その1
1
日が傾いてきたとはいえ、まだまだ暑さ過ぎやらぬ八月中旬。
ビルの隙間を吹き抜ける風は生温く、足元では厳しい陽射しに晒され続けたアスファルトが溜まりに溜まった熱を吐き出しており、学校や仕事帰りの人々がいい加減にうんざりだといわんばかりの表情で家路についている。
そんな人々を尻目に、高峰彬の足取りは軽やかだった。
今は一日中、炎天下の下でモデルハウスの看板を掲げ続けるという日雇いバイトを終えた帰り道である。
大学が夏季休暇に入ってからというもの、彬はこうして下宿先兼バイト先である喫茶ふじ以外にも働きに出ていた。
もちろん、喫茶ふじでのシフトも夏季休暇仕様になっているため勤務回数も一日の勤務時間も普段より多めではあるが、そもそも大繁盛しているわけでもない個人経営の喫茶店だ。稼ぎたいからといって、毎日のように働かせてもらえるわけでもない。
そこで、ふじでのシフトに穴を開けない程度に日雇いのバイトなどを掛け持ちしているのだった。
特にこの二週間は、休みらしい休みが一日も無かったほどの勤労学生ぶりだった。
とはいえ、金が無くて生活に困っているというわけでは無い。
学費を出してもらっている手前、親からの仕送りにあまり頼りたくないと考えている彬だが、彼の口座には毎月、最低限の生活費が振り込まれてくるし、ふじでのバイト代は大学生の小遣いとしては十分だ。
ならば、何のためにそこまでするかと言えば。
大半の学生にとってバイトをする目的がそうであるように、欲しい物があるからだ。
服やゲーム、アクセサリーなど。若者が欲しがるものは数あれど、彬にとってのそれは実銃を模し、実弾の代わりにプラスチック製のBB弾を撃ちだす遊技銃、いわゆるエアガンと呼ばれるものだった。
その理由は、つい二週間前にバイト先の人たちに誘われて初めて参加したサバイバルゲームに起因する。
要するに、たった一度体験しただけのエアガンを使って戦うこの遊びに、彬はすっかり熱中してしまったのだった。
飲食店や流行りの店などが立ち並ぶ駅前の通りを抜けて、住宅街の中をしばらく進んだ先。十字路に面した一画に、時代を感じさせる洋風の木造建築が見えてくる。
それが彬の下宿先兼バイト先である、喫茶ふじだ。
入り口には喫茶ふじと店の名が刻まれた青銅のプレートが吊るされており、通りに面した大きなガラス窓からは落ち着いた明かりに照らされる店内が見てとれる。
ふじはカウンター六席に四人掛けテーブル一つ、二人掛けテーブル三つと小さな店だ。
見たところ今日の客入りは半分といったところだった。
期待と早足のせいで少し早くなった呼吸と鼓動を落ち着けてから、彬は入り口のドアに手を掛けた。
ちりん、という来客を知らせる鈴の音が、音量を抑えたジャズの流れている店内に響く。
「いらっしゃいませ。――ああ、彬君か。お帰り」
鈴の音にカウンターの奥にいた男性が振り向いて、彬に笑いかけた。
短く刈り込まれた黒髪を丁寧に撫でつけ、白いワイシャツの上から黒いエプロンを着けた、如何にも喫茶店のマスターという格好に、短く手入れされた口髭が特徴的なナイスミドル。喫茶ふじのオーナー、音無辰巳である。
「お疲れ様です、マスター」
彬はカウンターに近づくと、辰巳にぺこりと頭を下げた。
近くのカウンター席に座っていた顔馴染みの常連さんからもやあと声を掛けられたので、いらっしゃいませと会釈しておく。
「彬君もお疲れ様」
言いながら、辰巳は水の入ったグラスを彬の前に出した。小さなレモンの欠片が浮かぶお冷は本来お客さんへのサービスだが、ここは従業員特権ということにしてくれるようだ。
ここまで急いできたせいですっかり喉が渇いていた彬は礼を言ってから、一息でグラスの水を飲み干した。爽やかなレモンと香りと水の冷たさに、ほんの一瞬だけ真夏の蒸し暑さから解放される。
「ご馳走様です。それで、あの、マスター」
人心地着いたところで、彬はそわそわと辰巳に声を掛けた。
辰巳はそんな彬を微笑ましげに見つめながら、分かっているよとカウンターの下に手を入れた。取り出したのは段ボールの小包だ。
「はい、これ。ちゃんと受け取っておいたよ」
そういって差し出された段ボールを、彬は恭しい手つきで受け取る。小さいが、ずっしりとした重量のある荷物だ。
「すみません、マスター。こんなこと頼んじゃって」
小包を受け取ってから、彬は申し訳なさそうに言った。
