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止まった時計の針  作者: Tiroro
中学一年生編 その2 檻の中の少女
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第35話 檻からの脱出(1)

 瑠璃はまだ学校に来ない。


 児童相談所は、まだ動いてないの?

 そうこうしている間にも、瑠璃はずっと苦しんでいるかもしれないのに……。


 ここは、瑠璃がいつも居た河川敷。

 瑠璃が登校しなくなってもう一週間以上、不思議なもので、この河川敷に集まっていた不良達もいつの間にか集まらなくなっていた。

 連日続く梅雨の雨で川の水が増して、大きな音をたてて流れている。


「日高、何やってんだ、こんなところで」

「村瀬先輩……先輩こそ、なんで?」

「俺は、ほら……、せっかく来たのに誰も居ないと、あいつが悲しむだろ?」


 村瀬先輩は、あれからも毎日ここまで様子を見に来てるんだ。

 学校にも来ない、河川敷にも来ない……瑠璃は、あの家の中にずっといるのか……。

 あのカーテンの閉まった真っ暗な家の中に……。


「その様子だと、お前もあれから瑠璃には会ってないんだな」


 私は無言で頷いた。

 しばらく流れる沈黙が、雨の音にかき消されて行く。


「……先輩は、瑠璃の家の事知っていました?」

「いや、詳しい事は知らない。お前は知ったのか?」

「瑠璃のお姉さんに会いました。そして、家族の誰も瑠璃と血が繋がっていない事も……」

「それは……。予想以上に酷いな……」

「やっぱり瑠璃は虐待に遭っていたんです。お姉さんも被害者です。幸い、そのお姉さんだけは瑠璃の味方で、先週児童相談所にも連絡を取ってくれました」

「そこまで話が進んでいるのか。全く、あいつは……そんな目に遭ってたのに、俺達には何も言わないで……」


 私と村瀬先輩は、橋の下に移動して傘を閉じた。

 暗い橋の下に来ると、川が流れる音が更に大きく聞こえてくる。


「お前は瑠璃の為にやれるだけの事はやってくれたんだ。あとは……、雨が上がるのを待つしかないな」

「村瀬先輩……」


 雨の音は激しさを増した。

 その勢いは、当分止みそうもない。


******


 あたしは、まだ学校に行けない。

 相変わらず、この家の中に閉じ込められたままだ。

 今日はいつにも増して外が暗いな……今は六月だ、梅雨時だから仕方ないか。


 痣はまだ消えない。

 鏡を見ると、顔の腫れは引いたものの、ところどころが赤黒くなっている。


 あれから何度も死にたいと思った。

 父さんと母さんのところへ行きたいと思った。

 でも、その度に踏みとどまる。


 もう時間の感覚も狂ってしまっているけど、寝ると毎日夢の中にあいつが出てくる。

 知り合ってそう長く無い、あたしの中学に入って初めての友達。


 一緒にタンポポを取りに行った時の夢、校外学習に行った時の夢、他にも色々、あいつと一緒にはしゃいでた時の夢ばかりだ。

 あいつの夢を見るたび、あたしは死にたいという気持ちが薄れていくのを感じていた。


 たった二ヶ月ほどなのに、あいつと友達になれた事は、あたしの中では相当大きな事だったらしい。

 この腫れが引けば、また学校に行くことができる。

 もう多くは望まない。あいつと……あいつらと一緒に、また楽しい学校生活が送れたらそれで良いんだ。

 あと少し……あと少しだ。


 その時、部屋のドアが開いた。

 恵子さんが食事を持ってきてくれたのだろうか。


「よお……」


 低い声が響く。

 恵子さんじゃない……兼久の声だ。


 意外と冷静な頭の中とは裏腹に、あたしの体は震え声を出す事もできない。

 どうなっちまったんだ、あたしの体は……。


「殴り過ぎて悪かったな。お前が俺に逆らうから悪いんだぜ」


 口では謝罪をしておきながら、兼久の顔は全く悪びれていなかった。


「昨日、児相から電話があってよ、虐待はありませんか? だとよ」


 ジソウ? ジソウって何だ?


