その1
「ありがとうございました」
「ご馳走さん。また来るよ、って。今週の土日は休みなんだっけ。じゃあ月曜だなー」
「はい。ご迷惑をおかけします。是非、またお越しください」
喫茶ふじ、本日最後のお客を店の外まで見送りに出た彬は、振り返ると扉から営業中の札を外した。代わりに本日休業と書かれた札を下げて店内へ戻ると、カウンターの奥でグラスを磨いている男性と目が合った。左右の端がぴょんと跳ねた口髭がお茶目なナイスミドル。この店のオーナーである音無辰巳だ。
お互い、どちらともなく頷き合ってから彬はカウンターの上にあるダスタークロスを手に取った。最後のお客さんが座っていた席から食器を下げてテーブルを拭き上げる。それから、椅子をひっくり返してテーブルの上に乗せた。他の席も同じようにして、箒で床を掃き、ゴミを集めてからモップで水拭きをする。彬もすっかり喫茶ふじでの仕事に慣れたものだ。テキパキと閉店作業を片付けていく。
そうこうしている内に、店の奥から先輩従業員の赤羽充希が出てきた。モデル顔負けの美貌と抜群のプロポーションを持つこの店の看板娘だ。男性客の中には彼女目当てで通っている人も多い。
「マスター、キッチンの片付け終わりました。レジ締めもしちゃいますねー」
「ありがとう。充希ちゃん」
礼をいった辰巳に、充希はいえいえと笑い返す。
「最後のお客さんが谷島さんでたすかりましたね。先にキッチンの片付けもできたし、今日は早く終われそうです」
「そうだね」
レジを操作している充希に頷いて、辰巳はホールの壁にかかっている時計へちらと目をやった。時刻は十時を少し超えたところだ。平日より長居するお客さんの多い金曜日としてはかなり早めの閉店時間といえる。一応、喫茶ふじの営業時間は朝八時から夜十時までとなっているが、そこは個人営業。チェーン店ほど厳格に決まっているわけではない。せっかく来てくれたお客さんを帰すわけにもいかず、閉店時間が延びるのはよくあることだ。逆に、お客が来ない日は早めに閉めてしまうこともある。営業時間の線引きが曖昧なのは個人営業の常だ。
「そろそろタカくんたちも来るだろうし。手早く終わらせよう。清掃作業は僕も手伝うよ」
そういって、黒い前掛けを外した辰巳がカウンターから出てくる。
「明日のゲーム、楽しみですね」
常連の名を聞いて、彬はそう話を振った。
「うん。結構大きなイベントだから、初参加の彬くんはきっと驚くと思うよ」
「ネットで調べたんですけど、すごい広いフィールドなんですよね」
「そう。一日で回りきるのは難しいくらいさ。東京じゃ、ちょっと見ない規模だね」
その分、周りにはなんにもないんだけどねとモップを絞りながら辰巳が笑う。
何の話かといえば、明日訪れる予定のサバゲ―フィールドについてである。
彬がアルバイトしているこの喫茶ふじのオーナー、音無辰巳は月に一度か二度、自身の趣味であるサバイバルゲームに興じるため、店を休みにする。常連客でさえ知らない休業の理由を彬が知ったのは二か月ほど前のことだった。辰巳たちに誘われて初めてサバゲーに参加してその楽しさを知って以来、彬も週末の戦場へと駆りだす仲間になったのだ。
「はいはい。お二人とも。明日が楽しみなのは分かりますけど、その為にはまずお仕事を終わらせないと」
手を打ち合わせて言った充希に、サバゲー談議に熱中していた男二人は慌てて作業を再開させた。
土日を休む分、いつもより丁寧に清掃しておかないといけない。ここで手を抜くと、自分のいない月曜の朝に迷惑が掛かってしまうため、彬は頭を切り替えて仕事に集中した。
それでも自然と明日のことを考えて、鼻歌のようなものを漏らしてしまう。辰巳もどことなく、動きにいつもの落ち着きがないようにみえた。それを充希に指摘されて、照れ臭そうに髭を撫でていた。
とりとめのない会話を交わしながら、三人はそれぞれの仕事を片付けてゆく。いつもと変わらない、閉店後の喫茶ふじの光景だった。
「おーっす、マスター。お疲れさん」
「こんばんわー」
ほどなくして、閉店したはずの喫茶ふじに二人の来客があった。大きな荷物を抱えてやってきたのは夜営業の常連である佐々木剛明と渡邊亮真だ。
「こんばんは、二人とも。ちょうど今、終わったところだよ。全部片づけちゃったから、お冷も出せなくて申し訳ないんだけど」
そう出迎えた辰巳に剛明が気にするなと手を振る。辰巳の作ったサバゲ―チーム「ふじ分遣隊」で機銃手を務める、がっしりとした大柄な体格に人好きのする笑みを絶やさない彼は、普段は近くにある玩具専門の商社に勤める営業マンだ。
そこへ、先ほど仕事をあがったばかりの彬が戻ってきた。
「こんばんは、タカさん。ナベさん。お疲れ様です」
「おう、彬くん。お疲れさん」
「おつかれー」
ぱんぱんに膨らんだボストンバッグを脇に抱えながら会釈をした彬に、二人がそれぞれ挨拶を返す。
「充希ちゃんは?」
彬の背後を覗き込むように、亮真が訊いた。ふじ分遣隊では狙撃手を務める彼は、ぼさぼさの髪を後ろで一括りにした、痩せすぎなくらい線の細い人物だ。普段は剛明と同様に、喫茶ふじの近所にあるIT企業でプログラマーとして働いている。
