第17話 私は魚になりたい
給食も終わってお昼休み。
「よお、日高。お前、哲ちゃんと会ったんだって?」
「うん。元気そうだったよ」
珍しく小岩井が私に話し掛けてきた。
「俺も会いたかったなぁ……」
あんた、ずっとネットの上で寝てたもんね。
「誰も俺の事起こしに来てくれないんだもんな」
「まさか、あんな場所でずっと寝てるとは思わないでしょ」
そういえば、次は体育だっけ? 教室移動する準備しなきゃ。
「もう六月だよな」
「え? うん」
「来週あたりから、水泳の授業が始まるぜ……」
小岩井の言葉に私は固まった。
「玲美ちゃん、今年は泳げるようになってるかなぁ?」
こいつ……知ってて煽ってやがる……!
そう、私は泳げない。せいぜいバタ足で5メートル進めばいいところだ。
「泳げるようになりたかったら、俺に頭を下げるんだな」
「だ、誰が……!」
悔しいけど、小岩井は水泳に限って言えば、学年でも三本の指に入るほどの実力者だ。
幼い頃からスイミングスクールに通い、部活動こそしていないものの将来を有望視されていると聞いたような気がする。
「見てろ! 今年こそは泳げるようになって、あんたにぎゃふんと言わせてやる!」
ニタニタと笑う小岩井。
私は捨て台詞を吐いて教室を後にした。
***
まだ動悸がおさまらない。
私はいつになく、焦燥感に襲われていた。
「どうした? 何かあったのか?」
既に教室移動してジャージに着替えていた瑠璃。
「もうすぐ……もうすぐ、水泳の授業が始まるんだよ!」
「お、おう……」
瑠璃の肩を掴んで、私は思わず叫んでしまった。
すると、それを聞いた女帝達がこちらに近付いてきた。
「日高さん。その焦りよう、あなた……まさか、泳げないの?」
「お、泳げるもん!」
思わず言ってしまった……。
それを聞いて笑う女帝達……そういえば、この人達名前なんだっけ?
「それを聞いて安心したわ。体育の時くらいしか輝けないあなたが泳げないなんて、洒落にもならないものね」
そう言いながら高笑いする女帝。
失礼な。数学の時だって輝いてるだろ。45ワットくらい。
「石野さん、そろそろ着替えませんと」
「来週の体育の授業、楽しみにしているわ」
女帝達は言いたい事だけ言って去って行った。
どうしよう……、泳げないなんて知れたら、ますます馬鹿にされてしまう……。
「玲美、あなたもしかして、あの人達に苛められてるの……?」
さっきの騒ぎを見ていた恵利佳が、心配そうに言ってきた。
ちなみに体育の授業は4組と合同です。
「違うよ。そんなんじゃないよ」
「そう……困った事があったら言ってね。私が何があっても助けてあげるから」
過去に苛めから助けた少女に心配されるなんて……。
「水泳だったら、あの日って事で休んだらいいじゃんか」
「そんなの何回も使えないよ……。毎回休んでたら男子から変なあだ名付けられそうだし」
「玲美ったら、泳ぎだけは全然駄目だものね……」
「人間は地上で生きてくことを選んだんだよ? 泳げなくたっていいじゃん」
「それは違うよ」
いつの間にか着替え終わっていた由美。
親友は、私の言葉を否定した。
「人間はね、母なる海から生まれたの。だから、泳げないはず無いじゃない」
「そうは言うけど……」
「大丈夫。水は友達だよ。怖くない」
由美はそう言って、私に手を差し伸べた。
水は友達……。その理論だと、私達毎日その水を飲んだり火炙りにしたりしているわけですけど。
「あ、もうすぐ時間だ」
瑠璃の声に私達は話を中断し、運動場へ向かって早足で急いだ。
***
今日の体育の授業は短距離走。
200メートルを走る簡単なものだった。
「玲美、ほんと足早いよね。陸上部にでも入ったら?」
「嫌だよ。再放送のドラマ見れないじゃん。由美達とも一緒に帰れなくなっちゃうし」
そういう由美も、結構足は早い方だと思うんだけど。
少し離れたところで、女帝達三人と恵利佳が息を切らして座り込んでいた。
恵利佳はともかく、女帝達も走ったりするのは苦手みたい。
そんな彼女達ですら、泳ぐ事ができるんだ。
私は何で泳げないんだろう……。
「瑠璃、ジャージ脱がないの? 暑くない?」
「ん? ああ、あたしは冷え症だからいいんだよ」
そう言いながらも、瑠璃の額からは汗が流れていた。
本当に冷え症なのかな? 私も大概冷え症な方だと思うけど、汗流してまで厚着していたいなんて思わないよ。
「薄着になると、すぐ風邪引いちゃうからな」
「それは大変な体質だね」
そうなると、水泳の授業なんて始まったら瑠璃の方こそ大変じゃない?
