第22話 出会い(1)
「……」
家に着くと、あたしは無言でドアを開けた。
頭がクラクラする……水だけでも飲もう。
あの人は、まだ寝ているのだろうか?
起こさないように気配を殺しながら、蛇口を小さく捻り、コップに水を注ぐ。
「あんた、帰ってたの?」
その声にビクッとして振り向くと、恵子さんが立っていた。
「なあに? 返事もできないの?」
「……た、ただいま……帰りました」
「あら? 随分早い時間じゃない」
「そ、その……、体調を崩しまして……」
「要するに、早退しちゃったってわけね。だからか……ずっと電話が鳴ってたからうるさいなーって思ってたのよ」
「迷惑を掛けて……すみません……」
「いちいち震えてんじゃないわよ!」
「す、すみません……」
恵子さんは、あたしを一瞥すると、それ以上何も言わず自室に戻って行った。
家には居られない……やっぱり、あたしには、あそこしか……。
***
水、飲めなかったな……。
この先にある公園に寄って、水を飲もう。
それにしても、まさか、こんな時期に熱中症になるとは思わなかった。
夏になれば、ある程度の暑さは覚悟してたけど、まだ六月じゃないか。
そういえば、保健の先生……有松先生だっけ?
熱中症の事よりも、あたしのこの痣についてやたらと聞いてきた。
転んでできたって言っておいたけど、たぶん虐待を疑われている。
それが証拠に、あたしがいいって言ったのに、家に電話するって聞かなかったもんな……。
この痣を見たのは、有松先生だけか?
それとも、他にも誰か……?
ともかく、やっとしばらく平穏な日々が続いているんだ。
下手な偽善で、あたしの事に触れるのはやめてほしい。
そんな事をされても、余計に火に油を注いでしまうだけだ。
せっかく、このところ平穏が続いているのに……。
この痣だって、このまま何も起こらなければそのうち消える。
もう少しなんだから、あの人達を刺激するのはやめてくれ。
痣が消えれば、長袖を着る必要も無くなるし、水着だって着れるようになる。
そうすれば、玲美達と水泳だってできるようになるんだ────。
***
公園に着いた。
これで、ようやく喉を潤せる。
そういえば、この時間帯、まだ学生がうろついている時間じゃないよな。
補導されたりでもしたら厄介だ。さっさとあの場所へ向かおう。
まだ誰も来てないだろうけど、あたしにとっては学校が終わる時間まで時間が潰せたらそれでいい。
その後は、適当に町で時間を潰してから家に帰ろう。
さっきから、やたらと頭痛がする。
これも熱中症のせいだろうか。
腹も空いたな……給食くらいしかまともに食べてなかったのに、早退したせいでそれも食えなかった。
美紀さんのところに行くか……。
いや、駄目だ。校外学習の時、迷惑掛けたばかりじゃないか。
これ以上、迷惑を掛けるわけにはいかない。
美紀さんは、ようやくあの家を出て、幸せを掴んだんだから。
中学を出るまでだ。
幸いあの人達も、あたしの学費だけは払ってくれている。
父さんの遺したお金からだけど……それでも、あたしが中学を出るまでのお金は残ってるはずだ。
あと三年我慢すれば、あたしもあの家を出る事ができる。
それまでの我慢だ。
***
いつもの橋の下。
当然だけど、まだ誰も来ていない。
でも、やっぱり、ここへ来ると落ち着く。
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────
──
恵子さんは、あたしの義理の母。美紀さんは恵子さんの実の娘で、あたしの義理の姉。
あたしより五つ上だった美紀さんは、血の繋がっていないあたしを、実の妹のように可愛がってくれていた。
あたしが小学四年生になったばかりの頃だった。
いつものように父さんの帰りを待っていた夜、あたし達に届いた訃報。
突然鳴り響いた電話は、病院からだった。
父さんは、信号無視してきた車に跳ねられ重体との事だった。
手術室の前で、あたし達三人は必死に父が助かるように祈っていた。
でも、その祈りは報われる事は無かった。
父さんが死んで、残されたあたし達。