「充希さんは、部屋でシャワー浴びてから来るって言ってました」
「シャワー? そんなもん、ホテルで浴びればいいじゃねぇか」
「いや、なんか。ちょっと汗かいたからって」
不可解そうに首を捻る剛明に、彬が言い訳のように答える。
盛夏の頃は過ぎたが、まだまだ残暑厳しい九月初旬。冷房の利いた店内で働いているとはいえ、一日中動き回っていれば汗もかく。
それはそうだろうが。それがどうしたという様子の剛明に、隣の亮真がやれやれとわざとらしく首を振った。
「あのね、タカ。忘れているみたいだけど、充希ちゃんは恋する乙女なんだよ」
恋する、という部分を強調して発音した亮真に、しかし剛明は納得いかないようだ。
「だけどよ、ゲームの後ほど汗だくってわけでもないだろ? 出発遅れちまうぞ」
「仕方ないんだよ、タカ」
「仕方ないんですよ、タカさん」
出発時間という現実的なことを気にする剛明に、女性とはそうしたものなのだと遠い目をしながら亮真と彬が答える。
「まあ、とりあえず。三人ともちょっと座って待っててよ。僕も準備して、車回してくるから」
三人のやり取りに苦笑いを浮かべながら、辰巳がテーブルから椅子を三つ下ろして店の奥へ引っ込んでいく。
辰巳はこの店のすぐ裏手にある一軒家で暮らしている。その家とこの店はバックヤードで繋がっているから、外に出る必要がないのだった。小さな庭のある平屋建てで、それほど広い家というわけでもないのだが、男の一人暮らしでは部屋を持て余すのだろう。幾つかの部屋は店の備品倉庫として使われていて、彬も何度か入ったことがある。
「そういえば、彬くん。新しい装備は買ったのか?」
「いえ、それが。夏休みのバイト代はまだ振り込まれてなくて」
「ああ、そっか。まだ九月の一週だしね」
「それに、何を買うかもまだ迷ってるんですよ」
「とりあえず一番デカいのでいいんじゃないか?」
「いやいや、狙撃銃一択でしょ」
男三人でエアガン談議に花を咲かせていると、そのうちに外から車のエンジン音が聞こえてきた。辰巳がバンを回してきたのだろう。音が店の前で停まったので、彬たちは椅子をテーブルの上に戻してから荷物を持って外へ出た。
「それじゃ、出発するよ」
運転席でハンドルを握る辰巳が、後部座席に振りむきながら告げた。それに男たちが「お願いします」と唱和する。
「すみません、お待たせしちゃって」
助手席に乗っている充希が照れたように謝った。それに構わないよと返して、辰巳はアクセルを踏み込む。ふじ分遣隊一行を乗せたバンは緩やかに夜の中へと走り出した。
向かう先はサバゲーの聖地、千葉県にある「XXX」というフィールドだ。彬たちは今回、関東最大級と謳われる広大な敷地内に、二つの野外フィールドと一つの屋内フィールドを擁するそこで年に一度開催される大規模イベントゲームに参加する。
「ザ・グレート・ウォー」と題されたイベントで、二チームに分かれた参加者たちは、店に三つあるフィールドの全てを使って対抗戦を行う。開店から閉店まで、一日を通して途切れることなく続くゲームの、その最大の特徴は「とことん勝ちにこだわる」というものだった。楽しんだもの勝ちというサバゲーの、良く言えば懐の広い、悪く言えば少し緩い一般論に真っ向から歯向かうその趣旨がウケたのか。初開催からサバゲーガチ勢の注目を集め、今では全国各地からガチプレイヤーの集う一大イベントになった。その参加人数は例年通りなら五、六百人。多い年には千人以上の参加者が集まったこともあるという。
もちろん、負けたからといってペナルティがあるわけでもないのだが。彬がこれまで参加したことのあるゲームとは規模もガチ度も違うことだけは確かだった。
といっても、今から直接そのフィールドへ向かうわけではない。
XXXは房総半島のほぼ先端部にあり、東京からかなりの距離がある。そのため、朝、普通に出発してゲーム開始に間に合うためにはとんでもなく早起きをしなければならない。
そこで一行は、今夜は近場のビジネスホテルで一泊することにした。いわゆる前乗りというヤツだ。
途中、ファミレスによって遅めの夕食を済ませるなどして、ホテルに着いたのは真夜中を少し過ぎた頃だった。ホテルの手配をしてくれたのは剛明だ。普段から出張など、仕事で利用することが多いらしい。部屋割りは彬と辰巳、剛明と亮真がそれぞれ同室で、充希は当然一人部屋だ。一応、充希がいるということで剛明は女性用のアメニティが豊富でセキュリティもしっかりしているホテルを選んでいたりした。そのせいで事前にみんなから集金したホテル代よりも少々予算をオーバーしてしまい、足らない分はこっそり剛明が自腹を切ったりもしていたのだが。残念ながら、そこまでしても到着が遅い時間だったため設備の良さやアメニティの充実ぶりを楽しむような暇は誰にもなかった。
彬も初めて泊まるビジネスホテルを満喫する余裕もなく、急いでシャワーを浴びて明日の準備をすると、すぐにベッドへ入った。それでも寝付けないかもしれないという心配は杞憂に終わり、一日の労働とその後の移動で疲れていた身体はあっさりとベッドの心地よさの前に陥落していた。
遊びの前乗りってなんかすごいワクワクするよねってお話でした。