#01 変身
大雨の日だった。傘を忘れた私は駅の地下通路で雨宿りをしていた。どうにも止む気配はないらしい。天気予報は曇りだったのだけれど。
「うーん」
唸っても雨は止んではくれない。どうにか地下を経由して家までダッシュで帰ることにしようと考えていた。
「?」
考え事をしていた私の目に奇怪なものが映る。
暗めの赤い表紙の本。暗いけれどどこか上品な色合いに、見たこともない文字が躍る表紙。学校で使うノートくらいの大きさだけど、厚さは辞書みたいに分厚い。
思わず、手に取ってしまう。分厚い見た目とは裏腹に重さは全然感じない。紙の束とは思えなかった。雨の地下通路なんて泥汚れがついてしまいそうだけれど、さっき誰かが置いていったかのように汚れは少なかった。
ペラペラとページをめくっていく。表紙同様、やはり見たこともない文字が中身をつづっている。どこの国の文字でもないそれは読めるはずもない。
と少しずつめくっていく手が止まった。
「……『切る者』?」
本の文字は相変わらず知らない形だが、どこか、頭の中にぼんやりと一綴りの文字列の意味が浮かぶ。
おかしい。だってその文字は声にしようとしたって読みようがないのに。
他の文字列に目を移す。やっぱりわからない塊ばかり。
再びページをめくって、再び手が止まった。
「『変身』……?」
先ほどとは違う形の文字。でも頭の中でその文字の意味を解き明かす音がした。
少しだけ、ぞっとする。なんだか気味の悪い書物だと感じて。でも少しだけ興味がわいて、捨てようという意思が消えた。あとでもう少し読んでみよう。
そう思って鞄の中にしまって、ふと歩き出そうとして前を見ると。
ぬっと私より大きい人影が立っていた。
「ひっ」
悲鳴が出てしまった。天井のライトで逆光なその影は私にさらに近づく。
「きみ、今何か持っていなかった……?」
凛とした声で私に語り掛けてきた。警察か何かと感じた私はすぐにさっき拾った本を差し出す。
「ふむ」
そういうとその人物は手袋をつけ始める。まるでこの本が宝石か何かの貴重な品であるかのように。
少しずつその人物の顔が見えてきた。女性だ。凛とした雰囲気の風貌と、私よりすらっと長い背丈、首より上のショートカットヘアに一房の明るいメッシュ、そして青い目。どうも外国の人のようだった。でもさっき掛けてきた言葉は外国人のような違和感はなかったな、と謎が深まる。
本が渡ると彼女は慎重に本の中身を精査していく。彼女が持ち主なのだろうか? それにしては扱いが慎重すぎる気がする。この様子はまるで他者の持ち物の『鑑定』だ。
「間違いないな」
そう言い放つと、彼女はこちらを向く。
「ありがとう」
予想していなかった言葉に?が頭に浮かぶ。
「私が探していたものだよ」
「私はクレア。この本を取り扱っている図書館の司書だ」
クレアと名乗った人物に挨拶をする。
「この本はね、うちの図書館から事件で紛失したものだったんだ」
紛失した、という割には随分ぞんざいに置かれていたと振り返る。
「……どうしてこんなところに落ちてたんでしょうかね」
問いかけると、あやふやな答えが返ってきた。
「あー……おそらくこの本自身がさまよっていたんだろう」
「……はぁ」
少し考える。もしかして宗教とかスピリチュアルとか言い出す、そういう危ない人間ではないのだろうか。すこし警戒度を上げる。
「ああ、その顔は信用していない顔だな」
女性はそう語りかける。それもそうだ。本が勝手に歩いていくようなことなんて、万に一つもないのだから。
「ふぅ」
一息、クレアさんがついた。
「これは、普通の本じゃない」
この人が一体何を言っているのかだんだんわからなくなってくる。
「普通の本じゃない、っていうのはどういうことなんですか?」
うーん……と頭を悩ませるクレアさん。
「あれはー……その……が、学術本なんだ」
「それのどこが普通じゃないんです?」
