第五話
国道からバイパスへと入る。ようやく中間地点まで車を走らせた。『夢見の里』から家まで、こんなに距離があっただろうか。
バックミラーをチラリと見た。もみじちゃんは一言も発すること無く、ただ窓の外を眺めている。続いて助手席の葉子を見てみる。先ほどまで、しきりにもみじちゃんに話し掛けていた彼女だったが、話題が無くなったのか、彼女もじっと窓の外に目を向けている。
先ほどのファミリーレストランでの池内先生とのやりとりを思い出す。
「それでは、もう早速もみじちゃんを連れて帰りますか?」
「え?」
思わず、その時飲んでいた食後の珈琲を噴出しそうになる。「もう大丈夫なんですか?」
「うちの方は準備は整っていますよ」
池内先生は目尻に皺を寄せながら言う。「もみじちゃんも良い?」
もみじちゃんは少し戸惑いながらも黙って頷いた。
「そうですね……」
はっきりいって心の準備が出来ていなかった。まさか今日、もみじちゃんを家に連れ帰ることになるとは想像していなかった。少なくとも一週間程度日を開けるものだと考えていたのだ。「おい、どうする?」
葉子に小声で聞く。すると彼女は呆気に取られた様な表情を見せた。
「なんで? 良いじゃない。早速家に来てもらおうよ」
「で、でももうちょっと部屋を片付けてからでも」
彼女が苦笑する。
「馬鹿ね。私達はもみじちゃんを娘にしようって言ってるのよ。そんなにかしこまってどうするの?」
俺達の話が聞こえたらしく、池内先生がうんうん、と頷いた。
「それもそうだよな……」
俺は決意を固めると同時に、珈琲をグッと飲み干した。
気まずい沈黙状態は続く。頼りの葉子はいよいよ眠りに落ちてしまった。彼女の神経を疑う。どうしてこの空気の中で眠ることが出来るんだ。いっその事、もみじちゃんも眠ってくれればと思うが、彼女の目はしっかりと開いていた。
彼女に聞きたいことは幾らでもあるはずだった。しかし、いざ口を開こうとすると頭が真っ白になってしまい、言葉に出来ない。
結局、家に辿り着くまで俺ともみじちゃんが言葉を交わすことは無かった。
駐車を済ませ、エンジンを止める。俺は助手席の葉子の肩を軽く叩いた。
「おい、家だぞ」
「ふあーあ、あれ? 寝てた」
葉子は呑気にあくびをしながら、後部座席を振り返る。「もみじちゃーん。着いたよー」
「はい」
もみじちゃんはそう答え、自主的に車から降りた。俺と葉子も後に続く。目の前に佇むアパートをぼんやり見上げるもみじちゃんの肩に、葉子が手を置いた。
「ここの二階が我が家。もみじちゃんも今日から一緒に暮らすんだよ」
もみじちゃんはコクンと頷いた。
玄関の扉を開け、俺と葉子が先に中へと入る。そして俺は玄関先で佇んだままのもみじちゃんを手招きした。もみじちゃんは少し躊躇しながら靴を脱ぎ、「お邪魔します」と言いながら、部屋に上がる。葉子がプッと噴出した。
「お邪魔します、じゃないでしょ。今日からあなたの家なんだから」
「はい」
そう答えて、もみじちゃんは少し顔を赤らめた。
夕食の準備がある、と葉子はそのままキッチンへ向かった。俺はもみじちゃんを連れてリビングに入る。
「ふぅー」
大型ソファに座り、一息吐きながら壁のアナログ時計を見た。「もう二時になるのかー」
ふと、もみじちゃんが立ち尽くしていることに気付く。
「どうしたの? こっち来て座りなよ」
俺は自分の横のスペースを指差した。
「あ、はい」
彼女の返事を聞き頷くと、俺はテーブルの上にあったリモコンを掴み、テレビを付けた。やがて、隣にもみじちゃんの座る気配を感じる。
時折独り言など発しながら、しばらくテレビを眺めた。なかなか隣に座る少女に顔を向けることが出来ない。先ほどの車内と同じ、気まずい空気が流れる。
葉子がいてくれればな……。
そんなことを考えながら新聞を手に取った。テレビ欄に目を通してみる。
「あ!野球があってたんだった」
俺は根っからのプロ野球ファンだ。贔屓チームのデーゲームが生中継されることをすっかり忘れていた。
急いでリモコンを操作し、チャンネルを変える。しかし、画面に映し出されたのは見覚えのある女優だった。どうやら推理モノの二時間ドラマが放送されているようである。
「あ、あれ? 中止かな。いや、でもドームだしなぁ」
その時、突然もみじちゃんが言葉を発した。
「この人……」
俺は彼女を見た。彼女はテレビに映る女優を指差しながら続ける。「私と同じ名前だって前に先生が……」
再びテレビに目を向ける。
「ああ……」
その女優は、有名な作家の娘で名前は確かに紅葉といったはずだ。「本当だ。同じ名前だね」
また彼女に向き直る。すると妙な違和感に気付いた。なんだか彼女の顔の位置が高いような気がするのだ。そのまま彼女の下半身へと目を移す。次の瞬間俺は思わず声を上げて笑ってしまった。
「おいおい、行儀が良いにも程があるぞ」
「えっ?」
彼女は一瞬戸惑うも、すぐに俺の言葉の意味が分かったようだ。なんと彼女はソファの上で正座していたのだ。
「ソファなんだから、もっと楽に座っていいんだよ」
「あ、でも」
彼女は足を伸ばしながら言う。「正座じゃないと失礼かなと思って」
「それは座布団に座る時だろ」
俺は相変わらず笑い続ける。可笑しくて仕方なかった。すると、もみじちゃんも俺に釣られたのか、少しずつ顔がほころんでゆく。やがて彼女から小さな笑い声が漏れた。
「ハハ、アハハ」
「ハッハッハ」
二人で笑っていると、葉子が何事かとキッチンから顔を覗かせた。
「何? 何? どうしたの?」
「いや、こっちの話。ハハ」
葉子はポカンとした表情を見せた後、微笑みながら「変なの」と呟いた。その言葉はどこか満足そうな響きを持っていた。
―
「紅葉に対して緊張していた自分が情けなくて仕方がありません。初めて見る彼女の笑顔はとても愛らしく、今まで私の中にあった不安や戸惑いを全て吹き飛ばしてくれました。この笑顔の為に頑張ってきたんじゃないか、この笑顔を失いたくはない、この笑顔をずっと守り続けていきたい、私は心の底からそう思ったのです。あ、野球ですか?あれは私の早とちりでした。チャンネルが一局ずれていたんです。でも良かったとしましょう。あの時スムーズにテレビが野球中継を映し出したら、私と紅葉はまだ長いこと沈黙してたかもしれません」