「家に来られたらその顔だ。俺も恵子も、責任追及は逃れられねえよ」


 ジソウ……。そうか、児童相談所か。

 一体誰がそんなところに……。


 もし、兼久と恵子さんが捕まったら、あたしの面倒をみるものが居なくなる。

 そうなると、あたしは親戚のところか施設に送られる。

 もう、玲美達ともお別れになってしまう……。


「恵子は半狂乱だ。最悪だ、もう何もかもな……」


 それには、あたしも同感だ。誰か知らないが、そんなこと、あたしは望んでいなかったのに。

 あたしの叶えたい事は、こうしていつも叶わないまま終わる。

 ……お父さんが事故にあった時もそうだった。


「どうしてこんな事になったんだろうな。うまくやれてたはずがよ……なあ、瑠璃」


 何が“うまくやれてた”だ……!

 あたしのこの家を、家庭をめちゃくちゃにして!

 お前が来るまでは、あたしの家族はこんなにめちゃくちゃじゃ無かったんだ!


「……あ」

「どうしたお前、喋れなくなっちまったのか?」

「……う……」


 声が出ない。

 怒鳴ってやりたかったのに、あたしの口からは何も言葉が出て来なかった。

 あたしにはもう……、この男に言い返す力も残されていないのか。


「そういえばお前、中学に上がって、体つきもだいぶ女らしくなったな」


 急に何言ってんだこいつ……。


「知ってるか? 俺が、美紀にしていた事を」


 美紀さんに?

 お前が美紀さんにしていた事と言えば虐待だろ。


「お前にも、そろそろかと思っていたところだ」


 兼久の手が、ゆっくりとあたしに近付いてきた。


 ────やばい。


 本能がそう察知した。

 逃げなくては……このままだと、あたしはきっと取り返しのつかない事になってしまう。

 でも……足が震えて動かない。


「そうだ……。いい子だ……」


 このロリコン野郎……!

 兼久に腕を掴まれて、もう駄目だと思った時だった。

 家の中にチャイム音が響いた。

 誰か来た……? もしかして、児童相談所の人……?


「ちっ……、誰だ!」


 その瞬間、兼久の腕が緩んだ。

 あたしは動かない体に鞭を打って駆け出す。


「待て!」


 兼久が追ってくる。

 ゴミだらけの室内に足を取られながら、なんとか動いたその体を走らせる。


 何日か振りに見た玄関、そのドアを勢いよく開け、あたしは前に倒れ込んだ。

 外は雨だったけど、暗い部屋に閉じ込められていたあたしにとっては、充分過ぎるほどの明るさだった。


 倒れたはずのあたしの体は、地面に着く事は無かった。

 誰かが、あたしの体を支えていた。


 それが誰かははっきりとは見えなかったけど、不思議と安心感があった。

 風に乗ってほのかに香る、あの友達のシャンプーだかリンスの香り。

 見えなくても……それが誰だかはっきりわかった。


「瑠璃……、やっと会えた……」


 あたしを支えるその手に、力が籠った。

 まだ視界はぼやけているけど、わかるよ。


 返事をしたいけど……、できないんだ、ごめん。

 あたしもこう言いたい。

 玲美、やっと会えたねって……。


「お前は……あの時の……!」

「こいつが……この男が、瑠璃を苦しめていた奴か!」


 村瀬先輩の声も聞こえる。

 二人とも、あたしを心配して来てくれたのか。


「クソガキどもが、怖い目見せねえとわかんねえようだな」

「私の大事な友達の体を……こんなにしやがって……!」

「あ?」


 これは……玲美の声なのか?

 たしかに玲美の声なんだけど、何かが違う……少し低く唸るような声だ。

 玲美は、あたしをギュッと引き寄せて言った。


「……大丈夫……もう大丈夫だよ」

お読みいただいて、ありがとうございました。

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