最初のうちは、恵子さんもまだ優しかった。
美紀さんだけじゃなく、血も繋がっていないあたしを、甲斐甲斐しく面倒見てくれた。
ある日、恵子さんが連れてきた男、小柳兼久。
こいつが、あたしと美紀さんの運命を大きく変えてしまった。
『おい。無愛想だな、おめえ』
最初に言われた言葉がこれだった。
兼久は週に何回か、うちに訪れるようになった。
あちこちピアスだらけで、悪趣味なアクセサリーをたくさん付けた兼久。
もともとお淑やかで、大人しい感じの人だった恵子さんには似合わないなと思っていた。
父さんの遺産に手は付けたくないと、恵子さんが始めたのは夜のお仕事。
女手一つであたし達を育てるにはこれしかないと、仕方なく始めた仕事だった。
そこで出会ったのが、この兼久と言う男。
恵子さんは、この男と付き合うようになってから、だんだん変わって行った。
化粧も派手になり、着る服もどんどん派手になって行った。
家の事も全くしなくなって、代わりに美紀さんが家事全般をするようになっていた。
恵子さんは、ついに兼久と再婚した。
あたしに義理の父ができた。
両親とも、あたしにとっては義理の両親。
あたしだけ、他人だ。
『湿気た面してんじゃねえよ』
兼久は、酒癖が悪かった。
夜遅く帰って来たかと思うと、必ずと言っていいほど酔った状態で、その度に家の中で暴れていた。
父さんが居た頃から使っていたちゃぶ台が壊された。
父さんが居た頃から使っていたテレビも壊された。
父さんが居た頃の思い出が、この男によってどんどん壊されて行った。
恵子さんは、そんな兼久に怯えていたと思う。
だって、恵子さんは兼久から暴力を受けていたのだから。
なんで恵子さんはこんな男と結婚したんだろう。
なんで恵子さんは離婚しないんだろう。
ある日、暴力の矛先は、ついに美紀さんに向けられた。
兼久に蹴り飛ばされ、嘔吐する美紀さん。
あたしは恐怖に震え、さすがにこの時は恵子さんも止めに入った。
『ガキは抵抗しねえから面白えぜ……。どうだ恵子、お前もやってみろよ。スッキリするぞ』
そんな事言っても、恵子さんが実の娘に暴力を振るわけがない。
あたしは、そう思っていた。
でも、次の瞬間、恵子さんは美紀さんを……。
『ほらな? 楽しいだろ』
『本当……。こんなにスッキリするなんて……!』
亀のように丸まって怯える美紀さんを、恵子さんは蹴り続けた。
やめて……やめて! 美紀さんが……お姉ちゃんが死んじゃう!
あたしは美紀さんの上に被さった。
それを見た兼久は、興が覚めたと家を出て行った。
恵子さんも、そんな兼久に付いて行った。
『お姉ちゃん! 大丈夫!?』
『瑠璃……、お姉ちゃん、大丈夫だから……』
美紀さんは、あたしの頭を撫でて優しく微笑んだ。
両親の居なくなった家の中、あたし達は抱きあって泣いた。
それから、美紀さんにとって地獄の毎日が始まった。
兼久による虐待、そして、実の母である恵子さんからも……。
美紀さんはそんな毎日に耐えていた。体中痣だらけになっていた美紀さん。
夏になり、肌の露出が増える季節になると、見える部分には包帯を巻いて誤魔化していた。
やがて中学を卒業した美紀さんは、そのまま工場の住み込みの仕事を見つけ家を出て行った。
もう限界だったんだと思う。家を出て行く時、美紀さんは残されるあたしの事を心配していた。
あたしは、美紀さんに心配掛けまいと、上手くやるから大丈夫と言って見送った。
美紀さんが居る間は、あたしに暴力を振るわれる事は少なかった。
でも、美紀さんが居なくなった今、あの人達の鬱憤の捌け口は、あたししか居ない。
小学六年生の頃、二人のあたしへの暴力が始まった。
家に居る間、いつ理不尽な暴力が始まるかわからない。
なるべく家に居たくなかったあたしは、学校が終わっても、できるだけ外で過ごすようにしていた。
河川敷の土手に座り、時間が経つのをひたすら待っていた時の事だった。
『小学生が、こんなところで何してんだ?』
あたしは、村瀬さんと出会った。
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