こういう体質の人もいるんだから、学校での水泳の授業なんて無くなったらいいのに……。
「じゃあ今日の授業はここまで! 整列!」
先生はホイッスルを鳴らし、集合をかけた。
「もうわかってる人もいるかと思うけど、来週からは水泳の授業です。みんな、水着の用意を忘れないでね」
先生にこうやって言われると、いよいよなんだなと思う。
こんな気分になるのは、インフルエンザの予防接種の時以来だ。
一瞬で終わる分、あっちの方が幾分かましかも知れないけど。
体育の授業が終わり、私達は着替えに教室へ戻って行った。
今日の授業はこれで終わりだっけ。
ああ、水泳の授業か……。毎年毎年、どうしてこうも私を苦しめるんだろう。
***
「そんな事があったのか」
「うん……」
放課後、部活に行く前の悠太郎に思い切って相談してみた。
「私、小岩井にぎゃふんと言わせてやるって言っちゃったし、女帝達には泳げるって言っちゃったし、どうしよう……」
「お前のカナヅチっぷりは筋金入りだもんな……。なんで運動は得意なのに、水泳だけあんな壊滅的なんだ……」
私のカナヅチっぷりは、悠太郎の言う通り度を超えていた。
バタ足で5メートル進めると言っても、進みながら少しずつ沈んでいく。それまでの距離が大体5メートル。
クロールに挑戦しても、横を向いた時に水が鼻に入って溺れる。そして泣く。
平泳ぎをすると、すぐにプールの底へ沈んでいく。あの動きで浮けるっていう原理がわからない。
極めつけは、ビート板を持っていてもなぜか沈んでいく。
「そもそもお前、水の中で目が開けられないだろ」
「だって、目なんか開けたって何も見えないじゃん。痛いし」
世の中には水中メガネと言う文明の利器があるんだから、それを使わせてくれればいいのに。
「たぶんさ、体に力が入り過ぎてるんだよ。だから沈むんだ」
「水の中で力を抜くってどうやんのかわかんないよ……」
悠太郎は困ったようにしばらく沈黙し、何かを考えているようだった。
神様、仏様、悠太郎様……どうか、迷える私を助けてください!
「しょうがない。週末、プールに行くか」
「え?」
「特訓だよ、特訓。俺がみっちり一日かけてお前を泳げるようにしてやる」
特訓……。水泳の?
悠太郎と……?
「そうと決まったら、日曜日、スポーツセンターでいいか。そこに行くから、予定入れるなよ」
「う、うん……」
今日まで私は、泳げないくらいいいじゃないかと思って生きてきた。
人間は魚じゃないんだし、泳げなくて当たり前だとも思ってきた。
でも、それは逃げていただけだったんだ。
毎年、水泳の授業で泳げる人達を見て、何で私は泳げないんだろうと悔しい思いをしてきた。
もう逃げることは止めよう。
今年こそ、泳げる側の人間になるんだ!
私は、魚になるんだ! 悠太郎先生、お願いします!
部活に出掛けていく悠太郎の背中を、私は尊敬のまなざしで見送った。
お読みいただきまして、ありがとうございました。