三 競艇狂い
賭の虫
三 競艇狂い
夜隆夫眠れず。外灯明かり部屋照らすうす暗く。時折バリバリ音立てて通りすぎる原付バイク、ヘッドライトの光差し込む部屋、隆夫どてっ仰向け寝転んだまま天井隅茶色いシミ見不安感闘った。左目依然開けられず。痛み空腹感消え、絶望感どんどん大きく。
背中床ずれ鈍痛感じからだ横向け試みた。寝返りも苦痛。顔だけ横向けた。十日前スポーツ新聞競艇欄上に広がっていた。
「森村のやつ、あいつがしっかりせえへんから、こんなことになるんや」
隆夫は今の境遇を森村のせいにした。森村というのは、今は五十九歳と高齢だがかつては「まくり差し」を得意戦法とし、数々のタイトルを総なめにした競艇選手である。
森村は若かったころ、A1クラスのなかでもいつも本命として扱われていた。それが今は、選手になったばかりのひよっこが出場するようなB2予選の第一レースしか出させてもらえず、出場選手六人のなかでも穴としてすら評価してもらえなくなっていた。
隆夫のまぶたに、かつての森村の見事な戦いぶりがよみがえった。
―――――
広大な競艇場の観客席を満員にして、皇族の名を冠した重賞レースが、会期最終日の第十一レースに行われたときのことだった。六人の出場選手は、いずれもそれまでの数々のレースを勝ち抜いてきた強豪。そのなかに森村はいた。
居並ぶ強豪のなかでも、森村は特にマークされていた。ほかの選手も森村を警戒している。第一ターンマークで一気に差してくる森村に抵抗するための秘策を練っていることは確かだった。実力の上では最高の位置にあった森村だが、残る五人すべてにマークされているとなると容易には勝てないはずだ、そういう風に読んだ専門誌は、あえて森村を本命から外して予想していた。
客の多くも同じように思っていた。
「なんぼ森村でもこのレースはあかん。無理やって。こんだけマークされよったらまくられへん、差されへん」
多くの観客の予想を反映して森村絡みの舟券売場は人出は少なかった。
隆夫はそういう予想を信じなかった。
「あほなこと言うな。森村のまくりは、ちょっとやそっと妨害されたから言うて、失敗するもんやあれへん。あいつなめたらあかん。絶対に、絶対に来よる」
隆夫はそうつぶやいて、有り金をはたいて森村から流した連単の舟券を買った。
優勝賞金数千万円がかかるレースがはじまった。
六人の選手が発走ピットに登場する。選手たちはレース場に一礼したあと、それぞれのボートに乗り込んだ。エンジン音が会場に響き渡る。
六艇のボートがピットから飛び出した。各々が得意とするコースを目指してボートを走らせる。インコースについてまくられる前に逃げきろうとするボートと、大外から一気に第一ターンマークを攻めようとするボート、中間ポジションを確保してやや外から小さくまくろうとするボート、ポジション争いはレースの勝敗に大きく影響する。選手は互いにかけひきしながら、思い思いのポジションに陣取っていった。
森村の得意戦法「まくり差し」は、大外から豪快にまくり、その勢いでターンマークの内側を一気に差して、先頭に出るというものである。六コースの森村はいつものとおり競艇場の最も端、第一ターンマークまでの距離が最も遠いポジションにボートを停めた。
森村の視線が右前方の大時計に向いた。針が回りはじめる瞬間を見計らっている。視界のなかにはほかの五艇とはるか向こうの第一ターンマークも入っているはずだ。
まもなくスタートを示す大時計の針がまわりはじめる。この針がゼロを指した瞬間にスタートフラグぎりぎりを通過するために、各艇は微妙なタイミングを測っていた。エンジン音が一気に高まった。森村のポジションからスタートラインまで百メートルあまり。大時計がゼロを示す何点何秒前にスタートすれば良いか、競艇場ごとにタイミングは微妙に異なるが、森村は、天性の才能でどの競艇場でもベストのタイミングでスタートする技術を身につけていた。
三十秒前、六艇がスタートに向けた準備をほぼ整えたか、とみんな思っていたころ異変が起きた。観客席から「うおーっ」と喚声があがった。なんと、森村の左前方にいたボートが、ぐいっと右を向いて森村の前までやって来て、くるりとターンして戻っていったのだ。森村艇はそのボートの立てた波で大きく揺れた。
「こらーっ、おんどれ。なにさらすんじゃ」
観客からヤジが飛んだ。スタート前のポジション争いはよくあることだ。だがスタート直前の待機行動要領違反ともとれるこの行為は意表をついた。最も驚いたのは言うまでもないコースを乱された森村だろう。さすがに焦っている様子が観客席にも伝わってくる。舳先を定めようとしているがボートが揺れて定まらない。森村艇は揺れたなかからのスタートを余儀なくされた。森村がほかの選手からマークされている第一のあかしだった。
観客席のざわつきは続いていた。
「ほら見てみい。これで森村あかんわ。タイミング測られへん。あんなんでスタートできるわけあれへん」
確かに誰もがそう思っていた。森村以外の選手も最強のライバルが脱落した、そういう風に思っていたことだろう。
二十秒前、ざわめきが治まらないなかで隆夫はひとり信じていた。
「あほか、こいつら全然わかっとれへん。森村はこんなもんでつぶされへん。あそこからでも楽々勝ちよるわい」
十五秒前、十四、十三……、緊張感は高まっていく。さっきまでのどよめきがすっと消えた。観客はみんな森村に集中していた。ほかの選手の姿も視界に入っているだろうが注意の外に追いやられていた。
「いくで、いくでえ。森村はいきよるで」
