第七話
「ただいま」
玄関で靴を脱ぎながら、部屋の中に向かってそう言った。リビングからタッタと床を駆ける音が近づいてくる。
「おかえりなさい」
もみじちゃんの出迎えに、改めて「ただいま」と返し、彼女の頭を二、三度撫でた。そして彼女が見慣れない服を着ていることに気付く。
「お、ようやく服届いたか?」
彼女は自分の身に着けた服をチラッと見て、やがて恥ずかしそうに微笑んだ。
「はい、届きました。勉強道具も」
「そうかそうか」
鞄をもみじちゃんに預け、部屋に上がる。彼女は一足先にリビングへと戻っていった。
ここ数日仕事での疲れがなかなか抜けてくれない。
リラックスできるはずの家庭で俺は何故か職場以上に気を遣ってしまっている。その原因は、間違いなくもみじちゃんの存在であろう。
彼女が我が家に来て、三日が経過した。初めに比べれば大分マシになったものの、彼女との距離は一向に縮まっていないような気がする。
一方葉子は、俺よりも彼女と過ごす時間が長いということもあり、着実に親子関係を築いているようである。
リビングに入った途端、異様な光景を目にした。
「おかえりー」
葉子が顔だけをこちらに向け、言った。正座して、背筋をピンと伸ばしている。彼女と向かい合って、もみじちゃんはソファに座り、スケッチブックに何かを描いている。
「何やってんだ?」
「見れば分かるでしょ。モデルになってんの」
「へぇー」
俺はもみじちゃんの後ろに回りこみ、スケッチブックを覗いてみる。「おお! 上手だなぁ」
そこには葉子を被写体としたデッサン画が描かれていた。柔らかくも力強いタッチだ。十二歳が描いたものとは到底思えないほど秀逸した出来だった。俺が十二歳の頃はドラえもんでさえ満足に描けなかっただろう。(今もである)
「ありがとうございます」
もみじちゃんは照れくさそうに右手で頬を掻いた。その右手には短い鉛筆が握られている。
「凄いんだよ」
葉子が部屋の隅に置かれたダンボールを指差す。「そん中見てみて」
彼女に言われるがまま、ダンボールの中を覗くと、そこには絵の具や筆、パレットといった数々の画材道具が詰め込まれていた。いずれもかなり使い込まれているようだった。
「これ、全部もみじちゃんの?」
「そう」
葉子は頷く。「着替えや教科書と一緒に送られてきたの。一瞬何かの間違いかと思っちゃった」
「へぇー」
「ちょっと……」
もみじちゃんが申し訳なさそうに口を開いた。「もう少しで出来上がるから、こっち見て」
もみじちゃんは、葉子に対しては既に敬語を使わなくなっていた。葉子は俺に向けていた顔を慌てて彼女の方に向ける。
「ごめんごめん、はいどうぞ」
俺はダンボールの中を探ってみた。筆だけで何種類もあり、クレパスやコンテなどの道具も入っている。
「随分、本格的だな」
俺は誰にともなく呟いた。
葉子とスケッチブックを交互に見ながら、もみじちゃんは右手を動かし続ける。やがてその手を止め、「よし」と一息吐いた。
「完成?」
そう言って葉子は立ち上がろうとするが、すぐにバランスを崩し、倒れこんだ。テーブルの上の、牛乳の入ったコップが少し揺れた。
「おい、大丈夫か?」
俺は心配になって彼女の顔を覗き込むが、彼女は笑っている。
「足、痺れた……」
「なんだ、そうゆうことか」
彼女の足を突いてみる。彼女は大きく声を上げた。
「ちょっと! やめてったら」
「ねぇ、俺にも見せて」
俺はソファに座るもみじちゃんに手を差し出した。「はい」と彼女に渡されたスケッチブックを眺めてみる。俺の隣で葉子も顔を出し、スケッチブックを覗き込む。
「凄ーい」
葉子は感嘆の声を上げ、もみじちゃんを見る。もみじちゃんは照れ笑いを浮かべながら「凄くない」と言った。
「今度は俺も描いてほしいな」
俺はスケッチブックに目を落としたまま言う。やがて、もみじちゃんの様子を窺ってみると
彼女は俺を見据えたまま、固まっていた。
「お父さんも描いてほしいんだって」
葉子の言葉で、ようやくもみじちゃんは頷く。
「はい」
やはり俺ともみじちゃんにはまだ距離がある。なんだか葉子が羨ましくなり、そして腹立たしくなった。
彼女の足をトントンとまた突く。その瞬間彼女は、大げさにのた打ち回った。
「ちょっと……! 本当にやめてってばー!」
その様子を見て、もみじちゃんは無邪気に笑った。
午後十一時を回った頃、風呂から上がり、リビングへ戻ると葉子がグラスにビールを注いでくれていた。テーブルの前に座り、グラスを手に持つ。
「もみじちゃんはもう寝ついたのか?」
「どうかな。今日はよく眠れるといいけど」
この家に来てから、もみじちゃんは毎晩寝つくのに苦労しているようだった。
俺はビールを一口飲む。
「そろそろ慣れたんじゃないか」
「そうだね。あとで様子を見てくる」
もみじちゃんの寝室として南側の小部屋が宛がわれていた。それまでは書斎として使っていた部屋だが、始めから子供ができたら与えようと思っていた。
あっという間にビールを飲み干し、葉子が次の一杯を注ごうとした。
「あのさ」
俺は彼女の横顔に向かって話しかけた。「今度の日曜にでも、三人でどっかに出掛けないか? 遊園地とか」
彼女はくすくす笑う。
「遊園地なんて行ったことないじゃない」
「いや、もみじちゃんが喜びそうなところって、どこだか分かんないし」
「いいと思うよ」
彼女は頷く。「もみじちゃんもきっと喜んでくれるよ」
「そうだな……。よし」
―
「葉子の言うとおり、遊園地なんて行ったことなかったので、会社の同僚に散々訊ねました。『おすすめの遊園地はないか?』って。なんとか目的地も決まり、さっそく紅葉に『日曜日に遊園地に行く』と知らせました。自分の為だと解ってるんでしょうね。彼女は少し遠慮した様子でしたが、その目は確かに輝いていました」