「学術、というか……魔術」
うわ。本当にヤバイ。堂々とそういうおっかない発言をしてくる人間に初めて会った気がする。
「魔術本ってなんですか」
「そういう本なんだよ」
「そういう本って何なんです」
「そういう本はそういう本」
腑に落ちないがどうにもこれ以上詳しくは話してくれなさそうだ。
ふとして、話題を少し変えていく。
「そういえば、この本の言葉ってどこの言葉なんですか? どうも見たことない言語で書かれていて」
「あぁ……」
「ちょっと読めるようなところがあったんですけど」
そう話した途端、クレアさんの表情が一気に変わった。
「何……!?」
ありえない、と驚いた顔だった。
「この本が読めただと……? 君はこの土地の人間だよな?」
「そうですけど……」
おかしいな、と表情を曇らせる。
「まさかな……」
一人で考え込んでいくクレアさんに説明を求める。
「どういうことなんですか?」
「うーむ。説明しづらいが……」
何かを切り出そうとした瞬間。地下通路の電灯が急に明滅し始めた。
「……なんだ?」
「停電……ですかね?」
今日は大雨。もしかして雷を伴って強くなってきたのかもしれない。そう思っていると電灯はプツン、と消灯を選んでしまった。辺りを見渡すと非常口の電灯しか点いていない。
「弱ったな、これでは」
「動けませんね」
暗い中でクレアさんに話しかける。
「いや、これを使うしかないか」
途端、目の前がピカッと眩しくなった。
「ライトですか……?」
「……魔術だ」
耳を疑う。電灯にずらされた話題のレールが急修正される。
「魔術……」
息をのんで、光の元をたどる。クレアさんの右手の上で光り輝く光源。そこにはライトと思わしきものも、ロウソクと思わしきものもなく、ただの石ころのような一点の光源だけがその手に乗っていた。
「あまり地上の人間に見せたくはなかったが、きみには見せていいものかもしれない」
その言葉の意味は、いまだよくわからなかった。
◆
クレアさんの明りを頼りに駅の地下通路を進んでいく。とはいってもクレアさんはこの土地にあまりなじみがないようで道は私が主導で進むことにする。
「クレアさんだんだん暗くなってきてませんか?」
「すまない、あまり魔術は得意ではないんだ」
「じゃあなんで使ったんですか」
「仕方がないじゃないか……」
そんな会話をよそに、一本の通路の筋に出る。すると、消えていた電灯が再び明滅し始める。
「復旧してきたみたいですね」
「……」
「クレアさん?」
「シッ」
口を押えられ、遠くへ視線を投げるクレアさん。その先を目でたどる。
何か、見慣れないものが照らされては消えている。人型だけど、あれは明らかにただの通行人じゃない、すごくがっしりした西洋風の鎧のような何か―――。
そして……明るくなるたびにこちらへ、徐々に、近づいているような気がする。
「逃げるぞ」
ぼそっとクレアさんが発すると同時に、その鎧はこちらへと大きく踏み込んできた。反射的に私たちは来た道を全力で戻っていく。
後ろから迫ってくるのがわかる。あの重そうな鎧なのに足が速いのがわかってしまう。
「こっちだ!」
クレアさんに手を引っ張られ、そのまま駆けていく。この先は……地下駐車場だ。障害物で身を隠す場所としては有利な場所な気がする。
駐車場にたどり着いてすぐ、私たちは近くの大型車の後ろに身を隠した。
「やり過ごして逃げるんですか?」
「そう行きたいがな……」
光の魔術を消しながらそう言い惑うクレアさん。
「ところであの鎧は何なんですか!?」
「変質者……じゃないな、たぶん。狙いはきっとこの本だ」
大切に握りしめている赤い本。
「魔術書と言ったろう? 魔法を使う人間もいるんだ」
「……魔法使いってことですか?」
「おそらく」