この荷物が今日届くことは知っていながら、うっかり日中にバイトを入れてしまったため、辰巳に頼んで代わりに受け取っておいてもらったのだった。
「まあ、これも大家の仕事の一つかな」
頭を下げる彬に、辰巳は気にしないで良いよと笑い返す。
「いえ。本当にありがとうございました。次から気をつけます」
「いいよ、いいよ。そこまで深刻にならなくても。それにどうせ、僕は一日中店にいるしね。それより、早く部屋に戻って開けたいんじゃないかな?」
流石にここで開けるわけにはいかないからねと、段ボールの中身が何かを知っている辰巳が悪戯っぽく笑う。本心を見透かされた彬は気恥ずかしさから頭を掻きながら、もう一度辰巳にお礼を言って、そそくさと店の外へ向かった。
「ああ、そうそう」
その背中に、辰巳が呼びかけた。
「明日、楽しみにしているよ」
「はい。俺もです」
振り返った彬は、辰巳にしっかりと頷き返した。
そう。明日は待ちに待った、二週間ぶりのサバゲーなのだった。
2
店を出た彬は、そのまま喫茶ふじの建物の裏側へ回った。
そこにある外階段を登った先は短い廊下になっており、三つの扉が並んでいる。
喫茶ふじの二階部分を改築してつくられた貸し部屋の玄関口だ。
現在埋まっているのは二つ。そのうち一つ目の扉が彬の借りている部屋で、そこから一部屋挟んで一番奥の部屋が喫茶ふじの先輩従業員、赤羽充希が使っている部屋である。
喫茶ふじでは給仕の他に新メニュー開発なども手掛ける、彬よりも少し年上の彼女はモデル張りの美貌と抜群のプロポーションを持つ美人だ。しかし、そんな美女が二つ隣の部屋に住んでいるにも関わらず、彬には色恋の音沙汰もない。ばかりか、そうなる可能性はほぼ皆無だろう。彬が恋愛に奥手だからとかそういった理由ではなく。単に彼が充希の関心を惹くためには、あと十歳は年を取らねばならないからだった。
毎回、部屋に戻ってくるたびに感じる表現のしようもない謎の絶望感にもすっかり慣れた彬であるが、今日ばかりはそんな感傷に浸っている暇もない。
段ボールを抱えたままさっさと自分の部屋に入ると、六畳一間の真ん中に置いてある小さなろローテーブルの上にそれを安置した。それから、何故か座布団の上に正座した彬は妙に慎重な手つきで段ボールの蓋を止めているテープを剥がしてゆく。
詰められていた緩衝材の下から現れたのは、段ボールよりも一回り小さな長方形の箱。
拳銃の写真が大きく印刷されたパッケージには、その銃の名である“U.S M9”という文字が添えられている。
ドキドキするような、ワクワクするような気持ちを押さえつけながら、彬は蓋をそっと持ち上げた。入っていた説明書を取り出すと、その下には合成繊維の布で包まれた発泡スチロールの枠にパッケージに印刷されている拳銃の実物がぴったりと嵌め込まれている。
彬は無言でその銃に手を伸ばした。滑らかなスライド。ざらざらとしたグリップ。その一つひとつを慈しむように撫でてから、トリガーガードに指を掛けて枠から銃を取り出す。
ずっしりと拳銃が手の中に収まった。
言葉はない。
男子ならば一度は憧れるものをその手にした時、そんな無粋なものは必要ないのだ。
仕事帰りに一杯ひっかけに来た喫茶ふじの常連であり、辰巳のサバゲー仲間である佐々木剛明と渡邊亮真から、明日、サバゲーに行こうと誘われたのは三日前のことだった。
それから急遽、彬はこの銃の購入を決めた。
次のゲームにはどうしても、自分の銃を一つ持っていきたかったのだ。
しかし、手元にある小遣いではどうやり繰りしてもライフル系には手を出せない。
ならば、せめてサイドアームだけでもと、その日の深夜ネットショップを漁りまくり、手元の残金と口座の残高から今月自由に使える分を計算し、次の給料日まで多少の無理と我慢を覚悟して購入したのが、この銃だ。
彬が選んだのは辰巳の愛銃であるコルト・ガバメントと同じくガス圧式で、電動のものよりも動作が実銃のそれに近い。
手の中に収まっている金属の重さと感触を楽しみながら、彬はスライドを後ろに引いた。手を離すと、かしゃりと元の位置へ戻る。それから引き金を引くと、起きていたハンマーが落ちる、カチンという金属音が六畳一間に響いた。
この小さな音一つで、これから始まる禁欲生活を耐え抜くだけの気力が沸いてくる気がした。
それだけの価値はあったのだと、銃が励ましてくれているような気さえしてくる。
