ベンツ
外に出ると、だいぶうす暗くなっていた。
お腹すいた…。
何か、食べてきたらよかったと、歩き出して後悔する。
立ち止まってため息をつくと、後ろから車が走ってきた。黒塗りのベンツだ。避けようと体を引くと、ベンツが止まった。
「陸くん」
名前を呼ばれて顔を上げた陸は、あっと声を出した。
「秀一さんっ」
隼人の兄である渡瀬秀一が車の窓を開けて手を振っていた。
「奇遇だね。こんなところで会うなんて」
さわやかな笑顔で彼は笑った。
「乗って」
促されて後部座席に座った陸は、少し緊張しながらシートに座った。
「お久しぶりです」
軽く頭を下げて秀一を見る。
隼人よりも少しだけ身長が高く、きりっとした顔つきの彼は、高級そうな背広を着こなし、長い足を組んで陸を見ていた。
息を呑むほど、完璧な男である。
「どこに行くの? 送るよ」
ベンツが滑らかに走り出した。ほとんど振動を感じない。ゆったりとしたシートに埋もれて体の力を抜くと、ほっとため息が漏れた。
隼人の兄である秀一は、陸をコマーシャルで起用した社長、本人である。
彼には三年前からいろいろと相談にのってもらっていた。
隼人の事は私が一番よく知っている。何でも聞きなさい。そう言った秀一の言葉に偽りはなくて、陸は素直に甘えてきた。
「栞ちゃんから聞いたんだが、オーディションを受けているんだって?」
「えっ。ええっ?」
何で知ってるんだ?
陸は驚いて秀一を見た。
「あ、あの、隼人には黙っていてくれますか?」
「もちろんだよ。安心して」
秀一はにっこり笑った。
隼人と秀一は兄弟なのに折りが悪い。もし、隼人が知らない事を秀一が知っていれば、きっと隼人は激怒する。
俺が知らない事をなぜ兄貴が知っているんだ! と叫ぶに違いない。
陸は、隼人の怒る顔を思い浮かべてぞっとした。
「どうしたの? 浮かない顔をしているね」
「はあ…まあ…」
そりゃあね。これまでの事を考えたら、浮かない気持ちになるよ。
黙っていると、秀一がのんびりとした口調で言った。
「また、隼人の事で悩んでいるのかな?」
「え?」
その時、
「社長、そろそろお時間です」
突然、運転席の方から声がした。
存在を忘れがちだが、運転手もこなす、秘書の秋吉比呂也が厳かに口を開いた。
秋吉は秘書をするにはもったいないくらいの美男子だ。
彼には人の倍の色気がある。意識していないのだろうが、流し目をする瞳は艶っぽく、心なしか声も潤っている。
「ああ、そうだったね」
秀一は、ゆったりと返事をして微笑んだ。
「残念だ。君ともっとおしゃべりがしたかった」
「急がなくていいんですか? 俺、ここで降ろしてもらっていいですよ」
辺りを見渡すと、どこを走っているのだろうか。いつの間にか人家はなく、見覚えのない道路を走っている。呆気にとられて、秋吉の肩越しに言った。
「秋吉さん、ここどこですか?」
「横浜の方ですね」
「横浜……」
陸は隼人と約束をしている事を思い出した。
「秀一さん、急いで戻らなきゃ。隼人と待ち合わせしているんです」
「あ、そう。待ち合わせは何時?」
「決まってないですけど……」
「あ、そう」
秀一はのんびりと言った。
「ところで、さっきの続きだけど何を悩んでいるの?」
「あ、その…」
言いよどむと、いつものように秀一は目を光らせた。
「言ってしまいなさい。すっきりするから」
本気で心配している顔つきで、陸が話し出すのを待っている。沈黙に耐えられず、陸は栞に関する事を告白した。
「そうか」
秀一は大きく息をついた。それきり、何も言わない。
「あの…」
何を考えているのだろう。不安になると、秀一が、
「タバコが吸いたくなった。吸ってもいいかな?」
と突然言った。
「あ、はい。どうぞ」
その時、わずかに風がなびいて、清々しい風が吹き始める。
「安心していい。空気清浄機を作動させた」
秀一がタバコを吸いながら、にっこりと笑う。
「はあ」
その間に車はUターンして、東京へと向かっていた。陸はほっとして時計を見た。家を出てから一時間くらい過ぎていた。
「いつも甘えてばかりすみません」
秀一に頭を下げると、黙って運転していた秋吉が出し抜けに、
「陸さんは犬と猫どちらがお好きですか?」
と言った。面食らった陸は咄嗟に、
「え? あ、猫です」
と答えると、秋吉はハンドルを握ったまま答えた。
「その猫ちゃんがあなたにお尻を向けたまま、一度も自分の方を見てくれなかったら、あなたは悲しいと感じますか?」
「え? ええ、もちろん」
「それと同じです」
「は?」
「甘えられたら、誰だってうれしいと感じるんですよ」
「俺は、猫ですか」
秋吉は何も答えなかった。そのかわり、車が急に停車した。
「あれ、渋滞だね」
秀一が困ったように言う。
「えっ?」
顔を上げて前を見ると、道路は渋滞だ。
「間に合うかなあ」
秀一がのんびりと言った。
「間に合いませんね」
平然と秋吉が答えた。
すでに、間に合っていないんだけどね…。
陸はため息をついた。