魔法使い―――。こういう場面でなかったら、もっとファンタジーな存在に喜んでいたであろう単語。よもや私がその『魔法使い』に狙われる日が来るなんて……。
「その本が狙いなら、渡したほうがいいんじゃないですか!?」
「いや、この本を狙うヤツは渡したところでそう穏便に済ます連中じゃないさ」
「……」
「そう考えると逃げる一択だ」
不利すぎる。そういえばさっきこの人魔術は苦手だって言ってたような気がするな。
「クレアさんの魔法でどうにかならないんですか!?」
一応、聞いてみる。
「言ったろう、得意じゃないって。だからどうにかして一緒に脱出することを考えるんだ」
……。クレアさんの手元の赤い本を忌々しく私は見つめた。
「……その本」
「? どうかしたか?」
「……その本は、使えないんですか」
一瞬、驚いたような顔をして、そして、
「……読んだところで私にはどうにもできない」
「じゃあ、私が!」
思わず大声になってしまう。早くこの状況を打開したい。
「……。……確かさっき少し読めたと言ったな。この本が」
「読んだらどうにかできませんか」
「―――可能性はある。あるが……」
「じゃあ」
「その場合、きみはこの本の抗争から逃げることはできなくなる」
「えっ」
一瞬意識が真っ白になる。
「この本は本来、この土地の人間が読んでも知ってもいけない代物なんだ。読んでしまえばこの本の内容を知るものとして狙われるし、そうなった以上私とここでサヨナラバイバイ、というわけにもいかなくなる」
「……私は……」
「でも、いいかもしれないな」
フ、とクレアさんの口元が綻ぶ。
「私もお手上げだ。ここからきみだけでも安全に逃がす手立てもない」
そう適当に告げた。
「私が色々サポートすることにしよう。じゃあ、……ここから読み上げてみてくれ」
そういうと、クレアさんは本の3分の1くらいのページを開いて見せてきた。
「……」
大見得を切ったけど……これは……。
「読めるか?」
本の文字をじっと見つめる。……読めない。
「クレアさん……その……」
「コツを教えよう」
私の苦い回答を遮るように彼女が言い放つと、私の手を取り、本に触れさせた。
「読むだけではなく、自分の五感すべてで感じ取ってみることだ」
ページに刻まれた文字を、手で触っていく。顔を近づけて匂いを嗅いでみる。舐めるのは流石に遠慮しておく。
「……どうだ?」
「……!」
手でなぞった文字。なぞった先から、その意味が頭の中に流れ込んでくる。
「"……これにて骨組みの構築を完了する。構造の展開は"」
「来たか!」
「"この書を読める状態で以下の詠唱にて起動する。『change ; cutter circus』"」
そう読み上げた途端、赤い本が光りだし、ふわりと浮かびだす。
「うわっ!?」
「おお……おお……!!」
クレアさんもまるで初めてそれを見るかのような、そんなキラキラした目で赤い本の行く先―――私のほうへ視線を持っていく。
「何ですかこれは!?」
赤く眩しい光となった本が、私の体を覆っていく、まるで何かの服を装着するような……。
「"変身"だ。」
「え?」
瞬く間に赤い光は輝度を落とし、その輪郭を表した。さっき感じた感覚、服を装着するような感覚は正解だった。さっきまで学校の制服を着ていたのに、全然違う……普通の人の私がイメージするような『魔女』の服……を身にまとっていた。
「きみは『魔女』へと変身したのだ」
……これが、私の魔女デビューとなった。
◆
知ってはいた。もうあの鎧姿はすぐそこにいたことを。私が"変身"した時の光は、ヤツにも見えていたであろうことを。変身後、鎧は私たちの目の前に立ちはだかった。
「『cutter circus』……その魔術構造は『切断する武器』の扱いを得意とする。どうだ、何か武器を想像してみてくれ」
急にクレアさんが説明したので慌てて想像する。マンガやアニメのキャラのように、この魔術も応えてくれるかもしれない!