ベレッタ、M9。この一挺は、これから彬がサバゲーを続けて行く限り、最も特別な一挺になるだろう。
それが女の子には分かってもらえないかもしれない、男の美学なのだ。
3
「あ、そうだ。明日の準備しておかないと」
意味もなく銃を構えて引き金を引いてみたり(もちろん、マガジンは入れていない)、一間しかない部屋の中でクリアリングの真似事などをしてみたりしていた彬は、思い出したように呟いた。
名残惜しむような手つきでM9を箱の中に戻すと、押し入れの中にある衣装ケースから迷彩服を取り出す。
マルチカムと呼ばれる、一見するとくすんだ茶色と緑の粒が入り混じった色合いの迷彩柄は、様々な地形に対応できる万能迷彩だという。
迷彩服だけはケチるなという先輩方の助言に従って、彬は本物とほぼ同程度の耐久性があるという少しお高めのものを選んだ。上下一式で一万円が少し欠けるくらいの値段だったが、購入したショップのサービスで柄を合わせたニットキャップまでついてきたのは嬉しいおまけだった。
同じく、先輩方の勧めてくれたニーパッドも購入してある。ノーブランドだが、値段の割に頑丈なのだそうな。
サバゲーに必須のゴーグルはオーバーロードで初めてのゲームに参加する時に購入したものだ。工作担当こだわりの一品であるとかで、耐久性は当然として、レンズと本体部分の間にわずかな隙間が空いており曇りにくくなっている。
さらに、初心者の彬に先輩たちは様々な贈り物をしてくれた。
まずは辰巳から貰ったのは太ももに拳銃を固定するためのレッグホルスターだ。現在、愛用しているホルスターに辿り着くまで色々と試していた頃の余りだというが、金の無い学生である彬は貰えるのならどんなものでもありがたい。
辰巳はまったく同じ理由でグローブもくれた。
剛明からはライフル用のマガジンが入るポーチが四つ付いたチェストリグを貰った。安いから買ってみたら、体格に合わなかったらしい。
亮真は自作だというフェイスマスクをくれた。布部分は鼻と口だけでなく頬まで覆える大きさがあり、さらに口元だけスチール製のメッシュになっているから呼気が籠らない優れものだ。
そして最後に、彬は衣装ケースの横に置いてある箱を取り出した。
中に入っているのは本格的な登山靴だ。
値段は聞かされていないので分からないが、少なくとも一万は超えているだろう。
なんと、父からの贈り物である。
ある程度の装備が揃ったところで、彬が困ったのは靴だった。
全身戦闘服なのに、足だけスニーカーというのは何とも締まらない。
もちろん、それが悪いわけでは無いのだが。しかし、戦闘服に似合うようなブーツはそれなりに高価だ。迷彩服を買ったばかりの彬では、とてもではないが気軽に手を出せるような値段ではなかった。
そこで代用品を求めて色々と調べていた彬は、そういえば父親の趣味が登山だったなと思い出した。登山に履いてゆくようなトレッキングシューズなら十分サバゲーでも使えるし、他の装備と合わせても見た目に違和感が無い。
さっそく、試しに登山靴を一つ譲ってもらえないかと実家に電話してみたところ、上京した息子が自分と同じ趣味に目覚めたのだと勘違いした父が、わざわざ新品を買って送ってくれたのだった。
しかも、電話した翌日に速達で届いた。
電話越しに彬が求めた、動きやすさと色合いに完璧に応えた一足だった。
何だこの行動力と驚く彬だったが、初めてサバゲーをしてから三日と経たずに迷彩服を購入していた自分のことを思い出して、なんとなく血の繋がりというヤツを実感してしまう。
お礼の電話をした際、値段について言及した彬に父は「気にするな。いいから使え。履き潰せ」としか言わない。その上、電話を引き継いだ母から、父がどれほど喜んでいるかを切々と説かれてしまった。
流石に、そんな両親にサバゲーに使うなどと言えるわけもなく。
まあ、大抵のフィールドは山の中にあるし、ちょっとエアガンで撃ちあうだけで、山登りと言えなくもないだろうと自分を騙しつつ、今度実家に帰った時には父の山登りに付き合おうと決意する彬だった。
そんなわけで。サバゲ―暦二週間に満たない彬だが、様々な人たちの好意によって装備だけは初心者とは思えないほど充実している。
この装備を身に着けてフィールドを駆けまわる自分を想像しながら、荷物をボストンバッグに詰めていく。
そんな準備すら楽しかった。
それこそ、夜も眠れなくなるほどに。