数百メートルほど進むと草原が途切れていた。そこから下をのぞくと、眼下には広大な大地が広がっていた。この大地は空の上に浮かぶ雲の一つだったのだ。
たしかにここは天上のようだ。
「君たちは...」
私が言葉を発した直後、何やら鐘の音のようなものが響いた。
「オマエ、カエス、チジョウ。」
化け物がそういった瞬間、私は気を失った。
気が付くと私はベッドの上で眠っていた。
ここはどこだ。今回はよく眠るな。
「おや、起きたようだね。」
ほの暗い部屋の中で男の声がした。
「君、気を失って倒れてたんだ。いったいどうしたんだい?」
「私は...」
私は天上でのことを話そうとした。だがなぜか、それについて話そうとした瞬間に声が全くでなくなった。
男は急に黙り込んだ私を見て、
「まあ、いいたくないならいいさ。」
男は言った。
「さて、私はそろそろ教会に行かなければ。君もよかったら来なさい。」
別にすることもなかった私は彼についていって教会に行った。
まあ、行くと言っても私がいたのは教会の敷地内にある男が寝泊まりしている小屋だったのだが...。
真っ白に塗られた壁に鮮やかな青の屋根。
重厚な木の扉を開けて中に入ると、長椅子が規則的に並び、燭台にはろうそくがのっていた。
一番奥には教壇があり、美しい女性の像があった。
彼女は優しく微笑みながら目を閉じ、両の腕を前に向かって開いていた。まるであらゆるものを抱きしめようとしているかのように。
彼は教会につくと、燭台に火をともし、裏の井戸で水浴びを終えると、教壇に立った。
そのころには人々が続々と教会に来ており、教会の中は人であふれていた。
そんな中で彼は説教を始めた。
宗教になんて興味はさらさら無いが、一応最後まで聞いていた。
あくびをしながら美しい女の像を眺めていると、どうやら説教が終わったみたいだ。
男が教壇から降りてきた。
「さて、私と一緒に買い出しに付き合ってはもらえないだろうか。。」
断る理由もなく、私は男と街に繰り出した。
町では出店が並び、市場が開かれていた。活気にあふれ、みんなはつらつとしていた。
「おお、神父様。今日はいい魚が入っているんだ。何匹かあげるよ。今後もよろしくな!」
魚屋のおじさんが男に話しかけた。
「それはありがたい。エルマ様の祝福があらんことを。」
そう言うと男は手を合わせた。
鮮やかな黄色の筋が腹に入った赤い魚を3尾、ひもで尻尾をくくって渡してきた。
私はそれを持って引き続き神父について回った。
その後も野菜に果物、パンに酒と、それぞれの店で様々なものをもらった。
なんて信心深いんだ。この世界の人は!
私は心底驚いた。
「みんなその、エルマ様ってのを心底信じてるんですね!」
私は男に聞いた。
「信じるも何も実際にいるからな。」
男は答えた。実際にいるだと?
「さて、材料は十分そろった。かえって昼食を作らなければな。」
私たちは教会に足を向けた。
教会の食事と言えば野菜スープとパンとか、そんな質素な食事なのかと思っていたが、市場でもらった食材もあって、それなりに食べ応えのある食事だった。
「さて、そろそろお供えをしないとな。」
そう言って男は教会にあったあの美しい像の前に食事を置いた。
「その像がエルマ様の像なのか?」
私は聞いた。
「そうだ。いや、エルマ様そのものと言えるかもしれない。」
そう言ったのもつかの間、私が天上で見た黒い化け物がどこからともなく表れ、お供えの食事を食い始めた。
「あ...あ...」
しゃべろうとしても声が出ない。
たしかに私は驚いていたがそうではない。その黒い化け物について話そうとすると声が出ないのだ。
「どうした?確かにふいに食事が虚空に消えていっているんだ。初めて見るのなら驚くことも無理はない。」
男は言った。
彼にはこの黒い化け物が見えていないのだろうか。
「エルマ様は我々の目には見えない。しかしお供え物はしっかりと食べてくださるし、我々の願いにこたえて今まで何度も奇跡を起こしてくださった。だから我々は彼女を信じているのだ。」
か、彼女だと?見える僕には女かどうか以前に化け物にしか見えないのだが。
バタン...
急に教会の重い戸が開いた。
見ると若い女が子供を抱えて顔面蒼白で立っていた。
「神父様!娘が!娘が!助けてください!」
「落ち着きなさい。まずはしっかりと説明をしてくれるかね?」
男は冷静に話しかけた。
黒い化け物は食事を止め、その子供を凝視していた。
口が大きく開き、最初に見た時よりも大量の涎を垂らしている。
「娘が井戸に落ちたんです。底から引っ張り上げることはできたのですが、意識が戻らなくて!どうか。どうか神の慈悲を!」
女はすがるように言った。
膨れた、もうピクリとも動かない女の子の体を抱えると、男はエルマ様とやらの像の前に運んでいった。そして拝んだ。
「エルマ様。我らが母なるエルマ様。どうかこのいたいけな少女を救いたまえ!」
すると私にだけ見える黒い化け物は咆哮をあげた。すると天からあの小さな緑色の化け物が降ってきた。そして、その化け物たちは女の子影のようなものをつかんで引っ張ってきていた。すると黒い化け物どもは、その影を触手で貫き、さらにその触手で女の子の肉体を貫いた。
「ゴ...ナ...。ユル...テ」
緑の化け物は、何かをつぶやいていた。
カハー...!
女の子は目を大きく見開き、息を吹き返した。
その子を抱いてきた女は涙を流しながらエルマ様を賛美した。
「ああ、エルマ様!ありがとうございます!」
女は像に向かって頭を地面にこすりつけていた。
私はふと気が付いた。
女の子の胸、ちょうどあの化け物が触手で貫いたところだろうか。そこに不思議な紋が浮き上がっていることを。そして、それはあの緑の化け物どもについていたものに似ている気がした。
「おお神よ!何たる奇跡か!」
神父は狂ったように叫んでいた。