スタートライン付近に陣取っていた隆夫は、くしゃくしゃに丸めたスポーツ新聞を握りしめてつぶやいた。隆夫のからだのなかで虫がぞわっとざわめいた。
突然、激しいエンジンが響いた。最も外側六コースの森村がスタートを切った。続いて五コース、四コース、三コース、二、一、各艇は順番にスタートを切っていく。大時計の秒針が音も立てずに滑らかにまわっていた。
スタートラインまでもう少しというところでまた波乱が起きた。森村の左前を走っていた五コースの選手がいきなり森村の前を横切るように、右にコースを変えてきたのだ。スタート前に森村艇に嫌がらせしてきたあの選手だ。ふたたび観客席にすさまじいどよめきが走った。
「うおーっ」
今度ばかりは隆夫も驚いた。
「こらーっ、なにさらすんじゃ!」
隆夫は立ちあがった。拳を振りあげて叫んだ。さっきの妨害は何とかなる。だがこの走路妨害はいくらなんでもどうしようもない。五コースの選手の妨害は反則失格処分を覚悟の上でのことだろう。数千万の賞金がかかるレースで反則行為を決行してきたのには、なにか裏の事情があるのかもしれない。だが、そんなことより、このレースで森村が勝てないことのほうが問題だ。おそらく森村は、思わずアクセルをゆるめてしまうことだろう。今スピードが落ちればまくりなどできようがない。有り金すべてをこのレースにつぎ込んだ隆夫は目をむいて怒鳴った。
「くそったれ!」
その直後のことである。森村は、妨害してきた選手の右を、スピードをゆるめることなくさらりとかわしたのだった。まるで左の選手が妨害してくることがはじめからわかっていたかのように。またたく間に森村艇は前に出た。大時計の針がゼロを指した。森村は、スタートフラグの右端ぎりぎりを、最もスピードが乗った状態でくぐった。
こうなるともう森村の独壇場だった。スピードの乗らない左の五艇をお手本のようにまくって第一ターンをまわっていった。あとのボートは森村が立てた波で蹴散らされ一気に数十メートルの差がついた。森村圧勝のレースだった。
「ほれ見たか。森村はやるんや」
隆夫は、森村の見事な勝ちっぷりにからだがしびれた。奥底にひしめいていた虫がぞわぞわっと動いた。
―――――
うっとうしい雨しょぼしょぼ降りつづく。うす暗い外灯の光差し込む三畳間、まもなく死神迎えに来るだろう隆夫、横向き姿勢のまま昔懐かしむ。
「あのころの森村はすごかった。敵なしやった。それが今はなんや……」
隆夫は十日ほど前の競艇場での出来事を思い出した。兄からむしり取ったばかりの金を持っての競艇場だった。
第一レースB2予選、観客席には、無気力そうな観客がぱらぱらと散らばっていた。六十歳になろうとする森村だが、最もアウトコースに陣取って第一ターンで一気にまくろうとする戦術は昔と変わらない。六コースのポジションに停まって老眼となった目で大時計を見ながらスタートの機会をうかがっていた。ほかの五人の選手はデビュー後一、二年の若手ばかりだった。
「それ、行け」
大時計がころ合いを指したとき、隆夫は心のなかで森村に号令をかけた。けれども森村はその瞬間にスタートすることはなく、おもむろにアクセルを吹かしたのは一秒もたったあと、五コースの選手がスタートを切ってからのことだった。まくり差し専門の森村にとってスタートの出遅れは致命的だった。第一ターンでまくるどころかほかのボートが全部回りきったあとに、さて行くかという感じで回っていく始末だった。
「森村ーっ、お前、ぼけとんか」
罵声をあびせる隆夫の声を聞いたか聞かなかったか、最下位となった森村はほかの選手のあとについてレース場から消えていった。
この日、隆夫にとって第二レース以降も最悪の結果だった。買った舟券はことごとく裏目。配当金を受け取ることは結局一度もなかった。隆夫はこれが森村のレースでけちがついたからだと逆恨みしていた。
隣の県に住み質素に暮らしている七十歳過ぎの兄の年金の一部は、こうして消えた。
薄い壁仕切る隣室、隣人の寝息隆夫に同調求め、隆夫目閉じる。が、頭異様に活性、まんじりともせず夜過ごす。窓の外雨かすかな音立てて降っていた。
いつの間にか朝、窓の外に黒々とした雲が見えた。じめじめした空気が部屋のなかにも漂っていた。立ちあがることができれば、窓の外に薄青や紅色の紫陽花が咲いているのを見ることができるかもしれない。昨年の初夏、紫陽花の前で管理人の老婆から花講釈を延々と聞かされたことを、隆夫は思い出した。今、起きあがって花をながめる余裕など、隆夫にあるはずがない。なのにどうして花のことなど思い出したのだろう。
隆夫、昨夜から横向きなったままぴくりとも肉体動かさず。頭脳だけ覚醒。起きあがろうと力込める。しかし意思どおり動かぬ四肢、渾身の力振り絞っても。はえ一匹ひたいにとまる手で払う少し飛び鼻の頭また払うつぎはあご、好きにせえ、隆夫あきらめた。
昨日より状況なおひどい。切迫している。もしこのまま、起きあがることできなければ……。頭の働き異様にしっかり、ゆえに恐怖心隆夫襲う。
「もうちょっと横になっとこ。ちょっとしたら、からだ動くやろ」
自分に言い聞かせ、隆夫目つぶった。左目まぶたそっと触った。熱引いたが腫れ依然として引かず。右すねは手のばし触ることもできず。曲がっているのかのびきったままか、感覚なくなった右足なにも知らせてくれない。
「あのアホ、むちゃくちゃ殴りやがって」
隆夫は、数日前に隆夫を殴った若者に悪態をついた。
その若者のことは十数年前から知っている。
―――――
(つづく)