四 若者
賭の虫
四 若者
「あのアホ、むちゃくちゃ殴りやがって」
隆夫は、数日前に隆夫を殴った若者に悪態をついた。
その若者のことは十数年前から知っている。
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昭和天皇の病状悪化で世間では華やかな行事を自粛していたころ、まだ小学生だったその若者は毎日のようにこの町の公園を遊び場にしていた。
ビニールシートで造った小屋のまわりに新聞やエロ雑誌が散らばり、仕事にあぶれた日雇い労働者がたむろしている公園、酒と小便の臭いが混ざったほこりっぽい空気のなかで、半ば公然と小さな賭場が開かれ、脇で野良犬が残飯をむさぼっている。すでに子どもの遊び場とは言えないこのような公園でも、地元の子どもたちは臆することなく遊んでいた。
子どもたちのなかに小学生のころの正一に重なる少年がいた。いつしか隆夫と少年は親しくなっていった。少年は大衆食堂のまかないをしている母とふたり暮らしだという。この町では特段同情されるほどの境遇でもなく、少年自身も母子家庭であることを辛いと感じている様子はなかった。
少年は隆夫との会話のなかで口癖のように言った。
「おっちゃん、いつまでもぶらぶらしとったらあかんで。ちゃんとテイショク持たな人間のくずになってしまうんやで」
おそらく少年の母からの受け売りだろう。少年がどうして父と暮らしていないのかはわからない。が、少年の言葉からおよそ察しはついた。
そんな少年も中学生になったころからパタッと公園に来なくなった。たまに町で見かけることはあっても、大人を避けるような素振りを見せる少年に、隆夫も声をかけることがなくなった。
隆夫が少年と再会したのは今年になってからである。少年はすでに少年ではなく百八十センチを越える長身の若者になってコンビニで働いていた。
隆夫は無性に懐かしくなって「一緒に晩めしでも食お」と若者を近くの中華料理店に誘った。若者は、ひとりで中華丼とチャーシューメンとギョーザ二人前を平らげたあと、ふう、と息を着いて「ほんま、おっちゃん久しぶりやなあ」とこれまでのことを話しはじめた。
若者は、中学卒業後、定時制の工業高校に通いながら従業員十人ほどの鉄工所で働くようになったという。社長に気に入られ、社長の本宅で家族と一緒に食事することもたびたびあったらしい。
そのころはバブル崩壊で金属部品だけを作っている零細な町工場は発注元の倒産とともに次々とつぶれていった時期だった。若者が勤める会社も例外ではなかった。資金繰りが苦しくなった社長は、高利の商工ローンから借金して当座の資金を間に合わせるようになった。だが、それが本当に当座だけのものだったということは半年も経たないうちに明らかとなった。返済が滞るにつれ商工ローンの担当者が毎日のように取り立てに訪れ、取り立てのしつこさから逃れるために別の商工ローンから借金するという、絵に描いたような破綻の経過をたどっていった。工場を運営することより借金の取り立てから逃れることのほうが優先し、ある日ついに、社長は妻とひとり娘を連れて深夜に行方をくらました。社長が夜逃げしたことを知った債権者は怒濤のように押し寄せて、容赦なく工場や社長の本宅に入り込み金になるものはすべて持っていった。残された数人の従業員は、工場がからっぽになっていく光景をぼう然とながめていたという。
若者への未払いの賃金は結局払われずじまいだった。若者は、面倒見が良く高校へ進学させてくれた社長への恩をあだで返したくない、賃金のことよりも社長や奥さんや娘さんがどうしているか心配だと言った。娘のことを言うとき若者のほおは少し染まっていた。
若者は、短期雇用の道路工事や警備員のアルバイトをしたあと、今年になってコンビニで働きだした。「日雇いの仕事は性に合わん」と若者は言った。定職に就かなければならない、小学生のときに見せた気構えが若者には残っていた。
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この若者に殴られることになったのは、つぎのようないきさつからだった。
競艇場で金を使い果たした隆夫は、肩を落として帰路に着いた。
自転車に乗った労働者が行き交う商店街を抜け、立ち飲み屋が何軒も並ぶ道を通りすぎて、片側二車線もありながらめったに自動車が通らない道路の、歩道と車道の段差にしゃがみ込んでカップ酒を飲んでいる男たちの脇を抜けた。ホルモン屋の屋台から鉄板でレバーを焼く匂いが漂う。屋台の前でたれを垂らしながら串に刺した肉を食う数人の男、そばでは一匹の野犬が物欲しそうに男を見あげていた。道路には鼻水やら痰やらに混じって新聞紙、段ボール、菓子の包み袋、バナナの皮、卵の殻、ジュースの空き缶、カップ酒の空き瓶、それにおびただしい数のタバコの吸い殻が散らばっていた。
