第二話
ピンポーンとチャイムが鳴った。俺と葉子は顔を見合わせ、ほぼ同時に立ち上がる。
玄関の扉の先には眼鏡を掛けた気の良さそうな老婆が一人立っていた。
「あ、池内先生ですか?」
「はい、あらあらお二人揃って出迎え頂か無くとも」
「いえ、どうぞお上がりください」
彼女は「失礼します」とゆっくりした動作で靴を脱ぎ部屋へ上がった。そのままリビングへと通す。
「まあ、素敵なお部屋ですね。とても暖かみがあって」
池内先生がリビングを見回し、腰を掛けながら言う。壁に掛かったポップなデザインの時計や棚に飾られた猫のぬいぐるみなど、いずれも葉子の趣味であった。
「今日はわざわざ遠いところ足を運んで頂き、光栄です」
俺が正座で頭を下げると隣の葉子もそれに倣った。
「いえいえ、こちらこそ。どうか子供達を……誰になるのか分かりませんけど、よろしくお願いします」
先生の丁寧な挨拶に俺達夫婦は再び頭を下げた。「それでは早速お話を進めさせて頂きます。養子縁組について、ある程度ご勉強なさいましたか?」
「はい」
彼女は微笑みながらうんうんと二、三度頷く。
「私としても、子供達の幸せを考えたら……河岸さん達みたいに仲の良さそうなご夫婦に貰われることは願ってもないことです。ただ……」
先生の顔がやや険しくなる。「あの子達が抱えている心の傷は私達には計り知れないものがあるでしょう。実子を持つことだけでも凄く大変なことです。養子を取るというのはそれの倍、いや三倍は大変なことだと覚悟して頂かないといけません」
「確かに」
口を開いたのは葉子だった。「見ず知らずの子を突然家に迎えるなんて、想像もつかないほど大変なことだと思います。だけど私達にとっての養子縁組はその苦労以上の喜び、感動をきっともたらしてくれるだろうと思い、夫と二人で決断したんです」
先生はまたうんうん、と頷く。
「ええ、当然そうですよね。分かりました。一度子供達に会いに来てやって下さい。まずはどの子を養子に取るのかを決めなければ始まりませんし」
「は、はい」
「但し施設の中ではむやみやたらに子供達に話し掛けてはいけませんよ」
俺と葉子は目を丸くする。
「何故でしょうか?」
不思議に思い、訊いてみた。
「あの子達も分かってるんです。あなた達が何をしにやって来たのかを」
―
「私達夫婦にとっては、やはり身寄りの無い子を養子に取るしか方法はないだろうと車で三十分ほど走った場所にある『夢見の里』という児童養護施設に相談しました。院長の池内先生は私達のことを本当によく理解してくれまして、電話口ではありますが、法律上の養子縁組について最低限勉強しておくこと等幾つかアドバイスを頂いていたのです」
―
八月最後の日曜日、俺達はいよいよ『夢見の里』を訪ねてみることにした。池内先生には昨日の内に電話で伝えてある。
「ねえ、どんな子だろうね」
助手席に座る葉子が目を輝かせて聞いてきた。
「そうだな。凄いやんちゃ坊主だったらどうする?」
「うわ、やんちゃ坊主がもう一人増えるのか。大変になるなぁ」
「どうゆう意味だよ、それ」
俺はそう言って軽く笑った。
二人の間に子供が出来る瞬間が刻々と近づくにつれ、言いようの無い不安が俺を襲った。あの日病室で思わず口にしてしまった『養子』という言葉。現実離れしたあの言葉がどんどん一人歩きしてしまっているような気がした。
俺に覚悟はあるのだろうか。そして葉子も……そうまでして子供が欲しいと本当に思っているのだろうか
この不安を葉子にも、誰にも打ち明けることは出来なかった。
打ち明けなければいけないはずなのに出来なかった。
「女の子もいいなぁ。お料理教えてあげたり」
「そうだな」
実は俺達夫婦の中で一つのルールを決めてあった。
今回施設を訪れる一番の目的は『どの子を養子に取るか見定める』ということだったが、子供達を吟味し、中から一人決定するなどということを俺達が出来るとは思えなかった。そこで葉子と話し合ったのだ。
施設で一番最初に出会った子を養子に取ろう、と。複数いた場合は最も近くにいた子を優先的に選ぶ。
尤も施設には様々な事情を持った子がいる。れっきとした親がおり、何らかの事情により施設に預けられた子だっているだろうし、既に高校や大学へ行く歳の子だっているだろう。どの子を養子に取るかによって、養子縁組の方式も変わってくるが、俺達に迷いは無かった。
とにかく一人の子に絞るのが先決だ。方式なんて後で悩めばいい。
上方にキリスト教の大きな十字架が見えた。池内先生が施設の目印に、と話していたものだ。五十メートルほど離れたところにある駐車場に車を止める。
『夢見の里』は想像よりもずっと小さな建物だった。周りは塀で囲まれており、建物の正面に幅二メートルほどの門がある。俺達は門を抜けるとそのまま玄関へ向かった。
庭に足を踏み入れた瞬間から緊張で胸が張り裂けそうだった。既に始まっているのだ、俺達のルールが。
葉子も実感しているらしく、額に薄らと汗を浮かべ辺りをキョロキョロと見回している。
俺達は玄関から中を覗き込む。左右に廊下が伸びており、幾つかの部屋が見えた。子供達どころか職員の姿も無く、施設全体がシーンとしている。
「すみません」
俺が呼び掛けると、しばらくしてすぐ近くの扉が開いた。一瞬息を飲むが、そこから出てきたのは池内先生であった。
「河岸さん。お待ちしておりましたよ。子供達は今散歩に出ているんです。院長室でお待ちください」
「そ、そうですか」
俺は少しだけ安心する。そして先生に促され院長室に入ろうとした、その時だった。
「あら、もみじちゃん、もう大丈夫なの?」
先生の視線の先を見る。中学生ぐらいの少女がポツンと立っていた。髪は肩ほどで切り揃えられ、上はティーシャツ、下はハーフパンツという姿だった。
胸が高鳴る。
少女を見据えながら、頬に汗が流れ落ちるのを自覚した。
葉子と思わず顔を見合わせる。彼女もきっと俺と同じことを考えているのだろう。
少女は無言でコクリと頷く。
「そう、あまり無理しないようにね」
先生は再び俺達夫婦に視線を移した。「すみません。さあ院長室へお入りください」
「は、はい」
口ではそう言ったが身体は動かなかった。それは葉子も同じである。
少女は不思議そうにこちらを見ている。黒目勝ちで吸い込まれそうな瞳だ。
「河岸さん?どうなさいました?」
俺達は少女から目を離さなかった。
目を離すことは出来なかった。
―
「……後に聞いた話なんですけど。その日彼女だけは体調不良で朝からずっと医務室で眠っていたんですって。驚くべきことに彼女が施設に入ってから十年もの間、一度も風邪なんて引いたこと無かったそうです。不思議なこともあるものですね。それが紅葉との出会いでした」