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前篇

 『自分自身のことが、一番分からないものだ』

 昔どこかでこの言葉を聞いて以来、僕はそれを認めたくなくて、ずっと……そう、ずっと探し続けているんだ。

 僕の名前はグレイ・ハント。ここクーレム帝国の帝都で、複雑化した人間社会に生きる人々の悩みに耳を傾ける"相談屋"を営んでいる。

 「さようなら、リッツさん。何かありましたらぜひまた当店へ……」

 「…わ、私は…記者としての正義を…」

 リッツと呼ばれた男はブツブツと呟きながら重たい足取りで僕の店から出ていった。僕はそれをニコニコとした営業スマイルでしっかりと見届けた後、自分の椅子に深々と腰掛け、足を投げ出すように組んでくつろいだ。

「あの調子じゃ、僕よりも精神科医に行った方が良さそうだな」

 依頼主が帰った後の店内は、まるで嵐が去った後かのように静かだ。新しく紅茶を入れたコップから湯気が出ていて、僕はそれを何となく眺めながら呟く。

 「やれやれ、興味深いと思ってこの仕事を始めたけど、何だか最近はマンネリだなぁ。もっと派手な事件でもあれば楽しいのだけど」

 ガチャリ。突然鍵の開いたかのような音が店内の隅にある扉から鳴った。

 おいおい、あそこはただの物置き部屋のはずなんだけど…まさか、泥棒でも入ったのか?

 僕は護身用の短剣を片手に持ち、恐る恐る音のした扉に向かった。ただのコソ泥なら、これで充分事足りるさ。

 僕は扉の前で息を飲み、勢いよく開けた。

 そこには、普段雑に押し込んである掃除道具や食料品の姿は見当たらなく、代わりに山程の量の本棚とそれに囲まれたように机と椅子が綺麗に並べられていた…。これはまるで…。

 「……図書館?」

 「そこに居るのは誰?」

 声のした方向に目をむけると、そこには本を抱えた書記らしき女性の姿があった。年は20代そこそこか? 腰まで伸びた長い栗毛色の髪をなびかせ、彼女は鋭い視線を僕に向けた。

 「君こそ何者だい? 僕は自分の物置部屋の扉を開けたはずなんだけれど? もしかして、僕は気でも狂ったのかな」

 我ながら不格好な苦笑いを浮かべていると、目の前の女性は意外にも冷静な口調で話し始めた。

 「あなたが何者か、そしてどうやってここに来たのかは分かりませんが、あなたは気が狂っているわけではないと思いますよ」

 「それって、どういう意味? 」

 女性はこほんと一つ咳払いをすると、椅子に座り自分の本に目を通しながら再び話し始めた。

 「私はミン・エイと言います。私が知っているのは、たったそれだけです。私は自分の名前以外、何も分かりません。ここがどこなのか、どうして私はここに居るのか。そして…」

 「どうして突然、あなたがこの閉ざされた空間に現れたのかも…分かりません」

 僕は目の前の女性の話を聞くと、ポリポリと頭を掻きながら今度は作り笑いを浮かべてミンさんに問いかけた。

 「じゃあなんだ? 僕は小説の主人公みたいに現実じゃない世界に迷いこんだって言うのか? それってさ、本当に馬鹿馬鹿しいと思うのだけれど」

 「そうですね、あなたの言う通りです。こんなのは非現実的過ぎる。私があなたでしたら、到底信じることはできないと思いますよ」

 ミンさんは、本から一時も目を離すことなく淡々と答えた。まるで、僕になんか興味のない様子だ。

 「ちょっとちょっと、人と話すときは目を見て話そうよ。少し感じが悪いしさ」

 「それは失礼しました。ところで、私はまだあなたの名前を存じていないのですが、宜しければあなたが何者であるのか教えてくれませんか?」

 ミンさんはそんなことを言いながら相変わらず本を読むことはやめないようだ。僕はやれやれと肩を落とすと、簡潔に自己紹介を始めた。

 「それは失礼…僕はグレイ。グレイ・ハント。相談屋っていう風変わりな仕事をやってたりするよ」

 「相談屋……確かに聞き馴染みのない仕事ですね。どういった仕事なんですか?」

 「大体は文字通り、色々な人の悩みごとを聞いて、相談に乗るのさ。仕事だったり、恋愛だったり、トラブルだったりの解決策を僕なりに考えて提示して依頼主をサポートするってわけ」

 ミンさんは、僕の仕事の話に興味を持ったのか、本を読み進める手を止めたようだった。

 「それは、ますます珍しい仕事ですね。うん、実に興味深いです」

 「そう言っていただけるとは光栄だよ。ミン・エイさん。ところで、君はどうしてそんな熱心に本を読んでいるんだい? 」

 「……私は、ずっと探しているんです」

 ミンさんは、少し寂しげな表情を浮かべてそう呟いた。



 僕の名前はグレイ・ハント。偉大なるクーレム帝国で相談屋を営む善良な一般市民。ある日、自分の店にある物置部屋の扉を開けると見たことのない空間が広がり、そこには一人の女性の姿が…

