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賭の虫  作者: おだアール
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八 幸せの幸子

   ()の虫





   八 幸せの幸子


 やがて正一は小学校へ上がる年齢となった。幸子は、隆夫にせびられながらもこつこつ貯めたへそくりで、正一のランドセルと学用品を買った。入学式に正一に着せる服は、縫製職場から材料を分けてもらい、仕事のあい間に少しずつ作ったものだった。もともと手先が器用だった幸子は既製品と見まがうばかりの小児用スーツを見事に作りあげた。おそろいの上着と半ズボン、すべてが母の手作りの服を新調された正一は満面の笑みを浮かべて入学式の写真に収まった。

 一年前正一は、幼稚園に通わせるかどうかで父と母が話し合っているのをそばで聴いていた。近所の子どもはみんな幼稚園に行っていること、学費は幸子の稼ぎで十分にまかなえることを説明し、正一も通わせてやりたいと主張する幸子に、隆夫はスポーツ新聞を見ながら「そんなもん行かんでええ」とひと言で片づけた。「ぼく幼稚園、行かんでもええで」と、正一は落胆した表情で自分を見る母に言った。

 その正一が今は、この上ない幸せを顔いっぱいにあらわして、運動場ではしゃいでいた。楕円(だえん)のコースを回っては母を見、すべり台を滑っては母を見、「ぶたのまるやきはこうやるんやで」と鉄棒に両手と両足でぶら下がっては母を見、ジャングルジムにのぼってはまた母を見た。

 正一が学校に通いだして数か月経った。学校を終えると、ランドセルを背負ったまま母の仕事場に向かう。衣類が積み上がった作業台の隅っこにちょんと座って、教科書とノートを広げ、先生に言われたとおりの書き取りと計算問題をはじめる。「仕事のじゃませんのやったらかまわん」と主人の許しを得てやっていることだが、縫製工の女たちにとっても、幼い正一がやってくることは楽しみなこと。休憩時間になると、これ食べ、これも飲み、といろいろかまってくる。「お父ちゃんみたいになったらあかんで」と、いつも誰かに言われていた。


 このころ、日本中が東京オリンピック開催に向けて沸く一方、東京から追われた浮浪者の多くが大阪のこの町に流れ着いていた。隣町に通じる人通りの多い道路の脇で、戦争で片足をなくし片腕をなくしたという身障者が、白い装束を着、腕のないほうの脇の下に松葉杖を挟み、使えるほうの手でハーモニカをあやつって悲しいメロディーを奏で、通行人から金を乞う。そういった者がこの時期、大阪で増えていた。隆夫は何度か、息子に、彼らの前におかれた飯ごうのなかに小銭を入れさせた。白装束の男は、ハーモニカの演奏を中断することなく頭を下げた。

 東京大阪間を四時間で走る東海道新幹線が開通し、その十日後東京オリンピックが開幕した。陽気な五輪音頭が方々で流れていた。東京オリンピックは日本が戦後復興を世界にアピールする絶好の機会だという。東京はきらびやかで近代的な都市に生まれ変わり大勢の外国人を迎え入れた。

 大阪に住む隆夫は、カラーテレビを置いている喫茶店に毎日入り浸り、日本人選手に声援を送った。日本人がメダルを取るたびに日本中が沸いた。四十キロを走り抜き、ふらふらになって国立競技場に入ってきた円谷を、外国人選手が追う。「抜くな! 抜くな! 抜くな!」。狭い喫茶店のなかでみんな叫び声をあげた。大阪のこの町でも沸きに沸いた半月だった。


 オリンピックが終わりこの町に以前の空気が戻ってきた。寒い冬が訪れ、家のない者が何人か凍死した。年の瀬も押し迫ったある日の朝、真っ白な息を吐きながら二学期の終業式に向かう正一は、はじめてその光景を見た。公園のなかで、頭からシートをかぶせられた気の毒な人のまわりを数人の警察官が取り巻いてなにやら調べていた。シートの横には二級酒の五合瓶が転がっていた。正一に気がついた警察官のひとりが「見たらあかん。あっち行き」と正一を追い払った。正一はふたたび白い息を吐きながら学校まで駆けていった。


 隆夫は相変わらず賭け事に高じていた。きょうは甲子園、明日は岸和田、そのつぎは奈良、幸子が稼いできた金を競輪につぎ込んでいった。


 大阪のこの地に来て六年、また新しい年が来ようとしている。十二月三十日の夜、(べん)(てん)(ちよう)()(とう)から、連絡船に乗り込む隆夫たち三人の姿があった。年末の帰省だというのに、作業ズボンをはき一張羅のジャンパーを羽織った隆夫、着古したとっくりセーターを着て秋物のスカートをはいた幸子、入学式のときに着せられ今はちんちくりんとなったスーツを着た正一、三人は明日大晦日の朝には四国の町に着く。何年も前から時間が止まったままの四国の町はもうすぐだった。


 元旦、隆夫の実家で、総勢三十人近い親族が、一堂に集まって新年の祝いが催された。隆夫の十一人の兄弟とその家族は、三つほどの輪に分かれて談笑している。隆夫の左右の座布団は空いたまま、ひとりで重箱をつついていた。