手と手を組んで、武器を、と念じる。ふと、左腕の傷が目に入る。この傷は―――。
ウーーーーッ! と何かが唸る。視線を前に投げると鎧はこちらまであと一歩、というところまで近づいていた。
「危ないっ!」
「ッ!」
鎧が持っていた武器―――長剣を私に振りかぶってくる。私はそれを止めるための武器―――背丈ほどもある赤銀のハサミの背で迎え撃つ。
がきん、と金属同士がぶつかる音がする。
「ハサミ……?」
きっと剣や槍といった類のものを期待していたクレアさんの声が聞こえる。私にもなぜ手元にハサミが来たのか、それはわからない。でも今は、これで奴をやっつけるしかない!
「……うおおっ!!」
思わず吼える。すると私の持っていた得物がほんの少し、熱くなって。同時に鍔迫り合いをしていた相手の剣にヒビが入った。
「はっ!」
相手の鎧から、息が聞こえた。直後、ハサミは長剣を真っ二つに切り分け、鎧はそれを見越して後ろへ退く。私が武器を押し込んでいた力が空回って、ハサミが床まで切りかかる。丈夫なアスファルトの床はいとも簡単に、ぱっくりと刻みが入った。
「……」
視線は鎧から離さず、床に刺さったハサミを引き抜き、構える。鎧の様子はさっきのような覇気ではなく、戸惑い、うろたえるような雰囲気を纏っている。
私は睨みつけるように相手を見る。暗くて姿は見えない、鎧兜のスリットの奥を。
しばし見つめあった後、相手は折れたようで、手の折れた長剣を"消した"のち、どこか遠くのほうへ駆け出して行った。
―――終わった。
そう思ったとたん、ふらり、と全身から力が抜けて座り込んでしまった。
「大丈夫か!?」
後ろで見守っていたクレアさんが駆け付ける。
「はい……何とか」
「ふう……見ているこちらも緊張したさ」
心底安堵したように彼女は言う。
「だが……見事だったぞ」
「見事……?」
「『魔女』のデビューとしては、あまりに輝かしかったってことだ」
「輝かしい……」
「まるで私が目指した……いや……」
「?」
「とにかくこれで帰れるな」
そうだった。帰る途中だった。そんなことを忘れるくらい、一心にコイツを振るっていたのだと地面に転がるハサミに目をやる。そうして、ふと頭に浮かんだ質問をぶつける。
「あの」
そうクレアさんも発していた。クレアさんが私に譲る。
「あの、この服、どうすれば戻れますか?」
「あー……書いてないか? 本に」
私の服に言いかける。服に文字など書いていない。
「どこにも書いてないですよ」
「書が『魔術構造』となったわけだ。構造のどこかに変身解除の文言がありそうなとこはないか? 私の記憶が正しければ変身の詠唱のすぐあとにあった気がするが」
「そんなこと言ったって」
そういって、さっき読み上げた詠唱部分を思い出す。すると不思議なことに、さっき視界にも入ってなかったはずの後の文章が頭に浮かぶ。
「『感じた』か?」
「あ……たぶんこれですね」
その文言を口にすると、魔女っぽい帽子、服装、マント、ハサミ、すべてが赤い一つの光に集束する。それを手に取ると、さっきまであった赤い本が現れた。
「よかった」
ちょっと前まで着ていた制服を眺めて同じことを心のなかで呟く。何事もなく帰れそうだ。
「そういえば」
クレアさんが訊いてくる。
「その布、オシャレか?」
私の左腕に巻かれた黄色いバンダナを差した。
「そうです」
迷うことなく私は答えた。
地上へ出ると、雨は上がり、一筋、晴れ間がのぞいていた。