五 幸子
賭の虫
五 幸子
隆夫と幸子は四国の町で出会った。太平洋戦争が終わって七年、アメリカの文化がいたるとこに浸透し、かつてはアメリカを鬼畜と教えられた人たちも自然にそれを受け入れていた。
新制中学を卒業したあと地元の印刷工場に就職した隆夫は、一年もたつと給料をもらったその足で町の繁華街に出かけ、同じように遊びに来ている若い男女とともに、夜遅くまで遊びに興じる生活をしていた。
若者の娯楽のなかで盛んだった社交ダンス。給料日の夜は男も女も精一杯に着飾って、タンゴだのルンバだのワルツだのといった踊りにかこつけ、異性の手を握り耳元でささやきあう。隆夫もいく度となくダンスホールを訪れ、格好をつけながらこのステップはどうのあのターンはどうのと、目当ての女に解説するのだった。
そういう生活を二、三年続け、会社のなかでも一人前に見られるようになってきたころ、親しくしていた同期の友人が大阪の会社に移っていった。ここは四国のなかでは大きな町だが、日本全体から見れば一地方都市の片田舎、東京や大阪には若者が憧れるものがあふれていた。
春四月、また新しく入社してきた社員の歓迎会を終えたあと、いつの間にか、リーダー格となっていた隆夫は、数人の同僚と後輩を従えて、いつものダンスホールにやってきた。週末のダンスホールの賑わいは相当なものだった。ポマードでてかてかに光らせた髪を平らになでつけ一張羅のワイシャツの上にこれまた一張羅のチェック柄の化繊スーツを着て派手なネクタイを締めぴかぴかに磨いた白いエナメルの靴を履いた男たちと、パーマしたてのちりちりの髪にピンクのプラスチックの飾りを着け陽焼けした顔に頬紅を塗り大きなつけ睫毛をつけ真っ赤な口紅を唇のへりにまで描きえりと手首にフリルの着いたブラウスを着てひざまでのギャザースカートをはいた女たちが、思い思いの出会いを求めてダンスホールにやってきていた。
隆夫もそういう女との出会いを求めてやって来たひとりだった。
週末のダンスホールは、若者であふれていた。男も女もはじめはグループとなって声をかけ合い、そのうちにペアになってふたりだけの世界で踊りはじめる。隆夫たちのグループも女のグループを見つけては「踊りませんか」と声をかけていくのだった。
この日は、着飾った女たちのなかにひとり、ダンスホールの雰囲気に溶け込んでいない女がいた。おそらく友人に連れてこられたのだろう、女ばかり五人グループのなかで緊張している様子がうかがえた。友人と同じように着飾ってはいるが、ここでは普段着のようにも見える。グループの女たちは男に声をかけられるとすぐにホールのまん中に向かう。取り残されたその女は、壁際のカウンターテーブルの端っこに座り、出されたチェリー入りカクテルに口もつけず、きょろきょろとまわりを観察していた。小柄な丸顔の女、この女が幸子だった。
場内の音楽がタンゴに変わった。大勢の男女が、ダダッダダッと一斉に足音を立てて踊りはじめる。真剣な顔つきで踊りに専念する男女もいれば、男のリードに引っぱられてきゃあきゃあと歓声をあげる女もいる。カウンターの一方の端ではリキュールグラスを片手に親しげに顔を寄せ合っているカップル、その反対側の端で、幸子は、どうして良いかわからない風にちょんと腰かけていた。
隆夫は、そんな幸子の仕草にひかれて声をかけた。
「どしたん? 踊らんの?」
はじめて男に声をかけられた幸子は、なにも答えることができずにうつむいたままだった。
「さあっ、立ちまい」
隆夫は、幸子の手をとって、半ば強引にホールのまん中に連れていった。曲がワルツに変わった。隆夫は、左手で幸子の右手を持ち右手は幸子の腰を抱いて、幸子をリードした。
「ボク、谷岡いいます。きみは?」
「……」
「今度、映画でも行きませんか」
幸子の耳元でいろいろ声をかけてくる隆夫に、幸子は顔を真っ赤にして下を向いているだけだった。隆夫二十歳、幸子が十八歳のときの出会いだった。
幸子は衣料品工場に勤める縫製工だった。戦争で父を病気で母を亡くして六人兄弟の二番目として兄とともに家計を支え弟妹の面倒をみていた。
朝は夜も明けきらない時刻に起きて、六人分の朝食と六人分の弁当を作ってから出勤し、仕事が終わると寄り道もせずに家に帰って夕食を作る。晩は晩で一日分の洗濯のあと部屋の掃除や繕い物が待っている。遊びたい盛りの思春期を、休む間もなく、仕事と家事に追われる生活を続けてきた幸子。男友だちを作るなどということは考えたこともなかった。そんな彼女にとって、隆夫との出会いは衝撃的なものだった。
ある日の朝、ほかの兄弟を送り出した幸子が、中学三年の妹と朝食を食べていた。
「ねえちゃん、きょうもきれいやのう。あたしも口べにぬったらきれいなるんかのう」
「年頃になったらだれでもきれいになるんよ」
「としごろっていつなるん」
