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賭の虫  作者: おだアール
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六 不幸せの幸子

   ()の虫





   六 不幸せの幸子


 賭け事に狂ってしまった隆夫に幸子が別れを告げなかったのは、このままでは隆夫さんがかわいそう、賭け事から足を洗わせてあげたい、という同情心と、もうひとつ大きな理由があったからだ。幸子は腹のなかに隆夫との子どもを宿していたのだった。

 幸子の妊娠を知った隆夫の両親と幸子の兄は、ふたりの今後について話し合った。ふたりを結婚させるべきか――。幸子から隆夫の振る舞いを聞いていた幸子の兄は渋った。が、父親のいない子を幸子に生ませるのも、またふびんなこと。結局、隆夫の両親が幸子の兄を説得し、ふたりは結婚することになった。

 冬の寒さがゆるんできた春先、隆夫と幸子は広い庭園を持つ神社で結婚式を挙げた。庭園では手入れされた数十本の梅の木が紅白の花を一面に咲かせていた。


 ふたりの新婚生活は、隆夫の親が見つけてきた実家近くの借家ではじまった。隆夫は、結婚を機に、これも親が見つけてくれた製紙工場で働きはじめ、定収入を得るようになった。隆夫の生活態度は変わった――、変わったように見えた。実家からは母親が毎日のように訪れ、身重の幸子に代わって炊事、洗濯、掃除といった家事を行ってくれた。

 まもなく幸子は男の子を産んだ。実家からの支援はますます増えた。平和な日々が続き、次第に幸子は昔の(つら)かったことなど忘れかけていた。笑い声に満ちた若夫婦と赤ん坊の幸せな生活がそこにあった。

 経済白書に明言された「もはや戦後ではない」という言葉がブームとなり、この田舎の町にも活気が沸いていた。この町ではまだ()られないが大阪へ行けばテレビジョンというものもあるらしい。また隆夫の友人の何人かが憧れの大阪に出発した年でもあった。


 隆夫たちの幸せな生活は長つづきしなかった。生活費は実家からの支援でほとんどまかなえ、仕事で得た金はまるまる()まる。蓄えはどんどん増えていく。ところが、幸せだが退屈な毎日が続くにつれ、真面目に働いてきた隆夫のなかに、またうずうずと虫が騒ぎだしたのである。

 隆夫は、刺激を求めてまた競輪場に出向くようになった。はじめは、会社の寄り合いがあるからと、幸子に(うそ)をついてこっそりと。ちょっと見に行くだけ、賭けやせん、と自分に言い聞かせた。だが、見るだけなど、もとより隆夫にできようがない。隆夫は、罪悪感に(おび)えつつ、小遣いのなかから小さな金額を賭けた。もう少しだけ、もうちょっとだけ、次第に大胆になっていく。そしてついには、仕事に行くふりをして一日中競輪場に入り浸るようになっていった。一年以上かかって蓄えた金を遣い果たすのに、一か月とかからなかった。


 幸子がこのことを知ったのは、隆夫が通っているはずの会社の社長が、突然、自宅を訪問してきたからだった。

「あっ、社長さん。いつもお世話になっとります。どうぞどうぞ、上がってください。すぐ、お茶入れますんで」

「あっ、いやいや、奥さん。構わんでください」

 社長は、上がりかまちに腰かけて、幸子に玄関に座るよううながした。

「谷岡くんは――、家に、おらんのかいのう」

「はい……、仕事に行ってますが――」

「いや、奥さん。谷岡くんのう、ここんとこずっと仕事休んどんよ」

「えっ?」

「奥さん、知らんかったんかいの。給料も前借りしとるし、なんぞ事情あってのことかと思うて、ちょっと来てみたんじゃわ」

 幸子はぼう然と社長の話を聞いていた。そばで一歳になったばかりの息子が積み木で遊んでいた。社長が帰ったあと、幸子は、タンスの奥にしまっているめったに確かめることのない郵便貯金通帳を取りだし、残高がほとんどなくなっていることを知った。


 その日の夕方、幸子は、仕事帰りのふりして「疲れた」と言いながら帰ってきた隆夫を、着替えもさせずに玄関先で問い詰めた。はじめ隆夫は、言い訳がましく弁解したが、幸子の強い詰問にとうとうすべてを話し、そしてそのあと居直った。

「俺が稼いだ金、俺がつこうてなにが悪いんじゃ」

 いつもと違う空気に、不安そうな目でふたりを見つめていた息子が、隆夫の怒鳴り声で、突然大きな泣き声をあげた。幸子は「よしよし」と言って息子を抱き、「ばあっ」とあやしたあと、後ろにいる隆夫に言った。

「あんたが真面目に働く言うけん、みんな結婚許してくれたんよ。正一ができてから、ずっと真面目に仕事に行きよったんと違うん。なんで競輪なんかに行くん。お金にもなんちゃ困っとらんのに」

 幸子の目は涙でくもっていた。息子をまともに見ることができなかった。息子は自分をあやしながら泣く母の顔をじっと見つめていた。


 翌日の朝、隆夫と幸子の間に張り詰めた空気が流れていた。何度も何度も「あしたこそ本当に仕事へ行って」と幸子が頼み込んだ前の晩とは違い、ふたりはなにもしゃべらず、視線も合わさずに黙々と朝食を食べた。朝食をすませたあと、幸子は黙って隆夫の髪を整え、洗いたての作業着を着せ、弁当を持たせ靴まで履かせてやって送り出した。「行ってらっしゃい」、「うん」というのがこの日はじめての会話だった。隆夫は久しぶりに仕事に出かけた。