 赤い顔をした三番目の兄が、銚子(ちょうし)を持って隆夫の横にどかっと座った。

「どうや最近、ちゃんと働いとんか」

 隆夫は兄を無視して、煮物に箸をのばす。

「隆夫、人が聞いとるんや。ちゃんと答えんか」

「兄さん、俺もう、子どもやないんやで。そんな言い方すんな」

 広間の今までの喧噪(けんそう)がすっと消えた。女たちの輪にいた幸子があわてて立ちあがろうとする。隆夫の母が「まあまあ」と幸子を制して座らせた。

「そっ、そうか、仕事しとんやったらそんでええ。すまんな」

 兄は立ちあがって手洗いに向かった。隆夫の父が苦み走った顔で、ちょこをぐいっと空けた。

 少しすると広間はもとのように賑やかになった。


 正一はいとこたちの輪に入ってすごろくやカルタの仲間に入れてもらっていた。祖母や伯父、伯母は、ほかのいとこより奮発したお年玉を正一に渡していた。隆夫の目の前で渡されたこの金は、すぐに隆夫に取られてしまうことはわかっている。だからこのお年玉は見せかけで、さらに何人かの親戚は、別に幸子に金を忍び渡すのだった。幸子は何度も何度も頭を下げ、隆夫に見つからないよう、手早くスカートの折り目にもらったお札を縫い込んだ。

 幸子の正月はこれで最後となった。二か月後、幸子は死んだ――。


 三月に入ってすぐのある日のこと、幸子は息子を先に仕事場から帰して、残った仕事を片づけていた。ほかの職人もすでに帰り、幸子がようやく一段落つけることができたときは、すでに午後十時をまわっていた。

「さあて、残りはあした」

 幸子は誰もいない職場でひとりつぶやき、両手を頭の後ろに組んで大きくのびをした。首を二、三度傾け肩を上下に揺すって「ふう」とため息をついた。火鉢の火を消し電灯を消して、店の主人から預かっている鍵で錠前を締めて帰路に着いた。

 外は霧のような雨が降っていた。

「このくらいの雨、傘ささんでも帰れるわ」

 幸子は小走りに帰り道を駆けた。春が近いとはいえ夜の空気は冷たい。幸子の吐く真っ白な息のなかに、細かい雨粒が光って見えた。気がつくと、紺の丸首セーターのそでや、黒のコール天のズボンにも、細かい雨粒が浮いていた。

 路地を抜け国道の横断歩道に出た。片側二車線の道路を、ヘッドライトを光らせた自動車がびゅんびゅんと通りすぎていく。幸子は、いつものとおり、自動車が途絶えたときを見計らって、駆け足で横断歩道を渡りはじめた。

 まん中まで渡ったときのことだった。反対車線の自動車のヘッドライトが予想外のスピードで迫ってきた。

 ビビーーッ。

 けたたましいクラクションの音が響いた。幸子は足を止めた。自動車は幸子の直前を猛スピードで通りすぎた。その後も自動車は途切れることなく横切っていく。渡ってきたほうの車線にも自動車がやってきていた。中央分離帯もない幅十センチほどのセンターラインの上で、幸子は、一歩も動けない状態におかれてしまった。

 突然、センターラインを超えてきた自動車があった。真っ白なヘッドライトが幸子の目をくらませた。

 つぎの瞬間、幸子のからだは道路から浮きあがった。足をすくわれボンネットに打ちあげられた。フロントガラスで跳ね返ったあと、大きく宙を舞った。十数メートルも飛んだ。飛んでいる間人形のようにくるりと一回転した。放物線を描いて道路に落下した幸子のからだは、もう一度地面で低くバウンドして、ごろっと転がった。

 あちこちでブレーキのきしむ音がした。今まで止むことがなかった、風を切るびゅんびゅんという音が消えた。何十台もの自動車のアイドリングの音が響くなか、幸子の肉体は一台の自動車のヘッドライトに照らされていた。ヘッドライトの光線のなかに細かい雨粒が浮かんでいた。


 幸子が交通事故にあったことを、隆夫が知ったのは、夜中の一時をまわってからのことだった。深夜になっても帰ってこない幸子を、幸子の職場の主人とともに心当たりを尋ね歩き、最後に警察に問い合わせて知ることとなった。

 隆夫は病院に駆けつけ、幸子が治療を受けている処置室の前で待った。小降りだった雨はいつの間にか本降りとなっていた。雨が待合室の窓を激しく叩いていた。何時間もの時間が過ぎたように思える。処置室から医師が出てきて隆夫に「ご臨終です」と告げた。

 隆夫が処置室に入ったとき、幸子は、血の気のない黄ばんだ顔でベッドに横たわっていた。肩からひざまでシーツで覆われていた。ほおの傷と足についた血痕が、痛々しかったが、それがなければ眠っているのと見間違えそうだった。顔は微笑(ほほえ)んでいるように見えた。幸子の幸は幸せの幸、幸子は今はじめて幸せが訪れたかのような表情で横たわっていた。まわりには人工呼吸器や心電図計が使われる人もなくピッピッと音を立てていた。


   ―――――


「幸子……」

 亡くなって三十六年、隆夫瞳の奥救急病院処置室寝かされた幸子の姿焼き着けられていた。

「痛かったやろ、痛かったはずや。せやのになんでお前、あんな幸せそうな顔しとったんや」

 至福に満ちた笑顔の幸子思い出す。隆夫目の前幸子いるかのよう話しかけた。

 いつの間にか外どしゃ降り雨。大粒雨激しく窓叩きつけ、部屋のなか大きな音響かせる。幸子死んだ晩と同じ。

「せや、わい、あの日の昼も競輪行っとった。変なおっさんに絡まれたときやった」


   ―――――


(つづく)



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