「あと二、三年」
「ふうん、あたしも早よとしごろになりたいわあ」
「さっ、早よご飯食べまい。学校に遅れるけん」
「学こうでおもいだしたけど、あたし先せいにいわれとった。こんど、ほごしゃの人つれてきなさいって。ねえちゃん、ほごしゃってなに」
「清子にはお父ちゃんもお母ちゃんもおらんけん、兄ちゃんや姉ちゃんが保護者や。で、先生なんて言うとったん」
「あたし、もうすぐ中学そつぎょうするじゃろ。したらしゅうしょくせんといけんけど、あたし、しゅうしょくすんのむずかしいかもわからん言うとった。じゃけんいっぺんほごしゃの人とそうだんしたいからって。ねえちゃんきょう仕ごとおわってからこられる?」
「姉ちゃんきょうは用事があるけん行けん。今度行くからって先生に言うとき」
「ねえちゃん、さいきん用じおおいのう。夜おそうかえってくるときもあるし……。なんの用じしとん?」
「清子には関係ない。さっ、よけいなこと言わんと早よご飯食べまい」
幸子の心は揺れていた。隆夫との恋のはざまで家族の面倒もみなければならない。家事をとるか隆夫との交際を取るか。幸子は徐々に隆夫のほうに心が傾いていった。
隆夫と幸子は土曜の夜ごとに会うようになった。デートの場所はもうダンスホールではない。今は、映画館やカフェがふたりで過ごす場所となった。
出会ってから数か月経ったある夏の日の夜、映画館の帰りに、公園のベンチに並んで腰かけて話をするふたりの姿があった。
「幸子さん、がいに泣いとったのう」
「あんな悲しい映画見て、泣かんほうが不思議じゃわ」
「そんなに悲しかったかの」
「谷岡さんは、なんちゃ思わんかったん?」
「そら、かわいそうや思うけど、映画やけんのう」
「谷岡さん、男やけん……。おなご先生も子どもらもみんな、戦争に振り回されたんよ。なんで日本は戦争なんかしよったんかのう。人間ってほっこやのう。あかん、思い出したら、また涙が出てきよる」
「さあ、これで涙をふきまい」
隆夫は、ハンカチを幸子の手に持たせた。ハンカチを受け取った幸子は二、三度まぶたを押さえる。その仕草を見ていた隆夫はぐいと幸子を抱きよせた。
「幸子さん、好いとる」
「谷岡さん……」
月の明かりが、ひとつにまとまったふたりの影を地面に落とした。影はゆるやかに動いた。息づかいが静かな公園にかすかに響いた。
隆夫が賭け事をはじめたのはこのころのことだ。悪友に誘われて地元の競輪場に出向き、わけがわからないまま空いていた売り場で車券を買った。ビギナーズラックというものはあるもの、その車券が見事に的中し、一度に万の金が手に入った。つぎのレース、そのつぎのレースと的中が続く。「さあ、のめり込め」。なにか得体の知れないものが隆夫の心を誘惑していた。結局この日、給料二か月分の金が隆夫の手元に残った。得体の知れないなにかの思惑どおりの展開だった。このとき、賭け事の虫は隆夫の心の奥の奥にまで侵入し、ざわざわと騒ぎだすようになったのだった。
隆夫は、この日儲けた金で、普段なら手も出せないような高価なハンドバッグを買って幸子に贈った。
「なんせ、負ける気せんかったんよ」と鼻息荒く戦績を話す隆夫を、幸子はたしなめた。
「これで止めときまいよ。当たりなんてつづくわけないんやけん」
「わかっとる、わかっとる。この前は、幸子さんになんか買うたろ思て行っただけやけん」
だが、一度甘い味を覚えた隆夫は競輪にのめり込んでいくことになる。「また一発当てたるけん」。幸子の助言に耳を貸さず、暇ができれば競輪場に通うようになった。
あのときのような幸運がいつも訪れるわけがない。こうくるはずと思ったレースは裏目にくる。じゃあと表も裏も買うと一着三着ではずれ。本命固いと思えば対抗、本命対抗で流せば穴、頭のなかで予想するレース展開はことごとく外された。必勝法と聞いた倍賭けは八回目に破綻する。負けないはずの四番人気買いも続かない。負けを取り戻そうとさらに熱くなって金をつぎ込み、それがまた負けを呼ぶ。はじめのうちはつぎ込んだ金を合算していたのが、そのうちに、どれだけつぎ込んだかもわからなくなってくる。それでも、一番はじめのあの幸運が忘れられない。隆夫のなかにうごめく賭の虫は、隆夫の熱い血をエサに増え続けた。
隆夫と幸子のデートの場所はいつからか競輪場に移っていた。隆夫は幸子にも賭けさせ、その儲けを借りるといっては取りあげた。幸子が勤めをしながらこつこつと貯め込んだ金も、どんどんつぎ込んでいくようになった。
幸子は何度も隆夫をたしなめた。だが、隆夫は言うことを聞くどころか意見した幸子を叱りとばし、ときには女の幸子に平手打ちをくらわすようにもなった。仕事を休むことも多く、会社から給料の前借りをくり返し上司や同僚からも金を借りるようになった。まもなく隆夫は、追われるように印刷工場を解雇された。
(つづく)