隆夫は、落ちている吸い殻のなかでまだ長い一本を拾った。吸い口のフィルターについている砂をぱっぱっと払って口にくわえる。使い捨てライターで火を着け、深く息を吸い込んで、ふあっと煙を吐き出した。
鉄道のガード下をくぐりコインランドリーの横を抜け別の広い道路に出た。
そこに例の若者が働いているコンビニがあった。隆夫は、若者にめし代を貸してもらうつもりでコンビニに入っていった。ところが、なかにいたのは小柄でめがねをかけた大学生風の見知らぬ店員だった。あてがはずれた隆夫は、店内を物を探す風にうろついた。レジから遠い一角の、スナック菓子やインスタントラーメンを陳列している棚に向かった。隆夫は店員が隆夫のほうを見ていないことを確かめ、ポテト菓子とインスタントラーメンをズボンのポケットにすばやくねじ入れた。そしてそのまま、探し物が見つからなかった風を装って店から出ようとした。
出口までやってきたときだった。ちょうど例の若者がコンビニに入ってきた。
「よおっ」
隆夫は手をあげて若者に言った。そのときだ。ポケットのなかから、スナック菓子が今にも落ちそうに、にょきっと飛び出したのだ。隆夫は、あわててそれをねじ込んだが、若者はしっかりとその挙動を見ていた。
「おっちゃん、それなんや」
「すっ、すまん、ちょっとだけ貸しといてくれ。あしたには金持ってくるから」
「あかんあかん、金ないんやったら、その品もんおいてかえって」
隆夫は強引に店の外に出ようとする。若者は両手を広げて阻止した。
先に手を出したのは隆夫のほうだ。隆夫は両手を前に突っ張って「うおう」と叫び、若者に突進していった。若者は隆夫のからだを受け止めた。入り口でふたりはもみ合った。
「すぐ返す言うとるやんけ」
「あかん言うたらあかん」
隆夫は若者の両足にタックルした。若者は仰向けにひっくり返った。隆夫は、馬乗りになって若者に殴りかかる。若者は隆夫の腕を受け止めた。隆夫は暴れた。腕を振り切った。ふたたび若者に殴りかかる。そのときだ。隆夫の拳をかわそうとした若者のひじがカウンターパンチとなって隆夫の左目に炸裂した。はずみの出来事だった。目の前でピカッと光ったような感覚があった。隆夫は盗んだ商品を投げ出して店の外に飛び出した。目に激痛が走る。目を開けていられない。歩道と車道の段差につまづき前のめりに転んだ。腹からべたっと道路に倒れ込んだ。
店から、大学生風の店員が飛び出してきた。店員は、転んでうずくまっている隆夫の背中を踏みつけた。腹を蹴とばした。あお向けにさせてから、近くにあった金属棒で殴りつけた。金属棒は隆夫の右足を直撃した。「べきっ」と音がした。
「ぐあっ!」
隆夫はごろんごろんと横転してうずくまった。大学生風の店員は、うずくまったままの隆夫の頭を踏みつけ、顔を蹴り、背中を金属棒で殴りつけた。
店員の暴走行為を止めたのは例の若者だった。若者は店員を羽交い締めにして「もう止めとき」と言った。店員は「はあはあ」と息をつき、めがねをかけ直して店のなかに戻っていった。
静かになった店の外で、隆夫はうずくまっていた。群衆がその光景を見つめていた。誰かが「あのにいちゃん、やりすぎやで」と言ったが誰も救急車を呼ぼうとはしなかった。
隆夫が起きあがって、びっこを引きながらよろよろと歩きだしたのはそれから一時間も経ってからのことだった。いつの間にか細かい雨が降りはじめ、隆夫の肩や背中を濡らしていた。
隆夫が、汗と雨でびしょびしょになってやっとの思いでアパートに帰ってきたとき、すでに真夜中になっていた。
「むちゃくちゃしよるわ。もっと年寄り大事にせんかい。ほんま、今の若いもんはどうしょうもあれへん」
隆夫はあの若者が小学生だったころを思い出し、「あいつは悪うない。悪いんはあのひょろこいやっちゃ」とつけ加えた。
腹這い隆夫、雨窓ガラスかすかに叩く音聞く。今また殴られたあのとき同じ細かい雨降っていた。ふたたび起きあがろうと隆夫やはり動けない。
「あかん、ほんま、往てまう……」
衰弱しきったからだ陸にあげられた魚のよう。
「わい、もし死んでもうたら、地獄へ落ちるんやろな」
隆夫死後の世界想像した。閻魔大王にらむ裸同然罪人黒いこん棒持つ鬼に突き飛ばされ火焔地獄落とされていくさまマンガのよう。恐ろしいことなくただ幼稚っぽい光景思い浮かべ隆夫苦笑した。
「幸子、わいも往くで」
隆夫かつての妻幸子語りかける。まぶた奥初々しい幸子の姿。幸子との出会い恋のときめき思い出した。
―――――
(つづく)