 なんて、自分の中で振り返ってみたけれど、あまりにも馬鹿馬鹿しい。でもそれが今目前に広がってる現実なのだから、なんともできない。

 「……ねぇ、グレイさん。聞いていましたか? 」

 「え? ああ、そういや君が何を探してるのかって僕が聞いてたんだっけ。悪い悪い、もう一度頼むよ」

 目の前の書記のように身なりの整った女性、ミン・エイは仕方ないですねとでも言いたげな表情のまま、語り出した。

 「……先程も言いましたが、私は自分の名前以外何も分かりません。何処で生まれ、何処で育ち、何を見て生きてきたのかさえも……」

 「えっと、記憶喪失? 」

 「かもしれません。それで私は、自分が何者かを知るために、本を読むのです」

 「へぇ、それはなんで? 確かにここには退屈を凌ぐことができそうな本は山ほどあるように見えるけれど、それが君の記憶を取り戻す鍵とはまた違うんじゃないのかな? 」

 我ながら初対面の相手にしては随分皮肉っぽいなとは思うが、まぁいいや。多分ミンさんは気にしていないみたいだし。

 「グレイさん。ここにはたくさんの物語があります。人が書いた、その人の価値観や思想を反映させたような興味深い物語達が。これらに触れると私は自分がどのように感じたのかを知ることができるんです」

 「一つひとつの作品には、一言で形容できない胸に響く何かを感じます。こうしたものに触れていけば、私は自分がどんな人間なのか知ることができると思うのです」

 淡々とした口調でミンさんは語る。僕はそれを聞くと少しだけ彼女が気になりはじめた。

 「面白いね。自分が何者か分からないなんて実に不安で嫌でしょうがないはずだと思うんだけど、ミンさんはどこかそれを楽しんでいるみたいだね」

 「……」

 僕は少しだけこの状況を理解し始めた。というのも、どうして僕がこの空間に導かれたのか、ミンさんの話を聞いて閃いたとも言える。

 「……実はね。僕も、ずっと探している」

 「……え?」

 ミンさんは少しだけ驚いたようだ。

 「考えてもみてくれよ。何で僕は相談屋なんて風変わりな仕事をやってると思う? それはね、僕は知りたいんだ。人間ってどういうものなのかをね。そして、僕自身は一体どんな人間なのかを」

 僕はミンさんから顔を逸らして、自分の話を続けた。

 「昔から、僕は自分がどんな人間なのかを知りたかった。周りの評価の中の僕じゃなくて、自分が本当はどんな人間で、どんな本性を持っているのかをね。そのためには、まず人間というものを理解することが大切だと考えたんだ」

 「それで、多種多様な人々と関わり合うことを常に優先するようになって…気づいたらこんな稼業を始めてたってわけ」

 一通り話を終えると、僕はミンさんの方向へ向き直った。彼女は相変わらず本に目を向けているが、最初の頃よりも何処と無く僕に興味を抱いているようだ。

 「では、私とあなたは似た者同士ということですね……だから、あなたはこの空間に導かれたのかも……」

 「多分ね。でも、言っておくけど、僕は本だけで人間が分かるとは思わないから、僕は僕のやり方で探させてもらうよ」

 「そうですか…では、もうこれで…」

 「でも」

 僕はすかさずミンさんの言葉を遮った。

 「僕が出会う数々の"物語"は、君の探求の手助けには十分なると思うよ」

 「……何が言いたいのですか? 」

 僕はニヤリと笑いながら彼女のそばに近づいた。

 「これからたまに、君を恐ろしくも素晴らしい物語に招待してあげるよ。僕が出会った人間たちの物語へとね。僕が思うに、ただここで本を読むだけでは経験できない貴重な体験を君にさせてあげられるはずさ」

 僕はやや大袈裟に両手を広げて話してみせた。ミンさんは初めて本から目を離して、こちらを見上げた。

 「あなたは、本当に変な人ですね」

 そう言い放つミンさんは、睨むような目付きであったが、口元はどこか緩やかであるように感じた。目付きさえ直してくれたら、もっと綺麗に見えるんだけどな。

 「で、ミンさんはどうだい? 僕とこれ以上関わるのは嫌かい? 」

ミンさんは少し考えるような仕草を見せたが、すぐ僕に向き直った。

 「私はずっとここで一人でしたので…まぁ、嫌ではないですけど…」

 「関わりたいってことだよね? もっと素直に言った方が可愛いげがあるよ」

 そう言うとミンさんは表情こそ変えないものの、こちらの背筋がゾッとするようなオーラを放ったので、さすがに言い過ぎたことに僕は気づいた。

 「おっと、まだこの後仕事が控えてるんだった。またね、ミンさん。近いうちにその顔があっと驚くような体験をさせてあげるからね。」

 「あの…それってどういう……」

 僕はそそくさと扉を開き元の空間…通常通りの僕の店の中へと移動した。

 念のため、もう一度あの空間に繋がるのか、ドアを開けようと思ったが、また戻るのもおっくうに感じて僕はドアに鍵をかけた。

 次にこの扉を開くとき、また彼女に会えるのだろうか。そもそも、彼女はこちら側に来れるのだろうか。様々な疑問が僕の頭をよぎったが、考えても仕方がないので僕は次の来客に備えて支度を整えることにした。

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