第六話
「ねえ、これなんてどうかな」
俺は新聞に向けていた目を葉子に移した。彼女は一着のワンピースを手に持ち、自分の身体の前に広げていた。薄い生地で出来た淡いピンクのワンピースだった。彼女も何度か着ていたのを覚えている。
「いいんじゃない?」
俺は素っ気無く言って、再び新聞を見る。
「あ、じゃあこれは?」
彼女が次の服を広げたようだが、無視する。無視しなければ、このやりとりが延々と続くのが目に見えていた。
「ちょっとさー、ちゃんと見てくれないと駄目じゃない」
「さっさと決めないともみじちゃん、風呂から上がっちまうぞ」
俺がそう言うと、彼女は一瞬黙った後「ちぇ」とつまらなそうに唇を尖らせた。
「これだから男ってのは……」
これだから女ってのは、と心の中で呟く。
もみじちゃんの着替えや生活用品のことを俺も葉子も、池内先生でさえもすっかり忘れていた。傍から見ると、実に勝手な大人たちである。
「着替えを持ってきてないんですけど」
日が少し傾いてきた頃、もみじちゃんがおもむろに言った。
その言葉にハッとした俺はすぐに『夢見の里』へ電話をした。
「そういえばそうでしたね」
電話口で池内先生が笑う。「申し訳御座いません。勉強道具や彼女の身の回りのものと一緒に、後日宅配便で送らせていただきます。しばらくはその……よろしければ葉子さんの服などでも貸して頂けませんか?」
俺はもちろん承諾する。電話を切り、もみじちゃんにそのことを伝えると、彼女は複雑そうに「ありがとうございます」と言った。
それからすぐに風呂を沸かして、もみじちゃんを先に入浴させている間に、葉子がタンスの中からもみじちゃんが着るのに適当な服を探すこととなった。
寝巻きは結局ティーシャツとスパッツに決まった。しかし、問題は下着である。
「うーん、少し大きすぎるかな」
自分のパンティをまじまじと見ながら葉子は難しい顔で唸る。随分と滑稽な姿だった。
「少しなんてもんじゃないな。ガバガバ」
彼女は俺を睨みつけた。
「ケンカ売ってんの?」
「別に」
しばらくパンティを見つめていた葉子だったが、決心したようにうん、と呟き、立ち上がった。
「ちょっと買ってくる」
「今から?」
驚いて彼女を見上げた。「もみじちゃん、ふやけちまうだろ」
「だーかーらー。それまで私の履いてて貰うしかないでしょ」
「なるほど」
彼女はいそいそと外出の支度を始める。一瞬、俺が変わりに行こうか、と提案しようしたが思いとどまった。彼女は女児用の下着を買いに行くのだ。
彼女はもみじちゃんの着替えを持って洗面所に入り、浴室に呼び掛けた。
「もみじちゃーん。着替え、ここに置いとくからね」
ここからはもみじちゃんの返事は聞こえなかったが、彼女のことだから「ありがとうございます」とでも答えたのだろうか。
「あ、キー忘れた」
玄関先で葉子が言った。車のキーはリビングの壁に掛けてある。彼女は既に靴を履き替えているようなので、俺が立ち上がりキーを取って、彼女に渡した。
「サンキュ。なるべくすぐ帰ってくるから」
彼女はドアを開ける。「くれぐれもお風呂覗かないようにね」
「なっ……!」
「冗談冗談。それじゃ、行ってくる」
俺は彼女を見送った後、リビングのソファへ戻り、ふぅと息を吐いた。
覗かないように、か。
十二歳というと、もうそんな年頃なのか、と思った。夢見ていた自分の子供との楽しい日々。そのほとんどが省略されてしまうわけだ。一緒に風呂に入ったり……。学校の父兄参観でよその子と比べてみたり……。少なくとも、もう前者は叶わないであろう。
俺はなんだか切なくなり、両手で顔を覆った。少し自信を失くす。これからもみじちゃんを愛し続けていく自信だ。
せめてあと五年早ければ、と思う。自分の描いてきた子供像に対し、もみじちゃんはやや成長し過ぎているのだ。
今のところはどうだろう。
少なくとも、まだ彼女を自分の子供だと思えていないことは確かだった。
「一ヶ月か……」
それはもみじちゃんにだけ与えられた時間ではない。俺にとってもそうだ。この一ヶ月でどう心境が変わっていくか。もみじちゃんを本当の子供として見ることが出来るのか。自分でも全く予想がつかなかった。
どれぐらいそうしていただろう。ガラッと浴室の扉が開く音がする。もみじちゃんが風呂から上がったようだ。数分経って、彼女がリビングに入ってくる気配がし、俺は顔を上げる。
「どうだった? お湯加減は」
彼女の頬は紅潮している。濡れた髪が灯りに反射し、艶やかに光っていた。
「はい。良かったです」
そう言って俺の隣に座る。予定通り葉子のティーシャツとスパッツを身にまとっている。下にはあのブカブカのパンティを履いているのだろうか。
「葉子が今下着買いに行ってるから……」
少し悩んでから続きを言う。「ブカブカだろうけど、それで我慢してて」
「あ……はい」
彼女は微笑んでから、恥ずかしそうに俯いた。やはりブカブカだったようだ。
「今日はさ、カレー作るんだって。あいつの得意料理なんだ。カレーは好き?」
「はい、好きです」
「そうか。じゃあ楽しみにしてな。他に何か好きなものはある? あるんなら葉子に言っとくからさ。なんでも言ってくれよ」
俺は先ほどの葛藤を振り払うかのように、積極的に彼女に話しかけた。彼女は突然饒舌になった俺に少し戸惑いながらも、なんとか調子を合わせてくれた。
「様々な話をしましたが、葉子が帰ってきた途端、私はピタッと話をやめました。紅葉から言わせれば『なんなんだ?』って話でしょうね。おそらく……例の葛藤を葉子に悟られないか不安だったのでしょうね。心配のし過ぎでしょうけど……。あ、『夢見の里』から荷物が届いたのはそれから三日後のことでした」