 夕方になって隆夫は、会社を辞めたと言って帰ってきた。昨日の一件で「どうして家まで来た」と社長に言いがかりをつけたらしい。社長と隆夫は激しい言い争いになって、ついに隆夫のほうから「こんなとこ辞めたるわい」と言って飛び出したとのことだった。会社を飛び出したあと、家の近くまで帰ってきたが家には入ることができず、近所の公園の木陰に座り込んで夕方まで過ごした。昼に幸子が作ってくれた卵焼きや(さけ)の切り身が入ったいつもより豪華な弁当を食べただけで、ほかはなにもせずにただ木陰でぼうっとしていた、と隆夫は言った。

 幸子は今度はなだめる番だった。

「あした、うちも一緒にあやまってあげるけん、もういっぺん工場へ行こ。なっ、お願いやから、うん、言うて」

 幸子は隆夫と向かいあって座り、うつむいている隆夫の両腕をつかんで懇願した。隆夫は幸子にあやまった。けれども会社へ行くことにはついに同意しなかった。


 その日の晩、幸子は、蒸し蒸しした熱気がわき上がる布団の上で、からだを斜めにして座り、横に眠る息子をうちわであおぎながらこれからのことを考えていた。一陣の風も吹かない寝苦しい夏の夜、息子は掛け布団を放り投げ、ひたいに汗を浮かべてすうすうと寝息を立てていた。向こうには、息子と同じように掛け布団を放り投げて、大の字になっていびきをかいている隆夫がいた。

 隆夫が、また賭け事に手を出し工場を辞めたことは、翌々日に隆夫の両親に伝わった。真面目に働いていると信じていた両親は、もとに戻ってしまった息子を問い詰め説教したが、隆夫はそれに反発するだけだった。

 幸子と子どものことをふびんに思う両親は、こっそりと幸子に生活費を渡すようになった。そのことを知った隆夫は、その金をもむしりとり競輪につぎ込むようになっていった。三人家族の家庭から、一時期の笑い声はまったくなくなっていた。


 冷たい風が吹く師走、タンスや水屋や暖をとるための火鉢やこたつや、家財道具という家財道具は、すべて質に入れられていた。普段使わない布団、着物、湯たんぽまでもが質に入れられ、幸子は息子を抱き、薄い布団にもぐり込んで寒さに耐えていた。このようなときも隆夫は競輪場にいた。耳とほおを真っ赤にして、薄手のジャンパーに片手を突っ込み、もう一方の手には予想紙を持って背中を丸め、金網の前でかじりつくようにレースを観ていた。


 なにもかもがなくなったまま迎えた元旦、秋口から一張羅となった服を着た隆夫と幸子は、朝早くから真っ白な息を吐きながら、子どもを連れて、両親の家、兄弟の家へと急いで年始参りをはじめた。どこの家庭も正一にお年玉ぐらいはくれるだろう、隆夫はその金が目当てだった。

「なんじゃ隆夫、えらい早いお参りじゃのう。まあ、幸子さんもそげな薄い服着て、寒いじゃろ。まっ入りまい」

「兄さん、おめでとう」

「ああ、おめでとう。なんじゃお前が言うと気持ち悪いのう」

「正月じゃけんおめでとう言うとんよ。さっ、正一もおっさんに挨拶しまい」

「こげにこまい正くんに挨拶できるわけなかろう。隆夫、お前の魂胆はわかっとる。正くんのお年玉が目当てじゃろうが」

「はは、兄さん、そう言うてもうたら精ないが」

「まあええ、さあ、幸子さん、これで正くんにおいしいもん食べさせてあげまい」

「兄さん、奮発しといてや」

「ほっこなこと言うな。これはお前にやっとんやない。正くんのもんじゃ」

「はは、そうじゃったの。正一、お年玉もうたな。ほなつぎ行こか。兄さんまたな」

 正月早々、こういった調子で兄弟を訪問する隆夫は、(おい)(めい)に一円のお年玉も渡さなかった。


 正月二日の昼過ぎには隆夫は競輪場にいた。そこには、隆夫と同じように、血走った目で予想紙をにらむ男たちがたむろしていた。

 幸子は息子を連れて近所の神社に参り、隆夫の改心を祈った。参拝を終えた帰り道、和服姿の若い夫婦が二歳ぐらいの男の子に羽織袴(はかま)を着せ、その子をまん中にして歩いてくるのを見た。男の子は片方の手を母に引かれ、もう一方の手で綿菓子を持って歩いている。幸子は、夫婦と目を合わせないよう、参道の端を急いで通りすぎた。正一は男の子が持つ綿菓子をうらやましそうにながめていた。

 幸子――、幸せになることを願って名づけられた名前だろうが、その言葉には遠い。不幸せの幸子――。

 幸子の祈願はかなわず、隆夫の遊び癖はますますひどくなっていった。隆夫のなかの虫は増え続け隆夫の性根を腐らせ続けていた。毎日のように親兄弟に金を無心してまわり、金をもらってはその足でレース場に出かけ、その日のうちにもらった金すべてをつぎ込むということをくり返していた。はじめのうちは兄弟もしぶしぶ従っていたが、そんなことがいつまでも続くはずもなく、数か月後には隆夫がいくら金をねだっても一円の金も出てこなくなった。


(つづく)



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